僕は、ある日人生が変わった。
どん底にいた僕に手を差し伸べてくれた救世主。
それは、『人の心が知れる本』。
人と同じノリが合わせられなくて、どんどん離れていく人たち。僕が喋ると場の空気が凍てつき、最後には悪口まで叩かれる始末。
僕に居場所は無くなった。
そんな時、人の心が知れたらどんなに良かったのだろうか、と思う。
だって人の心が知れるだけで、その人が求めている言葉を言うことが出来る。それだけで、僕の居場所が出来るかもしれない。
そんな願いが叶ったのか、僕は今この本を手にしている。
心の声を知りたい人に向かって、本をかざすだけで、その人の考えていることが文字となって映し出される。
例外はないはずだった。
昨日までは。
一人を除いては。
それは、教室の真ん中に座る守本こころというクラスメイト。彼女は、少しだけ僕と違うことがある。それは音のない世界に生きているということだ。
けれど、そんな世界の住人が、僕たちと過ごすことは容易ではない。
本人にとっては、きっと困難だらけだろう。
それなのに、いつも笑っている。
心ではなにを考えているのだろうか。気になってしまった。
日頃見せる笑顔の意味を。
けれど、心の内を知ることは出来なかった。本に文字が映し出されなかったのだ。
今日だって何回も試した。それでも結果が覆ることはなかったのだ。
だから僕は守本さんに話しかけることにした。
その姿はぎこちなく、きっと不審だっただろう。
なのに、ドッチボールの練習中、応援に来ていた守本さんは、またもや笑顔で僕に応じた。
『お疲れさま。』
校内ではスマートフォンの使用は禁止されている。
教員が見回らない放課後は、スマートフォンを片手に話している人たちをよく見るが。
きっと特殊な生徒のため、いつでも使用は許可されているはずなのに、校内ではクロッキー帳を持参している。
今日も、僕が守本さんに近づくと、すぐさまクロッキー帳に文字を書き出した。
「ありがとう。」
僕は近くのベンチに置いていた水筒から滴る水で、喉を潤す。
クラスメイトでありながら、接触したのはほとんど昨日の一回きり。
高校デビューのために作り上げたキャラも守本さんでは使えない。心が読めないんでは、相手が求めている返答が出来ない。
だから、限りなく素に近い返答をしてしまう。
そんな姿は、一度きりだって見せるべきではない。けれど、そんな恐怖より、守本さんへの好奇心が優ってしまうのは何故だろう。
悠太はバイトで練習に来ていないから、ラッキーだと思い込む。
『酢谷くん、ドッチボール上手なんだね。』
二回目の会話なのに、守本さんは僕に笑顔を向け、クロッキー帳を差し出す。
思いもよらないその言葉に、僕は口をポカンと開けてしまった。褒め言葉なんて、家族以外で初めて貰う。
「昔、バレー、やってたんだ。」
僕は両手でボールをトスする仕草をしてみせた。
守本さんとのコミュニケーションは新鮮だ。僕の言葉すら耳を傾けてくれない日々で、会話の中にジェスチャーを織り交ぜるなんて。
あんなに他人が怖い僕が、こんなにも相手を慮っていることに、自分自身ながらも動揺した。
すると、守本さんはパアッと顔を輝かせた。
守本さんと仲が良いのであろう、赤司さんによく見せている笑顔だ。
その笑顔が僕に注がれると、不思議で、僅かに手が痺れる。
そして、守本さんは再びクロッキー帳のページの端にペンを走らせた。
『すごいね!バレー。私もやってみたいって思ってたの。』
そうクロッキー帳を僕に見せる守本さんは、本心のように目をキラキラさせていた。
「やった、ことは、ないの?」
守本さんなら、行動力が備わっていそうだし、と心の中で唱える。
『うん。だって、バレーって個人種目じゃないでしょ?チームメイトの声を聞かなきゃじゃん!いつかはしてみたいけどね。』
「…。」
そう話す守本さんの表情は、寂しそうにも、悲しそうにも見えなかった。ただ純粋に自分の立場を理解して、納得しているような。
僕はその姿に疑問を持つ。
関わりの少ない、ただのクラスメイト。昨日で少しだけ関係が生まれただけの。
