クスクスと笑いながら奏翔は言った。その笑みは優しそうに柔らかい。
「譜久原くん、そろそろ降りてらっしゃい。バイオリンのふたりが待ちくたびれたって。今日も合わすわよー」
 下の方から藤井先生の声がした。噂をすれば影とはまさにこのことだ。開けっ放しにしていた扉から最上階を覗くと「あら、ハシゴが壊れてる」と肩をすくめている。
「す、すみません。私がその……上がってた時に」
 まずい、バレた。古いとはいえ、反省文を書かされる覚悟で謝る。
「こんなこともあろうかと、非常用のハシゴがもう一つあるのよね。さすが先生、用意がいいわ」
 しかし藤井は気にも止めていないのか、すぐさまそのハシゴを立て掛け直した。隣には泉平くんがいて藤井の手助けをしている。
「じゃあ、俺行ってくる。楓音は?」
 ハシゴに手を掛け、くるりと体の向きを変えて奏翔は問いかけてきた。
「私は帰ろっかな」
 あまり遅いと父さんが黙っていない。屋上にいたことが怪しまれないためには早く帰った方がましである。
「そっか、また明日」
「うん……また」
 奏翔がハシゴを降りていき、屋上には私1人になる。西の空を見てみるとそこにはもう二重の虹はない。わずかな時間の異世界に来たような感覚は印象的で忘れることはないのだろう。そう思いながら私もハシゴを降り帰路についた。