真っ白なカーテンがふわりと舞い上がり、暖かな風が吹き込んでくる。部屋の窓を閉め忘れていたみたい。わたしはゆっくりと目蓋を開き、天井を視界にとらえる。陽の光が窓から射しこむことで、まだ電気の点いていない薄暗い室内を明るく照らし出していた。
「……うーん」
上体を起こし、大きな欠伸を一つしてみせる。それから背伸びをすると同時に布団から起き上がると、春風の吹き込む窓の縁に両手を置いた。
窓の外に広がっているのは、普段と変わらない景色。そして日常。雲の見当たらない青空を見上げてみれば、太陽の眩しさが目蓋を閉じさせようと意地悪をする。それが朝の訪れであり、何の変哲もない一日が始まることを示している。その日常の中で、わたしは今日もまた学校に通い、将来の役に立つのかどうかも判らない勉強をしなければならない。
億劫だと感じることもしばしばある。だけどそれが学生にとっての本分なのだからしかたがない。割り切るのも選択肢の一つなんだから。
「さて、と」
まだ半分閉じたままの目蓋を擦りつつ、わたしは部屋のふすまに手を掛ける。和風な造りであるというよりは、ただ古めかしいだけと表現したほうが合っていると思う。室内に置かれてある本棚を始めとする、机や椅子、タンスなど、どれも年代を感じさせてくれるものばかりで、新しいものといえば、本棚に並べられている小説の類だけ。
「あれ? 姉貴、もう起きたのか?」
ふすまを開けば、階下から聞こえる弟の声。朝早くから嫌味を言われてしまった。
「目が覚めたのよ」
階下に佇む弟の姿を見下ろしながら言葉を返す。片手には、コーヒーの注がれたコップが握られている。砂糖も入れず、背伸びして苦いコーヒーを毎朝飲むのは拷問だと思うんだけど、弟にしてみればそれがかっこいいらしい。わたしにはまったく理解できない。
「コーヒーなんて大人の飲み物ね」
わたしはそう言い残し、顔を洗うために洗面所へと向かうことにした。
廊下を通り、洗面所のドアを開く。鏡に映る寝ぼけ面を一目見て、今度は小さめの欠伸をする。朝は苦手だ。昨日は夜更かしせずに十分な睡眠を取ったはずなんだけど、睡魔というものはそれが使命だと言わんばかりの勢いで、常に襲い掛かってくる。蛇口を捻り冷たい水が音を立て、眠気を覚ますために豪快に顔を洗ってみるけど、気を抜いたらすぐに欠伸が出そうだ。
「姉貴、パン焼けてるぞ」
「んー、今行く」
濡れた顔をハンドタオルで拭い、朝食を取りに洗面所から居間に移動する。
「あら。おはよう、久々」
居間に入るなり、台所で目玉焼きを作っている最中のお母さんが声を掛けてきた。
「おはよー」
眠たそうな表情を崩さぬまま、朝の挨拶を交わし、座布団の上に腰を下ろした。弟は二杯目となるコーヒーをコップに溢れるほど注ぎ、それを食卓に置いてわたしの顔を覗き込む。
「朝の目覚めに、コーヒーでも飲むか?」
「いらない」
当然、わたしは拒否する。朝からコーヒーなんて飲んでいられない。あの苦さを舌で味わうのは、勉強する時だけにしてほしい。
「だと思ったぜ」
わたしが断ることを見抜いていたのか、弟は口角を上げる。
「麦茶ね」
「おう。注いでくる」
弟は一口だけコーヒーを飲むと、麦茶を注ぎに台所へ向かう。テーブルの上にはすでに朝食が並べられており、あと必要なものは飲み物だけみたい。
うるさいのが台所に消えたところで、わたしはテレビのリモコンを操作して朝のニュースを確認してみた。この行為自体が至極ありふれたものであり、日常という枠に収まる平凡さを象徴している。
「ほら、麦茶」
「ありがと」
弟から麦茶を受け取り、喉を潤す。そしてテーブルの上に並べられているトーストに手をつける。せっかく早起きしたんだから、今日は早めに家を出ることにしよう。
そう決めると、わたしは気合を入れるかのように朝食を食べ始めた。
わたしの名前は、相良久々。県内でも有数の進学校である、神楽坂学院に通う一年生だ。
勉強するのは嫌いだけど、努力をするのは嫌いじゃない。この前行なわれた中間試験の結果は良かったし、成績に見合うだけの努力はしてきたつもり。運動するのも大好きで、体育の時間はいつも全力で行なっている。クラスメイトからの印象も良く、休み時間になればわたしの周りには沢山の友達が集まってきてくれる。そんなわたしの通う神楽坂学院は、今年から共学校になったため、男子生徒の数が圧倒的に少ない。
わたしのクラスに所属する男子は、たったの一人。その男子生徒は、一般入試ではなく一芸一能推薦で入学したって噂だ。但し、わたしのクラスの男子がどんな一芸一能に秀でているのか興味もあるけど、話しかけづらいからまだ聞いたことがない。機会があれば声をかけてみたいとも思うんだけど、クラスに一人しかいない男子に話しかけでもすれば、自然と注目されてしまうことになるだろうし、それで返事が返ってこなかったら、わたしはただのバカだ。
「ごちそうさま」
朝食を食べ終え、わたしは満足気に手のひらを合わせる。使った食器を台所まで運び、水を浸した後、今度は階段を上って学校に行く準備を始める。と言っても、制服に着替えるだけなんだけど。軽い足取りで階段を上りきり、部屋のふすまを開く。そして寝巻き姿から制服姿に着替え終えると、壁に掛けてある大きめの鏡の前で髪の毛を整える。神楽坂学院の校則は厳しい方ではなく、髪留めやゴムは派手なものを使っている女子生徒も多々いる。
わたしは、背中まで伸ばしたストレートの黒髪を白色のゴムで結い、前髪は眉毛にかからないように横一線に切り揃えている。
「よし!」
鏡の中に映るわたしに、とびっきりの笑顔を一つ振る舞い、眠気を吹き飛ばす。
今日も一日、頑張っていこう。
わたしは自分に言い聞かせ、机の上に置いている鞄を手に取り、階段を下りる。一度、居間で朝食を取っているお母さんと弟の姿を確認し、それから玄関で靴を履く。
「行って来まーす」
元気よく声を出す。そしてわたしは、今日もまた学校に通うのだ。
※
「あっ」
学校に着いたわたしを待ち受けていたものは、一人の男子生徒。
いつもより早い時間帯ということもあり、教室にはあまり人がいないだろうと予想していた。
だけど教室のドアを開けたわたしの目に飛び込んできたもの、それが同じクラスの中で唯一言葉を交わしたことのないクラスメイトであり、教室内の付属品であるかの如く、一人で読書に勤しむ男子生徒となると、わたしも困る。
「お、おはよう!」
何も言わないで自分の席に着くのも気まずいので、わたしは挨拶だけでもかけておくことにした。普段から教室内に入る時は挨拶をするわたしだったから、今日この時だけ挨拶をしないというのも変に思われるかもしれないからだ。下手に意識していると勘違いされても困るから、一応ね。でも、あいつは――。
「……」
一瞬、わたしの方を振り向く。そしてわたしと目が合うと、すぐに視線を本へと戻してしまう。わたしの挨拶に対する返事は、無視。気まずい雰囲気にならないように気遣った結果が、これだ。朝から鬱々とした気分にさせてくれる。
「……お、おはよう! 佐久間泰之くん!」
無視されたままというのも癪なので、今度は名前を呼んでみる。さすがにこれで無視されたとなれば、わたしは嫌われているのかもしれない。だけど、彼はわたしの声に眉根を寄せたかと思うと、本から顔を上げることなく呟いた。
「うるさいな、邪魔するなよ」
素っ気ない言葉は、わたしのことを邪魔者扱いしてくれた。その台詞を耳にしたわたしは、これ以上話しかけたくないと頬を膨らませ、自分の席に着くことにした。
※
一時間目が始まり、わたしは数学の教科書に目を通しつつも、あいつのことを観察しながら暇を潰していた。今朝はあいつに無視されてしまったせいで、気分が悪かった。友達に愚痴を言おうにも、あいつと話をしたなんて告白すれば、すぐに恋愛相談へと話がすり替わってしまうこと間違いなしだったので、やめておいた。
佐久間泰之、あいつはわたしのクラスで唯一の男子生徒だ。いつも教室で一人寡黙に本を読んでいる。教室にいない時は、新たに読む本を探すために図書館内をふらついているとの目撃情報も入ってくる。気にする必要なんてないんだけど、残念ながらあいつはかっこいい。クラスメイトから話しかけられても愛想が悪いし、何事にも率先して取り組むという意思を示さない対応の悪さが目立つくせに、容姿だけは抜群に良いから性質が悪い。わたしのクラスだけでなく、同じ学年の女子生徒たちからも注目されていて、あいつを推す隠れファンクラブがあるほどだ。当然、わたしは入っていないし興味の欠片も無い。
「久々」
窓際の席に座り、外に広がる景色を眺める佐久間を横目に観察していると、ポンッと肩を叩かれ名前を呼ばれた。わたしの肩を叩いたのは、後ろの席に座る由紀だ。
「なに?」
「さっきからずっと佐久間くんのことを睨みつけてるけど、何かあったの?」
さり気無く佐久間のことを観察していたつもりが、ばれていたらしい。わたしの仕種は後ろの席に座る由紀に観察されていたということか。しかも睨みつけているだなんて。もしかしたらあいつのことを思うあまり、目が吊りあがっていたのかもしれない。
「う、ううん、違うわ。別にあいつのことなんて睨んでないから」
「本当? なんだか今日の久々はご機嫌斜めに見えるけど?」
鋭い観察眼を持つ友達に、感心してしまいそうになる。
けれども今朝の出来事を話したところで、何か進展があるわけでもない。
「もしかして恋かな?」
「だから違うってば」
授業中なので、わたしは前を向きなおし、ノートを取る。中間試験や期末試験の結果は掲示板に張り出されるので、恥ずかしい点数は取れない。
あいつは前回の中間試験で、まさかの学年ビリ。授業を聞かずに窓の外ばかり見ているんだから当然といえば当然なんだけど、全ての教科において赤点というのにはわたしも驚いた。
それでもあいつの人気がなくならないのは、やっぱりかっこいいからなんだろうか。
「ふう……」
溜息を一つ。
あいつのことを考えている時間が勿体無いので、わたしは授業に集中することにした。
※
昼休みになると、教室内は騒々しくなる。わたしは椅子を後ろに向けて由紀と向かい合わせに座って弁当を食べている。由紀もわたしと同じで、弁当だ。
神楽坂学院には購買部や学食、カフェなどが校内に完備されているけど、わたしは使ったことがない。この学校に入学してまだ間もないということもあるけど、学食やカフェは上級生御用達らしく、下級生であるわたしたちが入り込む場所ではないからだ。
「それでさ、話の続きだけど――」
由紀は目を輝かせながらわたしのことを上目遣いに見つめる。その何かを期待するような目から、わたしは視線を逸らして弁当を食べ続けている。
「久々、佐久間くんと話したんだよね?」
「……あれは話したとは言えないわ」
授業が終わり、休み時間になるたび、由紀から質問攻めにあっていたわたしは、今朝の出来事を話してしまった。
由紀とは小学校からの付き合いだし、信頼することのできる友達だ。ちょっとしたことでも由紀に勘付かれた時点で、隠し通すことなんてできない。由紀の口が堅く、秘密を絶対に漏らさないというのも理由の一つかもしれないけど、それ以前に友達として信頼しているからだ。
「ただ、わたしが話し掛けて、あいつが無視をしただけ。それだけよ」
溜息混じりの声を上げるのは、わたしだ。
そしてそんなわたしの表情を観察しているのが、由紀。
「ふむふむ。でも二度目の時は返事をしてもらったんでしょ?」
あれがわたしの挨拶に対する返事だとすれば、佐久間はとんでもなく捻くれた性格をしているに違いない。
「嫌味を言われただけだけどね」
「だとしても、それは凄いことだよ久々」
両の瞳を大きく開き、私の姿を映し出す。わたしには何がそんなに楽しいのか分からないけど、由紀にとっては一大事な出来事のようだ。
「あの佐久間くんの声を聞くことができただなんて、久々はきっと気に入られたんだね」
「……はあ?」
いまいち理解し難い由紀の台詞。わたしは今朝、佐久間の声を聞いただけなのに、なんでそれがあいつに気に入られることに繋がるんだろう。どうも話の筋が逸れているような気がする。
「だってさ、何を話し掛けても返事を返そうとしない、あの佐久間くんに返事をしてもらったんだよ? それはつまり、久々は佐久間くんから気に入られてるかもしれないってことだよ」
「なんでそうなるのよ」
邪魔者扱いされただけなのに、それがあいつに気に入られているだなんて、都合よく解釈しすぎ。現実はもっと鬱々とした雰囲気が漂っていたはずだ。少なくとも、わたしはあいつに対して腹を立てていた。
「クールで無口、容姿端麗で神楽坂学院の中でも注目の的。そして運動神経も抜群。久々からも、もっと積極的に話し掛けてみればどうかな? そしたら何か進展があるかもしれないし、そのまま二人は付き合うことになったり……」
結局、恋愛相談に話がすり替わっていた。
「わたしは別にあいつのことを好きなわけじゃないから。ただ、無視されて怒っていただけ」
由紀に勘違いされたくはないので、言い返しておく。すると由紀は、
「そういうことにしておいてあげる」
笑顔を絶やさぬまま、一人納得するのだった。
※
放課後になると、わたしは机の中身を全て鞄に入れて、帰り支度をする。だけど、今から向かう場所は、下駄箱じゃなくて図書館だ。神楽坂学院の図書館には十万冊以上の本が置かれている。わたしは小説を読むのが好きだから、週に一度は図書館に寄ってみることにしている。
一度に五冊まで借りることができるんだけど、借りていた本は全て読んでしまった。また新しく本を借りるため、わたしは鞄を持って図書館の中に足を踏み入れた。
「……」
相変わらず静かな場所だ。教室とは大違い。耳をすませば、お目当ての本を探すべく図書館内をうろつく学生の足音が響きそうだ。でも、やっぱり人がいない。
これだけの数の本が揃っているというのに、神楽坂学院の生徒たちは、何故か図書館の門を叩こうとはしない。静かな場所が苦手なわけでもあるまいし、初めて足を踏み入れた時は違和感を覚えてしまった。だけど今は、その理由を知っている。
「いらっしゃい、相良くん」
カウンター越しに声を掛けてきたのは、無精髭を生やした一人の男性。
「こんにちは、二階堂先生」
二階堂先生は神楽坂学院の図書館で司書を務めている。一見、穏やかそうに見えるんだけど、その実、怒ると恐いらしい。わたしはまだ二階堂先生が怒ったところに鉢合わせたことはないけど、神楽坂学院に通う生徒の間では鬼と呼ばれている。なんとも可哀想な話だ。
「これ、読み終えたので返しにきました」
わたしは鞄の中から本を五冊取り出し、それを二階堂先生に渡す。バーコードをチェックし終えると、二階堂先生はゆっくりと頷き、返却が無事終了したことを伝えてくれた。
「今日も人気がないですね」
「まあ、御覧の通りだね。一日に一人か二人来れば多い方だよ」
二階堂先生は肩を竦めるが、その少なさを嘆く風でもない。むしろ喜んでいるかのようだ。
「人が来れば忙しくなるからね」
