それから、僕と守本さんは放課後に二人でバレーをする仲間になった。
僕たちが通う高校には、体育館が二個ある。
古くからある体育館と、新しく建設されたらしい体育館だ。新しく建てられた体育館は、バレー部やバスケ部など、色んな部活動が行われている。
だから僕たちがボールをトスし合うのは、決まって古い体育館だ。
校舎に遮られて、陽の光が通らない古い体育館は不気味だ。
そんな中で、僕と守本さんが二人、無言でボールを投げ合っているのは、それ以上に不気味だろう。
けれど、決してそんなことはなかった。
一言で言うのなら、心地いい。
静寂だけが居座っている体育館の中で、僕らの五感は同じなのだ。ただ目の前に降ってくるボールを一身に相手へ受け渡す。
たまにボールが転がっていって、守本さんがボールを拾いに走る。
そしてボールを拾って振り返った守本さんと視線が交わり、僕に微笑む。
それだけのことだった。
目的があってしている訳でも無い行為を永遠に繰り返す日々だ。
それでもそんな日々が楽しくて、仕方がなかった。

けれど、まだ納得した訳ではない。
どうして守本さんの心の声だけが聞こえないのだろう。
今は守本さんだけで済んでいるが、もし、悠太や他の人の心まで聞こえなくなってしまったら、と考えるだけで背筋が凍るのだ。
その為、毎日登校しては、守本さんの姿を目で追うようになった。
今日も、心の声は映し出されなかった。

『守本こころ:     』

この文字を目で追い、僕はため息をつく。
すると、突然肩に何かが置かれる音がした。
跳ね上がった肩のせいで、わざとらしく本を閉じてしまう。そしてゆっくりと後ろを振り返った。

「…悠太。」

悠太はニヤニヤと口角を上げながら、僕の顔を覗き込む。

「何ですかぁー?涼くん、好きな人でも出来ましたかぁー?」

中学生のような悪いノリで、僕の背中をバシバシ叩く。
僕はその言葉に、一気に熱が顔に集結する。
いつも鋭く痛いところを突いてくる悠太には、全てお見通しだったらしい。

「ちげぇよ。」

僕は、今も尚背中を叩くその手を払いのけた。
きっと僕が守本さんを見ていたからであろう。

「嘘つけよ。でも、分かんない気もないわ。」

悠太も、教室の真ん中で笑う守本さんを見つめる。

「は?そもそも好きでもねぇからな。」

まるで意地を張る子供みたいになってしまう。けれど、そんな言葉は悠太には聞こえてないようだ。

「あっそうですかー。」
「何だよ。」

悠太の興味を僕から外そうと、思わず語尾が強まった言い方になる。僕は思わず、中学時代のことが頭を過った。
調子に乗っては破滅のフラグが立ってしまう。
僕は机から水色のハードカバーを取り出して、悠太にかざした。

『土屋悠太:守本さんって、顔めちゃくちゃ可愛いよな。あの顔はずりぃわ。』

しかし、もう悠太の気は守本さんへと完全へ移ったようだった。
僕はその文字を見て、ニヤリと口角が上がる。
これは悠太をいじるネタになりそうだ。

「悠太こそ、守本さんに気あるよな?」
「ねぇよ。けど、顔は可愛い。」

悠太は一瞬の隙も見せぬ間に、食い入るように返答した。
僕はまた揶揄ってやろうか、と思ったが、そういえば悠太はしつこい人が嫌いなのであった。

「あっそう。」

けれど、僕はその言葉に共感するしかなかった。
確かに、守本さんの顔は整っていると思う。
地毛なのか、透き通るような茶髪を肩の下で綺麗に切り揃えられている。目は、全てを吸い込んでしまうかのような、透明感のある瞳に、ぱっちりな二重。そして、それらの美しいパーツを高い鼻や、綺麗に弧を描く輪郭で際立たせている。
まさに、美人。
入学当初から、美人がいると噂をされていた。
けれど、そんな守本さんは高嶺の花のようで、男子が寄って行っているのを目にしたことがない。
それはきっと赤司さんのせいだろう。