けれど、何故か怒りが彷彿として湧いてくる。
どうして怒らないのだろう。
どうして自分だけ、と叫び出さないのだろう。
どうして納得しているのだろう。
僕は中学時代、ずっと思っていた。
どうして、どうして、と。
頭が痛くなるくらい。
側から見れば、小さなことだろう。クラスメイトに嫌われ、いじめられることなんて。
それでもどうして、と毎日嘆いていた。
どうして、空気が読めないのだろう。
どうして、人を失望させてしまうのだろう。
どうして、僕は他人と違うのだろう。
どうして、心が読めないのだろう。
当時は、あの環境だけが、僕の世界だった。長い目で見れば、なんて言葉をよく耳にするが、そんなものは関係ない。
ただあの教室で、僕は変人で、きもい奴だったのだ。
けれど、守本さんの運命はもっと残酷だ。生まれた時から、耳がほとんど聞こえないなんて、一体守本さんが何をしたというのだろう。
音のない世界なんて、僕には考えられない。
なのに、どうしてこんなにもすんなり受け入れているのだろう。
僕はあんなに小さなことで、壊れかけていたのに。
けれど、分かっている。
これは守本さんと僕を比べて、ただ惨めな自分が悔しいだけだ。
目頭が熱くなっていく。
僕は手のひらに力を込めた。
「だったら、!」
この時だけは、僕のこの言葉が守本さんに聞こえていなくて良かったと思う。
自分でも驚くくらいの声量。
そして、行く当てのない、正体不明の怒りが喉をついた。
「僕と、一緒に、バレー、しましょうよ。」
思わず敬語になってしまう。
あれ程溜めた挙句、こんな取るに足らない言葉を発する。
守本さんの反応は、予想通りだった。
さっきの言葉、聞いてなかったの、とでも言いたげに、口をぽかんと開けている。
『えぇ?それは嬉しいなぁ。でもごめん、出来ないの私。』
小さな指で、頭を掻きながら守本さんが言う。
僕は違う、と首を横に振った。
「ただ、僕と、ボールを、トスするだけ。
そしたらほら。会話も要らないし、バレー出来るから。」
きっとこれは守本さんが望んでいる形ではない。
けれど、諦めて欲しくなかった。
高校生になってから、こんなにも自分の意見を他人に伝えるのは初めてだ。
基本的に、相手が欲しい言葉を読んで、言うだけだから。
ふと自分の行いが居た堪れなくなり、守本さんの顔を見れず、顔を背けてしまった。そして返答を待つ。けれど、クロッキー帳の紙をペンでなぞる音が聞こえない。
恐る恐る、背けた体を戻して、守本さんの表情を覗く。
「えっ」
けれど、そこにいた守本さんは僕の想像の正反対だった。
「ごめんっ。泣かせたい、わけでは、なくて。」
僕は守本さんの大きな双眸から溢れ出す、太陽に照らされて輝く水滴に、心臓が速くなり、手汗が浮き出る。
どこか、傷つけることを言ってしまったのだろうか。
人間関係の薄い僕には、謝ることしか能がないみたいだ。
「…っ」
けれど、次に聞こえたのは、空気が揺らぐ音。
その原因は、守本さんだった。
僕の焦り方が愉快だったのか、いつもの笑顔が宿っていた。
そして何事もなかったかのように、細く、小さな親指で頬に流れる水滴を絡め取った。
『ごめんね。こんなこと言われるの、初めてだったの。びっくりしちゃった。
でも、超、嬉しい!そんな発想、私にはなかった!』
どこか可笑しそうに、クスッと笑う。
その言葉と笑顔に、僕は冷たくなった血液が、再び熱く巡っていくのを感じていた。
「良かった。」
体の奥深くから、抜けるように安堵が身を包んだ。
「じゃあ、これから放課後、体育館で、やろう。」
この時、僕はどうかしていた。
自分から誰かを誘うのなんて、人生初だった。そう口にしてから気がつき、顔に熱が集結する。
けれど、嬉しそうに笑う守本さんの返答はもちろん、イエスだった。
『夢叶っちゃいそう!』
そうはしゃぐ姿を見て、僕の方こそ涙が溢れてしまいそうだった。
こんな幸せな、平凡な学校生活を夢見ていた。
けれど、
『だからって、ドッチボールの練習はサボったらダメだからね!』
そう注意された時は現実に引き戻された気分だった。