怒れば、学生も近寄らなくなる。図書館としての機能を発揮することはないけれど、二階堂先生はこれで満足らしい。なんだかちょっとだけ本が可哀相だ。
「……ああ、でもそう考えると今日は来客者が多い方だね」
「わたしがいるからですか?」
「いや、相良くんの他に、もう一人先客がいるんだよ」
そう言って、二階堂先生は顎で図書館の奥を指す。それに従いわたしも視線を移してみるけど、本棚が壁になってよく見えない。借りていく本を決めたら、後で覗いてみることにしよう。
「図書館内では静かにね」
二階堂先生から一言頂戴し、わたしは小説の並べられている棚に向かった。
先週から借りようと思っていた本があるので、今日借りる予定の五冊を決めるのにはそれほど時間は掛からない。家に帰る前に駅前の本屋にも寄る予定なので、長居は無用だ。たまには図書館でゆっくり読書をしてみたいとも思うけど、それはまた次の機会にしておこうかな。
わたしは本棚から五冊の小説を手に取ると、奥で本を読んでいるらしい先客の顔を覗いていくことにした。図書館に来る生徒自体、数が少ないわけだから、多少の興味があったのかもしれない。でもその考えが間違っていたと知るのは、もう少しだけ先の話になる。顔を覗いた時点で引き返していればよかったんだけど、今朝の出来事が尾を引いていたんだと思う。
つい、わたしは話し掛けてしまった。リベンジの意味を込めて。
図書館の奥で本を読むあいつの姿を見た瞬間、わたしの頭は真っ白になっていたはずだ。
そう、そこには佐久間泰之がいた。
本の虫、と表現した方がいいのだろうか。あいつは、わたしがそばにいることに気づいていないのではないかと思うほど静かだった。静寂が支配する館内に響き渡るのは、わたしとあいつの息遣いと、時折り捲るページの擦れる音だけ。いや、あいつのことだから、きっとわたしがいることにも気がついているはずだ。それを承知で、わざと無視しているに違いない。
でもちょっと待って、これは別に無視をしているわけでもない気がする。本を読んでいた佐久間のそばにわたしが近づいただけで、別に顔を上げる必要もなければ話しかける理由もないわけで、つまりその、特に問題はないということになるのかな。
都合の良い解釈をしようとしているわけではないんだけど、あいつの姿を見ているだけで、徐々にではあるけど、わたしの頭の中がこんがらがってくるのを感じた。すると、
「――ん?」
佐久間が、顔を上げた。そしてわたしのことを、見た。
「あっ……」
思わず声が漏れる。何だかんだで、顔はかっこいいんだから、条件反射的のようにドキリとしてしまったのがちょっと悔しい。
本から視線を外した佐久間は、わたしの顔を見上げたまま動かなくなってしまった。眉間に皺を寄せて、何か考え事でもしているような表情を作っている。そして徐に、口を開いた。
「……ああ、あんたか」
ぽつりと呟いたのは、またしても癪に障る言葉。
あいつはそれだけ言い捨てると、すぐに視線を本へと戻してしまう。その態度から察するに、わたしなど、ここにいてもいなくても同じようなものらしい。
何か言い返したい。そしてあいつの悔しがる顔を見てみたい。そんな気分だった。
そして、わたしの視線が佐久間の読んでいる本に移った時、それができると確信した。
「ねえ」
わたしは、佐久間に声を掛ける。しかし当然の如く、佐久間は返事をしようとしない。
だけどそんなことくらい、承知の上だ。わたしの意地悪は、これから始まるんだから。
「あんたが今読んでいるその本、『脳裏的な彼女』でしょう?」
わたしの台詞に、ほんの僅かだったけれども、佐久間は反応した。誰だってそうだと思うけど、今自分が読んでいる本について話しかけられたら、相手に対して興味を抱くはず。
予想通り、佐久間はわたしの台詞に反応してくれた。さすがに返事はしてくれなかったけど、これだけでも十分な成果だとわたしは思う。しかし、わたしの狙いはそれだけじゃない。
今朝の仕返しをするには、もう一声必要だったから、更に言葉を続ける。
「その本なら、わたしも読んだことあるわ。哀しい話よね。だって主人公の男の子が――」
その台詞の先に続く言葉は、佐久間が今手にしている小説の結末だ。
確かに、わたしはとんでもなく意地悪なことをしてしまったのかもしれない。まだ読んでいる途中だというのに、その小説の結末を先に教えてしまったんだ。
静寂が支配していたはずの館内は、わたしの演説じみた台詞に圧倒されていた。あいつが口を挟む隙すらも与えないように、ただひたすらに喋り続けた。そして館内に再び静寂が戻ってきた頃、わたしは満足気に佐久間の顔を見下ろす。佐久間は、まだ本に視線を向けている。しかし本を持つ手がページを捲るようなことはなく、同じページを開き続けていた。
「……」
急に、心配になってきた。さすがに物語の結末を教えてしまうというのは、やり過ぎだったかな。わたしが、もしそんなことをされたら、多分怒ると思う。そしてその本を読む気がなくなってしまうだろう。でもそれがわたしの狙いだったし、あいつに無視されたことに対する仕返しなんだから後悔してはいけない。これでおあいこ。何か文句を言われても、無視されたことを理由に反撃すればいい。うん、そうしよう。
佐久間は開いていた本を閉じると、それを机の上に置く。そして椅子からゆっくりと立ち上がり、わたしと向き合った。頭一つ分、背の高い男子生徒が、目の前にいる。
何を言われるか分からない。わたしは少しだけ身構えた。運動神経なら、負けない。
だけど佐久間は、わたしにとって予想外の台詞を口にした。
「それで?」
「……へっ?」
あいつの顔を窺う。その表情に、険はなかった。
怒ってなどいない、普段通りの無表情が、そこにある。
「え、あ、えっと……」
言葉に詰まる。わたしが優位に立っていたはずなのに、佐久間の発したたった一言で、わたしの頭の中は再び真っ白になってしまった。
「け、結末を知っても、まだ読む気?」
苦し紛れに吐いたわたしの台詞。これもあいつの返す言葉によって、意味をなくしてしまう。
「当たり前だ。結末を知ってしまったから読むのをやめる、そいつはただの間抜けだ。小説の世界にはな、一つの物語が創造されているんだよ。だから一度読み始めたら、最後まで読み通すのが読者としての礼儀だろ」
それが当然であるかのように、佐久間は告げた。何も言い返すことができなくなってしまったわたしには、黙り込んでしまうしか道は残されていない。暫しの沈黙。そしてわたしは、
「……ご、ごめん」
佐久間に、謝っていた。
※
「何がだ?」
わたしがあいつに謝ってから、またしても静寂が支配する。館内にいるのがわたしとあいつ、そして二階堂先生だけとはいえ、これだけ声が響き渡るのは少々恥ずかしいものがある。
そんな中、佐久間が声を出す。わたしが何故謝ったのか、理解していないみたい。
「その本の結末、教えちゃったでしょ……」
机の上に置いてある小説を指差し、わたしは申し訳なさそうに口を開く。すると佐久間は、「ああ……」と言葉を漏らしつつ、それを手に取った。
「別に関係ない。これを読むのは七度目だからな」
「な、七度目ですって?」
本を開き、佐久間はページを捲る。
「それじゃあ……その本の結末も、最初から知っていたわけ?」
佐久間の言っていることが本当なら、わたしは謝り損かもしれない。
「そういうことになるな」
わたしの問いかけに、佐久間は得意げに言葉を返す。そこで初めて、笑みを浮かべた。
「――ッ」
いつも無表情だったあいつの笑みは、なんだか不思議な感じだ。誰も見たことのない、佐久間の笑った顔。学校では笑うことはおろか、言葉を交わすことさえ稀な存在として認識されているだけに、これは凄いことなのかもしれない。
わたしも、その笑みを見て、つい視線を逸らしてしまった。
「なっ、七回は読みすぎでしょ!」
これも、目が泳いでいることを悟られないために搾り出した苦し紛れの一言だ。
「面白い本なら、何度読んでもその世界に引き込まれるし、共感できると思うんだが」
「うぐっ、それはそうだけど……」
また、言葉に詰まった。普段喋りなれていない人と話すのは難しいものだとは思っていたけど、あいつの場合は群を抜いている。目を見れない。何故か恥ずかしい。
「それはそうだけど、何だ?」
問い詰めてこないでほしい。何も言い返せないことくらい、この場の雰囲気で察しようものだ。……ああ、そういえばあいつ、頭は悪いんだったっけ。
「ひ、秘密よ、秘密ッ」
我ながら、何が秘密なのかよく分からない。
「女の子にはね、秘密が多いの! だから男は詮索しないこと! いいわね?」
何がいいのか、わたし自身に問いかけてみたい気分だ。だけどあいつは、わたしの台詞を理解したのかしていないのか、小さく頷いてくれた。
「……ふう」
安堵の溜息なのか分からないけど、一先ずは安心だ。
ようやく一息吐けると思ったのも束の間、今度は佐久間から話し掛けてきた。
「お前って面白いな」
「面白いなんて言われても嬉しくない!」
「それじゃあ、可愛いって言われた方が良かったか?」
真顔でそんな台詞を吐かないでほしい。
「う、うるさいわね……」
そこでもう一度、佐久間が笑った。
「な、何よ? 何を笑ってんのよ?」
「いや……やっぱりお前、面白いやつだな」
館内ということもあって多少は笑うのを堪えているようだけど、笑い声は漏れ、静寂はいつの間にか消えていた。今朝の出来事もあって、わたしは佐久間のことが嫌いなはずだったのに、恥ずかしがりながらもしっかりと言葉を交わしていることに驚いた。
無口でクールな印象しかなかったけど、その認識も改めなくちゃいけないみたい。話が合えばだけど、無口なんかじゃないし、クールでもない。わたしと同じ、普通の高校生だ。
「もう、帰る!」
「んじゃあ、俺も帰るかな」
「ついてくんな!」
「出口はこっちだからな。お前について行ってるわけじゃない」
そう言いつつ、こいつは微笑を浮かべている。冷やかされているのか調子に乗られているのかよく分からない。一体、どこの誰が佐久間のことを無口でクールだと噂したんだろう。まったく違うじゃない。
「それに、俺はこれから用事がある。時間になるまで図書館で暇を潰していただけだからな」
だからどうした、と言いそうになって、わたしは言葉を飲み込んだ。ちょっとした好奇心は、些細なことから生まれてくる。
「用事? ……あんた、これから何があるの?」
わたしが眉をひそめて問いかけてみると、佐久間は少しだけ喉を詰まらせる。どうやら言うべきか迷っているらしい。
「教えなさいよ」
押しの一言。わたしの迫力を前に、佐久間は一歩後退する。すかさずわたしも一歩前に出て、距離を縮める。さっきはいいようにあしらわれてしまったんだから、これはお返しだ。
「……絶対に、誰にも言わないか?」
「? う、うん。もちろんよ」
絶対、と言われて驚く。たかが何の用事があるのか聞きだすだけなのに、何故そこまで慎重にならなくちゃいけないのか。
「それと……絶対に、笑わないって誓うか?」
「あんたの用事って、わたしが笑うようなものなの?」
「そういうわけじゃないが……なんというか、その、男がするようなことじゃないという印象がだな……」
尻すぼみになっていく佐久間の台詞。なんだか無性に気になる。これは絶対に聞いておくべきだ。わたしは、今朝自分の部屋の鏡にしてみせたように満面の笑みを作り、佐久間に言う。
「あんた自身が、あんたの用事を笑うようなことなんかじゃないって思ってるなら、言えばいいじゃない。それに、わたしは笑ったりしないって誓うし、誰にも言わないって約束するわ」
「……そう、か。それならお前にだけ教えるぞ。俺はこれから――」
その先の言葉を発する前に、佐久間は口を閉じてしまった。やっぱり言うのが恥ずかしいのかな。だけど、それは恥ずかしくて言えなかったのではなくて、わたしとあいつの間に妨害が入ってしまったからだった。
「あ」
佐久間が、わたしの後ろを指差す。
「ん?」
そして振り向き様に見たもの、それは――。
「二人とも、覚悟はできているね?」
指の骨を鳴らしながら鬼の形相で微笑みかける、二階堂先生の姿だった。
※
「ただいまー」
本屋に寄るのを思い出したのは玄関の前だった。
階段を上ってふすまを開き、自分の部屋に辿り着くと同時に、布団へ寝転がる。
「ふわあ……」
今日は疲れた。色々あったから。
結局、あの後は二階堂先生から逃げるのに必死で、あいつが何の用事があるのか聞き出すことはできなかった。教えてもらえるはずだっただけに、非常に残念な気分だ。
館内で騒ぐと、鬼が出る。なるほどなるほど、だから図書館には誰も足を踏み入れようとしないんだ。佐久間が囮になって二階堂先生を引き付けていてくれたから、わたしは図書館から逃げ出すことができた。だけどあいつは無事に脱出することができたのかな。
「……大丈夫かな」
天井に訊ねてみる。もちろん、返事など期待していない。相手はあいつよりも無口なんだからね。もし二階堂先生に捕まって、用事に間に合わなかったら、わたしのせいになるのかな。
自業自得とも言いがたいよね。微妙なラインだ。
「んー、悩んでてもしかたないか」
今日は英語の宿題が出ていたはず。
夕食の時間までまだあるから、今のうちに片付けておくことにしよう。
※
翌日。昨日のわたしは早起きしすぎた。あれは普段のわたしではない。そう、つまりいつも通りのわたしというのは、登校時間ギリギリになって学校に到着する生徒だ。
朝が苦手なので、二度寝は当たり前。目覚まし時計を掛けていても寝ているうちに止めてしまうから役に立たない。それでも未だに遅刻をしたことがないのは、運が良いのかもしれない。
わたしは駆け足で神楽坂学院の正門をくぐると、下駄箱で靴から上履きに履き替えて教室へと急ぐ。廊下を走る姿を先生に見られないように気をつけながら。
「おっはよー」
教室のドアを開けて、朝の挨拶をする。するとクラスメイトたちは当然のように返事を返してくれる。クラスメイトとの仲が良いというのはいいことだよね。
「今日もギリギリだったね、久々」
席に着いて背伸びをしていると、後ろの席に座る由紀から声を掛けられた。
「うん。遅刻だけはしたくないからね」
それならもっと早く起きればいいだけの話なんだけど、それができないからわたしは毎朝この調子なのだ。もっとも、朝から神楽坂学院まで続く通学路を全速力で走るのも嫌いじゃないから構わないんだけど。
「一時間目って何の授業だったっけ?」
わたしは椅子の背に寄りかかり、後ろに座る由紀を見る。
視界に映るのは、逆さまの由紀と、逆さまの――、
「ふぁっ?」
素っ頓狂な声を上げたのは、わたしだ。寄りかかっていた椅子が倒れ、由紀の机に頭を打ってしまったから。だけどその原因を作ったのは、由紀の後ろに立ったまま、わたしのことを見下ろす、あいつのせい。
「え? あれ、佐久間くん?」
由紀も気づいたらしい。わたしは倒れたまま、佐久間の顔を見る。
「……見えてるぞ」
見えてる? 何が?
