「ここ、俺の部屋」
 階段を上り終えると、すぐのドアを開けて奏翔が言った。部屋に足を踏み入れると、黒いアップライトピアノ、茶色の普通の勉強机、クローゼット、そしてふかふかそうな灰色のベッドが目に入った。その下には、もちろん私用に用意された敷布団が敷かれている。窓のカーテンも灰色で、全体的にどこか暗い印象を与える部屋だ。
 でも、私の部屋も同じくらい暗かった。渋い紫色のカーテンとベッド、料理の本や参考書が並ぶ本棚、クローゼット、そして普通の茶色い勉強机。ひょっとすると、私と奏翔は似た者同士なのかもしれない。
 奏翔の部屋にある数冊の楽譜がきちんと整頓された本棚の上には、1枚の写真立てが置かれている。そこには、切れ長の眉と鋭い目つきで、いかにも柄が悪そうな男性が黒縁のメガネをかけて写っていた。どこかで見たことがあるような、ないような……でも奏翔と、どこか似ている気がする。
「あ、それはオヤジだよ」  
 じっと写真を見ていると、奏翔がピアノの椅子に座りながら言った。それから続ける。
「1週間前に刑務所から脱走して、トラックを盗んだらしい。それがパンクして、そのまま崖から落ちて死亡――つまり、墜落事故ってわけだ。盗みなんてクズのすることだが、パンクして墜落するとは……ざまぁみろって感じだな」  
 そう言いながら奏翔は呆れたように笑った。確かに、学生時代に学年トップの成績を誇り、吹奏楽部でドラムを叩いていたとは思えないほどのクズさだ。それなのに、なぜ部屋にその写真が飾ってあるのだろう。奏翔も、彼に叩かれたり、パシリに使われたり、二股がバレたことを恨まれたりしたと言っていた。それなのに、一生見たくもないはずの顔が、なぜそこにあるのか。矛盾だらけの光景に私は戸惑いを隠せなかった。
「まぁ、それでも俺のオヤジなことに変わりはない。母さんだって、オヤジのドラムの腕前に惚れて付き合ったぐらいだからな。それは和樂さんも同じだけど。酒に依存する前は普通に優しかったらしい」   
 私の考えを読んだかのように奏翔は語り続けた。彼らしいと言えば、彼らしいなと思う。それから彼は少し遠い目をした。
「だけどさ、1回ぐらい俺の名前を呼んでほしかったな。いつもお前だし。母さんだって、いつもあんただ。楽采は兄貴って、そんなにかっこよくもないのに呼んでくるし、他の人たちはみんな名字で呼んでくる」  
 苦笑いを浮かべながら奏翔は言った。確かにさっきも奏翔の母さんは彼のことを「あんた」と呼んでいた。まるで名前で呼ぶことを避けているかのように。
 でも、泉平くんが兄貴と呼ぶ気持ちはわかる気がする。奏翔は過小評価しているけれど、充分かっこよくて優しいし、元カノのひとりやふたりいたっておかしくない。
「だからさ、もし好きな人ができたら、そいつには呼び捨てを強制させようって思ってたんだ。それが俺にとっての憧れだったからさ。特別感があるっていうか、なんかカッコよく見えるだろ?それに、母さんが言ってたんだよ。せっかく自分の血を引いたんだから、一流のピアニストになって、その演奏で羽を広げ、空へ翔けるような輝く人になってほしいって。こんなの当てつけみたいだし、正直俺にはムリだと思うけど、名前自体は結構気に入ってるんだ。ああ、でも本当に俺がそれにふさわしいかどうかはわからないけどさ……」
 私の方をまっすぐ見つめながら、頭を軽くかき、頬を赤らめながら奏翔は言った。言葉には、自己評価が低い彼らしい少しの希望と同時に自分を卑下するような恥じらいが感じられる。でも、その瞳には自信と誇りが宿っていて、芯の強さが滲んでいるように見えた。
 私にとって、呼び捨てで呼ぶ人は奏翔の他には未弦と祖母くらいしかいない。母さんは頑なに名前すら呼ぼうとせず、父さんはたまに呼び捨てで呼んでくることもあるが、基本的には「お前」と呼ばれている。それ以外の人は、名字か名前にさん付けするのが普通だ。
 そんなことは私にとってはくだらないと思えるけれど、奏翔にとっては相当特別なことらしい。
「せっかく声が聞こえたからってのもあるけどな。さぁ、やるぞ」  
 そう言って、奏翔は椅子の左側を軽く叩き、座るように促した。それに私は頷いて従った。