「え……?」

 目の前で、お姉さんが階段から転落していった────。

 わたしたちにと飲み物を運んできてくれていたのだろうけれど、タイミング悪くわたしがドアを開けたせいで、驚いて足を滑らせたのかもしれない。
 あるいは、想定以上に勢い余ってしまったから、避けようとした拍子に踏み外した。

 割れたコップや魔法瓶の破片がそこら中に散らばっていて、ぽた、ぽた、とこぼれたお茶の雫が段差から滴り落ちている。
 階下(かいか)にうつ伏せで倒れている彼女は、ぴくりとも動かない。

「うそ……」

 破片を避けながら恐る恐る階段を駆け下りていく。先ほどまでとは別の恐怖を覚えながら。

「円花ちゃん……? 何の音?」

 困惑したように顔を覗かせた結菜が、目の前の光景にはっと息をのんだ。
 わたしはお姉さんに駆け寄ったものの、その場に縫いつけられたように動けなくなってしまう。

 じわ、と頭の下から血が流れ出し、みるみる血溜まりが広がっていく。
 硬直するわたしの足元まで伸びてきて、白い靴下に染みる。真っ赤に侵食されていく。
 彼女は固く目を瞑ったまま微動だにしない。

「ど、どうしよう……。どうしよう、結菜……!」

 助けを呼ばなきゃ。誰か、救急車、とパニックに陥る中で考える。
 焦ってぐちゃぐちゃにかき乱された頭の中で、どこか冷静な、それでいて弱い自分が囁く。

(でも、これ……わたしが殺したことになる?)

 事故だった。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。
 だけど、いったい誰が証明できるのだろう。

 ばくばくと破裂しそうなほど心臓が暴れ、浅い呼吸を繰り返した。
 あまりの恐怖に泣きそうになりながら震えて立ちすくむわたしの腕を、冷たい結菜の手が掴む。

「逃げよう……?」

 いつの間にか階段を降りてきていた彼女が、わたしの分まで荷物を抱えて蒼白な顔で言う。

「逃げようよ……!」

 もう一度言うと、今度はわたしの返答も反応も待たずして、ぐい、と腕を引っ張った。
 足が血溜まりを抜け出す。生ぬるい温度が一瞬にして冷えきった。

「……っ」

 深く考える余裕なんてなかった。正しい選択から目を背け、鈍感なふりをした。
 玄関で靴を掴み、靴下のまま家を飛び出す。

 お互いに言葉を忘れたまま、無我夢中で走った。
 心臓がうるさかった。ひどく喉が渇いている。一歩踏み出すごとに息が止まりそうになった。
 暑いのに寒いような、ちぐはぐな感覚がして悪寒と鳥肌が止まらない。

(人を……殺しちゃったかもしれない)

 がたがたと全身が震え、恐怖に飲み込まれていく。
 脳裏を鮮烈(せんれつ)に切り裂く赤色が、人間の身体が容赦なくぶつかって転がり落ちていく音が、片時も頭から離れない。