「はい、本日は、球技会の種目を決めたいと思います。」
担任が教壇に立って、ホームルームを仕切る。
僕はその言葉に耳を寄せながらも、窓から映る雲を眺めていた。昔から、よくある癖だ。
切り取られた四角い空が移り変わる様子が面白い。
風の流れによって、雲が自由自在に形を変える。それがまるで僕には出来ない超能力みたいで羨ましいのかもしれない。
「はい、俺バスケ一択。」
「ねぇねぇ。一緒にバドミントンやらない?」
「私何でもいいかな。屋内一択だけど。」
「それなー。焼けるし。」
クラスメイトが黒板に板書された球技を睨みながら、口々に希望を叫ぶ。
僕はチラッと黒板に目をやる。
バレーは小さい頃、父さんに教えてもらったことがある。だから、バレーかな、と頭の中で考えをまとめる。
中学生の時の僕であれば、すぐ口にしていたけれど、今はクラスの様子を伺う。
その時、担任がクラスメイトを静めるように、手を動かした。
「守本さんは出られないので、人数だけ気をつけてください。」
「「「はーい。」」」
ああ、出られないんだ。
そう僕は、教壇の目の前に座る守本さんをチラッと見る。
守本さんは頷き、近くの友人らしき人に頑張れとジェスチャーを送っていた。
相変わらず、ずっと笑顔で感嘆する。僕なら、クラス全体にそう言われるのは、いい気分ではないだろう。
それなのに、何事もなかったかのように、笑っている。
本当に何も思わないのか、その気持ちを隠しているのか。
分からない。
僕は机の中にしまっていた本を取り出した。水色のハードカバー。
単なる興味だ。
守本さんは文字を書くしか、言葉を聞くことも出来ない。文字を書くだけで時間が食われるから、きっと最小限の情報だけ書いているのだろう。
どんなことを考えているのか、ただ気になった。
そして続きのページに人差し指を差し込む。
今はクラスが何の競技に出るか話し合いが行われている。僕が何をしたって少しくらい誤魔化しがきく。
そう思って、僕は本を守本さんにかざそうとしたその時だった。
「なぁ、」
「わっ」
不意に肩を叩かれて、僕は思わず声が喉をついた。
「何びびってんだよ。」
その声の主は、悠太だった。予想以上の反応の良さに、怪訝な表情を浮かべている。咄嗟に本を机の中にしまった。
「いや、で、なに。」
まだ早く波打つ心臓を抑えながら、僕は椅子に座り直す。
「涼、なに出んの?」
悠太が黒板を指差しながら、僕に問いかける。
ああ、球技会。
僕も黒板を見た。出たい種目の下に名前を書くシステムらしく、黒板にはクラスメイトたちの名前でびっしり埋め尽くされていた。
僕は自然とバレーと書かれた文字を見る。
バレーは人気がないようで、定員をまだオーバーしていなかった。
けれど、悠太は僕と同じ種目に出たいのだろうか。だとしたら、僕より悠太の意見を聞いた方がいい。
「俺、マジで何でもいいんだよな。逆になにすんの。」
「俺はバスケやりてぇんだけどさ、部活入ってるじゃん。」
心底悔しそうに悠太が息を吐く。
試合の公平性のため、部活に入っている種目は出られない決まりなのだ。
「マジで?どんまい。」
揶揄うように笑みを浮かべながら、肩をバシッと叩く。
慣れない行為に手が痺れるのを抑えて。
「それムカつくわー」
僕の作り出したノリは間違っていなかったようで、悠太も乗ってくる。
アニメや漫画の主人公や、中学の時にクラスの中心だった人のノリを模倣していて良かった。
けれど、疲れる。
やはり自分ではないキャラを作るのは容易ではないのだな、と実感する。けれど、クラスメイトの冷めた目よりも遥に苦しくない。
「じゃあ、バレーは?」
僕は様子を伺いながら、問いかける。
もしこれで許可が出たら、僕は願ったり叶ったりだ。
けれど、そんな上手くいくはずもなく、
「バレーだるくね?」
そんな言葉で一蹴されてしまった。
僕は確かに、と頷いた。結局、僕たちは余っていたドッジボールに出場することとなった。最後まで余っていたバレーは、クラスメイトにとってはつまらないものらしい。
そしてまた、いつものような学校生活が始まる。
入学してから間もないのに、男子も女子もグループが形成され始めた。僕はクラスの中心に立つ川田とも接点ができた。
中学の頃の自分では考えられない。
また僕が変なことを言わないように、望まれた言葉だけを言えるように、今日も何回も本を開いた。
この本は今では、命の次になくてはならない存在だ。
この本と出会えてなかったら、どうなってたのだろうと思うだけで、悪寒が襲う。
けれど、その分疲労は倍増だ。
