「あと」  
 そこへ、泉平くんが後ろから奏翔の肩を軽く叩いた。何か言い忘れたことがあったのだろうか。その方をちらりと振り返ると、彼が真剣な顔をしているのに気づいた。感情を表に出すのが苦手な彼らしくなく、何か大事なことを言いに来たのだとすぐに察する。
「兄貴の自殺の理由なんか常習犯だから、話さなくてもわかってんだからな」  
 泉平くんはきっぱりと言い放った。その手が滑らかに動く様子を見て、さすがだと思った。彼は作曲家を目指しているが、手話ニュースキャスターとしてもやっていけそうな気がする。
 その動きを見た奏翔は心外だったのか、驚いたように「え」と声を上擦らせた。
「道路に飛び出したり、屋上から飛び降りようとしたり、踏切に飛び込もうとしたり――お前、いつもテキトーな言葉を並べて、作り笑いでごまかしてるつもりなんだろうけど、バレバレなんだよ。電車来るアナウンスが聞こえてなかったとかさ、聞こえてても普通、駅のホームから飛び降りようとしたりしないだろ?」
 泉平くんは言い逃れできないぞと言わんばかりに、手をすらすらと動かしながら奏翔に詰め寄ってきた。当の本人はその言葉に、まるで核心を突かれたかのようにギクリと体を動かす。明らかに動揺している様子で、片足を階段の一段上に乗せ、後ろに下がろうとした。
 それを制するように、泉平くんは奏翔の腕を強く掴んだ。逃さないぞと言いたげに、腕をギリギリと締め上げている。
「兄貴が楓音さんの母親の病院に通いだしたとき、悪いけど部屋を調べさせてもらったよ。そしたら、何冊もの真っ黒なスケジュール帳と兄貴の日記を見つけた。全部読ませてもらった。病院に通いだしたのも、遠くの街で自殺でもしようとしてるんじゃないかって怖くなって後をつけたぐらいだからな」
 泉平くんは、奏翔の腕を掴んでいない方の手でスマホを取り出し、何枚かの画像と文字を打って見せてきた。その画像には、殴り書きしたような乱雑な字で書かれた日記と、墨のように黒く塗りつぶされたスケジュール帳が映し出されていた。証拠写真まで集めて、まるで取り調べ官のように見える。
「楓音さんにはわざと話さなかっただけだ。母さんにも沙湊さんにも見せたけど、ふたりとも泣きながら、そんなこと気にしなくていいって言ってたんだ。兄貴が言い出すまで、僕は何も聞かなかった。でも、こんな大事なことを黙らせてるなんて、隣にいる弟として情けねぇよ。でも、兄貴はなんも悪くないからな。僕は兄貴がいないと生きてけねぇし、曲も作れねぇから。だから、もう死のうなんて絶対すんな」
 泉平くんはまっすぐな眼差しで強く言い放つと、奏翔の背中に片手を回してトントンと優しく叩いた。
「わ、わかったから」   
 奏翔は降参したように即答した。
「本当か?次やったら承知しねぇぞ。休みの日に1日中、こちょこちょの刑だからな」  
 泉平くんは信じがたい様子で、奏翔から腕を離そうとしたが、その手を脇の下に近づけてくすぐった。いじわるそうにニヤリと口角を上げている。
「ハハっ、やめろ!もうしねぇから。勘弁してー」  
 奏翔は子どものように笑い転げ、急いで私の手を引いて階段を数段上がった。どうやらそういうのには弱いらしい。その慌てっぷりがあまりにも無邪気で、思わずクスリと笑ってしまった。
「冗談だよ。明日、成功させような」   
 泉平くんもクスリと笑って「じゃ」と階段を降りて居間に消えていった。私はその姿を見送り、奏翔はまたひとつため息をついて階段を上がった。