「あまり濡れてなさそうだし、いいじゃないの」 「先生、屋上は立入禁止じゃ……」  
 藤井先生に背中を押され、首を傾げる奏翔を横目に、本棚に立てかけてある古い木のハシゴに手を伸ばした。重たくて使い込まれた感じがするが、両手で抱えるように持ち上げ、引き戸に向かって歩き出す。今こそあの鍵の出番だ。
「ちょっ、楓音。俺が持つから、引き戸開けて」  
 私の様子に慌てた奏翔が、ひょいとハシゴを取り上げた。私より背が低いのに、こんなに力があるなんて。軽々と運ぶ彼の姿に一瞬見とれたが、すぐに引き戸を開けた。奏翔は「ありがとう」と言いながら、天井の扉にハシゴを立てかけ、一段一段登っていく。
「あ、鍵かかってる」
「これ」  
 奏翔がドアノブを捻リながら言ったので、スカートのポケットから鍵を取り出し、彼に渡した。
「なんで楓音が持ってるんだ?」  
 驚いた顔で私を見る奏翔立ち入り禁止なのだから当然の反応だ。それに構うことなく「いいから、開けて」と急かす。音楽室からバイオリンの伸びやかな音が響いてきていて、早くしないと三羽先輩達も楽器を吹き始めるだろう。聴覚過敏の私には耐えがたい状況だ。  
 奏翔は不満そうに「えー」とぼやきつつ鍵を開け、扉を押し上げて屋上に出た。その後に続くように私もハシゴを登り始める。古びた木のハシゴは頼りなく、体重をかけすぎたらすぐ割れてしまいそうだった。   
「上がれるか?」  
 奏翔が心配そうに上から見下ろしてくる。   
「いけるよ、これぐらい」  
 それにそう作り笑いを浮かべたが、次の瞬間――。
「あっ……」  
 思わず声を失った。足場が早くも崩れてしまったのだ。このままでは藤井先生に見つかって反省文を書かされるかもしれない。とはいえ、古いから仕方ないと言われる可能性もあるけど……。
 そんなことを考えている間に、私は落ちかけた。
「危ない!」  
 すると、奏翔がすかさず両手で私の腕を掴んだ。
「大丈夫か?行くぞ」  
「う、うん」  
 彼は全身の力で私を引き上げたその瞬間、まるで羽が生えたかのように宙に浮いた気がした。 
 やっぱり、こいつ火事場の馬鹿力みたいに力あるな……。
 なんて、この状況にそぐわないことをぼんやりと思ってしまう。