「赤司がいなきゃ、守本さんと話せるのによ。」

行き場の無い虚しさを出すかのように、悠太が口にした。
やっぱり。きっと誰もが思っていたことだろう。

「それは無理だろ。」
「ボディーガードかなんか?」

揶揄うように悠太が口にする。僕は人の陰口なんて叩くことも同意することもなかったけれど、このことに関しては同意してしまった。
赤司さんは、常に守本さんの近くにいる。
過保護な保護者、ボディーガード、片思い、そんなあだ名が付けられているのを耳にする。きっとどれも嫉妬から生まれたものだと思うが、納得はしてしまう。
休み時間でも、隙間時間でも、何かに取り憑かれるように守本さんの元へ行く。
女子であろうとも、守本さんと話すのは一苦労だそうだ。
まるで自分の物だと周りに見せつけるように、守本さんの肩に回す手がそれを物語っている。

「赤司さ…赤司って、守本さんの保護者みてぇだよな。」
「なんか、独占欲とか激しそうだよな。」

僕の言葉に同意するように、悠太が小さく首を縦に振る。
その言葉に僕はある一種の興味が湧いてきたのだと思う。今までのように、こんな行動を取る背景には、どんな心情があるのか。
だから、守本さんに、執着のような物が垣間見える赤司さんの心の内はどうなっているのだろう、と思った。
もしかしたら、愛情かもしれないし、行きすぎた友情かもしれない。
けれど、そこにあるのはきっと好意的な物だろう。
悠太が他のクラスメイトに呼ばれ、僕が丁度一人になった時。
僕はまた、水色のハードカバーを赤司さんにかざした。
黒色のロングヘアをポニーテールに束ねている、赤司さんの背中を目掛けて。

『赤司琳:はあ。なんでこいつばっかりいい思いしてんの?』
「っ」

僕は自分の目を疑った。
好意どころか、悪意が込められているではないか。
けれど、これが守本さんに向けてのものでは無いかもしれない。僕はそう思って、再びかざしてみる。

『赤司琳:障害者の親友役してれば、印象良くなると思ったのに。何でこいつだけモテてんの。意味分かんない。』
「…何で」

その言葉は心臓を殴られたように、痛くなった。
赤司さんが守本さんのことを良く思っていないどころか、嫌っているのは明らかだった。
けれど、それ以上に怒りが体の内側から出てきているのを感じていた。
障害者…?
きっと守本さんのことだろう。どうしてこんなにも優しい人をそんな風に貶すことが出来るのだろうか。怒りが喉まで上がってきて、今すぐにでも飛び出しそうだった。
けれど僕はここで叫び出してはいけない。
胸を叩いて、僕はようやく落ち着きを取り戻した。
今まで守本さんの側にいたのは、下心からだったのだろうか。
けれどそんな考えが過ってしまったら、過去の言動にも疑問を感じるようになった。
あの時も。
守本さんの教科書が行方不明になったのだ。
つい最近のことだ。守本さんの生物の教科書がなくなったと、赤司さんが騒ぎ立てた。守本さんは珍しく眉を八の字に皺を寄せていた。
それに赤司さんは気づくことなく、本人以上に捜索していた。クラス全体で捜索が行われていたから、よく覚えている。
結局、赤司さんが見つけていた。
どこで見つけたのか聞いても、「秘密!」との一点張りだった。
あの時は見つかった安堵で気にならなかった。
けれど今なら、嫌でもこんな妄想をしてしまう。もしかしたら、赤司さんが隠したのではないかと。
まさか、と僕は首を振る。
けれど僕も教科書くらい捨てられたことのある人間だ。詮索は止まない。

もしかしたら、という妄想で僕の頭は、守本さんで埋め尽くされた。
休み時間も、守本さんと赤司さんを目で追っていたと思う。注意して見れば見るほど、エスカレートしているように思える。
守本さんは本当にいい人だ。
僕なんかと対等に話してくれる。僕が言葉に詰まっても急かすことなく、待っていてくれる。だから、守本さんには不幸になって欲しくない。
けれどそう考えれば考えるほど、僕の視野は狭まり、赤司さんの全ての行動が怪しく見える。
それは本人といる時でも出ていたようだ。
いつも通り、僕はドッチボールの練習に出た。練習と言っても、ほとんど遊びみたいなものだけれど。
悠太と別れ、古い方の体育館へ行く。
そして守本さんと合流して、バレーボールを手に取った。
この一連の流れも、体に定着しつつある。
バレーボールが、少し埃を含んだ空中を舞う。それを三回ほど繰り返す。そしてボールを送って、帰ってくるボールを待つ。
けれど、ボールは来ない。
思わず守本さんを見ると、ボールを持ちながら立っていた。
クロッキー帳に何かペンを走らせている。