わたしは反問しようとして、その言葉の真意に気づいた。
「く、久々ぅ……」
由紀が顔を真っ赤にさせて、わたしと佐久間のことを交互に見やる。その仕種だけで、何が見えているのか理解した。つまりわたしは、椅子と一緒に倒れた拍子に、下着が見えてしまっているということだ。
「み、見るなバカスケベ!」
慌てて立ち上がり、スカートを整える。今日ってどんなの穿いていたっけ? というかなんで佐久間がここにいるの、窓際の席のはずでしょ。わたしと由紀の席は廊下側なのに。
「な、何よ? わたしに何か用なの?」
恥ずかしさを紛らわすため、口調がきつめになっているのはご愛嬌だと思ってほしい。
わたしは佐久間の目を見ることなく言う。
すると佐久間は、その言葉を待っていましたと言わんばかりの表情を見せる。飄々としているように見えるけど、実際には何も考えていないだけのバカなのかもしれない。
「ああ、一つ聞きたいことがある」
「何よ」
ようやくわたしが視線を合わせると、それが合図かのように口を開く。
「名前、教えろよ」
佐久間がその台詞を口にした次の瞬間、クラスメイトは全員驚いていた。
「わたしの名前?」
「ああ」
そもそもクラスメイトたちは、佐久間が喋るところをほとんど見たことないんだから、声を聞くだけでも驚きものだろう。それに加え、今回に至っては、わたしの名前を教えろときたものだ。さすがにこれは驚かざるを得ないのかもしれない。
「あんたねえ……わたしとあんたは同じクラスでしょ! クラスメイトの名前くらい憶えておきなさいよね!」
「憶えなくても支障はないからな」
すまし顔でそんなことを言う。
この分だと、こいつはわたし以外のクラスメイトの名前も知らないみたいだ。
「久々よ。わたしの名前は、相良久々!」
大きな溜息を吐いた後、わたしは自分の名前を告げる。
「相良久々だな。俺は――」
「佐久間泰之でしょ? わたしはあんたと違ってクラスメイトの名前は全部憶えてるの」
「だが試験には出ないぞ」
「中間試験で最下位のあんたに言われたくないわね」
「まあいいか。お前の名前、憶えておくよ」
佐久間は自分の席に戻っていく。その後姿は、普段のあいつよりも明るく見えた。
「まったく、もう……」
やれやれ、とわたしが椅子を立て直して腰を掛ける。
すると直後、わたしの周りにクラスメイトたちが一斉に集まってきた。その目的はもちろん、あいつとどうやって話すことができるようになったのかについてだ。
今日一日、この分だとわたしはあいつとの関係を否定するのに必死になりそう。窓際の席に座って本を読むあいつの姿を一度だけ視界に捉え、わたしはそれから深い溜息を吐いた。
※
「先日は館内で騒いでしまって、申し訳ありませんでした」
昼休みに入り、わたしは図書館へと足を運んだ。
ここでわたしがあいつと言葉を交わしてから、丁度一週間が経った。
先週借りていた本は、あっという間に読んでしまったので、新しい本を貸し出してもらうついでに、二階堂先生にも謝っておくことに決めていた。
「反省しているなら、それで良し。でも今度騒いだら……判るね?」
「は、はい」
その笑顔が、わたしに脅しかけているようで恐ろしい。でも、普段は優しくて気さくな先生なんだから、館内で騒いだりしなければなんてことはない。
わたしは借りていた本を返却し、新しい本を借りるために館内をうろつき始める。二階堂先生の話によると、佐久間も二階堂先生の追跡から無事に逃れることができたらしい。大事な用事もあったみたいだし、これで一安心だ。
「今日は何を借りようかな」
一週間に一度訪れる図書館。この行為は、神楽坂学院に入学して以来、わたしにとって習慣となっている。朝の空いた時間だったり、中休みや昼休み、放課後だったりと、行く時間は都度異なる。
館内には人もいないし、それはそのまま本を借りる人も少ないということに繋がる。だからほしい本が借りられているなんてことは、ほとんどありえない。
「んー、……あれ?」
わたしは館内の隅奥の本棚の前に立ち、上から二段目の棚に視線を彷徨わせる。
「ここにあったはずなんだけどな……」
先週、館内であいつと言葉を交わす直前、借りたいと思っていた本がもう一冊だけあった。
既に借りる本が五冊に達していたので諦めたんだけど、置いていたはずの場所にその本が置いてない。
「うーん、おっかしいな……。誰かに借りられたのかな?」
残念だけど、本棚に置いていないということは、誰かに借りられてしまったということだろう。返却されるまで我慢しなくちゃならないみたいだ。仕方がないから違う本を借りることにしようかな。そう思い、別の棚を見ようとその場から動こうとした時、不意に肩を叩かれた。
「よう、相良」
振り向いてみれば、そこに立っていたのは佐久間だ。
「ちょっと、びっくりしたじゃない。驚かさないでよね」
「気づかないお前が悪い」
なんでわたしが悪いのよ。こいつの言動には、つい突っ込みを入れたくなる。わたしは唇を尖らせつつ、佐久間の顔を見上げる。
「あんた、また図書館に来たの?」
「ああ。今日も用事があるからな」
佐久間の用事。そういえば、先週も同じ曜日だった。この曜日には、用事があるらしい。
「あんたって、用事のある日はいつも図書館に来てたの?」
「そうじゃない日も来るぞ。たとえば今みたいに昼休みとかな」
全く気付いていなかった。
だとすれば、今までもすれ違うぐらいのことはあったのかもしれない。
「ふうん……。騒いだりして二階堂先生を怒らせないでよね」
「それはお前にも言えることだがな」
減らず口を叩くやつめ。わたしは腕を組み、目を細める。何か話すことはなかっただろうかと思考を巡らせてみる。そして、先週聞き逃していたことを思い出した。
「あ、ねえ! あんたの用事って何なの?」
「秘密だ」
佐久間がそう言った瞬間、足を踏む。とりあえず軽めに。
「おい、踏むな」
「あんたが教えないからでしょ」
「男にだって秘密があるんだよ。憶えておくと便利だぞ」
「先週、教えてくれるって言ったでしょ!」
「記憶に――」
「無いわけないわよね?」
制服の襟首を掴んだ。この体勢、不良な女子生徒が、同級生であり同じクラスメイトの男子生徒を脅しているようにしか見えないかな。どうせ図書館に来る生徒なんて稀なんだから構わないけどさ。
「ほら、言いなさいよ」
「む、くっ……。言うから手を放せ。そして足を退けろ。それからもう少し声のトーンを落とせ。また二階堂に怒られたいのかよ?」
それはもう二度と御免だ。わたしは襟首を掴んでいた手の力を緩め、踏んでいた足を退ける。
「さあ、言いなさいな」
きっと、わたしの目は輝いていたことだろう。その証拠に、佐久間のわたしを見る目が、嫌なやつに捕まってしまったと言いたげだった。
「先週も言ったが、絶対に誰にも教えたりするなよな」
「しないしない! さあ、早く」
コホンッ、と咳をする。どうにもわざとらしい仕種だ。
わたしから視線を外して、周りに聞こえないように小さな声で呟く。といっても、ここには二人しかいない。二階堂先生の姿は見えないんだから、それほど慎重になる必要があるのかな。
「…………ジャズ、ダンスだ」
「ジャズダンス?」
その言葉を、口にする。すると佐久間は、小さく頷いてみせた。どうやら聞き間違いではないらしい。佐久間が誰にも教えたくなかった秘密の用事とは、ジャズダンスのことだった。
「あんたが……ジャズダンス?」
「ああ」
「習ってるの?」
「ああ、そうだ」
「……嘘じゃないでしょうね?」
「嘘を吐く理由がないだろ」
だよね。
わたしは一人で勝手に納得し、改めて佐久間のことを見てみる。
佐久間は、確かに運動神経抜群だ。頭の出来は良い方ではないみたいだけど、身体能力ならばわたしよりも遥かに上をいっている。そしてそれは体育の時間にいかんなく発揮されていた。
「ジャズダンスって、何をするの?」
「その名の通りだ。踊るんだよ」
「あんたが?」
頷く。いまいち信用ならないんだけど、恥ずかしそうに告白する佐久間の表情からは、嘘を言っているようには見えない。だからきっと、佐久間がジャズダンスを習っているというのは本当のことなんだろう。
「あんたがジャズダンスねえ……」
しかし、似合わないにも程がある。
神楽坂学院では無口でクール、寡黙な男子生徒で通っている佐久間が、ジャズダンスを習っている。いきなりそんなことを告白されて、ほいほい信じられようものなら、その人は人を疑うことを知らないに違いない。
「うーん……。あんたのことを疑うわけじゃないけどさ、本当に踊れるの?」
完璧に疑っているわけだけど、口ではなんとでも言えるから、わたしは訊ねてみた。
「信じないのか?」
「そうね、この目で見ないことには……」
というのは言い訳だ。実際のところ、わたしは佐久間が嘘を吐いているとは思っていない。
ならば何故、佐久間のことを疑うような台詞を口にしているのかと言うと、それは至極単純な答えだ。佐久間の踊っている姿を、見てみたい。それがわたしの胸に渦巻いている正体。
「それなら見に来ればいい」
案の定、佐久間はわたしの挑発に乗ってきた。やっぱり単純な性格をしている。
「見に来いって……あんたがジャズダンスを踊るのを?」
「ああ。見学なら部外者がスタジオに入るのも許されるからな」
部外者、ときたものだ。まあ、確かにわたしは関係者ではないけどさ。スタジオというからには、それなりに広い場所なのかもしれない。
「わかったわ。今日はジャズダンスを習いに行くのよね? それなら、ついて行く」
わたしの台詞に、佐久間は不敵な笑みを浮かべた。なんだかムカつく。自信満々なその表情は、わたしに一泡吹かせることができるとでも思っているのかもしれない。
「それじゃあ放課後、十七時に河川敷の橋の下でいいか」
「え? 待ち合わせるつもり? 学校が終わったらそのまま一緒に行けばいいじゃない」
「他の奴に見られたら困るだろ」
「! ……ふーん、わたしと二人で帰るの恥ずかしいんだ?」
「自意識過剰だぞ。俺は秘密を知られるのが嫌なだけだ」
あぁ、そういうことね。
少しがっかりしたのは、わたしの秘密ってことで。
佐久間は、手に持っていた本を小脇に抱え、一人で図書館から出て行こうとする。
「あ、ちょっと待ちなさいよ! ……ん?」
そしてその後を追いかけようとして、わたしは歩むのを止めた。あいつが持っていた本のタイトルが見えたからだ。
「……やっぱり」
佐久間が持っていたのは、わたしが借りようと思っていた本だった。本棚に置いてなかったから誰かに借りられているとは思っていたけれど、借りていたのは佐久間だったんだ。
※
「お待たせ、……って」
その日の放課後。
佐久間が教室を出て行くのを目の端で確認し、わたしも急ぎ足で家路に着いた。そして私服に着替えると、すぐに目的地へと向かった。
待ち合わせ場所の橋の下には、既に先客がいた。それはもちろん佐久間だ。
傍に自転車を停めて腰掛けるあいつは、のんびりと読書に励んでいた。
「その本、面白い?」
佐久間の横に座り、訊ねてみる。
別に意図したわけではないけど、それが佐久間には引っかかったらしい。
「……お前、また結末を言うつもりじゃないだろうな?」
「違うってば。わたしもまだ読んでないやつだから気になっただけよ」
「それなら安心した」
ほう、と一つ息を吐いて、佐久間はわたしを見る。
「あの時はカッコつけたことを言ったが、結末を知らずに読めるならその方がいいからな」
「ってことは、それは初めて読む本なのね?」
「ああ。まだ途中だが面白いぞ。読み終わったら、次借りるか?」
「もちろんよ」
そう言って笑うと、佐久間は少したじろぐような表情を見せた。
けれどもすぐに視線を逸らし、本を閉じて立ち上がる。
「もうすぐ、梅雨が来るな」
四月の肌寒い頃と比べ、この時期は格段に過ごしやすくなっている。だけど梅雨がくれば雨が降り、気温も四月並みに下がることだろう。体調管理に気をつけなくちゃいけない。
一度家に帰ったわたしたちは、私服姿で肩を並べて歩いている。なんだか不思議な気分だ。
佐久間の通うダンススクールは神楽坂の駅から五分程歩いたところにあるらしく、わたしの家と学校を結ぶ通学路として、普段から通っている場所だ。
「それで、スタジオはどこら辺にあるの?」
「もうすぐ着く」
だから我慢しろ。素っ気なく言い捨て、大またで進んでいく。
わたしも負けずと佐久間の歩幅に合わせ、ついて行く。そして、
「……んん?」
どこからともなく、音楽が聴こえてきた。
思わず、その場に立ち止まる。わたしが足を止めると、佐久間が振り返る。
「どうした?」
返事をする代わりに、辺りを見回した。この音楽、どこから流れてきているのかな。
「音楽が聴こえる」
「音楽だ?」
「うん。日本語じゃないみたいだけど……」
わたしは、自分の耳に聴こえてくる微かなメロディだけを頼りに、音の在り処を探す。
「……ああ、この音か」
佐久間の耳にも届いたらしい。音楽を聴いて、なるほどと頷く。どうやら佐久間には、この音楽がどこから流れているのか分かっているみたいだ。
「こっちだ」
「あっ……」
佐久間は、わたしの手を取り、入り組んだ路地に入っていく。
少し驚いたけど、違和など感じない。自然な仕種だ。だからわたしは、その手を払おうとはしなかったし、佐久間に手を引かれて歩いていく。そして、音楽の流れる場所を見つけた。
「ここ、なに?」
小首を傾げてみせる。わたしは、目の前に聳え立つ立派な建物を見上げて呟いた。
開かれた窓から流れくる音楽は、リズムカルのある曲調だ。
「さてと」
佐久間は手を離すと、建物の入り口に立ち、わたしと向かい合う。そして芝居がかった口調で台詞を口にする。
「我がダンススクールへ、ようこそ」
「ここが、あんたの通っているダンススクールなの?」
わたしが訊ねると、佐久間は頷く。ドアを開くと、手招きをして中に入れと合図する。
わたしは佐久間に従い、建物の中に入ってみる。そして、その光景を目にして、ほんの一瞬だけ息をとめた。
「す、凄い……」
建物の中は、ダンススタジオと呼ばれるに相応しい構造をしていた。
わたしが今、立っている場所。それはこの建物からすれば一階に当たるのかもしれないけど、中に入ってみれば二階と言い表した方が正しい。建物の中には、吹き抜けの地下があった。一階はマンションのベランダのように手すりがついていて、下に落ちないようになっている。そして地下の部屋は、壁一面鏡張りになっていた。天井に取り付けられたスピーカーから流れ出る音楽に合わせて、ダンスを踊る人が十数人。鏡に映る自分自身の姿を確認しながら、華麗に舞っている。わたしの目には、その何れもが美しくみえた。
「今、スタジオ内で練習しているのは中級クラスの奴らだな」
佐久間はわたしの隣に並び、スタジオ内で踊る人たちのことを教える。
「中級クラス? ……ということは、あの人たちよりも上手なクラスがあるってこと?」
「もちろんだ。上級クラスの練習は中級クラスとは比べ物にならないからな」
自慢げに言葉を返す。別に佐久間のことを褒めたわけじゃないんだけどな。
「椅子持ってくるからそこで待ってろ」
「う、うん」
佐久間はわたしを置いてスタジオの奥に行ってしまった。
一人残されたわたしは、あいつの背中が見えなくなると、再び地下で踊る中級クラスの人達のことを見学する。上手に踊るものだと感心してしまう。
「それにしても……広いなぁ……」
五十人程度が間隔を取ってゆっくりとすることのできるほどの広さだ。ダンスを踊るためだけに用意された場所、それが今わたしのいるところなんだと実感する。スタジオ内には二階に続く階段もあるので、もしかしたら二階にも踊るスペースがあるのかもしれない。
「ほらよ」
地下で踊る人達を見下ろしていると、スタジオの奥から佐久間が椅子を持って戻ってきた。
「ありがと」
わたしは椅子を一つ受け取り、組み立てる。佐久間はわたしの横に座った。
「で、どうだ?」
「? 何がよ?」
「感想だよ、感想」
呆れたように言う。スタジオの中にまで入っておいて、それくらいのことは聞かなくても分かるだろうと言いたげな表情だ。
「感想ね……」
但し、わたしはまだ感想を言うべきではない。
何故なら、まだ佐久間が踊るところを見ていないから。
「あんたが踊るのを見てから、言うわ」
「……そう、か」
それなら、俺が踊るまで待っていろ、と態度で示してきた。堂々としているように見えるけど、実際は緊張しているのかもしれない。同級生の前でダンスを踊るんだから、当然といえば当然だ。緊張しない方がおかしい。でも、佐久間の態度には、不安や恐れなど微塵も感じさせない。わたしの前でダンスを踊ることに対し、何らかの自信があるように思える。もしかして佐久間は踊るのが上手なんだろうか。
「さて……ただ見てるってのも暇だろうからな、少し説明をしておく」
閉じていた口を開くと、佐久間は地下で踊る中級クラスの人達を指差して言った。