体は至って健康なのに、何故かだるく、重い感覚がこびりついている。
「マジで、バスケ部入って欲しいのよ。だから体験でも何でも来てくれんの助かるわ。」
最高とでもいうように、川田が目の前でグーサインを作る。
僕は今日、バスケ部の体験入部に行く予定。
慣れないジャージを身に纏いながら、僕は体育館へと連なる渡り廊下へと足を踏み出した。
そして、体育館の入り口へと足を踏み入れた。
近くからは、シューズが床を擦る音が聞こえてくる。
まるで青春の音。
ここで色んなドラマが生まれるのだろう。それだけで心が浮き立ってしまう自分がいた。
「なあ、」
そんな音と光景に見入っていると、川田が僕の肩を引き寄せる。
「ん?」
「体育館は、体育館履きで入れよ?」
そう僕の露出した靴下を指差した。
そういえば…
床に擦れて高鳴るシューズがその事実を僕に突きつける。もちろん、上履きでスポーツができるわけがない。
「わりぃ!取ってくるわ。」
「おう。先行くからな。」
「すまん。」
まだニヤニヤと口角を上げる川田に謝罪をしながら、僕は体育館を飛び出した。
そして僕は、教室までの道のりを走る。
六限終了の鐘が鳴ってから、時間が経過している。学校に残っているのは、部活動や補習の生徒だけ。
あんなにも喧騒に包まれている廊下が、誰もいないのは新鮮だ。そして何故か清々しい。謙る相手も、怯える相手もいないのだから。
そう思いながら僕はとうとう一年三組と書かれた看板の前に来た。
教室から漏れる光は人工的なものではなく、夕日だ。
淡く、オレンジに教室を染めている。
白く、眩しく、息が詰まるような光ではない。
誰もいない。
僕は反射的にそう思った。
ガラ
ゆっくりと教室の後方の扉を開く。
「え?」
誰もいないと思っていた教室には、人がいたのだ。その上、その人の瞳は夕日に照らされ潤んでいるように見える。
「…守本さん。」
反射的にその名前が口を飛び出す。
キラキラと輝く茶髪が、夕日に照らされて、まるでスポットライトが当たっているような感覚に陥る。
透明感。その一言だけでは表せない、今にも消えてしまいそうな守本さんが座っていた。
体育館履きを取りにきたことなんか忘れて見入っていた。
その瞬間、守本さんが振り返った。
「あ…」
僕が教室に入ってきた音は聞こえていないはずなのに。
僕を見た瞬間、守本さんは瞳に浮かぶ涙を手の甲で拭き取った。そして気恥ずかしそうに笑った。
けれど無視を貫くことも出来なくて、守本さんの近くに寄る。
担任の言葉を思い出しながら、僕はゆっくりと口を動かした。
「ごめんね、靴を、取りに、来ただけ、なんだ。」
唇の形から読んでもらえるように、ゆっくりと話す。守本さんは、物心がついた頃から音のない世界で生きていたらしい。だから、唇で言葉を読み取ることは発達しているみたいだった。
守本さんの視線が僕の唇へと向かう。その行為に気恥ずかしくなる。僕なんかの顔を見てくれることなんて、家族以外にあっただろうか。
僕の顔を見る度に、あからさまに顔を顰める連中しかいなかった。実際、川田や悠太も、面と向かって目を合わせられない。
その視線に耐えきれず、僕はそっぽを向く。
その時、守本さんが机の横にかかっていた通学カバンからスマートフォンを取り出した。そして、メモアプリを開き、フリック入力で素早く文字を打ち込んでいく。
『そうなんだ。』
満面の笑みと共に僕に画面を見せる。
「じゃ、じゃあ。」
そう言い放ち、逃げるように立ち上がる。
正直こういう場面で適切な言葉を返す自信がない。
そして、僕は守本さんに別れを告げ、机の脇から体育館履きを持って、教室の後ろへ行く。
僕の両手には、水色のハードカバーの本が挟まっていた。
悟られないように、最低限の仕草で、本を開いた。
ようやく、守本さんの心が知れる。
普段、どんなことを思って生活しているのか、僕は知りたくなった。
「…え?」
僕は目を疑った。
間違っていたのかもしれないと、再びかざしてみる。
けれど、何回行っても結果は同じだった。
「ない。」
そう、ないのだ。
本に記された文字は、
『守本こころ: 』
だった。
名前はきちんと認識しているのに、どうしてか下に続くはずの心の声が書かれない。
こんなことは始めてだ。
あの日、河川敷で本を拾ってから、道ゆく人に何度も試した。
本当に誰でも心の声が聞こえるのか、確認した。何百人、何千人もしたと思う。だから断言できる。この本は正真正銘、『人の心が知れる本』なのだ。
けれど、守本さんの心の声だけが、どうしても見えない。
こんなことは初めてだ。
