「……よかったら、楓音も弾いてみる?」
 奏翔がふと椅子から立ち上がり、私に譲るように促してきた。
「え、弾けないよ。私は奏翔みたいに絶対音感があるわけじゃないし……」
 私はピアニストのような腕前なんて持ち合わせていない。ピアノの経験といえば、小学生の時に遊びで適当に弾いたことがあるだけ。合唱コンクールの伴奏を担当したことも一度もなく、鍵盤のどこがドで、どこがファなのかもわからない。楽譜と鍵盤両方に音階を書いてくれない限り、弾ける自信なんてまったくなかった。
「間違えたっていいさ。機械じゃないんだから」
 そんな私の謙遜をよそに、奏翔は急に名言めいた言葉を口にした。思わず「え?」と驚いた声が出る。
「フジコ・ヘミング。俺が好きなピアニストの名言だよ。彼女は16歳の時に中耳炎が悪化して両耳の聴覚を失ったんだ。でも、治療で左耳が少しだけ回復して、片耳で演奏を続けてるんだよ」
「へえ……」
 彼の話す専門的な知識に圧倒され、私は黙り込んだ。無音の世界で音楽を楽しむなんて、私には想像もつかない。鍵盤の音すら聞こえていないのに、どうやって音楽を楽しむのだろうか。私にとっては、ただの無意味な動作に思えてしまう。それでも、その人は音楽を感じ、楽しんでいたのだろうか。その世界は、私には遠く感じられた。
「……って、16歳は私と同じじゃん!」
「そうだな。確かに俺は絶対音感があるって言われるけど、だからって完璧に弾けるわけじゃないんだよ。俺だって機械じゃないしさ。音階が鍵盤に見えるだけで、耳でドレミを聞き分けるのはムリだし、そんなにすごいことでもない。でもさ、難聴だろうが初心者だろうが、音楽を楽しむことが大事なんだよ。間違ってもいいからな」
 そう言うと奏翔は「さあ、座ってみて」と笑顔で私を促した。「えー」とためらう私に「いいからいいから」と優しく急かしてくる。どうやら私に拒否権はないらしい。
 カノンのページが開かれたままになっていたので、とりあえずそれを弾いてみることにした。しかし、楽譜に書き込みができるわけでもないし、第一、これは奏翔の楽譜だ。そんなことをしてはいけないだろう。
 どうしようかと悩みつつ、私は適当に指を鍵盤に動かし始めた。