頬を伝った涙を拭ったとき、綾音が口を開く。

「……ただね、その女の人なんだけど────」

 そのとき、ポケットでスマホが着信音を響かせながら震えた。
 取り出してみると、画面には例の病院の名前が表示されている。

「あ……そっか。僕が出るよ」

 差し出されたてのひらに彼のスマホを乗せた。“応答”をタップした若槻が耳に当てる。

「……はい」

 結菜に何かあったのかもしれない。いや、彼に連絡が来たということはあったにちがいない。
 つい最悪の想像をしてしまいながら、緊張気味に彼を窺う。

「え?」

 慎重に話を聞いていた若槻が、ふと困惑したように怪訝な表情を浮かべた。

「いなくなった……? 結菜が?」



 ────わたしたちは階段を駆け上がった。
 反対側に停めてある兄の車で、急いで病院へ向かわなければ。

 いなくなった、ってどういうことなんだろう。
 彼女が目を覚ました?

 混乱したまま上りきると、歩道橋の上には人影があった。
 フードを目深(まぶか)に被っていて顔が見えない。その人物は片手に包丁を(たずさ)えていた。

「誰……!?」

 図らずも足止めを食らう中、警戒したように綾音が尋ねる。

 包丁を目にして昨晩のことが思い出された。乃愛が懲りずに待ち構えていたんだろうか。
 もしくは、まさか……結菜?

「ずっと待ってたんですよ、このときを」

 そう言ってフードを外したのは、あろうことか新汰くんだった。
 あまりに驚いて開いた口が塞がらない。

「ねぇ、茅野先輩。これであんたに復讐できる」

「復讐って、何で……。どういうこと?」

 わたしを見据えて不敵な笑みを浮かべる彼に、ただただ混乱してしまう。
 向けられた包丁の切っ先もまるで現実味がなくて、危機感は息を潜めたまま。

 恐怖よりも困惑で立ち尽くしてしまうと、若槻が庇ってくれるようにわたしの前へ歩み出た。

「菅原……。また勝手なこと────」

「勝手なこと? なに言ってるんですか、若槻先輩。俺があんたの指示だけで動いてたわけないでしょ」

 それこそ、何を言っているんだろう。
 理解が追いつかない以前に、意味が分からない。

 若槻と入れ替わってから、新汰くんはわたしの一番の味方だったはずだ。
 確かに曖昧な立場と行動のせいで信じられなくなったりもしたけれど、それでも乃愛を裏切って、わたしを守るために動いてくれていたのだと知って、信じることに決めた────。

 だけど、彼の口ぶりでは、若槻と繋がっていたという解釈しかできない。
 新汰くんは最初から若槻側の“駒”で、ずっとわたしを騙していた……?

「復讐っていう目的が一致してたから、都合に応じて従ってただけですよ」

 せせら笑った彼は続ける。

「それなのに若槻先輩は腰抜けで結局、茅野先輩を殺せずじまい。それだけじゃなく、絆される始末……」