響也さんが来たと、声だけで分かる。事務所のフロアにエレベーターが到着すると、どうしても意識がそっちに行ってしまう。
 他のメンバーだったらいつも通り振る舞えるのに、響也さんがいると、荷物のチェックをし始めたりさっき片付けたばかりなのにスタジオの様子を確認しに行ったりして、響也さんと顔を合わせないという、おかしな努力をしている。
 なのに、耳だけは響也さんの声を追っていて、自分でも相変わらず自分の気持ちが分からない。

 ポーンとエレベーターの音がして、身構えた。事務所に入って来たのは歌維人さんで、ちょっとほっとする。
「歌維人さん、お疲れ様です。何か飲みますか?」
「お疲れー。喋り疲れた。なんか冷たいのくれぇ」
「はい」
 歌維人さんは、雑誌のインタビューだったはずだ。新曲『make dreams come true』を含むミニアルバムの作曲は今回すべて歌維人さんが手掛けていて、代表でインタビューを受けに行ったのだ。全部喋り尽くしてきてやったと歌維人さんはソファにぼふっと倒れ込んだ。
「大変でしたね。ここに置いとくので」
「サンキュー」
「和音、俺にもくれる?」
 歌維人さんと話をしていたら、背後からそう声を掛けられて、飛び上がりそうなほどにびっくりした。
「あ、は、はいっ」
 慌ててキッチンへ駆け込む。響也さんも帰って来ていたとは気付かなかった。エレベーターから降りてスタジオに寄ったのかもしれない。
 グラスに飲み物を入れてから氷をいつもの数だけ落としたら、飲み物が溢れてしまった。動揺している自分がいて、なんなんだと思う。
 失敗した飲み物は自分用にして、もう一度正しく入れ直す。ソファで、響也さんは歌維人さんと楽しげに喋っていた。
「すみません、お待たせしました」
「ありがとう。ちょっとスタジオ入ってるから、なんかあったら呼んでくれる?」
「はい」
 飲み物の入ったグラスを持って、響也さんは事務所をあとにした。後ろ姿だったらいくらでも見ることが出来るのに。ううん、とソファに寝転がる歌維人さんには分からないように、僕はいつまでも響也さんの後ろ姿を目で追った。
 ドキドキしていた。違う、このドキドキは憧れの響也さんの「ありがとう」という声に、一ファンとしてドキドキしているだけだ。
 違う? 何と比べて違うんだ? 僕は一体、何に言い訳をしようとしているんだろう。僕の中の感情に、何が生まれているんだろう。
 響也さんが入っていったスタジオのドアが閉じられて、その答えは見つからなかった。

 高杉さんに頼まれた仕事を終えて事務所へ戻る途中、第二スタジオの様子が見えるガラス窓の隅から、ドラムセットに座る響也さんの姿が見えた。何か考えごとをするのに、響也さんはドラムセットのある第二スタジオを使うことが多いというのが分かってきた。
 もうひとつのスツールに置かれたグラスは空になっている。新しい飲み物を持って、僕はスタジオのドアをノックした。
「失礼します。響也さん、おかわり持ってきました」
「ああ、ありがとう。喉が乾いてあっという間になくなってたんだ。助かる」
「じゃあ失礼しました」
「待って和音。ちょっと休憩付き合って」
スツールから下りると、響也さんは手招きをして僕を呼んだ。
「和音使っていいよ。あ、俺いるの嫌か?」
「そんなことないです!」
「良かった」
 響也さんが別のスツールへ移動したので、僕はドラムの前に座らせてもらった。
 数日自主練に身が入らなかったもやもやが小さくなったのは良いのだけれど、今度は目の前にいる響也さんへのドキドキが上回って困る。緊張、そう緊張しているだけだ。僕は自分に言い聞かせた。

 先日のレッスンで出来なかったところを重点的に復習した。スティックの持ち方にまた癖が出てしまっていると先生に指摘されたので、意識して叩く。ドキドキする心臓の動きに惑わされないように安定したテンポで。
 ちらりと響也さんの方を見ると、僕の叩くリズムに合わせて楽譜を指で軽く叩いていた。きっと無意識なんだろう。自然体の響也さんがそこにいると思うと、テンポが早くなってしまいそうで、慌てて平常心に戻す。
 響也さんにはおそらく理由があって彼女と長続きしないという先生からのオフレコ話を聞いて、思い当たるところがあった。アルバイト初日の帰り道、地下鉄へ向かう入り口の前で「上手くいかなかった時期があった」という響也さんの言葉は、きっとその頃の話なのだろう。

 僕が感じたもやもやには、おそらく名前がある。そのもやもやを上回るほどの、今のドキドキがそれを証明している。けれどそれにQEDを付けるには、きっとハードルはものすごく高い。