取り乱されずにはいられなかった。
担任が教壇に立って、ホームルームを仕切る。
僕はその言葉に耳を寄せながらも、窓から映る雲を眺めていた。昔から、よくある癖だ。
切り取られた四角い空が移り変わる様子が面白い。
風の流れによって、雲が自由自在に形を変える。それがまるで僕には出来ない超能力みたいで羨ましいのかもしれない。
「はい、俺バスケ一択。」
「ねぇねぇ。一緒にバドミントンやらない?」
「私何でもいいかな。屋内一択だけど。」
「それなー。焼けるし。」
クラスメイトが黒板に板書された球技を睨みながら、口々に希望を叫ぶ。
僕はチラッと黒板に目をやる。
バレーは小さい頃、父さんに教えてもらったことがある。だから、バレーかな、と頭の中で考えをまとめる。
中学生の時の僕であれば、すぐ口にしていたけれど、今はクラスの様子を伺う。
その時、担任がクラスメイトを静めるように、手を動かした。
「守本さんは出られないので、人数だけ気をつけてください。」
「「「はーい。」」」
ああ、出られないんだ。
そう僕は、教壇の目の前に座る守本さんをチラッと見る。
守本さんは頷き、近くの友人らしき人に頑張れとジェスチャーを送っていた。
相変わらず、ずっと笑顔で感嘆する。僕なら、クラス全体にそう言われるのは、いい気分ではないだろう。
それなのに、何事もなかったかのように、笑っている。
本当に何も思わないのか、その気持ちを隠しているのか。
分からない。
僕は机の中にしまっていた本を取り出した。水色のハードカバー。
単なる興味だ。
守本さんは文字を書くしか、言葉を聞くことも出来ない。文字を書くだけで時間が食われるから、きっと最小限の情報だけ書いているのだろう。
どんなことを考えているのか、ただ気になった。
そして続きのページに人差し指を差し込む。
今はクラスが何の競技に出るか話し合いが行われている。僕が何をしたって少しくらい誤魔化しがきく。
そう思って、僕は本を守本さんにかざそうとしたその時だった。
「なぁ、」
「わっ」
不意に肩を叩かれて、僕は思わず声が喉をついた。
「何びびってんだよ。」
その声の主は、悠太だった。予想以上の反応の良さに、怪訝な表情を浮かべている。咄嗟に本を机の中にしまった。
「いや、で、なに。」
まだ早く波打つ心臓を抑えながら、僕は椅子に座り直す。
「涼、なに出んの?」
悠太が黒板を指差しながら、僕に問いかける。
ああ、球技会。
僕も黒板を見た。出たい種目の下に名前を書くシステムらしく、黒板にはクラスメイトたちの名前でびっしり埋め尽くされていた。
僕は自然とバレーと書かれた文字を見る。
バレーは人気がないようで、定員をまだオーバーしていなかった。
けれど、悠太は僕と同じ種目に出たいのだろうか。だとしたら、僕より悠太の意見を聞いた方がいい。
「俺、マジで何でもいいんだよな。逆になにすんの。」
「俺はバスケやりてぇんだけどさ、部活入ってるじゃん。」
心底悔しそうに悠太が息を吐く。
試合の公平性のため、部活に入っている種目は出られない決まりなのだ。
「マジで?どんまい。」
揶揄うように笑みを浮かべながら、肩をバシッと叩く。
慣れない行為に手が痺れるのを抑えて。
「それムカつくわー」
僕の作り出したノリは間違っていなかったようで、悠太も乗ってくる。
アニメや漫画の主人公や、中学の時にクラスの中心だった人のノリを模倣していて良かった。
けれど、疲れる。
やはり自分ではないキャラを作るのは容易ではないのだな、と実感する。けれど、クラスメイトの冷めた目よりも遥に苦しくない。
「じゃあ、バレーは?」
僕は様子を伺いながら、問いかける。
もしこれで許可が出たら、僕は願ったり叶ったりだ。
けれど、そんな上手くいくはずもなく、
「バレーだるくね?」
そんな言葉で一蹴されてしまった。
僕は確かに、と頷いた。結局、僕たちは余っていたドッジボールに出場することとなった。最後まで余っていたバレーは、クラスメイトにとってはつまらないものらしい。
そしてまた、いつものような学校生活が始まる。
入学してから間もないのに、男子も女子もグループが形成され始めた。僕はクラスの中心に立つ川田とも接点ができた。
中学の頃の自分では考えられない。
また僕が変なことを言わないように、望まれた言葉だけを言えるように、今日も何回も本を開いた。
この本は今では、命の次になくてはならない存在だ。
この本と出会えてなかったら、どうなってたのだろうと思うだけで、悪寒が襲う。
けれど、その分疲労は倍増だ。
体は至って健康なのに、何故かだるく、重い感覚がこびりついている。
