「次、出番だぞ」
 そこへタイミングを見計らったかのように泉平くんが奏翔の肩を軽く叩いた。舞台袖では三羽先輩と未弦が曲の紹介をしてくれている。
「行こう」
 奏翔が私の手を離し、パイプ椅子から立ち上がりながら言った。私も強く頷いて立ち上がる。
「目、ちょっと閉じたら落ち着くかもよ?」
 舞台袖へ向かう途中、奏翔は一度振り返って言った。
「大丈夫、もう落ち着いてる」
「いや、俺が落ち着いてないから一瞬閉じろ」
 まくしたてるように言いながら、奏翔は私の目を閉じさせようとした。話している間も彼の方が落ち着いていたのに、今になって緊張してきたのだろうか。ならば自分で目を閉じればいいのに、と心の中で思いながらも、もう時間が迫っている。
「あー、えっと、未弦ちゃんは妹さんの弓彩ちゃんの面白エピソードとか、何か教えてくれたりするのかな〜?気になるな〜!」
「あ、えーとですね、弓彩が学校でマザコンとかファザコンとかシスコンとかっていじられてることです。あんまり反抗期がないんですよー。まぁケンカは激しいし、家出も反抗期っぽかったですけど」
 司会の二人は、私と奏翔が出てこないことに気づいて即興でアドリブを入れている。観客席からは笑いが起こっているが、少し長くないか?と感じている人もいるだろう。
「ちょっとだけだよ」
 目を閉じながら言った。その瞬間、唇がふっと降りてきて、突然のキスに驚きで言葉を失う。
 目を開けて唖然とする私を置いて、奏翔は何事もなかったかのようにピアノの方へ向かっていった。これだけのために目を閉じさせたのかとツッコミたくもなったが、今はピアノのことを考えなければ。紅潮した頬を抑えつつ、奏翔の隣に座る。
 司会の二人が「4曲続けてどうぞ」と舞台袖に引っ込むと、私と奏翔は顔を見合わせ、息を合わせて鍵盤に手を置いた。しっかりとした重みを感じ、指先に伝わる温かさと滑らかさが心地よく、弾くたびにその感触が手に馴染んでいく。音を生み出す瞬間が、まるで特別なもののように感じられた。
 たった1%の自信で、奏翔の言う通り、指は信じられないほど滑らかに動いた。昨日の放課後から練習を重ねた成果が、確かにこの瞬間に現れている。過去最高の出来だ。まるで心が楽器と一体になったような錯覚を覚えた。
 この瞬間を全力で楽しもう。たとえ譜面を間違えても、努力はやめない。指を止めることなく、音楽を続ける。
 ピアノは柔らかい音色から力強い響きまで、様々な感情を表現できる、まさに感情を伝えるためのキャンバスだ。
 弾きながら奏翔の顔をちらりと見ると、彼も心から楽しそうに弾いていた。いつの間にかピアノに触れることへの壁を乗り越えたようだ。活力を取り戻したように、生き生きとした表情をしていた。
 すべての曲を弾き終わる頃、私も奏翔も息を切らしていた。息を整えながら、鍵盤から手を離す。
「わぁー!!」
「ブラボー!!」
「ふたりとも最高!!」
 その瞬間、観客席から大きな拍手が沸き起こり、私たちの方を向くと、みんなが満面の笑みを浮かべていた。席から立ち上がったり、口笛を吹いたり、涙を流して感動している人もいる。
 奏翔はまだ息を切らしていたので、私は優しく肩を叩き、観客席の方を指差した。奏翔は観客席を数秒眺めてから、弾けるような笑顔でこちらを向いた。
 その光景を目に焼き付けながら、心がすっきりと洗われるような感覚を覚えた。忘れないように、深く記憶に刻み込む。
 そう、定期演奏会は大成功で幕を閉じたのだ。