音楽室の引き戸を開けると、ピアノの音が少し大きく響きすぎて、思わず防音イヤーマフをつけた。大きな会場なら、こんな行為は失礼かもしれないけれど、今はそんなことを気にする余裕もない。
 ピアノの椅子には奏翔が座っていて、細長い指がまるで鳥のように優雅に鍵盤の上を舞っていた。そのたびに美しく柔らかい音が広がり、私は再び眠りに落ちそうになった。この演奏が未弦と弓彩のバイオリンと一緒に演奏されたら、藤井先生が眠ってしまうのもわかる気がした。
 それより、引き戸が開く音がしたにもかかわらず、奏翔はまったく気づかない。演奏に集中しすぎているのか、それとも私のように耳がバグっているのか。だが、もし後者なら補聴器や防音イヤーマフをつけているはずだ。可能性としては低いだろう。
 どうやって奏翔に自分の存在を気づかせようか。演奏を止めてもらっていいものかと躊躇しながら、私は奏翔に近づいていった。
「……そ、奏翔?」
 声をかけたけれど、弱々しくかすれた声では奏翔には届かなかった。声を張り上げる勇気もなければ、泣き腫らした顔を見られるのが恥ずかしい。どうしようか、後から軽く肩を叩いて、顔を見られないようにそっぽを向こうか。そんな風に決心して、私は奏翔の肩を叩いた。
「うわっ!びっくりした……」
 奏翔の肩がビクッと揺れ、演奏が突然中断された。驚きの声と急に静まる音を聞きながら、私は窓の外を眺めた。雨は降っていなくて、雲ひとつない空に梅雨らしい湿った空気が鼻をかすめる。カーテンは風に揺れて、まるで舞い上がる羽根のように見えた。
「……ごめん、いきなり止めちゃって」
「いや、大丈夫だよ。むしろ俺が集中しすぎてたんだ。いつも合わせてるときも、どこまで弾くか言われても、弾いてるうちに忘れちゃうんだよね。結局、しびれを切らした未弦先輩に肩叩かれるまで、バイオリンの音が止まってたことに気づかなかった……ほんと、俺ってダメだよな」
 奏翔は自分を卑下するように言って、苦笑した。椅子から立ち上がる音もなく、体の向きも変えていない。顔だけがこちらを向いているようだ。
 その慌ただしい口調に、私は思わず笑いがこみ上げた。涙はいつの間にか収まっていた。それよりも、コンクールの時にどうやって奏翔に止めてもらうんだろうと考えが頭をよぎったが、結局、楽譜通りに弾くだけだから気にする必要はないかもしれない。
「あ、えっと……コンクールではちゃんと譜面通りに弾くから、安心して。今のは、どうすれば楓音が引き戸を開けてこっちに来てくれるかって、ちょっと実験してたんだ。でも、気づいたら自分が楽しんじゃってて……実験台にしちゃってごめん」
 奏翔は焦りながら言い訳を重ねる。いつもの落ち着いた奏翔とは少し違う様子が見えて、その焦り具合にまた笑いが込み上げる。まるで音楽に心を奪われた子供のようだ。その様子があまりにも可笑しくて、私はお腹を抱えて笑ってしまった。
「……笑った。やっと笑ってくれた」
 数秒後、奏翔がつぶやくように言ったその一言に、私は我に返り、急に顔が熱くなった。笑っていたことに気づき、恥ずかしさがこみ上げてきて言葉がうまく出てこない。奏翔は気にせず「こっち向いてよ」と言いながら、私の手を引いて顔を覗き込んできた。
「や、やめて!今、すごく顔が変だから……目元も腫れてるだろうし……」
 その手を振り払って、慌てて顔を両手で覆った。
「ハハハ……ハハハハ!」
 すると、背後から奏翔の笑い声が響く。何がそんなにおかしいのか、私はただ恥ずかしいだけなのに。
「な、何か変?」
振り返ると、奏翔は私以上に笑い転げていた。幸せそうで無邪気な笑顔が、まるで小学生のようだ。どうやら私の様子がおかしかったらしい。
「だって、こんなの初めてだから」
 奏翔は笑いをこらえきれずに言い、さらにクスクスと笑い続けた。そして「こんなに笑ったの久しぶりだ」と満足そうに笑顔を見せた。