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 家へ戻るなり、無心でカッターナイフを取り出した。細い手首にあてがう。

 いつ元に戻ってもおかしくない。その前提を忘れかけていた。
 この奇妙な日々は、何の前触れもなく終わるかもしれない。

 元に戻る方法そのものには、何となく直感的に見当がついているが、そうすればもう、復讐を果たすチャンスは巡ってこないだろう。

 僕の恨みや魂胆(こんたん)を知っている茅野が警戒しないはずもないし、恐らくはあのダンボールに隠していた物騒な武器やら何やらも見られたはずだから。

 さっさと(かた)をつけるべきだという、菅原の言葉は正しい。
 いまなら、憎い彼女の身体も命も思うがまま。

「……っ」

 どうしても、刃を肌に押し当てられない。
 力を込めようとすると、震えて息が止まりそうになる。
 かた、と諦めて机の上に置いた。両手を握りしめる。

(いましかないって、分かってるのに)

 分かっているのにできないのは、菅原が言っていたように情が湧いたせいかもしれない。

『ごめん……なさい』

 結菜のことを思い出すなり、いの一番に謝罪にきた彼女に。

『茅野がきみを襲う理由がどこにあるの?』

 乙川に危うく殺されそうになったとき、助けに現れた彼女に。

 どれもこれも、自分の身を守るための演技には見えなかったし、あの涙が嘘だとはどうしても思えない。
 それに、昨晩聞き損ねた話とやらも聞かなければならない。

 また、菅原の底知れない感情の熱量に圧倒されている部分もあった。

『だから、ものも言えずに動けなくなった結菜の代わりに復讐しよう、って……。そのために協力してるんですよね、俺たち!』

 僕と彼は、結菜のため、という大義名分を正義と信じて疑わなかったけれど……。
 それが正しいのかどうかも、結菜が望んでいることなのかどうかも、正直分からなくなっていた。

 ────まどかちゃん、ごめんなさい。

 ────あのことは秘密にしてください。

 結菜が眠ることで(ほうむ)った真相を、僕たちは知らない。
 空白部分は都合のいい想像で補っただけ。

 少なくとも僕は、自分の責任から逃れたくて、茅野ひとりに原因を押しつけた。
 彼女を悪者にすることで楽になろうとしたんだ。
 そんな彼女に復讐することで、自分の不甲斐なさを許してもらおうと。

(……こんなふうに迷ってる時点で、茅野に(ほだ)されてるのかもしれないけど)

 かちかち、と刃を押し戻した。
 猶予(ゆうよ)はあってないようなもの。でも、結論を出すのはいまじゃない。

 そのとき、不意にスマホが震える。病院からの電話だった。

 はっとして慌てて耳に当てると、看護師はまず“僕”じゃないことに戸惑っているようだった。
 そんなこと、いまはどうでもいい。
 はやる気持ちで適当な言い訳をして先を促す。
 それを聞き、手足の先が急激に冷えるのを感じながら息をのんだ。

「結菜が……!?」