どん底にいた僕に手を差し伸べてくれた救世主。
それは、『人の心が知れる本』。
人と同じノリが合わせられなくて、どんどん離れていく人たち。僕が喋ると場の空気が凍てつき、最後には悪口まで叩かれる始末。
僕に居場所は無くなった。
そんな時、人の心が知れたらどんなに良かったのだろうか、と思う。
だって人の心が知れるだけで、その人が求めている言葉を言うことが出来る。それだけで、僕の居場所が出来るかもしれない。
そんな願いが叶ったのか、僕は今この本を手にしている。
心の声を知りたい人に向かって、本をかざすだけで、その人の考えていることが文字となって映し出される。
例外はないはずだった。
昨日までは。
一人を除いては。
それは、教室の真ん中に座る守本こころというクラスメイト。彼女は、少しだけ僕と違うことがある。それは音のない世界に生きているということだ。
けれど、そんな世界の住人が、僕たちと過ごすことは容易ではない。
本人にとっては、きっと困難だらけだろう。
それなのに、いつも笑っている。
心ではなにを考えているのだろうか。気になってしまった。
日頃見せる笑顔の意味を。
けれど、心の内を知ることは出来なかった。本に文字が映し出されなかったのだ。
今日だって何回も試した。それでも結果が覆ることはなかったのだ。
だから僕は守本さんに話しかけることにした。
その姿はぎこちなく、きっと不審だっただろう。
なのに、ドッチボールの練習中、応援に来ていた守本さんは、またもや笑顔で僕に応じた。
『お疲れさま。』
校内ではスマートフォンの使用は禁止されている。
教員が見回らない放課後は、スマートフォンを片手に話している人たちをよく見るが。
きっと特殊な生徒のため、いつでも使用は許可されているはずなのに、校内ではクロッキー帳を持参している。
今日も、僕が守本さんに近づくと、すぐさまクロッキー帳に文字を書き出した。
「ありがとう。」
僕は近くのベンチに置いていた水筒から滴る水で、喉を潤す。
クラスメイトでありながら、接触したのはほとんど昨日の一回きり。
高校デビューのために作り上げたキャラも守本さんでは使えない。心が読めないんでは、相手が求めている返答が出来ない。
だから、限りなく素に近い返答をしてしまう。
そんな姿は、一度きりだって見せるべきではない。けれど、そんな恐怖より、守本さんへの好奇心が優ってしまうのは何故だろう。
悠太はバイトで練習に来ていないから、ラッキーだと思い込む。
『酢谷くん、ドッチボール上手なんだね。』
二回目の会話なのに、守本さんは僕に笑顔を向け、クロッキー帳を差し出す。
思いもよらないその言葉に、僕は口をポカンと開けてしまった。褒め言葉なんて、家族以外で初めて貰う。
「昔、バレー、やってたんだ。」
僕は両手でボールをトスする仕草をしてみせた。
守本さんとのコミュニケーションは新鮮だ。僕の言葉すら耳を傾けてくれない日々で、会話の中にジェスチャーを織り交ぜるなんて。
あんなに他人が怖い僕が、こんなにも相手を慮っていることに、自分自身ながらも動揺した。
すると、守本さんはパアッと顔を輝かせた。
守本さんと仲が良いのであろう、赤司さんによく見せている笑顔だ。
その笑顔が僕に注がれると、不思議で、僅かに手が痺れる。
そして、守本さんは再びクロッキー帳のページの端にペンを走らせた。
『すごいね!バレー。私もやってみたいって思ってたの。』
そうクロッキー帳を僕に見せる守本さんは、本心のように目をキラキラさせていた。
「やった、ことは、ないの?」
守本さんなら、行動力が備わっていそうだし、と心の中で唱える。
『うん。だって、バレーって個人種目じゃないでしょ?チームメイトの声を聞かなきゃじゃん!いつかはしてみたいけどね。』
「…。」
そう話す守本さんの表情は、寂しそうにも、悲しそうにも見えなかった。ただ純粋に自分の立場を理解して、納得しているような。
僕はその姿に疑問を持つ。
関わりの少ない、ただのクラスメイト。昨日で少しだけ関係が生まれただけの。