「マジで、バスケ部入って欲しいのよ。だから体験でも何でも来てくれんの助かるわ。」
最高とでもいうように、川田が目の前でグーサインを作る。
僕は今日、バスケ部の体験入部に行く予定。
慣れないジャージを身に纏いながら、僕は体育館へと連なる渡り廊下へと足を踏み出した。
そして、体育館の入り口へと足を踏み入れた。
近くからは、シューズが床を擦る音が聞こえてくる。
まるで青春の音。
ここで色んなドラマが生まれるのだろう。それだけで心が浮き立ってしまう自分がいた。
「なあ、」
そんな音と光景に見入っていると、川田が僕の肩を引き寄せる。
「ん?」
「体育館は、体育館履きで入れよ?」
そう僕の露出した靴下を指差した。
そういえば…
床に擦れて高鳴るシューズがその事実を僕に突きつける。もちろん、上履きでスポーツができるわけがない。
「わりぃ!取ってくるわ。」
「おう。先行くからな。」
「すまん。」
まだニヤニヤと口角を上げる川田に謝罪をしながら、僕は体育館を飛び出した。
そして僕は、教室までの道のりを走る。
六限終了の鐘が鳴ってから、時間が経過している。学校に残っているのは、部活動や補習の生徒だけ。
あんなにも喧騒に包まれている廊下が、誰もいないのは新鮮だ。そして何故か清々しい。謙る相手も、怯える相手もいないのだから。
そう思いながら僕はとうとう一年三組と書かれた看板の前に来た。
教室から漏れる光は人工的なものではなく、夕日だ。
淡く、オレンジに教室を染めている。
白く、眩しく、息が詰まるような光ではない。
誰もいない。
僕は反射的にそう思った。
ガラ
ゆっくりと教室の後方の扉を開く。
「え?」
誰もいないと思っていた教室には、人がいたのだ。その上、その人の瞳は夕日に照らされ潤んでいるように見える。
「…守本さん。」
反射的にその名前が口を飛び出す。
キラキラと輝く茶髪が、夕日に照らされて、まるでスポットライトが当たっているような感覚に陥る。
透明感。その一言だけでは表せない、今にも消えてしまいそうな守本さんが座っていた。
体育館履きを取りにきたことなんか忘れて見入っていた。
その瞬間、守本さんが振り返った。
「あ…」
僕が教室に入ってきた音は聞こえていないはずなのに。
僕を見た瞬間、守本さんは瞳に浮かぶ涙を手の甲で拭き取った。そして気恥ずかしそうに笑った。
けれど無視を貫くことも出来なくて、守本さんの近くに寄る。
担任の言葉を思い出しながら、僕はゆっくりと口を動かした。
「ごめんね、靴を、取りに、来ただけ、なんだ。」
唇の形から読んでもらえるように、ゆっくりと話す。守本さんは、物心がついた頃から音のない世界で生きていたらしい。だから、唇で言葉を読み取ることは発達しているみたいだった。
守本さんの視線が僕の唇へと向かう。その行為に気恥ずかしくなる。僕なんかの顔を見てくれることなんて、家族以外にあっただろうか。
僕の顔を見る度に、あからさまに顔を顰める連中しかいなかった。実際、川田や悠太も、面と向かって目を合わせられない。
その視線に耐えきれず、僕はそっぽを向く。
その時、守本さんが机の横にかかっていた通学カバンからスマートフォンを取り出した。そして、メモアプリを開き、フリック入力で素早く文字を打ち込んでいく。
『そうなんだ。』
満面の笑みと共に僕に画面を見せる。
「じゃ、じゃあ。」
そう言い放ち、逃げるように立ち上がる。
正直こういう場面で適切な言葉を返す自信がない。
そして、僕は守本さんに別れを告げ、机の脇から体育館履きを持って、教室の後ろへ行く。
僕の両手には、水色のハードカバーの本が挟まっていた。
悟られないように、最低限の仕草で、本を開いた。
ようやく、守本さんの心が知れる。
普段、どんなことを思って生活しているのか、僕は知りたくなった。
「…え?」
僕は目を疑った。
間違っていたのかもしれないと、再びかざしてみる。
けれど、何回行っても結果は同じだった。
「ない。」
そう、ないのだ。
本に記された文字は、
『守本こころ: 』
だった。
名前はきちんと認識しているのに、どうしてか下に続くはずの心の声が書かれない。
こんなことは始めてだ。
あの日、河川敷で本を拾ってから、道ゆく人に何度も試した。
本当に誰でも心の声が聞こえるのか、確認した。何百人、何千人もしたと思う。だから断言できる。この本は正真正銘、『人の心が知れる本』なのだ。
けれど、守本さんの心の声だけが、どうしても見えない。
こんなことは初めてだ。
取り乱されずにはいられなかった。