あれから僕は学校に行けなくなった。
行かなくなった。
両親や姉ちゃんには迷惑をかけないように、制服は毎日身に纏っているところが、我ながら最低だなと思う。
そして満員電車に揺られることなく、下り電車に乗って疎開する。
決まって向かうのは、あの場所だ。
あの頃は、桜並木で世界がピンク色に染まっていた。
けれど、今はもう夏だ。世界は緑色に色付いていて、河川敷にいても、厳しい太陽が背中を焼いていく。
鼻をつく青葉の匂いと、辺りに轟く蝉声と、そよとも動かぬ風は夏を象徴している。
僕はそこの河川敷で、世界が変わった。人の心が読めるようになって、クラスに馴染めて、友人まで出来た。
けれど、その変わった世界は、自分の手で閉ざしてしまったけれど。
僕は毎日そこにいた。
河川敷に腰を下ろし、本を読み耽る毎日だ。

けれど、今日は本来ならば、夏休み一日目だ。
今までとは違うことをしてみようという変な勇気が湧いてきて、僕を突き動かした。

「母さん、自転車借りるよー」

そう何年も使われていない自転車を動かしたのだ。
そして事前に検索していたあの場所へのルートを確認しながら進んでいく。
額に浮き立つ汗が風によって冷やされて、案外気持ちいい。
普段よりも二倍の時間をかけて、ついたその場所は、目を疑ってしまうほどキラキラと輝いていた。
初めてここに来た時のような、心躍る感動が身を包んだ。僕は肺一杯に空気を溜め込んで、吐き出す。
僕は河川敷に自転車を置き、日陰に身を潜める。
ここはあまり涼しくないらしい。
そんなことを思いながら、今日もトートバックから小説を取り出す。けれど読む気なんか起きなくて、ページをパラパラ捲っていた時だった。
不意に、肩に何かが触れる感触がした。

「わっ」

ここは郊外のためか、人通りは少ない。
そんなところで声をかけられる確率は、とても低いのだ。
そして思わず振り返った先にいた人物に、僕は息を呑んだ。

「…守本さん。」

久しぶりに会う、真夏の太陽にも負けない笑顔をした守本さんがいたのだ。
心臓が飛び上がって、心拍数が上がっていく。

「どうして、ここに?」

再会の言葉よりもそんな疑問が口から飛び出す。

『ここ、おばあちゃんちの近くなんだ。散歩してたら酢谷くんがいたから、びっくりしちゃったの。久しぶり。』

よっこいしょと、守本さんが僕の隣に腰掛ける。

「あ、そうなんだ。久しぶり。」

緊張しているのか、手から汗が吹き出す。久しぶりの再会ということもあり、僕が学校に行ってないということもあり、顔を見て話すことは出来ない。
そんな僕を気遣うように、守本さんがスマートフォンの画面を見せる。

『元気だった?』
「うん。」
『あの時、助けられなくて、ごめんね。』
「いやいや、そんな。僕が悪いんだから。」
『でも、酢谷くんは私を助けてくれたのに。
今まで私が耳聞こえないから、優しくしてくれる人は何人もいたの。けれど、私のために怒ってくれた人は初めてだった。
その時、私はようやく決心がついて、琳ちゃんと縁を切ったの。全部、酢谷くんのお陰。』
「…それは、よかった。」

久しぶりの再会で、こんな情けない姿は見せたくないのに。思わず頬に冷たい何かが流れる感覚がする。

『だから、今度は私が助けたいの。』
「…え?」

僕はその言葉に反射的に振り返った。
その様子ににやりと笑いながら、守本さんはスマートフォンの画面を操作する。

『酢谷くんと話している時、すごく心地よかった。私を障害者として扱ってくれてないってことが分かったの。返事も待っててくれて、そのゆったりとしたペースが好きだった。
人の心が知れる本ってやつ。それは確かにびっくりしたけれど、そこに私の心の声は書いてなかった。だから私の気持ちを知って、良い雰囲気を作ってくれたんじゃないって知って、嬉しかった。私が最初から諦めてたバレーボールだって、提案してくれた時は本当に嬉しかったの。私はそれだけで救われた。』

その膨大な量の文章を辿りながら、僕の視界は歪んでいく。

「うっ」

あの視線を浴びた後に、こんなにも優しい言葉を浴びたせいだろう。何故か感情の制御が効かない。

『あれはどれも、本物の酢谷くんなんだって知れて、本当に嬉しかった。だから、学校に来なくてバレーボールをトスし合えなくて、寂しかった。』
「…僕も。」

確かにあの視線は僕のトラウマを蘇らせた。心臓が痛くなるほど、呼吸が苦しくなるほどに。けれど、それだけじゃない。中学の時とは決定的に違うものがある。
それは思い出だ。
悠太とバカを言い合って、守本さんと放課後に二人でバレーボールをした。夕日に照らされる横顔に何回も見惚れていた。
そう思った瞬間、温いけれど、確かにふわりと風が舞った。
青葉の匂いとともに、僕の頬の涙を消していく。
その時だった。
守本さんが、僕の頬を両手で包み込んだ。

「え?何して…」

突然のことに思考が追いつかなくて、僕は唖然とする。
守本さんの両手によって丸く切り取られた視界いっぱいに、守本さんの顔が映し出される。それはあまりにも静かで、心臓がこれ以上ないスピードで動いているのを感じる。
その時だった。
守本さんが口を開いた。
慣れないようで、僅かにぎこちなく微笑みながら、確かにこう言ったのだ。

「好ぎ、だ、よ。」

僕はもう耐えられなかった。守本さんの白くて綺麗な両手に次々と楕円形の染みを落としていく。
それと相反するように、僕は耳まで赤く染まっていく。
守本さんの声は綺麗だった。
僕のために精一杯に声を出してくれたのだろう。
僕は守本さんに負けないくらい噛みながら、

「ぼ、ぐも、です。僕も、好ぎです。」