「ここのダンススクールでは、一つのクラスにつき二時間の練習を受けることができる。下で踊る中級クラスの奴らの練習時間はあと少しで終わりだから、既に曲の振り付けに入っているわけだが……先ずは各々でストレッチから始めて、身体を柔らかくしておく必要があるな」
「ふーん」
わたしが頷いてみせると、更に説明を続けていく。
「ストレッチが終わったら、今度は基本的なステップの練習だ。適当に音楽を流して、幾つかのステップを繋ぎ合わせて一つの流れを作っていくんだ。そして最後に練習するのが、振り付けだ。今、中級クラスがやっているように、音楽に振りをつけて踊るわけだな」
まさかこんなに饒舌になるとは思ってもみなかったけど、わたしに説明をする佐久間の顔は、とても明るくて、もの凄く楽しそうに見えた。
「……おい、聞いてるか?」
「え? あ、うん。もちろんよ」
誤魔化しつつ、わたしは視線を逸らす。
「それで、あんたが踊るのはいつなの?」
「中級クラスが終わった後、次のクラスの練習が始まる。それが俺のクラスだから待ってろ」
「ん、了解よ」
中級クラスの練習も終了時間を迎え、地下で踊っていた人達は二階へと上がっていく。地下に残っているのは、中級クラスの人達に振り付けの指導を行なっていた講師と、中級クラスと入れ替わるようにして姿を現した人たち。
「へえ……」
本当に、踊るんだ。教室の窓際の席に座り、いつだって本を読んでいた佐久間。それが今、これから始まるであろうダンスの練習のため、地下にいた。
「なんだか変な感じ……」
同級生の、それも女の子ではなくて男の子が、ジャズダンスを踊るというのだから、不思議な気分だ。あいつがダンスを踊るのが下手だったとしても、それはそれで見ていて飽きることはない。これから二時間、佐久間が頑張る姿をしっかりと見ていよう。
講師の先生が声を張り上げる。二階にいる生徒は、下りてきてストレッチの準備をしなさいと。その声につられて、階段から下りてくる人たち。もうすぐ始まるらしい。わたしはワクワクしながらその時が訪れるのを待った。その後、講師が言った台詞に、わたしは驚愕する。
上級クラスの練習を、始めます。
わたしは、佐久間の姿を目で追った。すると佐久間は、わたしの方を見上げ、悪戯な笑みを浮かべてみせる。なるほど、だからあいつは自信があったんだ。
佐久間の通っているクラスは、一番上の上級クラスだった。
※
上級クラスの練習が始まった。一階から地下を眺めるわたしの視界に映るのは、広いスタジオ内であるにも関わらず、十人にも満たない人達が十分な間隔を取って鏡と向き合っている光景だった。一人前列に立つ講師がリモコンらしきものを操作すると、スタジオの四方の天井にそれぞれ設置されてあるスピーカーから音楽が流れ始めた。クラシックな感じの曲調で、その音に合わせて上級クラスの人たちはストレッチを開始する。
先ず驚いたのは、講師が指示を出すことなく上級クラスの人達全員が同じ動きでストレッチを行なっている光景。それはつまり、スタジオ内に響き渡る音楽を耳にするだけで、自分がするべきストレッチの内容を把握しているわけであって、講師が指示を出す手間が省けて時間を短縮できるということ。佐久間は、講師の斜め後ろの二列目に並んで、みんなと同じようにストレッチをこなしている。予想していたよりもあいつの身体は柔らかく、他の人たちと比べても劣っていない。表情を見ても神楽坂学院でのそれとは異なり、生き生きとしている。
「別人みたい……」
改めて、そう思う。壁に掛けてある掲示板に目を通してみれば、そこにはダンスの各クラスについて表が作られていた。一番上のクラスから上級、中級、初中級、初級、そしてストレッチクラスとある。他にも、ジャズダンスではないヒップホップ専門のクラスや、バレエのクラスなど、ダンスの種類によってクラスが選べるようになっていた。
ダンスのクラス表の横に張ってある紙には、各クラスの練習時間帯や曜日、ダンスチケットの料金表やお知らせなどについて書かれてある。なんだか複雑そうだ。
「うーん……」
しかし二時間もこのままでいるのは少々退屈かもしれない。あいつみたいに動いている分には構わないだろうけど、椅子に座ったまま、ただじっと黙って見学しなければならないわたしからすれば、これは我慢するには辛い状況だ。
元々、身体を動かすことが好きだから、他の人たちがストレッチをしているのを見ているだけというのが合わない体質なんだろう。長時間座りっぱなしでお尻が痛くならないように座り直してみたり、体勢を変えたりしながら見学をする。やがて、三十分ほど時間が経つと、佐久間たちはストレッチをやめた。どうやらストレッチが終わったらしい。こっちは座ったまま動けないから身体が硬くなってしまった。これから、五分の休憩を挟み、今度は基本ステップの練習に移るようだ。その休憩の間に、佐久間は階段を上ってわたしのところへやって来た。
「身体、柔らかいのね」
「まあな」
照れた様子もなく、佐久間は淡々と返事をして、椅子には座らず床に座って靴を履き始めた。
「スタジオの中で靴を履いていいの?」
何気なく聞いてみる。すると佐久間は、眉を寄せてわたしの顔を見る。
「これはダンスシューズだ。踊るんだから靴を履くのは当然だろ」
「あ、なるほどね」
納得する。
「阿呆はこれだから……」
何を言っているんだ、と言いたげな表情を浮かべている。そんなこと言われても、わたしは初めて見学に来たんだから、佐久間にとっては常識的なことでも、わたしからすれば知らないことなのだ。
「あんたに阿呆呼ばわりされる日がくるとは思ってなかったわね」
わたしは怒らず、肩を竦めるだけ。佐久間のことを見なおしたのは事実だし、今は何も言い返さないでおこう。靴を履き終えた佐久間は、水筒のコップにお茶を注ぎ、それに口をつける。
「お前も飲むか?」
「遠慮しておくわ」
休憩も終わり、次は基本ステップの練習が始まると、佐久間は階段を下りていく。講師がリモコンを操作すると、今度はクラシックな音楽ではなく、ロック系の曲調に変わった。
ここにきて初めて、講師が指示を出す。佐久間と上級クラスの人たちはその指示に従い、スタジオ内の端に移動した。何が始まるのかと思ったら、先ず講師がお手本を見せるように上手から下手に向かってステップを踏んでいく。
「わあぁ……」
わたしはその姿を目で追った。だけど動きが早すぎる。ステップの一つ一つは滑らかで簡単そうに見えるのに、それらを繋ぎ合わせて一つの流れを作ってしまえば、点から線に変化する。
動かしているのは足だけでなく、両手を思い切り伸ばしたり天井に突き出したりして、華麗にターンをしてみせる。上手から下手へステップを踏み終えると、今度は佐久間たちが踊る番だ。あいつが一歩前に出て、小さく息を吸う。そして真っ直ぐに前を見つめたかと思うと、音楽に合わせてそのまま足を動かす。すると、軽やかな足取りでスタジオの端から端へと移動していく。あれが、神楽坂学院ではいつも読書をしているあいつの本当の姿。
「……格好いい」
いつの間にか、わたしの口から漏れていた声。その声は、あいつを褒める台詞を吐いていた。
佐久間に続き、列を作って並んでいた人たちが一人ずつ、同じステップを踏んでいく。そのステップもまた、全てにおいて完璧にみえてしまうほどの動きをしていた。
基本的なステップの練習といえど、あいつが通うのは上級クラスなのだ。このダンススクールで一番上手な人たちが集まるクラスなんだから、当然のように基本的なステップ練習でさえも難易度が高くなる。初見で踊れなければ上級クラスに上がるにはまだ早い。そんな雰囲気がスタジオ内に漂っていた。前の時間に踊っていた中級クラスの人たちの中で、上級クラスの練習を見学している人もいる。彼らはきっと、今よりももっと上手くなるため、上級クラスの踊りをその目に焼き付けているんだろう。
上級クラスの練習が始まってから一時間が過ぎた頃、二度目の休憩時間となった。地下からあいつが上ってくることはなく、水筒を片手にわたしの方を見上げる。どうだ、凄いか。そんな言葉が聞こえてきそうだった。わたしは、つい顔を背けてしまう。何だか分からないけど、波打つ胸の鼓動に変化を憶えたからだ。
二度目の休憩が終わる。そしてこれからが本番。上級クラスたる所以を、あいつは身をもってわたしに証明してくれた。ストレッチやステップの練習は、たしかに凄かった。みんな身体が柔らかかったし、初見でステップを踏んでいて驚いた。でもそれだけじゃない。ダンスというものは、一つの音楽に合わせて自分自身を表現することで本当の意味を持つ。
「……あれが振り付け?」
鏡の前に立つ講師は、ゆっくりと振りを確認するかのように動いていく。音楽を流さずに、自らの口でカウントを取る。そのカウントに合わせて、一つずつ動きを加えていくのだ。
後からあいつに聞いた話だけど、ダンスミュージックのリズムやメロディに合わせながらダンスのステップや技などを組み立てて、一連の流れを作っていく作業として、振り付けはもっとも重要視すべきものだという。適当にステップを組み合わせてダンスを踊っても、その踊りが音楽と同調していなければ、ひどく滑稽に見えるという。それにステップとステップを繋ぎ合わせる間も大事で、ちょっとした動きのぎこちなさが全てを台無しにしてしまう。
振りを付ける作業というのはとても難しく、講師は一度に振りを付けるようなことはせずに、一つの動作を確認させるかのように踊る。上級クラスの人たちは簡単そうに振り付けをこなしているけど、実際は違う。その一つ一つの振りが作り込まれているし、指の先まで神経を集中させているのがよく分かる。あれを真似るのは、わたしには絶対無理だ。
悔しいとは思わない。ダンスを踊ったことのないわたしにとって、あれをやってみせろと言われてもできないのが当然なのだ。でも、それが不満なのも事実。わたしにも、踊れるかもしれない。あいつと同じように動くことができるかもしれない。そんなことを考えてしまう。
「……ああ、そっか。そうなんだ」
胸の鼓動の意味に気づいたわたしは、口元に笑みを浮かべる。やっぱりわたしも、身体を動かすことが大好きなんだなと実感した。暫くすると、今度は音楽に合わせて振りを確認する作業に入る。先ほどまで一つずつ確認していたステップを、ダンスとして踊る時がきたのだ。
振り付けを行なっていた部分の音楽を流し始める。初めに講師がお手本を見せ、続いてそれを佐久間たちが繰り返す。すると驚くことに、一つ一つ単体であったはずの動作が、まるで線を結んだかのように一つにまとまり、滑らかな動きを演出する。
「すごいなあ……」
思わず嘆息していた。これこそが、ダンスが出来上がるまでの工程。見ている側からすれば簡単に踊っているように感じるかもしれない。だけどその裏には、何度も繰り返し練習を重ね、そして限りなく完璧に近い形までもっていこうとするダンサーたちの努力があった。
佐久間が踊る姿は、わたしの視線を釘付けにした。華麗に舞い、ステップを踏む。その表情は生き生きとしていて、これまでに抱いてきた印象からは想像もできないほどに輝いて見えた。
※
気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。わたしがここに来てから二時間が経ち、上級クラスの練習は終わりを迎えた。
「感想は?」
地下から上がってきた佐久間は、肩で息を吐き、汗だくになっていた。
「え? あ、ああ! えっと……」
上手く言葉にすることができない。なんて言えばいいんだろう。わたしは、佐久間がダンスを踊る姿を見て、たった一つの感情しか生まれてこなかった。それを口にするのが恥ずかしい。
だけど佐久間は、わたしに見せてくれた。だからわたしも、言わなければならない。
「か、かっこよかった……と思う」
顔を俯け、わたしは小さな声で呟く。同級生の男の子のことを、それも本人の目の前で、格好良かったと告げるだなんて、わたしは告白でもしている気分だ。
「惚れたか?」
意地悪そうに訊ねる佐久間。
その台詞に、今度は言い返すことができない。それが何故か悔しかった。
講師が近づいてくると、佐久間は礼儀正しく挨拶をする。すると講師は、佐久間からわたしに視線を移し、彼女なのかと聞いてきた。
「秘密で」
意味深な台詞を言わないでほしい。
「ち、違います! ただのクラスメイトですから!」
「冗談の通じないやつだな、お前」
「冗談は学校の成績だけにしてよね」
わたしは講師と挨拶を交わし、佐久間に視線を戻す。佐久間はハンドタオルで汗を拭き、わたしの隣に置いていた椅子に腰を下ろした。
「そういえば説明が途中だったな」
そして佐久間は、ジャズダンスについて話を始めた。
ジャズダンスで使用する音楽は、ロックやポップス、ヒップホップなどのダンスミュージックを、ジャンルを問わずに使用する踊りのことを総称する。ジャズダンスを学ぶ際に一番大事なことは、最初の段階では基本のリズムとダンスステップを一つ一つ身につけてレパートリーを増やすように練習をすること。基本からしっかりと練習をしていけば、気づいた時には自然と色々な身体の使い方や、裁き方が身についているもので、着実にステップアップできるらしい。見学する前に聞いていたら意味が分からなかっただろうけど、今は上級クラスの練習を見学した後だから、なんとなく分かるような気がする。瞳を輝かせながら力説する佐久間を見るのも、なんだか面白い。とりあえず理解することができたのは、佐久間が習っているジャズダンスという踊りは、どのような曲調にも合わせてダンスを踊ることができるということ。
ダンスの練習が終了した後も、スタジオ内には残って練習する人たちの姿があった。振り付けの確認はもちろん、少しでも技術を向上させようと努力しているんだろう。
「あっ! もしかしてあんた、ジャズダンスの一芸一能で神楽坂学院に推薦入学したの?」
佐久間が一芸一能推薦で入学していたことを思い出したわたしは、そのことについて訊ねる。
「まあな」
なるほど、通りで踊るのが上手なはずだ。
神楽坂学院の一芸一能推薦枠はとても難しく、よほどのことがなければ合格しないと噂されている。その狭き門を無事に潜り抜けてきた佐久間は、それに見合った努力をしていた。そしてその一芸一能というのは、スポーツなどではなく、ジャズダンスだった。
「さあ、そろそろ帰るか」
「え? もう帰るの?」
椅子から立ち上がると、佐久間は椅子をたたんで手に持った。
「眠いんだよ」
「……あっそ」
呆れた。さっきまで格好よくダンスを踊っていた奴の言う台詞だろうか。
わたしと佐久間がダンススクールを出ると、外は既に真っ暗だった。
「んじゃ、また明日な」
「ん、ばいばい」
佐久間は一度も振り返ることなく、走り去っていく。その背中を見つめつつ、わたしは溜息を吐いた。胸の鼓動は未だに不安定だ。
何がわたしの心を波打たせているのか、知っている。だけど今日は言えなかった。
「明日、言ってみよう……」
あいつの踊る姿を見て、湧き上がってきたこの感情は、わたしにとって素晴らしいものになるはずだ。だからわたしは、明日の自分に期待する。あいつに、言葉をかける姿を想像するだけで恥ずかしい気持ちになるけど、頑張ってこの気持ちを伝えよう。
――わたしも、ジャズダンスを踊ってみたいと。
※
翌日、わたしはいつもより早く起きて、まだ誰も教室にいないであろう時間帯に着いた。
わたしが待つのは、あいつ。
「お、おはよ……」
教室で一人、あいつのことを待つわたしは、ドアが開く音に反応した。そこに立っていたのはもちろん、佐久間だ。以前、早起きした時に、佐久間が早く学校に来ることを知っていたので、言うなら、この時間帯しかない。
「おう。今朝はやけに早起きだな」
初めて話した時からは想像することのできない自然な流れで、佐久間が返事をする。
「まあね。ところでさ、今日、あんたってダンススクールに行く予定とかある?」
「? いや、来週になるまでないぞ」
「そ、そうなんだ……」
これは困った。わたしもダンスを踊ってみたいと言おうと思っていたのに、ダンススクールに行くことができないのでは踊ることさえできない。
「なんだ? また見学したいのか?」
「えと……そうじゃなくて、その……」
わたしが口ごもっていると、佐久間は目を細める。そしてわたしが言いたいことを悟ったのか、意地悪く笑った。
「もしかして、お前もダンスを踊りたくなったのか?」
「うっ……」
鋭い奴め。こんな時に限って勘が鋭いから困る。
図星なので、わたしは何も言い返すことができない。その姿を見て、佐久間は更に続けた。
「それなら、今日行ってみるか」
「……でも、今日は上級クラスの練習無いんでしょ?」
「練習が無いから行ったら駄目なんて誰が決めた?」