けれど、何故か怒りが彷彿として湧いてくる。
どうして怒らないのだろう。
どうして自分だけ、と叫び出さないのだろう。
どうして納得しているのだろう。
僕は中学時代、ずっと思っていた。
どうして、どうして、と。
頭が痛くなるくらい。
側から見れば、小さなことだろう。クラスメイトに嫌われ、いじめられることなんて。
それでもどうして、と毎日嘆いていた。
どうして、空気が読めないのだろう。
どうして、人を失望させてしまうのだろう。
どうして、僕は他人と違うのだろう。
どうして、心が読めないのだろう。
当時は、あの環境だけが、僕の世界だった。長い目で見れば、なんて言葉をよく耳にするが、そんなものは関係ない。
ただあの教室で、僕は変人で、きもい奴だったのだ。
けれど、守本さんの運命はもっと残酷だ。生まれた時から、耳がほとんど聞こえないなんて、一体守本さんが何をしたというのだろう。
音のない世界なんて、僕には考えられない。
なのに、どうしてこんなにもすんなり受け入れているのだろう。
僕はあんなに小さなことで、壊れかけていたのに。
けれど、分かっている。
これは守本さんと僕を比べて、ただ惨めな自分が悔しいだけだ。
目頭が熱くなっていく。
僕は手のひらに力を込めた。
「だったら、!」
この時だけは、僕のこの言葉が守本さんに聞こえていなくて良かったと思う。
自分でも驚くくらいの声量。
そして、行く当てのない、正体不明の怒りが喉をついた。
「僕と、一緒に、バレー、しましょうよ。」
思わず敬語になってしまう。
あれ程溜めた挙句、こんな取るに足らない言葉を発する。
守本さんの反応は、予想通りだった。
さっきの言葉、聞いてなかったの、とでも言いたげに、口をぽかんと開けている。
『えぇ?それは嬉しいなぁ。でもごめん、出来ないの私。』
小さな指で、頭を掻きながら守本さんが言う。
僕は違う、と首を横に振った。
「ただ、僕と、ボールを、トスするだけ。
そしたらほら。会話も要らないし、バレー出来るから。」
きっとこれは守本さんが望んでいる形ではない。
けれど、諦めて欲しくなかった。
高校生になってから、こんなにも自分の意見を他人に伝えるのは初めてだ。
基本的に、相手が欲しい言葉を読んで、言うだけだから。
ふと自分の行いが居た堪れなくなり、守本さんの顔を見れず、顔を背けてしまった。そして返答を待つ。けれど、クロッキー帳の紙をペンでなぞる音が聞こえない。
恐る恐る、背けた体を戻して、守本さんの表情を覗く。
「えっ」
けれど、そこにいた守本さんは僕の想像の正反対だった。
「ごめんっ。泣かせたい、わけでは、なくて。」
僕は守本さんの大きな双眸から溢れ出す、太陽に照らされて輝く水滴に、心臓が速くなり、手汗が浮き出る。
どこか、傷つけることを言ってしまったのだろうか。
人間関係の薄い僕には、謝ることしか能がないみたいだ。
「…っ」
けれど、次に聞こえたのは、空気が揺らぐ音。
その原因は、守本さんだった。
僕の焦り方が愉快だったのか、いつもの笑顔が宿っていた。
そして何事もなかったかのように、細く、小さな親指で頬に流れる水滴を絡め取った。
『ごめんね。こんなこと言われるの、初めてだったの。びっくりしちゃった。
でも、超、嬉しい!そんな発想、私にはなかった!』
どこか可笑しそうに、クスッと笑う。
その言葉と笑顔に、僕は冷たくなった血液が、再び熱く巡っていくのを感じていた。
「良かった。」
体の奥深くから、抜けるように安堵が身を包んだ。
「じゃあ、これから放課後、体育館で、やろう。」
この時、僕はどうかしていた。
自分から誰かを誘うのなんて、人生初だった。そう口にしてから気がつき、顔に熱が集結する。
けれど、嬉しそうに笑う守本さんの返答はもちろん、イエスだった。
『夢叶っちゃいそう!』
そうはしゃぐ姿を見て、僕の方こそ涙が溢れてしまいそうだった。
こんな幸せな、平凡な学校生活を夢見ていた。
けれど、
『だからって、ドッチボールの練習はサボったらダメだからね!』
そう注意された時は現実に引き戻された気分だった。