『今日、どうしたの?』

僕を心配するように顔を覗き込んた守本さんと目が合う。
僕は目を見開き、守本さんを見る。

「どうも、して、ないよ。どうして?」

普段通りで居ようと努力していたのに、守本さんは気が付いたとでも言うのか。僕は心臓が早く強く拍動しているのを感じていた。

『ちょっと顔色が悪いかなって思ったの。気のせいだったら、ごめん。』

そう守本さんは体の前で両手を合わせた。
僕は昔から態度が顔に出やすい。高校では、同じ過ちを繰り返さないように気をつけていた。けれど守本さんの前では、どうしてか素が出てしまうらしい。

「全然、大丈夫。ありがとう。」

そう言ったはいいものの、僕の中で何かが蠢くのを感じていた。
このままだったらずっと考えてしまって、他のことが手につかないのだって目に見えている。

「そういえば…」

自然に。流暢に。

「赤司さんと、よく一緒に、いるよね?中学の時から、同じだったり、する?」

赤司さんの名前を発する。
チラッと守本さんを覗くと、満面の笑みの中に何かがあるように、眉がぴくりと動いていた。
けれど守本さんは一枚上手らしい。

『ううん。幼馴染だよ。』

僕は思わず、その事実に驚きを露わにした。長くても中学時代からの知り合いだろうと思い込んでいた。そんなにも深い関係だったとは。

「あ、そうなんだ。てっきり、中学からだと。」
『どうして?』
「あーそれは、勘、なんだけど。」

僕は体育館の壁に背中を預け、下に落ちていたボールを拾い上げる。そして乾いた笑いを溢す。そうでもしないと思わず口が滑りそうなのだ。
けれど、僕が守っていたものをこじ開けたのは、守本さんだった。

『もしかして、私が琳ちゃんにいじめられていると思ってる?』

思いもよらない言葉だった。
まるで本人からその言葉が出てくるなんて。僕は思わずボールを地面に落としてしまった。けれど、その行動がイエスと言ったようなものだ。

『やっぱり?』

守本さんは笑いながら、そう言った。

「…ごめん。」

僕は誤魔化すことも出来なくて、安易に頷く。こんなセンシティブな話を本人にするべきではないと分かっていても、心配が優ってしまう。

『いいよ。最近、酢谷くんに見られてるなーって思ってたの。』

気が付いていたのか、と僕は肩を落とした。

『でもまあ、琳ちゃんに嫌われてるってのは否定出来ないかな。』

自嘲するように笑う。
僕はその言葉に余計に疑問が渦巻いた。だったら、関わりを断つなど、選択肢は色々ある。いじめられているかもしれない状況下で、一緒にいる必要はあるのだろうか。

「…だったら、赤司さんと、一緒に、いる必要ある?」

僕は何に怒っているのだろう。
目の前にいる守本さんの顔が辛そうに歪んでいるからだろうか。

『でも、私が酷いことしちゃったの。だから、償い?かな。』
「それでも、だからって、守本さんが標的になることは、ないんじゃない。」

呼吸を整える。基本的に無気力なはずの僕が、他人のために怒っていること自体が不思議で仕方ない。けれど、赤司さんを庇っている守本さんが気に入らない。

『確かに。そうかもしれないね。』
「僕は、守本さんが心配なんだ。だから、傷ついて欲しくない。」
『えー?嬉しいなぁ、それは。』

守本さんは小さな指で、頭を掻いた後、けど、と付け足した。

『でも琳ちゃんはいい子だよ。こんな私と、動機はどうであれ、一緒にいてくれるんだもん。』
「…そう。」

一生続くかと思っていたこの話は、守本さん一言によって打ち切りとなった。
守本さんが泣きそうな顔を浮かべたからだろうか。
きっと僕なんかに言われなくても、悩んでいたのだろう。赤司さんとの関係を。幼馴染というのなら、関係は僕には想像ができないほど深いはずだ。