佐久間はそう言うと、自分の席に着いて鞄から本を取り出した。わたしとの話は終わったのだと、態度で表しているのかと思ったけど、それは間違い。廊下から他の生徒の声が聞こえてきたからだ。神楽坂学院の中では、佐久間は寡黙な印象で通っていることを今更ながら思い出す。ダンスを踊っている姿を一度見てしまったわたしからすれば、それは猫被っているようにしか見えないけど、下手に騒がれるよりはマシなのかもしれない。
わたしは二回連続で欠伸をする。今朝は早起きしすぎた。これから朝のホームルームが始まるまで、まだ時間はたっぷりある。今日の放課後はあいつと一緒にダンススクールに行くことになりそうだし、今はゆっくりと睡眠を取っておくことにしよう。
※
放課後、スタジオ内で踊っているのは、初級クラスの人たち。
昨日見た、上級クラスの人たちに比べれば、ダンスを踊ったことのないわたしでも、ステップや振り付けの難易度が低いというのが判る。そしてこのクラスであれば、わたしでもついていくことができるんじゃないかと思った。
「ねえ」
気づいたら、話し掛けていた。この気持ちを抑えることができなかったから。
どうしても伝えておきたかった。
「なんだ?」
佐久間は、わたしの顔を見る。
「――わたしでも、踊れるかな?」
その言葉を聞いた佐久間は、驚いたような表情を見せる。
だけど次の瞬間には、悪戯っぽい笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。
「ああ、もちろんだ」
初級クラスの練習が終わった後、佐久間は徐に立ち上がる。
そしてわたしに、手を差し出した。
「今なら、スタジオで踊ってる奴もいないからな。大目に見てくれるだろ」
佐久間の手を取り、階段を下りていく。初めて地下のスタジオに足を踏み入れた。一階から見下ろすのとでは、雰囲気が別物だ。よく見れば、上手と下手の壁にも鏡が張ってある。三面鏡張りのスタジオに立っているのは、わたしと佐久間の二人だけ。
鏡の前に立つ。もちろん、ダンスシューズは履いていない。靴下だと滑って危険かもしれない。だけど今は踊りたい。早く、踊ってみたい。
佐久間がわたしを魅了してくれたように、今すぐにでも魔法のステップを踏んでみたい。
「先ずは、簡単なステップから始めるぞ」
「うん!」
そして今日、
わたしの舞台が、幕を開けた。
エピローグ
「おい、早くしないと遅れるぞ」
「分かってる! でもあと少しだけステップの確認をしておきたいの!」
あの日から、数ヶ月が経っていた。
今日は文化祭。体育館では多種多様な出し物が観客を賑わせ、クラスごとに展示物の発表や飲食店を経営し、皆一様に文化祭を楽しんでいた。だけどわたしと佐久間だけは例外。だって今朝起きてから……ううん、昨日からずっと緊張している。これから始まることに対して、身体の震えがとまりそうにない。
「ふぅ」
口から漏れるのは、溜息ばかり。
もし、失敗したらどうしよう。みんなに笑われるかもしれない。
失敗を恐れたくはないけれど、俯けた顔はいつまでも上がらない。
「――不安か?」
心配したのだろうか、佐久間が声を掛けてくれた。その声に、わたしは首を振る。
「そんなわけないでしょ……」
強がるのには、慣れている。けれど佐久間は、それが嘘だということに気づいていた。
「あっ……」
手を、握られた。そして気づいた。
「俺も不安だ」
佐久間の手は、震えていた。
「……意外ね。あんたでも緊張するなんて」
「そりゃそうだ。俺は寡黙な男子生徒、そしてそんな俺をそそのかして舞台に引きずり込んだのがお前だろ?」
「いつからそんな設定になったのよ」
その台詞に、自然と笑みが零れる。
すると佐久間は、目を閉じて呟くように声を出す。
「舞台に出れば不安や恐れなんてすぐに消える。そしてその後は自分のことを信じるだけだ」
「自分のことを信じられなかったら、どうすればいい?」
「舞台に出るのはお前一人じゃないだろ?」
「……ん、そうだったわね」
そしてわたしも、目を閉じた。舞台に設置されたスピーカーから流れてくる音楽に同調し、暗転していた舞台が光を取り戻す。いよいよ出番だ。
わたしと佐久間の、二人だけの物語を紡ぐ時が訪れた。
観客だけでなく、わたしの隣で踊る彼をも魅了するダンスを披露してみせよう。
恐いものは、何もない。
だってさ、
わたしの彼は、ジャズダンサーだから――…
(了)
「……うーん」
上体を起こし、大きな欠伸を一つしてみせる。それから背伸びをすると同時に布団から起き上がると、春風の吹き込む窓の縁に両手を置いた。
窓の外に広がっているのは、普段と変わらない景色。そして日常。雲の見当たらない青空を見上げてみれば、太陽の眩しさが目蓋を閉じさせようと意地悪をする。それが朝の訪れであり、何の変哲もない一日が始まることを示している。その日常の中で、わたしは今日もまた学校に通い、将来の役に立つのかどうかも判らない勉強をしなければならない。
億劫だと感じることもしばしばある。だけどそれが学生にとっての本分なのだからしかたがない。割り切るのも選択肢の一つなんだから。
「さて、と」
まだ半分閉じたままの目蓋を擦りつつ、わたしは部屋のふすまに手を掛ける。和風な造りであるというよりは、ただ古めかしいだけと表現したほうが合っていると思う。室内に置かれてある本棚を始めとする、机や椅子、タンスなど、どれも年代を感じさせてくれるものばかりで、新しいものといえば、本棚に並べられている小説の類だけ。
「あれ? 姉貴、もう起きたのか?」
ふすまを開けば、階下から聞こえる弟の声。朝早くから嫌味を言われてしまった。
「目が覚めたのよ」
階下に佇む弟の姿を見下ろしながら言葉を返す。片手には、コーヒーの注がれたコップが握られている。砂糖も入れず、背伸びして苦いコーヒーを毎朝飲むのは拷問だと思うんだけど、弟にしてみればそれがかっこいいらしい。わたしにはまったく理解できない。
「コーヒーなんて大人の飲み物ね」
わたしはそう言い残し、顔を洗うために洗面所へと向かうことにした。
廊下を通り、洗面所のドアを開く。鏡に映る寝ぼけ面を一目見て、今度は小さめの欠伸をする。朝は苦手だ。昨日は夜更かしせずに十分な睡眠を取ったはずなんだけど、睡魔というものはそれが使命だと言わんばかりの勢いで、常に襲い掛かってくる。蛇口を捻り冷たい水が音を立て、眠気を覚ますために豪快に顔を洗ってみるけど、気を抜いたらすぐに欠伸が出そうだ。
「姉貴、パン焼けてるぞ」
「んー、今行く」
濡れた顔をハンドタオルで拭い、朝食を取りに洗面所から居間に移動する。
「あら。おはよう、久々」
居間に入るなり、台所で目玉焼きを作っている最中のお母さんが声を掛けてきた。
「おはよー」
眠たそうな表情を崩さぬまま、朝の挨拶を交わし、座布団の上に腰を下ろした。弟は二杯目となるコーヒーをコップに溢れるほど注ぎ、それを食卓に置いてわたしの顔を覗き込む。
「朝の目覚めに、コーヒーでも飲むか?」
「いらない」
当然、わたしは拒否する。朝からコーヒーなんて飲んでいられない。あの苦さを舌で味わうのは、勉強する時だけにしてほしい。
「だと思ったぜ」
わたしが断ることを見抜いていたのか、弟は口角を上げる。
「麦茶ね」
「おう。注いでくる」
弟は一口だけコーヒーを飲むと、麦茶を注ぎに台所へ向かう。テーブルの上にはすでに朝食が並べられており、あと必要なものは飲み物だけみたい。
うるさいのが台所に消えたところで、わたしはテレビのリモコンを操作して朝のニュースを確認してみた。この行為自体が至極ありふれたものであり、日常という枠に収まる平凡さを象徴している。
「ほら、麦茶」
「ありがと」
弟から麦茶を受け取り、喉を潤す。そしてテーブルの上に並べられているトーストに手をつける。せっかく早起きしたんだから、今日は早めに家を出ることにしよう。
そう決めると、わたしは気合を入れるかのように朝食を食べ始めた。
わたしの名前は、相良久々。県内でも有数の進学校である、神楽坂学院に通う一年生だ。
勉強するのは嫌いだけど、努力をするのは嫌いじゃない。この前行なわれた中間試験の結果は良かったし、成績に見合うだけの努力はしてきたつもり。運動するのも大好きで、体育の時間はいつも全力で行なっている。クラスメイトからの印象も良く、休み時間になればわたしの周りには沢山の友達が集まってきてくれる。そんなわたしの通う神楽坂学院は、今年から共学校になったため、男子生徒の数が圧倒的に少ない。
わたしのクラスに所属する男子は、たったの一人。その男子生徒は、一般入試ではなく一芸一能推薦で入学したって噂だ。但し、わたしのクラスの男子がどんな一芸一能に秀でているのか興味もあるけど、話しかけづらいからまだ聞いたことがない。機会があれば声をかけてみたいとも思うんだけど、クラスに一人しかいない男子に話しかけでもすれば、自然と注目されてしまうことになるだろうし、それで返事が返ってこなかったら、わたしはただのバカだ。
「ごちそうさま」
朝食を食べ終え、わたしは満足気に手のひらを合わせる。使った食器を台所まで運び、水を浸した後、今度は階段を上って学校に行く準備を始める。と言っても、制服に着替えるだけなんだけど。軽い足取りで階段を上りきり、部屋のふすまを開く。そして寝巻き姿から制服姿に着替え終えると、壁に掛けてある大きめの鏡の前で髪の毛を整える。神楽坂学院の校則は厳しい方ではなく、髪留めやゴムは派手なものを使っている女子生徒も多々いる。
わたしは、背中まで伸ばしたストレートの黒髪を白色のゴムで結い、前髪は眉毛にかからないように横一線に切り揃えている。
「よし!」
鏡の中に映るわたしに、とびっきりの笑顔を一つ振る舞い、眠気を吹き飛ばす。
今日も一日、頑張っていこう。
わたしは自分に言い聞かせ、机の上に置いている鞄を手に取り、階段を下りる。一度、居間で朝食を取っているお母さんと弟の姿を確認し、それから玄関で靴を履く。
「行って来まーす」
元気よく声を出す。そしてわたしは、今日もまた学校に通うのだ。
※
「あっ」
学校に着いたわたしを待ち受けていたものは、一人の男子生徒。
いつもより早い時間帯ということもあり、教室にはあまり人がいないだろうと予想していた。
だけど教室のドアを開けたわたしの目に飛び込んできたもの、それが同じクラスの中で唯一言葉を交わしたことのないクラスメイトであり、教室内の付属品であるかの如く、一人で読書に勤しむ男子生徒となると、わたしも困る。
「お、おはよう!」
何も言わないで自分の席に着くのも気まずいので、わたしは挨拶だけでもかけておくことにした。普段から教室内に入る時は挨拶をするわたしだったから、今日この時だけ挨拶をしないというのも変に思われるかもしれないからだ。下手に意識していると勘違いされても困るから、一応ね。でも、あいつは――。
「……」
一瞬、わたしの方を振り向く。そしてわたしと目が合うと、すぐに視線を本へと戻してしまう。わたしの挨拶に対する返事は、無視。気まずい雰囲気にならないように気遣った結果が、これだ。朝から鬱々とした気分にさせてくれる。
「……お、おはよう! 佐久間泰之くん!」
無視されたままというのも癪なので、今度は名前を呼んでみる。さすがにこれで無視されたとなれば、わたしは嫌われているのかもしれない。だけど、彼はわたしの声に眉根を寄せたかと思うと、本から顔を上げることなく呟いた。
「うるさいな、邪魔するなよ」
素っ気ない言葉は、わたしのことを邪魔者扱いしてくれた。その台詞を耳にしたわたしは、これ以上話しかけたくないと頬を膨らませ、自分の席に着くことにした。
※
一時間目が始まり、わたしは数学の教科書に目を通しつつも、あいつのことを観察しながら暇を潰していた。今朝はあいつに無視されてしまったせいで、気分が悪かった。友達に愚痴を言おうにも、あいつと話をしたなんて告白すれば、すぐに恋愛相談へと話がすり替わってしまうこと間違いなしだったので、やめておいた。
佐久間泰之、あいつはわたしのクラスで唯一の男子生徒だ。いつも教室で一人寡黙に本を読んでいる。教室にいない時は、新たに読む本を探すために図書館内をふらついているとの目撃情報も入ってくる。気にする必要なんてないんだけど、残念ながらあいつはかっこいい。クラスメイトから話しかけられても愛想が悪いし、何事にも率先して取り組むという意思を示さない対応の悪さが目立つくせに、容姿だけは抜群に良いから性質が悪い。わたしのクラスだけでなく、同じ学年の女子生徒たちからも注目されていて、あいつを推す隠れファンクラブがあるほどだ。当然、わたしは入っていないし興味の欠片も無い。
「久々」
窓際の席に座り、外に広がる景色を眺める佐久間を横目に観察していると、ポンッと肩を叩かれ名前を呼ばれた。わたしの肩を叩いたのは、後ろの席に座る由紀だ。
「なに?」
「さっきからずっと佐久間くんのことを睨みつけてるけど、何かあったの?」
さり気無く佐久間のことを観察していたつもりが、ばれていたらしい。わたしの仕種は後ろの席に座る由紀に観察されていたということか。しかも睨みつけているだなんて。もしかしたらあいつのことを思うあまり、目が吊りあがっていたのかもしれない。
「う、ううん、違うわ。別にあいつのことなんて睨んでないから」
「本当? なんだか今日の久々はご機嫌斜めに見えるけど?」
鋭い観察眼を持つ友達に、感心してしまいそうになる。
けれども今朝の出来事を話したところで、何か進展があるわけでもない。
「もしかして恋かな?」
「だから違うってば」
授業中なので、わたしは前を向きなおし、ノートを取る。中間試験や期末試験の結果は掲示板に張り出されるので、恥ずかしい点数は取れない。
あいつは前回の中間試験で、まさかの学年ビリ。授業を聞かずに窓の外ばかり見ているんだから当然といえば当然なんだけど、全ての教科において赤点というのにはわたしも驚いた。
それでもあいつの人気がなくならないのは、やっぱりかっこいいからなんだろうか。
「ふう……」
溜息を一つ。
あいつのことを考えている時間が勿体無いので、わたしは授業に集中することにした。
※
昼休みになると、教室内は騒々しくなる。わたしは椅子を後ろに向けて由紀と向かい合わせに座って弁当を食べている。由紀もわたしと同じで、弁当だ。
神楽坂学院には購買部や学食、カフェなどが校内に完備されているけど、わたしは使ったことがない。この学校に入学してまだ間もないということもあるけど、学食やカフェは上級生御用達らしく、下級生であるわたしたちが入り込む場所ではないからだ。
「それでさ、話の続きだけど――」
由紀は目を輝かせながらわたしのことを上目遣いに見つめる。その何かを期待するような目から、わたしは視線を逸らして弁当を食べ続けている。
「久々、佐久間くんと話したんだよね?」
「……あれは話したとは言えないわ」
授業が終わり、休み時間になるたび、由紀から質問攻めにあっていたわたしは、今朝の出来事を話してしまった。
由紀とは小学校からの付き合いだし、信頼することのできる友達だ。ちょっとしたことでも由紀に勘付かれた時点で、隠し通すことなんてできない。由紀の口が堅く、秘密を絶対に漏らさないというのも理由の一つかもしれないけど、それ以前に友達として信頼しているからだ。
「ただ、わたしが話し掛けて、あいつが無視をしただけ。それだけよ」
溜息混じりの声を上げるのは、わたしだ。
そしてそんなわたしの表情を観察しているのが、由紀。
「ふむふむ。でも二度目の時は返事をしてもらったんでしょ?」
あれがわたしの挨拶に対する返事だとすれば、佐久間はとんでもなく捻くれた性格をしているに違いない。
「嫌味を言われただけだけどね」
「だとしても、それは凄いことだよ久々」
両の瞳を大きく開き、私の姿を映し出す。わたしには何がそんなに楽しいのか分からないけど、由紀にとっては一大事な出来事のようだ。
「あの佐久間くんの声を聞くことができただなんて、久々はきっと気に入られたんだね」
「……はあ?」
いまいち理解し難い由紀の台詞。わたしは今朝、佐久間の声を聞いただけなのに、なんでそれがあいつに気に入られることに繋がるんだろう。どうも話の筋が逸れているような気がする。
「だってさ、何を話し掛けても返事を返そうとしない、あの佐久間くんに返事をしてもらったんだよ? それはつまり、久々は佐久間くんから気に入られてるかもしれないってことだよ」
「なんでそうなるのよ」
邪魔者扱いされただけなのに、それがあいつに気に入られているだなんて、都合よく解釈しすぎ。現実はもっと鬱々とした雰囲気が漂っていたはずだ。少なくとも、わたしはあいつに対して腹を立てていた。
「クールで無口、容姿端麗で神楽坂学院の中でも注目の的。そして運動神経も抜群。久々からも、もっと積極的に話し掛けてみればどうかな? そしたら何か進展があるかもしれないし、そのまま二人は付き合うことになったり……」
結局、恋愛相談に話がすり替わっていた。
「わたしは別にあいつのことを好きなわけじゃないから。ただ、無視されて怒っていただけ」
由紀に勘違いされたくはないので、言い返しておく。すると由紀は、
