「そんなことになってるなんて……」

 呟いた兄の声は掠れていた。
 表情こそ見えないけれど、綾音もきっと同じように戸惑っているだろう。

「“きみのせい”って……」

「……うん。たぶん、若槻の恨みは結菜ちゃんに関することなんだと思う」

 わたしのせいで彼女はあんなことになった。
 彼はそう言いたかったのだと思う。

 それに気づいてしまったのに、それでもまるで何も覚えていないことが、混乱と自己嫌悪を通り越していっそ恐ろしかった。



 若槻の家へ帰り着くと、コップを3つとお茶を取り出した。
 部屋の中は探索し尽くしたし、毎日ここで生活しているわけだし、嫌でも勝手が分かるようになってくる。

「何かもう自分の家みたいに馴染んでるよね」

「……おまえ、本当に円花なんだよな?」

「そうだってば。もう……やめてよ。いい迷惑なんだから」

 兄が“おまえ”なんて呼ぶのはきっとこの見た目のせいだ。

 よりによって若槻と入れ替わってしまうなんて、なんて不運なんだろう、と彼の秘密を知ってからは常々思う。
 早く元に戻りたいのに、事態はどんどん複雑になって、逃げることを許してくれない。

 ソファーに腰を下ろすふたりにお茶を出し、わたしはベッドに座った。
 こく、とひとくち含んだ綾音がどこか遠慮がちに尋ねてくる。

「……本当に覚えてないの? その、結菜ちゃんのこととか、昔のこととか」

「覚えてない。若槻はともかく、学年もちがう妹と面識があったかどうか……。正直、定かじゃない」

「俺は」

 兄が硬い声で口を開く。

「聞いたことある気がする。円花の口から、その“結菜”って名前」

「えっ」

 思わぬ言葉に驚いて目を見張った。わたし自身にはまったく覚えのない話だ。
 だけど、頭から冷水を浴びせられた気分だった。

 思い知らされる。この期に及んでも、心のどこかで若槻の記憶違いや誤解という可能性を期待して、そんな彼に脅されているわたしは可哀想な被害者だと信じていたことを。
 その気持ちが決して小さくなかったことを。

(若槻の記憶は正しかったって言うの……?)

 結菜ちゃんとわたしが顔見知りだったなら、自ずと若槻の言葉の信ぴょう性が増していく。

 冷えた全身が一瞬で熱を帯びた。
 迷いもなくふたりにすべて打ち明けたのは、言って欲しかったからかもしれない。
 仕方ない、と。わたしは悪くない、と。

 同時に情けなかった。
 “完璧”なはずのわたしの清廉性(せいれんせい)が疑われたら名折れだ。
 潔白じゃなかったら、みんなから見損なわれるにちがいない。

「……嘘だ」

「え?」

「嘘つかないでよ。わたし、本当に何も覚えてないのに。若槻の妹の名前だって、今日初めて知ったんだよ。知り合いなわけない」