新曲がコマーシャルで流れ始めると、今までファン層になかった世代からの反響に押されるようにして、音楽番組やイベント出演の量が格段に増えたという。フェスの出演もそのひとつだった。
 僕がいてまだそんなに忙しくなかった頃は、スタジオや事務所のソファで休憩したり、みんなでお酒を飲むくらいの余裕はあったのだけれど、今や一日も戻って来られない時も多く、高杉さんも疲れ切って何も手を付けられていないのだと言う。

「たしかに、これはたいへんですね」
「スタジオの管理だけじゃなくて事務所も和音君がいないと回らない状態なんだ、実は」
「でんわや、せっきゃくいがいは、やります」
「ありがとう!」
 和音くーん、と泣きついてくる高杉さんに、僕の方が逆にお礼を言いたい。僕が辞めると言った言葉を、預かりにしておいてくれたんだから。
「そうそう、スタジオの方も見ておいてくれる? 機材の置き場所は変わってないと思うけど一応」
「わかりました」
 こっちで和音復帰おめでとう宴会の準備しておくからね、と荷物だらけの応接セットから歌維人さんと詠汰さんが顔を覗かせ、奏さんは荷物をどかしながら苦笑をしている。忙しいはずなのに、今日は僕のために時間を取ってくれたのだと思うと感謝しかない。

 スタジオのあるフロアへと向かった。第一スタジオを覗くとそこも荷物が増えていて、掃除のしがいはありそうだ。
 ドキドキしながらもうひとつの第二スタジオへ向かう。ガラス窓をそっと覗けば、スネアドラムのメンテナンスをしている響也さんの姿があった。
「しつれいします」
 どんな顔をして会えば良いのか分からなくて、小さくドアの隙間から顔だけを覗かせると、響也さんは顔を上げて、
「お、来たな」
 と優しい笑顔を見せてくれた。おいで、と手でジェスチャーをされて、おそるおそる中へ入る。
「ありがとうな、また来てくれて」
 そんな。ありがとうというのは僕の方だ。諦めていた気持ちを心の中へ呼び戻してくれてありがとうございます。そんな風に上手い言葉で表現出来たらどんなに良いか。
 けれど口から出たのは、ありきたりの言葉だった。
「すみませんでした。また、よろしくおねがいします」
「こちらこそ、またよろしくな」
 ぽんぽんと優しく頭を撫でられる。ふいにそういうことをされるとだめだ。すぐに顔に血が上っていくのを感じて、下を向くしかなかった。耳も熱いから、響也さんにはばれてしまっていると思うけれど。
 響也さんはどう思っているだろうか。頭を撫でられたくらいで顔を赤くするなんて、気持ち悪いと思われないだろうか。そんなことを思えば、ますます顔を上げられなくなる。
「休んでいた間の宿題。俺のドラムセット、チューニングの仕方教えるから覚えること」
 少し笑いを含んだ口調にそろっと黒目だけを上げてみると、黒縁眼鏡の奥の目は僕の気持ちを見通しているかのように細められていて、どうしたらいいか分からなくなって、また下を向くしかなかった。
「OK?」
「……はい」
「よし」
 みんなのところへ戻ろうか、とドアを開けかけて、響也さんが立ち止まった。
「そうだ。俺も言ったよ、親に。今やっている音楽のこと。みんなを活かす歌を歌うのが俺には合っているって。理解はされなかったけど、好きにしろってさ」
「きょうやさん……」
「和音がいたから、俺も強くなれた」
 僕がいたからなんて。響也さんは励ましてくれる意味で自分の話をしてくれたんだろうけれど、僕にとってはこれ以上ないほど嬉しい言葉だった。
「俺はずっと待ってる。和音がフェスでエンシオのバックをしてくれること。それまで、エンシオの歌を歌い続けてるから。だから、和音も夢を諦めるな」
「……はい」
 もう諦めない、絶対に。響也さんへの恋する気持ちは昇華させて、すべてドラムに注ぎ込む。プロのドラマーになって、エンシオのバックでドラムを叩く。
みんなの待つ事務所へ歩いて行く響也さんの背中を見ながら、僕は二度とこの気持ちを手放さないことを決意した。