僕のこの一言によって、この話題は終了となった。
僕たちはいつもより早く体育館を出た。そのせいか、まだ外が明るい。
モワッと体を包み込む空気が、夏の始まりを知らせていた。これからもっと、夜の時間が短くなって、昼の明るい光が世界を包んでいくのだろう。

『もう夏だね。』

左腕にチョンチョンと一定のリズムを立てるものが当たって、僕は振り返った。
そこには守本さんがスマートフォンの画面を見せながら、笑っていた。

「僕も同じこと、思ってたよ。」

そんな他愛もない会話をしながら、僕たちは帰路を歩いた。
僕がどんなに頼りなくても、一応男だ。いつも、守本さんを家の近くまで送っている。
今日も、守本さんを家まで送り届けるべく、駅の方向と正反対の道を辿る。
どうせ家に帰っても、姉ちゃんがうるさいだけだから、この時間は苦ではない。
むしろ、心地いいとすら感じてしまう。
特に会話も強要されない。守本さんといれば、無言だって怖くないのだ。それは自然と会話のペースが徐になっているだけかもしれないが。
今も、頬を撫でていく温い風を感じながら、守本さんの横を歩く。たまに守本さんがスマートフォンに打った言葉を見て、僕が返答する。
いつもの日常だ。
赤司さんが現れるまでは。

「あれ、こころじゃんー?」
「…あ。」

その声に言葉が跳ね上がる。高くて、いかにも陽キャな女子って感じの声。
僕は目の前の横断歩道の向こう側で手を振っている赤司さんと目が合った。僕を視界に捉えた瞬間、その顔はあからさまに歪んでいく。
僕は心臓が冷えていくのを感じだ。
隣に立つ守本さんは赤司さんを目に捉えると、小さく手を振っていた。
先程まで赤司さんのことを話していたからか、その動きはどことなくぎこちなく思える。
僕もそうなんだろう。

『なんで、酢谷と一緒にいんの?』

信号が緑に変わり、僕たちは白線の上を歩きながら、反対側につく。この横断歩道はもう、守本さんの家の近くだ。
赤司さんと幼馴染なのであれば、近所なのだろう。
守本さんに近づくと赤司さんは予め用意していたらしい、スマートフォンの画面を見せた。
さすが幼馴染。
お互いに文字を見せ合うと、僕のように唇を読んでもらうより遥に効率的だ。

『球技会の練習の応援してたの。で送ってくれただけだよ。』

ねっ、と同意を求められる。

「守本さんが言ったまま。何か気になることでも?」
「…へぇ。別に。」

自然体でいようと決心したのに、語尾が強くなってしまう。
その釣り上がった目が少し怖い。
赤司さんは冷たい視線で僕を一瞥すると、守本さんの腕に手を回した。

「じゃあ、こころは私と帰るんで。」

有無を言わせぬ表情で、僕に語りかける。その様子はまるで、執着のようにも思えてしまう。

「分かった。じゃあ、また。」

僕は大人しく身を翻すことにした。
そして、二人に挨拶をする。
守本さんは少しだけ、申し訳なさそうに両手を合わせていた。けれど守本さんは赤司さんに引っ張られるように、ズンズン住宅街の奥まで進んで行った。
まるで嵐のように過ぎ去った出来事に僕は放心状態だった。
けれど、心の声は読んだ。

『赤司琳:こころってば酢谷とまで面識あったの?なんで私より学校楽しんでんの?意味分かんない。ムカつく。こいつばっかり。消えればいいのに。』
「…は?」

そのより酷い内容に、本を割いてしまいそうになる。
守本さんは優しいから、赤司さんの気持ちに気づいてないフリをしているのだろう。守本さんが赤司さんにした酷いこと、というのは僕にはわからない。
けれど、それがいじめの原因であっていいものではない。
あの時。
赤司さんが守本さんの腕に手を回した時。一瞬だったけれど、顔が歪んだ気がした。きっと力が強かったのではないだろうか。
救いたい。
ふとそう思った。
僕も孤独だったから、痛いほど知っている。僕には僕を助けてくれる人なんていなかった。担任だって見てみぬフリをしていたのだから。
そんな時に、その地獄から救い出してくれたら、どんなに嬉しいだろうか。