その本を拾った時から、僕の人生は変わったのだろう。この本のおかげで僕の人生は一転した。まさに僕を救ったヒーローのように思えた。

「涼―。次、移動だってよ。めんどいよなー」

僕を呼ぶ声に、ハッと顔をあげる。
目の前には、それはそれは退屈そうに、大きな口を開けてあくびをする悠太。

「涼?」

再び僕の声を呼ぶ、怪訝そうな涼の声。
その声に、僕は慌てて悠太に本をかざした。

『土屋悠太:涼のやつ、疲れてんのかな。』

その文字に、僕は心を撫で下ろした。
大丈夫だ。嫌われてない。

「まじめんどいよなぁ。」

僕は席から立ち上がり、次の授業に必要な教材をまとめる。
中学時代まで優等生キャラだったからか、授業の準備は完璧だ。正直面倒なんて思っていない。
ただ、そういうノリについていこうと思っているだけだ。
けれど、そんなことを言ってしまったら、また「あいつ、変」と蔑まれてしまうだろう。
だから僕は、今日も自分を偽る。
この本とともに。

「お前さー、教科書に落書きとかせんの?」

僕が筆箱を持って席を立とうとすると、悠太が歴史の教科書をパラパラと捲っていた。まるで自分とは違う生物を見るような、白く冷たい目つきで。
その様子に僕は慌てる。

「逆にすんの?」

背骨を曲げて、ヘラヘラとした態度を取りながら。
そんな僕を見て、出会ってから一ヶ月とは思えない態度で、ニヤッと笑った。

「あったりめーだろ。ペリーにヒゲ生やすだろ。」
「それ、お前だけじゃね?」
「違うわ。」

そんな話をしながら、僕たちは教室を出た。そもそも教科書に落書きをするなんて発想自体なかった僕は、内心勉強になっていた。
ノリの乗り方なんて全く知らない僕は、怪しまれないように全てを吸収しないといけない。
もう、中学時代の僕には戻りたくないのだ。

教室を出て、三歩くらいの距離に階段がある。この階段は学校の要となっていて、色んな生徒や教師が忙しなく行き交う。そのためか、登り専用と、下り専用で階段が分かれており、通路が狭くなっている。
確認するのは、今しかない。
その間に、僕は悠太より一歩下がり、脇に挟んでおいた本を開いた。
その本は、あの時河原で拾ったものだ。
水色のハードカバーで、その表紙に白く、長方形の紙が取り付けてある。その紙の上に、「人の心が知れる本」というタイトルが記されている。
僕は、そのタイトルを見られないように、さらに白い折り紙で貼り直してある。僕以外の人から見れば、少しお洒落な文庫本だという解釈をされるだろう。
しかし、それでいいのだ。
これだけは絶対に、守らなくてはいけない秘密なのだ。
そして、僕は先程の続きから本を開いた。
先ゆく悠太の背中に、本をかざす。すると、文字が浮き上がってきた。最近流行りのケータイ小説のような横書きの文字。
そこにはこう書かれている。

『土屋悠太:涼って見た目に寄らず、真面目なんだなぁ』

その文字に僕は思わず肩が跳ね上がった。
…真面目。
あれほど気をつけていたのに、流石の観察眼、とでもいうのだろうか。けれど、それだけでは僕の秘密を暴くことはない。
大丈夫だ。
僕はいつの間にか、首元にチャラチャラ揺れるネックレスを握っていた。
商店街で買った、三百円の男性用ネックレス。チェーンのようなデザインが、男って感じで気に入った。そのネックレスに合うように、黒髪だった髪も茶髪に変えた。
まるで、漫画の主人公のような、絵に描いた高校デビューを果たしたのだ。
外見が変わると、自分も変わって見えた。憧れの友人も出来て、最高の毎日だ。それも、全てこの本が運んできてくれた。
まさに、僕の救世主。
そして、止まっていた足を再び動かした時だった。

「…わっ」
「っ」

もうすぐで、生物実験室がある五階に到達しそうなところで、事件は起こった。ボゥっとしていたからか、急な衝撃に耐えられず、体が前方に大きく倒れた。
視界が黒く染まる。
受け身もとれず、地面にそのまま落ちてゆく。

「おい、大丈夫かよ。」

その衝撃に、目の前を歩いていた悠太が振り返った。周辺にいた生徒たちからも注目を浴びる。

「っ」

膝が床と擦れて、ヒリヒリと痛む。
しかし、こんなところで真面目に痛がっては、僕の努力が水の泡だ。笑いを誘えるように、また背骨を曲げ、ヘラヘラとした様子で立ちあがろうとする。
その時だった。
僕の前に倒れる影が視界に入ったのだ。
綺麗な茶髪が前にかかっているせいで、その顔を視認できない。けれど、僕がぶつかってしまった人に違いない。

「っ。ごめんっ」

女の子とぶつかってしまった。それも、相当な威力で。
こんなことは初めてで、中々起き上がらないその顔に焦り始める。

「涼、お前やったな。」

流石の悠太もこれはまずいと判断したのだろうか。顔を顰めている。

「「こころ!大丈夫?」」

その名前を聞いた途端、僕は血の気が覚めていく。

「守本さん…」

小さく、拙く、その名前を呼んだ。そして、三人くらいの女の子が、守本さんを囲う。その一人が、切れ長の目で僕を睨みつける。

「ごめんなさい。怪我はないですか?」

焦りながら、僕は守本さんが落としたであろう教材を拾っていく。

「ちょっと、気をつけなさいよ。」
「…はい。」

赤司さんだろうか。守本さんと仲の良いクラスメイトから冷たい視線を浴び、心臓が冷えていく。
そして僕は姿勢を低くし、懸命に頭を下げた。ようやく顔を上げた守本さんは笑っていて、それだけで強張っていた肩が落ちていく。

「ごめん、なさい。」

僕はゆっくりと口の形を見せるように、守本さんに語りかける。
すると、守本さんは落としたクロッキー帳を僕の手から取り、スラスラと文字を書いた。

『大丈夫だよ。』

その言葉に思わず顔をあげると、口角を上げて、目を細めて、笑っている守本さんがいた。
噂通りの人だった。
障害を抱えているのに、ずっと笑顔らしい。
守本さんはスカートを払いながら、ゆっくりと立ち上がった。それを、一人の女子がサポートする。

「ありがとう。ごめん。」

僕はもう一回、謝罪をして、その場を去った。
もちろん、階段の出入り口だから留まることは他の生徒にも迷惑だし、あの女子の視線も痛い。
もし当たりどころが悪かったら、僕が怪我をさせていたかもしれない。
改めて自分の情けなさに打ちのめされながらも、待っていた悠太と生物実験室まで向かった。

「守本さんにぶつかるとか何してんだよ。」

揶揄うように体を寄せ、僕の耳元で小さく囁いた。その妙に眉が上がる顔に苛立ちを覚える。

「…焦ったわ。」
「マジでそれ。」

そんな気持ちを取り繕って、僕はいかにも馬鹿っぽく振る舞う。中学生時代にクラスを仕切っていた人のように。

「けどよ、優しくて良かったな。」
「…おう。」

僕たちの後ろで歩く守本さんたちのグループを横目に、悠太が言う。それは思わず頷いてしまうほど、共感できた。