「そういうことにしておいてあげる」
笑顔を絶やさぬまま、一人納得するのだった。
※
放課後になると、わたしは机の中身を全て鞄に入れて、帰り支度をする。だけど、今から向かう場所は、下駄箱じゃなくて図書館だ。神楽坂学院の図書館には十万冊以上の本が置かれている。わたしは小説を読むのが好きだから、週に一度は図書館に寄ってみることにしている。
一度に五冊まで借りることができるんだけど、借りていた本は全て読んでしまった。また新しく本を借りるため、わたしは鞄を持って図書館の中に足を踏み入れた。
「……」
相変わらず静かな場所だ。教室とは大違い。耳をすませば、お目当ての本を探すべく図書館内をうろつく学生の足音が響きそうだ。でも、やっぱり人がいない。
これだけの数の本が揃っているというのに、神楽坂学院の生徒たちは、何故か図書館の門を叩こうとはしない。静かな場所が苦手なわけでもあるまいし、初めて足を踏み入れた時は違和感を覚えてしまった。だけど今は、その理由を知っている。
「いらっしゃい、相良くん」
カウンター越しに声を掛けてきたのは、無精髭を生やした一人の男性。
「こんにちは、二階堂先生」
二階堂先生は神楽坂学院の図書館で司書を務めている。一見、穏やかそうに見えるんだけど、その実、怒ると恐いらしい。わたしはまだ二階堂先生が怒ったところに鉢合わせたことはないけど、神楽坂学院に通う生徒の間では鬼と呼ばれている。なんとも可哀想な話だ。
「これ、読み終えたので返しにきました」
わたしは鞄の中から本を五冊取り出し、それを二階堂先生に渡す。バーコードをチェックし終えると、二階堂先生はゆっくりと頷き、返却が無事終了したことを伝えてくれた。
「今日も人気がないですね」
「まあ、御覧の通りだね。一日に一人か二人来れば多い方だよ」
二階堂先生は肩を竦めるが、その少なさを嘆く風でもない。むしろ喜んでいるかのようだ。
「人が来れば忙しくなるからね」
怒れば、学生も近寄らなくなる。図書館としての機能を発揮することはないけれど、二階堂先生はこれで満足らしい。なんだかちょっとだけ本が可哀相だ。
「……ああ、でもそう考えると今日は来客者が多い方だね」
「わたしがいるからですか?」
「いや、相良くんの他に、もう一人先客がいるんだよ」
そう言って、二階堂先生は顎で図書館の奥を指す。それに従いわたしも視線を移してみるけど、本棚が壁になってよく見えない。借りていく本を決めたら、後で覗いてみることにしよう。
「図書館内では静かにね」
二階堂先生から一言頂戴し、わたしは小説の並べられている棚に向かった。
先週から借りようと思っていた本があるので、今日借りる予定の五冊を決めるのにはそれほど時間は掛からない。家に帰る前に駅前の本屋にも寄る予定なので、長居は無用だ。たまには図書館でゆっくり読書をしてみたいとも思うけど、それはまた次の機会にしておこうかな。
わたしは本棚から五冊の小説を手に取ると、奥で本を読んでいるらしい先客の顔を覗いていくことにした。図書館に来る生徒自体、数が少ないわけだから、多少の興味があったのかもしれない。でもその考えが間違っていたと知るのは、もう少しだけ先の話になる。顔を覗いた時点で引き返していればよかったんだけど、今朝の出来事が尾を引いていたんだと思う。
つい、わたしは話し掛けてしまった。リベンジの意味を込めて。
図書館の奥で本を読むあいつの姿を見た瞬間、わたしの頭は真っ白になっていたはずだ。
そう、そこには佐久間泰之がいた。
本の虫、と表現した方がいいのだろうか。あいつは、わたしがそばにいることに気づいていないのではないかと思うほど静かだった。静寂が支配する館内に響き渡るのは、わたしとあいつの息遣いと、時折り捲るページの擦れる音だけ。いや、あいつのことだから、きっとわたしがいることにも気がついているはずだ。それを承知で、わざと無視しているに違いない。
でもちょっと待って、これは別に無視をしているわけでもない気がする。本を読んでいた佐久間のそばにわたしが近づいただけで、別に顔を上げる必要もなければ話しかける理由もないわけで、つまりその、特に問題はないということになるのかな。
都合の良い解釈をしようとしているわけではないんだけど、あいつの姿を見ているだけで、徐々にではあるけど、わたしの頭の中がこんがらがってくるのを感じた。すると、
「――ん?」
佐久間が、顔を上げた。そしてわたしのことを、見た。
「あっ……」
思わず声が漏れる。何だかんだで、顔はかっこいいんだから、条件反射的のようにドキリとしてしまったのがちょっと悔しい。
本から視線を外した佐久間は、わたしの顔を見上げたまま動かなくなってしまった。眉間に皺を寄せて、何か考え事でもしているような表情を作っている。そして徐に、口を開いた。
「……ああ、あんたか」
ぽつりと呟いたのは、またしても癪に障る言葉。
あいつはそれだけ言い捨てると、すぐに視線を本へと戻してしまう。その態度から察するに、わたしなど、ここにいてもいなくても同じようなものらしい。
何か言い返したい。そしてあいつの悔しがる顔を見てみたい。そんな気分だった。
そして、わたしの視線が佐久間の読んでいる本に移った時、それができると確信した。
「ねえ」
わたしは、佐久間に声を掛ける。しかし当然の如く、佐久間は返事をしようとしない。
だけどそんなことくらい、承知の上だ。わたしの意地悪は、これから始まるんだから。
「あんたが今読んでいるその本、『脳裏的な彼女』でしょう?」
わたしの台詞に、ほんの僅かだったけれども、佐久間は反応した。誰だってそうだと思うけど、今自分が読んでいる本について話しかけられたら、相手に対して興味を抱くはず。
予想通り、佐久間はわたしの台詞に反応してくれた。さすがに返事はしてくれなかったけど、これだけでも十分な成果だとわたしは思う。しかし、わたしの狙いはそれだけじゃない。
今朝の仕返しをするには、もう一声必要だったから、更に言葉を続ける。
「その本なら、わたしも読んだことあるわ。哀しい話よね。だって主人公の男の子が――」
その台詞の先に続く言葉は、佐久間が今手にしている小説の結末だ。
確かに、わたしはとんでもなく意地悪なことをしてしまったのかもしれない。まだ読んでいる途中だというのに、その小説の結末を先に教えてしまったんだ。
静寂が支配していたはずの館内は、わたしの演説じみた台詞に圧倒されていた。あいつが口を挟む隙すらも与えないように、ただひたすらに喋り続けた。そして館内に再び静寂が戻ってきた頃、わたしは満足気に佐久間の顔を見下ろす。佐久間は、まだ本に視線を向けている。しかし本を持つ手がページを捲るようなことはなく、同じページを開き続けていた。
「……」
急に、心配になってきた。さすがに物語の結末を教えてしまうというのは、やり過ぎだったかな。わたしが、もしそんなことをされたら、多分怒ると思う。そしてその本を読む気がなくなってしまうだろう。でもそれがわたしの狙いだったし、あいつに無視されたことに対する仕返しなんだから後悔してはいけない。これでおあいこ。何か文句を言われても、無視されたことを理由に反撃すればいい。うん、そうしよう。
佐久間は開いていた本を閉じると、それを机の上に置く。そして椅子からゆっくりと立ち上がり、わたしと向き合った。頭一つ分、背の高い男子生徒が、目の前にいる。
何を言われるか分からない。わたしは少しだけ身構えた。運動神経なら、負けない。
だけど佐久間は、わたしにとって予想外の台詞を口にした。
「それで?」
「……へっ?」
あいつの顔を窺う。その表情に、険はなかった。
怒ってなどいない、普段通りの無表情が、そこにある。
「え、あ、えっと……」
言葉に詰まる。わたしが優位に立っていたはずなのに、佐久間の発したたった一言で、わたしの頭の中は再び真っ白になってしまった。
「け、結末を知っても、まだ読む気?」
苦し紛れに吐いたわたしの台詞。これもあいつの返す言葉によって、意味をなくしてしまう。
「当たり前だ。結末を知ってしまったから読むのをやめる、そいつはただの間抜けだ。小説の世界にはな、一つの物語が創造されているんだよ。だから一度読み始めたら、最後まで読み通すのが読者としての礼儀だろ」
それが当然であるかのように、佐久間は告げた。何も言い返すことができなくなってしまったわたしには、黙り込んでしまうしか道は残されていない。暫しの沈黙。そしてわたしは、
「……ご、ごめん」
佐久間に、謝っていた。
※
「何がだ?」
わたしがあいつに謝ってから、またしても静寂が支配する。館内にいるのがわたしとあいつ、そして二階堂先生だけとはいえ、これだけ声が響き渡るのは少々恥ずかしいものがある。
そんな中、佐久間が声を出す。わたしが何故謝ったのか、理解していないみたい。
「その本の結末、教えちゃったでしょ……」
机の上に置いてある小説を指差し、わたしは申し訳なさそうに口を開く。すると佐久間は、「ああ……」と言葉を漏らしつつ、それを手に取った。
「別に関係ない。これを読むのは七度目だからな」
「な、七度目ですって?」
本を開き、佐久間はページを捲る。
「それじゃあ……その本の結末も、最初から知っていたわけ?」
佐久間の言っていることが本当なら、わたしは謝り損かもしれない。
「そういうことになるな」
わたしの問いかけに、佐久間は得意げに言葉を返す。そこで初めて、笑みを浮かべた。
「――ッ」
いつも無表情だったあいつの笑みは、なんだか不思議な感じだ。誰も見たことのない、佐久間の笑った顔。学校では笑うことはおろか、言葉を交わすことさえ稀な存在として認識されているだけに、これは凄いことなのかもしれない。
わたしも、その笑みを見て、つい視線を逸らしてしまった。
「なっ、七回は読みすぎでしょ!」
これも、目が泳いでいることを悟られないために搾り出した苦し紛れの一言だ。
「面白い本なら、何度読んでもその世界に引き込まれるし、共感できると思うんだが」
「うぐっ、それはそうだけど……」
また、言葉に詰まった。普段喋りなれていない人と話すのは難しいものだとは思っていたけど、あいつの場合は群を抜いている。目を見れない。何故か恥ずかしい。
「それはそうだけど、何だ?」
問い詰めてこないでほしい。何も言い返せないことくらい、この場の雰囲気で察しようものだ。……ああ、そういえばあいつ、頭は悪いんだったっけ。
「ひ、秘密よ、秘密ッ」
我ながら、何が秘密なのかよく分からない。
「女の子にはね、秘密が多いの! だから男は詮索しないこと! いいわね?」
何がいいのか、わたし自身に問いかけてみたい気分だ。だけどあいつは、わたしの台詞を理解したのかしていないのか、小さく頷いてくれた。
「……ふう」
安堵の溜息なのか分からないけど、一先ずは安心だ。
ようやく一息吐けると思ったのも束の間、今度は佐久間から話し掛けてきた。
「お前って面白いな」
「面白いなんて言われても嬉しくない!」
「それじゃあ、可愛いって言われた方が良かったか?」
真顔でそんな台詞を吐かないでほしい。
「う、うるさいわね……」
そこでもう一度、佐久間が笑った。
「な、何よ? 何を笑ってんのよ?」
「いや……やっぱりお前、面白いやつだな」
館内ということもあって多少は笑うのを堪えているようだけど、笑い声は漏れ、静寂はいつの間にか消えていた。今朝の出来事もあって、わたしは佐久間のことが嫌いなはずだったのに、恥ずかしがりながらもしっかりと言葉を交わしていることに驚いた。
無口でクールな印象しかなかったけど、その認識も改めなくちゃいけないみたい。話が合えばだけど、無口なんかじゃないし、クールでもない。わたしと同じ、普通の高校生だ。
「もう、帰る!」
「んじゃあ、俺も帰るかな」
「ついてくんな!」
「出口はこっちだからな。お前について行ってるわけじゃない」
そう言いつつ、こいつは微笑を浮かべている。冷やかされているのか調子に乗られているのかよく分からない。一体、どこの誰が佐久間のことを無口でクールだと噂したんだろう。まったく違うじゃない。
「それに、俺はこれから用事がある。時間になるまで図書館で暇を潰していただけだからな」
だからどうした、と言いそうになって、わたしは言葉を飲み込んだ。ちょっとした好奇心は、些細なことから生まれてくる。
「用事? ……あんた、これから何があるの?」
わたしが眉をひそめて問いかけてみると、佐久間は少しだけ喉を詰まらせる。どうやら言うべきか迷っているらしい。
「教えなさいよ」
押しの一言。わたしの迫力を前に、佐久間は一歩後退する。すかさずわたしも一歩前に出て、距離を縮める。さっきはいいようにあしらわれてしまったんだから、これはお返しだ。
「……絶対に、誰にも言わないか?」
「? う、うん。もちろんよ」
絶対、と言われて驚く。たかが何の用事があるのか聞きだすだけなのに、何故そこまで慎重にならなくちゃいけないのか。
「それと……絶対に、笑わないって誓うか?」
「あんたの用事って、わたしが笑うようなものなの?」
「そういうわけじゃないが……なんというか、その、男がするようなことじゃないという印象がだな……」
尻すぼみになっていく佐久間の台詞。なんだか無性に気になる。これは絶対に聞いておくべきだ。わたしは、今朝自分の部屋の鏡にしてみせたように満面の笑みを作り、佐久間に言う。
「あんた自身が、あんたの用事を笑うようなことなんかじゃないって思ってるなら、言えばいいじゃない。それに、わたしは笑ったりしないって誓うし、誰にも言わないって約束するわ」
「……そう、か。それならお前にだけ教えるぞ。俺はこれから――」
その先の言葉を発する前に、佐久間は口を閉じてしまった。やっぱり言うのが恥ずかしいのかな。だけど、それは恥ずかしくて言えなかったのではなくて、わたしとあいつの間に妨害が入ってしまったからだった。
「あ」
佐久間が、わたしの後ろを指差す。
「ん?」
そして振り向き様に見たもの、それは――。
「二人とも、覚悟はできているね?」
指の骨を鳴らしながら鬼の形相で微笑みかける、二階堂先生の姿だった。
※
「ただいまー」
本屋に寄るのを思い出したのは玄関の前だった。
階段を上ってふすまを開き、自分の部屋に辿り着くと同時に、布団へ寝転がる。
「ふわあ……」
今日は疲れた。色々あったから。
結局、あの後は二階堂先生から逃げるのに必死で、あいつが何の用事があるのか聞き出すことはできなかった。教えてもらえるはずだっただけに、非常に残念な気分だ。
館内で騒ぐと、鬼が出る。なるほどなるほど、だから図書館には誰も足を踏み入れようとしないんだ。佐久間が囮になって二階堂先生を引き付けていてくれたから、わたしは図書館から逃げ出すことができた。だけどあいつは無事に脱出することができたのかな。
「……大丈夫かな」
天井に訊ねてみる。もちろん、返事など期待していない。相手はあいつよりも無口なんだからね。もし二階堂先生に捕まって、用事に間に合わなかったら、わたしのせいになるのかな。
自業自得とも言いがたいよね。微妙なラインだ。
「んー、悩んでてもしかたないか」
今日は英語の宿題が出ていたはず。
夕食の時間までまだあるから、今のうちに片付けておくことにしよう。
※
翌日。昨日のわたしは早起きしすぎた。あれは普段のわたしではない。そう、つまりいつも通りのわたしというのは、登校時間ギリギリになって学校に到着する生徒だ。
朝が苦手なので、二度寝は当たり前。目覚まし時計を掛けていても寝ているうちに止めてしまうから役に立たない。それでも未だに遅刻をしたことがないのは、運が良いのかもしれない。
わたしは駆け足で神楽坂学院の正門をくぐると、下駄箱で靴から上履きに履き替えて教室へと急ぐ。廊下を走る姿を先生に見られないように気をつけながら。
「おっはよー」
教室のドアを開けて、朝の挨拶をする。するとクラスメイトたちは当然のように返事を返してくれる。クラスメイトとの仲が良いというのはいいことだよね。
「今日もギリギリだったね、久々」
席に着いて背伸びをしていると、後ろの席に座る由紀から声を掛けられた。
「うん。遅刻だけはしたくないからね」
それならもっと早く起きればいいだけの話なんだけど、それができないからわたしは毎朝この調子なのだ。もっとも、朝から神楽坂学院まで続く通学路を全速力で走るのも嫌いじゃないから構わないんだけど。
「一時間目って何の授業だったっけ?」
わたしは椅子の背に寄りかかり、後ろに座る由紀を見る。
視界に映るのは、逆さまの由紀と、逆さまの――、
「ふぁっ?」
素っ頓狂な声を上げたのは、わたしだ。寄りかかっていた椅子が倒れ、由紀の机に頭を打ってしまったから。だけどその原因を作ったのは、由紀の後ろに立ったまま、わたしのことを見下ろす、あいつのせい。
「え? あれ、佐久間くん?」
由紀も気づいたらしい。わたしは倒れたまま、佐久間の顔を見る。
「……見えてるぞ」
見えてる? 何が?
