アルバイトはドラムのレッスン日を除いて週五日。変則的だけれど、平日は夕方六時から十時までで、来てくれたら助かると高杉さんに拝まれた土日は、朝から夕方の五時まで。大学の勉強とドラム以外にやることはないので、まったく問題ない。

 アルバイトに励むこと数日。エンシオの事務所はそれなりに片付いてきて、高杉さんの机、メンバーが使う机、僕の机まであって、いまだに出勤する日は緊張する。応接セット、打ち合わせブースの全貌もようやく見えてきて、高杉さんはほっとしていた。大量の段ボールは、回収日がまだ先なので山のように積み上げられているけれど。
 プロの業者さんが綺麗にセッティングした第一スタジオは小さめだとみんなは言うけれど、僕にしたら夢のようなスタジオだった。
 おしゃれな吸音パネルで囲まれたスタジオ内には、いろんな機材が使い勝手良く並べられている。楽曲に関する打ち合わせのためのソファセットでくつろぐのが好きなのは歌維人さんで、事務所の方には顔を出さずスタジオにいることが多い。
「アーティストって感じじゃん?」
 なんて言って奏さんにこづかれているのを目撃したのは、僕だけの秘密だ。

 個人の練習用に作られた第二スタジオに置いてあるのは、響也さんのドラムセット。なんやかんやでメンバーにいじられながらも、かつて所属していたヴィジュアル系バンドのステッカーを剥がしていないのは、響也さんにとって大切な思い入れがあるからなのだろう。
 プロのドラマーになりたいという点をもし評価してもらえたのなら、下手に遠慮していないでこのチャンスを使わせてもらおうと、第一スタジオにある機材の手入れをするのと一緒に、響也さんのドラムもクロスで拭いた。
 高杉さんが言った通り、正直スタジオの管理でそう難しいことをする必要はなかった。エンジニアさんがいるし、メンバーも高杉さんも機材のことはよく分かっている。
 指示通りに機材を元の場所へ片付け、壊れたりしていないかを簡単にチェックしてクロスで拭く。新しいものばかりだから、トラブルが起きることは今のところない。床掃除や打ち合わせのソファセットを綺麗に直して電気を消すまでがアルバイトの仕事。

 今日は事務所の方を重点的に手伝ってほしいと高杉さんから泣かれて(書類の山に埋もれるというのはこういうことを言うのだと思った)、重要な書類やデータは高杉さんが、僕は手紙やアンケート、ファンから届いたプレゼントなどを仕分けする仕事をしている。
 黙々と作業をこなすのは好きだと言ったら、ファイリングも手伝ってほしいと机の上にどさっと置かれて、思わずふうと小さく息をつく。これはたしかに人手のいる仕事だ。高杉さんとメンバーだけで今までよくやっていたなと思ってしまうほどの雑務の数々。
 これで少しでも高杉さんが社長として動きやすくなれば嬉しいし、メンバーが歌にだけ集中出来る環境が出来るのなら、つまりは僕が助かる。
 シャツの袖を腕まくりして、ファイリングに取り掛かろうとした時、ほっぺたにひやっとしたものを押し付けられて「ひっ」と声を上げてしまった。冷たいコーラのペットボトルだ。
「あ、驚かせちゃった? ごめんね」
 事務椅子の後ろを振り返ると、歌維人さんと詠汰さんがいたずらっぽそうに笑っていた。
「お、お疲れ様です」
 急に実物のエンシオを見るとドキドキする自分がいて、この事務所はまだちょっと心臓に悪い。
「和音、お疲れ。ちょっとさぁ一休みしなよ」
「俺らも一休みするからさ」
「あ、じゃあなんか飲み物作ってきます」
「いいよ、俺らも下のコンビニで買って来たから」
 シャカシャカとレジ袋を顔の前で振って、奏さんも笑っている。ヒット曲が増えて、ライブの本数や音楽番組への出演も増えてきたというのに、相変わらず四人はデビュー当時のテンションと変わりなくて、ほっとすると同時に少し心配になる。
「買い物なんて、僕がやりますから」
 打ち合わせ中のお弁当や飲み物なんかの買い出しもアルバイトの仕事のうちに入っているというのに、四人は今まで自分たちでやっていたからと、こうして僕にもお土産を買ってきてくれる。有名になっているという自覚はあまりないらしい。
「大丈夫だって。気分転換だよ」
 最後に事務所へ入ってきた響也さんも笑って言った。ファン心理から抜け出せない僕を面白いと言った初日の夜から、響也さんの顔を見るたびに心臓がはねる気がするのは、きっと響也さんの音楽に対する思いを垣間見せてもらったからだ。
 僕は平常心平常心、と心の中で唱えてから、「いただきます」と詠汰さんからコーラを受け取った。