「ただいまー」

玄関の靴箱の上に家の鍵を置く。そして惰性で挨拶をした。
学校から、電車で四十分ほど走るとつく自宅。歩きや自転車通学の生徒が大半を占める中で、僕はかなり通学に時間がかかっている方だと思う。
悠太や、クラスメイトである川田からバスケ部の誘いが来ているが、まだ僕は帰宅部。六限終了の鐘が鳴ると、特に用もない僕は教室を出る。
それなのに、もうすぐ日が暮れそうだ。キッチンが備わっている二階からは、揚げ物の美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。
電車で寝落ちなんてしてしまった時は、外はすっかり暗くなり、街灯が道を照らしていた。
今日も電車で本を開いていた。これはあの「人の心が知れる本」ではなく、ただの小説だ。僕はスマートフォンなどの媒体は電車で使用しない。
周りと同じで、なんだか悔しいからだ。
そんな考えだから空気が読めない、なんて言われてしまうのだろう。

「あ、涼。おかえり。」
「あれ、姉ちゃんバイトは?」

二階について、通学カバンを下ろすと、僕は暖かい声に囲まれる。その中には、珍しく姉ちゃんがいた。
四つ違いの姉。
本当に同じ遺伝子なのだろうか、と疑ってしまうほどフレンドリーな性格をしている。姉ちゃんが高校生の時には、毎日違う顔ぶれが家にいた。
重い茶色の髪色をした姉ちゃんは、母さんの横に立っている。
今日はバイトのはずなのに。

「鬱陶しいからやめてやったの。」

ニッと口角をあげ、僕にピースサインを出す。

「え?」

想像すら超えてしまうその行動に、僕は唖然とする。
ピースサインを作っている場合じゃないのに、姉ちゃんは吹っ切れたようにニコッと笑う。なんというか、本当に行動力の塊だ。

「あんた、まだバイト始まって三ヶ月じゃないの。」

隣に立っていた母さんが姉ちゃんのピースサインを引っ込める。その顔は呆れていて、自由奔放な姉ちゃんに振り回されていることがよく分かる。

「だってー。」

油の中で転がる唐揚げを菜箸で掬い取りながら、口を開いた。その背中は、一寸の迷いもなく堂々と地に足をつけている。

「自分、曲げたくないじゃん。人に合わせるの嫌なんだよね。それも高圧的な人に。」
「その自分を曲げたくないって言う言い訳で、何個バイトやめてきたのよ。少しは涼を見習いなさい。」

母さんがバシッと音をたて、姉ちゃんの頭を叩く。痛い、と姉ちゃんが声をあげる。
だけど、誰よりも痛かったのは僕だった。
心臓が締め付けられて、僕の行動が思い出される。自分を殺している僕を。

「姉ちゃんって、凄いな。」
「でしょー」

本心だった。
眩しくて、眩しくて仕方がない。とてつもなく明るくて、大きくて、眩しい太陽を見ているような気分。
僕はため息をついた。
そして心の中で呟く。自分を嘲笑するように、本当に同じ遺伝子を持っている、と。

そしていつものように夜が明け、役目を果たした月が眠った世界。
僕は家族に見送られながら、駅へと向かう。
駅ではスーツを着たサラリーマンや、制服を着た学生たちでごった返していた。溢れんばかりの人の多さに、僕はため息を吐く。
そんな黒と白のコントラストが印象的な駅では、僕の頭は自然を目立つ。明るい茶色の髪。高校デビューを成功させるために、髪色を変えるというベタなことをしたのだ。

「…う」

体が押しつぶされそうな圧力を全身に感じながら、電車は駅を発った。通学、通勤の人が多く利用するこの時間帯は、満員電車が普通。
たまに小学生を見かけるが、潰されてしまわないかと心配になる程。
僕はカバンから小説を取り出した。昨日悠太に借りたものだ。
中学生の頃、僕はミステリー小説にどっぷり浸かっていた。ゾクゾクするような展開と、喉が渇いてしまう展開に心躍らされた。
けれど、これはいわゆるライトノベルだ。
小説とは違い、そのテンポの早さに驚きながらも、ページを捲る手は止まらなかった。超能力を持つ主人公を見ていると、心が躍って仕方がない。
通学カバンに放置されていたけれど、結構当たりだ。
自然に人が少なくなっていって、周囲に余裕が出来る。
そしてもう少し駅を巡ると、座席がちらほらと隙間を見せる。
そして僕は電車を降りた。
この駅に踏み込んだこの瞬間から、僕は背筋を丸くする。銀色に光るネックレスのチェーンを握る。
バカっぽい男子高校生、酢谷涼の完成だ。