わたしは反問しようとして、その言葉の真意に気づいた。
「く、久々ぅ……」
由紀が顔を真っ赤にさせて、わたしと佐久間のことを交互に見やる。その仕種だけで、何が見えているのか理解した。つまりわたしは、椅子と一緒に倒れた拍子に、下着が見えてしまっているということだ。
「み、見るなバカスケベ!」
慌てて立ち上がり、スカートを整える。今日ってどんなの穿いていたっけ? というかなんで佐久間がここにいるの、窓際の席のはずでしょ。わたしと由紀の席は廊下側なのに。
「な、何よ? わたしに何か用なの?」
恥ずかしさを紛らわすため、口調がきつめになっているのはご愛嬌だと思ってほしい。
わたしは佐久間の目を見ることなく言う。
すると佐久間は、その言葉を待っていましたと言わんばかりの表情を見せる。飄々としているように見えるけど、実際には何も考えていないだけのバカなのかもしれない。
「ああ、一つ聞きたいことがある」
「何よ」
ようやくわたしが視線を合わせると、それが合図かのように口を開く。
「名前、教えろよ」
佐久間がその台詞を口にした次の瞬間、クラスメイトは全員驚いていた。
「わたしの名前?」
「ああ」
そもそもクラスメイトたちは、佐久間が喋るところをほとんど見たことないんだから、声を聞くだけでも驚きものだろう。それに加え、今回に至っては、わたしの名前を教えろときたものだ。さすがにこれは驚かざるを得ないのかもしれない。
「あんたねえ……わたしとあんたは同じクラスでしょ! クラスメイトの名前くらい憶えておきなさいよね!」
「憶えなくても支障はないからな」
すまし顔でそんなことを言う。
この分だと、こいつはわたし以外のクラスメイトの名前も知らないみたいだ。
「久々よ。わたしの名前は、相良久々!」
大きな溜息を吐いた後、わたしは自分の名前を告げる。
「相良久々だな。俺は――」
「佐久間泰之でしょ? わたしはあんたと違ってクラスメイトの名前は全部憶えてるの」
「だが試験には出ないぞ」
「中間試験で最下位のあんたに言われたくないわね」
「まあいいか。お前の名前、憶えておくよ」
佐久間は自分の席に戻っていく。その後姿は、普段のあいつよりも明るく見えた。
「まったく、もう……」
やれやれ、とわたしが椅子を立て直して腰を掛ける。
すると直後、わたしの周りにクラスメイトたちが一斉に集まってきた。その目的はもちろん、あいつとどうやって話すことができるようになったのかについてだ。
今日一日、この分だとわたしはあいつとの関係を否定するのに必死になりそう。窓際の席に座って本を読むあいつの姿を一度だけ視界に捉え、わたしはそれから深い溜息を吐いた。
※
「先日は館内で騒いでしまって、申し訳ありませんでした」
昼休みに入り、わたしは図書館へと足を運んだ。
ここでわたしがあいつと言葉を交わしてから、丁度一週間が経った。
先週借りていた本は、あっという間に読んでしまったので、新しい本を貸し出してもらうついでに、二階堂先生にも謝っておくことに決めていた。
「反省しているなら、それで良し。でも今度騒いだら……判るね?」
「は、はい」
その笑顔が、わたしに脅しかけているようで恐ろしい。でも、普段は優しくて気さくな先生なんだから、館内で騒いだりしなければなんてことはない。
わたしは借りていた本を返却し、新しい本を借りるために館内をうろつき始める。二階堂先生の話によると、佐久間も二階堂先生の追跡から無事に逃れることができたらしい。大事な用事もあったみたいだし、これで一安心だ。
「今日は何を借りようかな」
一週間に一度訪れる図書館。この行為は、神楽坂学院に入学して以来、わたしにとって習慣となっている。朝の空いた時間だったり、中休みや昼休み、放課後だったりと、行く時間は都度異なる。
館内には人もいないし、それはそのまま本を借りる人も少ないということに繋がる。だからほしい本が借りられているなんてことは、ほとんどありえない。
「んー、……あれ?」
わたしは館内の隅奥の本棚の前に立ち、上から二段目の棚に視線を彷徨わせる。
「ここにあったはずなんだけどな……」
先週、館内であいつと言葉を交わす直前、借りたいと思っていた本がもう一冊だけあった。
既に借りる本が五冊に達していたので諦めたんだけど、置いていたはずの場所にその本が置いてない。
「うーん、おっかしいな……。誰かに借りられたのかな?」
残念だけど、本棚に置いていないということは、誰かに借りられてしまったということだろう。返却されるまで我慢しなくちゃならないみたいだ。仕方がないから違う本を借りることにしようかな。そう思い、別の棚を見ようとその場から動こうとした時、不意に肩を叩かれた。
「よう、相良」
振り向いてみれば、そこに立っていたのは佐久間だ。
「ちょっと、びっくりしたじゃない。驚かさないでよね」
「気づかないお前が悪い」
なんでわたしが悪いのよ。こいつの言動には、つい突っ込みを入れたくなる。わたしは唇を尖らせつつ、佐久間の顔を見上げる。
「あんた、また図書館に来たの?」
「ああ。今日も用事があるからな」
佐久間の用事。そういえば、先週も同じ曜日だった。この曜日には、用事があるらしい。
「あんたって、用事のある日はいつも図書館に来てたの?」
「そうじゃない日も来るぞ。たとえば今みたいに昼休みとかな」
全く気付いていなかった。
だとすれば、今までもすれ違うぐらいのことはあったのかもしれない。
「ふうん……。騒いだりして二階堂先生を怒らせないでよね」
「それはお前にも言えることだがな」
減らず口を叩くやつめ。わたしは腕を組み、目を細める。何か話すことはなかっただろうかと思考を巡らせてみる。そして、先週聞き逃していたことを思い出した。
「あ、ねえ! あんたの用事って何なの?」
「秘密だ」
佐久間がそう言った瞬間、足を踏む。とりあえず軽めに。
「おい、踏むな」
「あんたが教えないからでしょ」
「男にだって秘密があるんだよ。憶えておくと便利だぞ」
「先週、教えてくれるって言ったでしょ!」
「記憶に――」
「無いわけないわよね?」
制服の襟首を掴んだ。この体勢、不良な女子生徒が、同級生であり同じクラスメイトの男子生徒を脅しているようにしか見えないかな。どうせ図書館に来る生徒なんて稀なんだから構わないけどさ。
「ほら、言いなさいよ」
「む、くっ……。言うから手を放せ。そして足を退けろ。それからもう少し声のトーンを落とせ。また二階堂に怒られたいのかよ?」
それはもう二度と御免だ。わたしは襟首を掴んでいた手の力を緩め、踏んでいた足を退ける。
「さあ、言いなさいな」
きっと、わたしの目は輝いていたことだろう。その証拠に、佐久間のわたしを見る目が、嫌なやつに捕まってしまったと言いたげだった。
「先週も言ったが、絶対に誰にも教えたりするなよな」
「しないしない! さあ、早く」
コホンッ、と咳をする。どうにもわざとらしい仕種だ。
わたしから視線を外して、周りに聞こえないように小さな声で呟く。といっても、ここには二人しかいない。二階堂先生の姿は見えないんだから、それほど慎重になる必要があるのかな。
「…………ジャズ、ダンスだ」
「ジャズダンス?」
その言葉を、口にする。すると佐久間は、小さく頷いてみせた。どうやら聞き間違いではないらしい。佐久間が誰にも教えたくなかった秘密の用事とは、ジャズダンスのことだった。
「あんたが……ジャズダンス?」
「ああ」
「習ってるの?」
「ああ、そうだ」
「……嘘じゃないでしょうね?」
「嘘を吐く理由がないだろ」
だよね。
わたしは一人で勝手に納得し、改めて佐久間のことを見てみる。
佐久間は、確かに運動神経抜群だ。頭の出来は良い方ではないみたいだけど、身体能力ならばわたしよりも遥かに上をいっている。そしてそれは体育の時間にいかんなく発揮されていた。
「ジャズダンスって、何をするの?」
「その名の通りだ。踊るんだよ」
「あんたが?」
頷く。いまいち信用ならないんだけど、恥ずかしそうに告白する佐久間の表情からは、嘘を言っているようには見えない。だからきっと、佐久間がジャズダンスを習っているというのは本当のことなんだろう。
「あんたがジャズダンスねえ……」
しかし、似合わないにも程がある。
神楽坂学院では無口でクール、寡黙な男子生徒で通っている佐久間が、ジャズダンスを習っている。いきなりそんなことを告白されて、ほいほい信じられようものなら、その人は人を疑うことを知らないに違いない。
「うーん……。あんたのことを疑うわけじゃないけどさ、本当に踊れるの?」
完璧に疑っているわけだけど、口ではなんとでも言えるから、わたしは訊ねてみた。
「信じないのか?」
「そうね、この目で見ないことには……」
というのは言い訳だ。実際のところ、わたしは佐久間が嘘を吐いているとは思っていない。
ならば何故、佐久間のことを疑うような台詞を口にしているのかと言うと、それは至極単純な答えだ。佐久間の踊っている姿を、見てみたい。それがわたしの胸に渦巻いている正体。
「それなら見に来ればいい」
案の定、佐久間はわたしの挑発に乗ってきた。やっぱり単純な性格をしている。
「見に来いって……あんたがジャズダンスを踊るのを?」
「ああ。見学なら部外者がスタジオに入るのも許されるからな」
部外者、ときたものだ。まあ、確かにわたしは関係者ではないけどさ。スタジオというからには、それなりに広い場所なのかもしれない。
「わかったわ。今日はジャズダンスを習いに行くのよね? それなら、ついて行く」
わたしの台詞に、佐久間は不敵な笑みを浮かべた。なんだかムカつく。自信満々なその表情は、わたしに一泡吹かせることができるとでも思っているのかもしれない。
「それじゃあ放課後、十七時に河川敷の橋の下でいいか」
「え? 待ち合わせるつもり? 学校が終わったらそのまま一緒に行けばいいじゃない」
「他の奴に見られたら困るだろ」
「! ……ふーん、わたしと二人で帰るの恥ずかしいんだ?」
「自意識過剰だぞ。俺は秘密を知られるのが嫌なだけだ」
あぁ、そういうことね。
少しがっかりしたのは、わたしの秘密ってことで。
佐久間は、手に持っていた本を小脇に抱え、一人で図書館から出て行こうとする。
「あ、ちょっと待ちなさいよ! ……ん?」
そしてその後を追いかけようとして、わたしは歩むのを止めた。あいつが持っていた本のタイトルが見えたからだ。
「……やっぱり」
佐久間が持っていたのは、わたしが借りようと思っていた本だった。本棚に置いてなかったから誰かに借りられているとは思っていたけれど、借りていたのは佐久間だったんだ。
※
「お待たせ、……って」
その日の放課後。
佐久間が教室を出て行くのを目の端で確認し、わたしも急ぎ足で家路に着いた。そして私服に着替えると、すぐに目的地へと向かった。
待ち合わせ場所の橋の下には、既に先客がいた。それはもちろん佐久間だ。
傍に自転車を停めて腰掛けるあいつは、のんびりと読書に励んでいた。
「その本、面白い?」
佐久間の横に座り、訊ねてみる。
別に意図したわけではないけど、それが佐久間には引っかかったらしい。
「……お前、また結末を言うつもりじゃないだろうな?」
「違うってば。わたしもまだ読んでないやつだから気になっただけよ」
「それなら安心した」
ほう、と一つ息を吐いて、佐久間はわたしを見る。
「あの時はカッコつけたことを言ったが、結末を知らずに読めるならその方がいいからな」
「ってことは、それは初めて読む本なのね?」
「ああ。まだ途中だが面白いぞ。読み終わったら、次借りるか?」
「もちろんよ」
そう言って笑うと、佐久間は少したじろぐような表情を見せた。
けれどもすぐに視線を逸らし、本を閉じて立ち上がる。
「もうすぐ、梅雨が来るな」
四月の肌寒い頃と比べ、この時期は格段に過ごしやすくなっている。だけど梅雨がくれば雨が降り、気温も四月並みに下がることだろう。体調管理に気をつけなくちゃいけない。
一度家に帰ったわたしたちは、私服姿で肩を並べて歩いている。なんだか不思議な気分だ。
佐久間の通うダンススクールは神楽坂の駅から五分程歩いたところにあるらしく、わたしの家と学校を結ぶ通学路として、普段から通っている場所だ。
「それで、スタジオはどこら辺にあるの?」
「もうすぐ着く」
だから我慢しろ。素っ気なく言い捨て、大またで進んでいく。
わたしも負けずと佐久間の歩幅に合わせ、ついて行く。そして、
「……んん?」
どこからともなく、音楽が聴こえてきた。
思わず、その場に立ち止まる。わたしが足を止めると、佐久間が振り返る。
「どうした?」
返事をする代わりに、辺りを見回した。この音楽、どこから流れてきているのかな。
「音楽が聴こえる」
「音楽だ?」
「うん。日本語じゃないみたいだけど……」
わたしは、自分の耳に聴こえてくる微かなメロディだけを頼りに、音の在り処を探す。
「……ああ、この音か」
佐久間の耳にも届いたらしい。音楽を聴いて、なるほどと頷く。どうやら佐久間には、この音楽がどこから流れているのか分かっているみたいだ。
「こっちだ」
「あっ……」
佐久間は、わたしの手を取り、入り組んだ路地に入っていく。
少し驚いたけど、違和など感じない。自然な仕種だ。だからわたしは、その手を払おうとはしなかったし、佐久間に手を引かれて歩いていく。そして、音楽の流れる場所を見つけた。
「ここ、なに?」
小首を傾げてみせる。わたしは、目の前に聳え立つ立派な建物を見上げて呟いた。
開かれた窓から流れくる音楽は、リズムカルのある曲調だ。
「さてと」
佐久間は手を離すと、建物の入り口に立ち、わたしと向かい合う。そして芝居がかった口調で台詞を口にする。
「我がダンススクールへ、ようこそ」
「ここが、あんたの通っているダンススクールなの?」
わたしが訊ねると、佐久間は頷く。ドアを開くと、手招きをして中に入れと合図する。
わたしは佐久間に従い、建物の中に入ってみる。そして、その光景を目にして、ほんの一瞬だけ息をとめた。
「す、凄い……」
建物の中は、ダンススタジオと呼ばれるに相応しい構造をしていた。
わたしが今、立っている場所。それはこの建物からすれば一階に当たるのかもしれないけど、中に入ってみれば二階と言い表した方が正しい。建物の中には、吹き抜けの地下があった。一階はマンションのベランダのように手すりがついていて、下に落ちないようになっている。そして地下の部屋は、壁一面鏡張りになっていた。天井に取り付けられたスピーカーから流れ出る音楽に合わせて、ダンスを踊る人が十数人。鏡に映る自分自身の姿を確認しながら、華麗に舞っている。わたしの目には、その何れもが美しくみえた。
「今、スタジオ内で練習しているのは中級クラスの奴らだな」
佐久間はわたしの隣に並び、スタジオ内で踊る人たちのことを教える。
「中級クラス? ……ということは、あの人たちよりも上手なクラスがあるってこと?」
「もちろんだ。上級クラスの練習は中級クラスとは比べ物にならないからな」
自慢げに言葉を返す。別に佐久間のことを褒めたわけじゃないんだけどな。
「椅子持ってくるからそこで待ってろ」
「う、うん」
佐久間はわたしを置いてスタジオの奥に行ってしまった。
一人残されたわたしは、あいつの背中が見えなくなると、再び地下で踊る中級クラスの人達のことを見学する。上手に踊るものだと感心してしまう。
「それにしても……広いなぁ……」
五十人程度が間隔を取ってゆっくりとすることのできるほどの広さだ。ダンスを踊るためだけに用意された場所、それが今わたしのいるところなんだと実感する。スタジオ内には二階に続く階段もあるので、もしかしたら二階にも踊るスペースがあるのかもしれない。
「ほらよ」
地下で踊る人達を見下ろしていると、スタジオの奥から佐久間が椅子を持って戻ってきた。
「ありがと」
わたしは椅子を一つ受け取り、組み立てる。佐久間はわたしの横に座った。
「で、どうだ?」
「? 何がよ?」
「感想だよ、感想」
呆れたように言う。スタジオの中にまで入っておいて、それくらいのことは聞かなくても分かるだろうと言いたげな表情だ。
「感想ね……」
但し、わたしはまだ感想を言うべきではない。
何故なら、まだ佐久間が踊るところを見ていないから。
「あんたが踊るのを見てから、言うわ」
「……そう、か」
それなら、俺が踊るまで待っていろ、と態度で示してきた。堂々としているように見えるけど、実際は緊張しているのかもしれない。同級生の前でダンスを踊るんだから、当然といえば当然だ。緊張しない方がおかしい。でも、佐久間の態度には、不安や恐れなど微塵も感じさせない。わたしの前でダンスを踊ることに対し、何らかの自信があるように思える。もしかして佐久間は踊るのが上手なんだろうか。
「さて……ただ見てるってのも暇だろうからな、少し説明をしておく」
閉じていた口を開くと、佐久間は地下で踊る中級クラスの人達を指差して言った。
「ここのダンススクールでは、一つのクラスにつき二時間の練習を受けることができる。下で踊る中級クラスの奴らの練習時間はあと少しで終わりだから、既に曲の振り付けに入っているわけだが……先ずは各々でストレッチから始めて、身体を柔らかくしておく必要があるな」
「ふーん」
わたしが頷いてみせると、更に説明を続けていく。
「ストレッチが終わったら、今度は基本的なステップの練習だ。適当に音楽を流して、幾つかのステップを繋ぎ合わせて一つの流れを作っていくんだ。そして最後に練習するのが、振り付けだ。今、中級クラスがやっているように、音楽に振りをつけて踊るわけだな」
まさかこんなに饒舌になるとは思ってもみなかったけど、わたしに説明をする佐久間の顔は、とても明るくて、もの凄く楽しそうに見えた。
「……おい、聞いてるか?」
「え? あ、うん。もちろんよ」
誤魔化しつつ、わたしは視線を逸らす。
「それで、あんたが踊るのはいつなの?」
「中級クラスが終わった後、次のクラスの練習が始まる。それが俺のクラスだから待ってろ」
「ん、了解よ」
中級クラスの練習も終了時間を迎え、地下で踊っていた人達は二階へと上がっていく。地下に残っているのは、中級クラスの人達に振り付けの指導を行なっていた講師と、中級クラスと入れ替わるようにして姿を現した人たち。
「へえ……」
本当に、踊るんだ。教室の窓際の席に座り、いつだって本を読んでいた佐久間。それが今、これから始まるであろうダンスの練習のため、地下にいた。
「なんだか変な感じ……」
同級生の、それも女の子ではなくて男の子が、ジャズダンスを踊るというのだから、不思議な気分だ。あいつがダンスを踊るのが下手だったとしても、それはそれで見ていて飽きることはない。これから二時間、佐久間が頑張る姿をしっかりと見ていよう。
講師の先生が声を張り上げる。二階にいる生徒は、下りてきてストレッチの準備をしなさいと。その声につられて、階段から下りてくる人たち。もうすぐ始まるらしい。わたしはワクワクしながらその時が訪れるのを待った。その後、講師が言った台詞に、わたしは驚愕する。
上級クラスの練習を、始めます。
わたしは、佐久間の姿を目で追った。すると佐久間は、わたしの方を見上げ、悪戯な笑みを浮かべてみせる。なるほど、だからあいつは自信があったんだ。
佐久間の通っているクラスは、一番上の上級クラスだった。
※
上級クラスの練習が始まった。一階から地下を眺めるわたしの視界に映るのは、広いスタジオ内であるにも関わらず、十人にも満たない人達が十分な間隔を取って鏡と向き合っている光景だった。一人前列に立つ講師がリモコンらしきものを操作すると、スタジオの四方の天井にそれぞれ設置されてあるスピーカーから音楽が流れ始めた。クラシックな感じの曲調で、その音に合わせて上級クラスの人たちはストレッチを開始する。
先ず驚いたのは、講師が指示を出すことなく上級クラスの人達全員が同じ動きでストレッチを行なっている光景。それはつまり、スタジオ内に響き渡る音楽を耳にするだけで、自分がするべきストレッチの内容を把握しているわけであって、講師が指示を出す手間が省けて時間を短縮できるということ。佐久間は、講師の斜め後ろの二列目に並んで、みんなと同じようにストレッチをこなしている。予想していたよりもあいつの身体は柔らかく、他の人たちと比べても劣っていない。表情を見ても神楽坂学院でのそれとは異なり、生き生きとしている。
「別人みたい……」
改めて、そう思う。壁に掛けてある掲示板に目を通してみれば、そこにはダンスの各クラスについて表が作られていた。一番上のクラスから上級、中級、初中級、初級、そしてストレッチクラスとある。他にも、ジャズダンスではないヒップホップ専門のクラスや、バレエのクラスなど、ダンスの種類によってクラスが選べるようになっていた。
ダンスのクラス表の横に張ってある紙には、各クラスの練習時間帯や曜日、ダンスチケットの料金表やお知らせなどについて書かれてある。なんだか複雑そうだ。
「うーん……」
しかし二時間もこのままでいるのは少々退屈かもしれない。あいつみたいに動いている分には構わないだろうけど、椅子に座ったまま、ただじっと黙って見学しなければならないわたしからすれば、これは我慢するには辛い状況だ。
元々、身体を動かすことが好きだから、他の人たちがストレッチをしているのを見ているだけというのが合わない体質なんだろう。長時間座りっぱなしでお尻が痛くならないように座り直してみたり、体勢を変えたりしながら見学をする。やがて、三十分ほど時間が経つと、佐久間たちはストレッチをやめた。どうやらストレッチが終わったらしい。こっちは座ったまま動けないから身体が硬くなってしまった。これから、五分の休憩を挟み、今度は基本ステップの練習に移るようだ。その休憩の間に、佐久間は階段を上ってわたしのところへやって来た。
「身体、柔らかいのね」
「まあな」
照れた様子もなく、佐久間は淡々と返事をして、椅子には座らず床に座って靴を履き始めた。
「スタジオの中で靴を履いていいの?」
何気なく聞いてみる。すると佐久間は、眉を寄せてわたしの顔を見る。
「これはダンスシューズだ。踊るんだから靴を履くのは当然だろ」
「あ、なるほどね」
納得する。
「阿呆はこれだから……」
何を言っているんだ、と言いたげな表情を浮かべている。そんなこと言われても、わたしは初めて見学に来たんだから、佐久間にとっては常識的なことでも、わたしからすれば知らないことなのだ。
「あんたに阿呆呼ばわりされる日がくるとは思ってなかったわね」
わたしは怒らず、肩を竦めるだけ。佐久間のことを見なおしたのは事実だし、今は何も言い返さないでおこう。靴を履き終えた佐久間は、水筒のコップにお茶を注ぎ、それに口をつける。
「お前も飲むか?」
「遠慮しておくわ」
休憩も終わり、次は基本ステップの練習が始まると、佐久間は階段を下りていく。講師がリモコンを操作すると、今度はクラシックな音楽ではなく、ロック系の曲調に変わった。
ここにきて初めて、講師が指示を出す。佐久間と上級クラスの人たちはその指示に従い、スタジオ内の端に移動した。何が始まるのかと思ったら、先ず講師がお手本を見せるように上手から下手に向かってステップを踏んでいく。
「わあぁ……」
わたしはその姿を目で追った。だけど動きが早すぎる。ステップの一つ一つは滑らかで簡単そうに見えるのに、それらを繋ぎ合わせて一つの流れを作ってしまえば、点から線に変化する。
動かしているのは足だけでなく、両手を思い切り伸ばしたり天井に突き出したりして、華麗にターンをしてみせる。上手から下手へステップを踏み終えると、今度は佐久間たちが踊る番だ。あいつが一歩前に出て、小さく息を吸う。そして真っ直ぐに前を見つめたかと思うと、音楽に合わせてそのまま足を動かす。すると、軽やかな足取りでスタジオの端から端へと移動していく。あれが、神楽坂学院ではいつも読書をしているあいつの本当の姿。
「……格好いい」
いつの間にか、わたしの口から漏れていた声。その声は、あいつを褒める台詞を吐いていた。
佐久間に続き、列を作って並んでいた人たちが一人ずつ、同じステップを踏んでいく。そのステップもまた、全てにおいて完璧にみえてしまうほどの動きをしていた。
基本的なステップの練習といえど、あいつが通うのは上級クラスなのだ。このダンススクールで一番上手な人たちが集まるクラスなんだから、当然のように基本的なステップ練習でさえも難易度が高くなる。初見で踊れなければ上級クラスに上がるにはまだ早い。そんな雰囲気がスタジオ内に漂っていた。前の時間に踊っていた中級クラスの人たちの中で、上級クラスの練習を見学している人もいる。彼らはきっと、今よりももっと上手くなるため、上級クラスの踊りをその目に焼き付けているんだろう。
上級クラスの練習が始まってから一時間が過ぎた頃、二度目の休憩時間となった。地下からあいつが上ってくることはなく、水筒を片手にわたしの方を見上げる。どうだ、凄いか。そんな言葉が聞こえてきそうだった。わたしは、つい顔を背けてしまう。何だか分からないけど、波打つ胸の鼓動に変化を憶えたからだ。
二度目の休憩が終わる。そしてこれからが本番。上級クラスたる所以を、あいつは身をもってわたしに証明してくれた。ストレッチやステップの練習は、たしかに凄かった。みんな身体が柔らかかったし、初見でステップを踏んでいて驚いた。でもそれだけじゃない。ダンスというものは、一つの音楽に合わせて自分自身を表現することで本当の意味を持つ。
「……あれが振り付け?」
鏡の前に立つ講師は、ゆっくりと振りを確認するかのように動いていく。音楽を流さずに、自らの口でカウントを取る。そのカウントに合わせて、一つずつ動きを加えていくのだ。
後からあいつに聞いた話だけど、ダンスミュージックのリズムやメロディに合わせながらダンスのステップや技などを組み立てて、一連の流れを作っていく作業として、振り付けはもっとも重要視すべきものだという。適当にステップを組み合わせてダンスを踊っても、その踊りが音楽と同調していなければ、ひどく滑稽に見えるという。それにステップとステップを繋ぎ合わせる間も大事で、ちょっとした動きのぎこちなさが全てを台無しにしてしまう。
振りを付ける作業というのはとても難しく、講師は一度に振りを付けるようなことはせずに、一つの動作を確認させるかのように踊る。上級クラスの人たちは簡単そうに振り付けをこなしているけど、実際は違う。その一つ一つの振りが作り込まれているし、指の先まで神経を集中させているのがよく分かる。あれを真似るのは、わたしには絶対無理だ。
悔しいとは思わない。ダンスを踊ったことのないわたしにとって、あれをやってみせろと言われてもできないのが当然なのだ。でも、それが不満なのも事実。わたしにも、踊れるかもしれない。あいつと同じように動くことができるかもしれない。そんなことを考えてしまう。
「……ああ、そっか。そうなんだ」
胸の鼓動の意味に気づいたわたしは、口元に笑みを浮かべる。やっぱりわたしも、身体を動かすことが大好きなんだなと実感した。暫くすると、今度は音楽に合わせて振りを確認する作業に入る。先ほどまで一つずつ確認していたステップを、ダンスとして踊る時がきたのだ。
振り付けを行なっていた部分の音楽を流し始める。初めに講師がお手本を見せ、続いてそれを佐久間たちが繰り返す。すると驚くことに、一つ一つ単体であったはずの動作が、まるで線を結んだかのように一つにまとまり、滑らかな動きを演出する。
「すごいなあ……」
思わず嘆息していた。これこそが、ダンスが出来上がるまでの工程。見ている側からすれば簡単に踊っているように感じるかもしれない。だけどその裏には、何度も繰り返し練習を重ね、そして限りなく完璧に近い形までもっていこうとするダンサーたちの努力があった。
佐久間が踊る姿は、わたしの視線を釘付けにした。華麗に舞い、ステップを踏む。その表情は生き生きとしていて、これまでに抱いてきた印象からは想像もできないほどに輝いて見えた。
※
気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。わたしがここに来てから二時間が経ち、上級クラスの練習は終わりを迎えた。
「感想は?」
地下から上がってきた佐久間は、肩で息を吐き、汗だくになっていた。
「え? あ、ああ! えっと……」
上手く言葉にすることができない。なんて言えばいいんだろう。わたしは、佐久間がダンスを踊る姿を見て、たった一つの感情しか生まれてこなかった。それを口にするのが恥ずかしい。
だけど佐久間は、わたしに見せてくれた。だからわたしも、言わなければならない。
「か、かっこよかった……と思う」
顔を俯け、わたしは小さな声で呟く。同級生の男の子のことを、それも本人の目の前で、格好良かったと告げるだなんて、わたしは告白でもしている気分だ。
「惚れたか?」
意地悪そうに訊ねる佐久間。
その台詞に、今度は言い返すことができない。それが何故か悔しかった。
講師が近づいてくると、佐久間は礼儀正しく挨拶をする。すると講師は、佐久間からわたしに視線を移し、彼女なのかと聞いてきた。
「秘密で」
意味深な台詞を言わないでほしい。
「ち、違います! ただのクラスメイトですから!」
「冗談の通じないやつだな、お前」
「冗談は学校の成績だけにしてよね」
わたしは講師と挨拶を交わし、佐久間に視線を戻す。佐久間はハンドタオルで汗を拭き、わたしの隣に置いていた椅子に腰を下ろした。
「そういえば説明が途中だったな」
そして佐久間は、ジャズダンスについて話を始めた。
ジャズダンスで使用する音楽は、ロックやポップス、ヒップホップなどのダンスミュージックを、ジャンルを問わずに使用する踊りのことを総称する。ジャズダンスを学ぶ際に一番大事なことは、最初の段階では基本のリズムとダンスステップを一つ一つ身につけてレパートリーを増やすように練習をすること。基本からしっかりと練習をしていけば、気づいた時には自然と色々な身体の使い方や、裁き方が身についているもので、着実にステップアップできるらしい。見学する前に聞いていたら意味が分からなかっただろうけど、今は上級クラスの練習を見学した後だから、なんとなく分かるような気がする。瞳を輝かせながら力説する佐久間を見るのも、なんだか面白い。とりあえず理解することができたのは、佐久間が習っているジャズダンスという踊りは、どのような曲調にも合わせてダンスを踊ることができるということ。
ダンスの練習が終了した後も、スタジオ内には残って練習する人たちの姿があった。振り付けの確認はもちろん、少しでも技術を向上させようと努力しているんだろう。
「あっ! もしかしてあんた、ジャズダンスの一芸一能で神楽坂学院に推薦入学したの?」
佐久間が一芸一能推薦で入学していたことを思い出したわたしは、そのことについて訊ねる。
「まあな」
なるほど、通りで踊るのが上手なはずだ。
神楽坂学院の一芸一能推薦枠はとても難しく、よほどのことがなければ合格しないと噂されている。その狭き門を無事に潜り抜けてきた佐久間は、それに見合った努力をしていた。そしてその一芸一能というのは、スポーツなどではなく、ジャズダンスだった。
「さあ、そろそろ帰るか」
「え? もう帰るの?」
椅子から立ち上がると、佐久間は椅子をたたんで手に持った。
「眠いんだよ」
「……あっそ」
呆れた。さっきまで格好よくダンスを踊っていた奴の言う台詞だろうか。
わたしと佐久間がダンススクールを出ると、外は既に真っ暗だった。
「んじゃ、また明日な」
「ん、ばいばい」
佐久間は一度も振り返ることなく、走り去っていく。その背中を見つめつつ、わたしは溜息を吐いた。胸の鼓動は未だに不安定だ。
何がわたしの心を波打たせているのか、知っている。だけど今日は言えなかった。
「明日、言ってみよう……」
あいつの踊る姿を見て、湧き上がってきたこの感情は、わたしにとって素晴らしいものになるはずだ。だからわたしは、明日の自分に期待する。あいつに、言葉をかける姿を想像するだけで恥ずかしい気持ちになるけど、頑張ってこの気持ちを伝えよう。
――わたしも、ジャズダンスを踊ってみたいと。
※
翌日、わたしはいつもより早く起きて、まだ誰も教室にいないであろう時間帯に着いた。
わたしが待つのは、あいつ。
「お、おはよ……」
教室で一人、あいつのことを待つわたしは、ドアが開く音に反応した。そこに立っていたのはもちろん、佐久間だ。以前、早起きした時に、佐久間が早く学校に来ることを知っていたので、言うなら、この時間帯しかない。
「おう。今朝はやけに早起きだな」
初めて話した時からは想像することのできない自然な流れで、佐久間が返事をする。
「まあね。ところでさ、今日、あんたってダンススクールに行く予定とかある?」
「? いや、来週になるまでないぞ」
「そ、そうなんだ……」
これは困った。わたしもダンスを踊ってみたいと言おうと思っていたのに、ダンススクールに行くことができないのでは踊ることさえできない。
「なんだ? また見学したいのか?」
「えと……そうじゃなくて、その……」
わたしが口ごもっていると、佐久間は目を細める。そしてわたしが言いたいことを悟ったのか、意地悪く笑った。
「もしかして、お前もダンスを踊りたくなったのか?」
「うっ……」
鋭い奴め。こんな時に限って勘が鋭いから困る。
図星なので、わたしは何も言い返すことができない。その姿を見て、佐久間は更に続けた。
「それなら、今日行ってみるか」
「……でも、今日は上級クラスの練習無いんでしょ?」
「練習が無いから行ったら駄目なんて誰が決めた?」
佐久間はそう言うと、自分の席に着いて鞄から本を取り出した。わたしとの話は終わったのだと、態度で表しているのかと思ったけど、それは間違い。廊下から他の生徒の声が聞こえてきたからだ。神楽坂学院の中では、佐久間は寡黙な印象で通っていることを今更ながら思い出す。ダンスを踊っている姿を一度見てしまったわたしからすれば、それは猫被っているようにしか見えないけど、下手に騒がれるよりはマシなのかもしれない。
わたしは二回連続で欠伸をする。今朝は早起きしすぎた。これから朝のホームルームが始まるまで、まだ時間はたっぷりある。今日の放課後はあいつと一緒にダンススクールに行くことになりそうだし、今はゆっくりと睡眠を取っておくことにしよう。
※
放課後、スタジオ内で踊っているのは、初級クラスの人たち。
昨日見た、上級クラスの人たちに比べれば、ダンスを踊ったことのないわたしでも、ステップや振り付けの難易度が低いというのが判る。そしてこのクラスであれば、わたしでもついていくことができるんじゃないかと思った。
「ねえ」
気づいたら、話し掛けていた。この気持ちを抑えることができなかったから。
どうしても伝えておきたかった。
「なんだ?」
佐久間は、わたしの顔を見る。
「――わたしでも、踊れるかな?」
その言葉を聞いた佐久間は、驚いたような表情を見せる。
だけど次の瞬間には、悪戯っぽい笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。
「ああ、もちろんだ」
初級クラスの練習が終わった後、佐久間は徐に立ち上がる。
そしてわたしに、手を差し出した。
「今なら、スタジオで踊ってる奴もいないからな。大目に見てくれるだろ」
佐久間の手を取り、階段を下りていく。初めて地下のスタジオに足を踏み入れた。一階から見下ろすのとでは、雰囲気が別物だ。よく見れば、上手と下手の壁にも鏡が張ってある。三面鏡張りのスタジオに立っているのは、わたしと佐久間の二人だけ。
鏡の前に立つ。もちろん、ダンスシューズは履いていない。靴下だと滑って危険かもしれない。だけど今は踊りたい。早く、踊ってみたい。
佐久間がわたしを魅了してくれたように、今すぐにでも魔法のステップを踏んでみたい。
「先ずは、簡単なステップから始めるぞ」
「うん!」
そして今日、
わたしの舞台が、幕を開けた。
エピローグ
「おい、早くしないと遅れるぞ」
「分かってる! でもあと少しだけステップの確認をしておきたいの!」
あの日から、数ヶ月が経っていた。
今日は文化祭。体育館では多種多様な出し物が観客を賑わせ、クラスごとに展示物の発表や飲食店を経営し、皆一様に文化祭を楽しんでいた。だけどわたしと佐久間だけは例外。だって今朝起きてから……ううん、昨日からずっと緊張している。これから始まることに対して、身体の震えがとまりそうにない。
「ふぅ」
口から漏れるのは、溜息ばかり。
もし、失敗したらどうしよう。みんなに笑われるかもしれない。
失敗を恐れたくはないけれど、俯けた顔はいつまでも上がらない。
「――不安か?」
心配したのだろうか、佐久間が声を掛けてくれた。その声に、わたしは首を振る。
「そんなわけないでしょ……」
強がるのには、慣れている。けれど佐久間は、それが嘘だということに気づいていた。
「あっ……」
手を、握られた。そして気づいた。
「俺も不安だ」
佐久間の手は、震えていた。
「……意外ね。あんたでも緊張するなんて」
「そりゃそうだ。俺は寡黙な男子生徒、そしてそんな俺をそそのかして舞台に引きずり込んだのがお前だろ?」
「いつからそんな設定になったのよ」
その台詞に、自然と笑みが零れる。
すると佐久間は、目を閉じて呟くように声を出す。
「舞台に出れば不安や恐れなんてすぐに消える。そしてその後は自分のことを信じるだけだ」
「自分のことを信じられなかったら、どうすればいい?」
「舞台に出るのはお前一人じゃないだろ?」
「……ん、そうだったわね」
そしてわたしも、目を閉じた。舞台に設置されたスピーカーから流れてくる音楽に同調し、暗転していた舞台が光を取り戻す。いよいよ出番だ。
わたしと佐久間の、二人だけの物語を紡ぐ時が訪れた。
観客だけでなく、わたしの隣で踊る彼をも魅了するダンスを披露してみせよう。
恐いものは、何もない。
だってさ、
わたしの彼は、ジャズダンサーだから――…
(了)