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 無色透明な空気が肌を撫でた。うっすらと目を開ける。
 がたがた、ばたん、という、騒々しいとまではいかないまでも遠慮のない物音を耳が拾った。

「……?」

 ぼんやりと霞む視界一面には白い壁。
 戸惑いながら首だけ仰向くと、最近ようやく見慣れてきた天井が広がっていた。

(家だ……。若槻の)

 どうやって帰ってきたんだっけ。何で床に寝ているんだっけ。
 硬い感触を全身に感じながら、暢気にもそんなことを考えたとき、ようやく手足の先の方に感覚が戻った。

「な……っ」

 何これ、という言葉は喉が引きつって出てこなかった。
 突っ張るような違和感があって確かめると、手首と手足のそれぞれがガムテープでぐるぐる巻きにされている。

 間に合わせの拘束といった具合の雑さがある。そばには実際に使ったものと(おぼ)しきガムテープの本体が転がっていた。
 だけど、十分すぎるほど役目を果たしていて、少しひねった程度ではびくともしない。

「────あ、目が覚めた?」

 不意にどこからか飛んできた声に心臓が縮み上がった。
 気づけば先ほどまでの物音は止んでいる。

 寝転んだ体勢のまま恐る恐る振り向くと、肩越しに目が合ったのはお兄ちゃんだった。

「え……!?」

「いやー、人を攫うってのも楽じゃないな。ここはおまえの家だから、誘拐とは言わないのかもしれないけど」

 キッチンから持ち出したのだろう包丁を片手に、散らかった床を悠々と突き進んでくる。

 シーリングライトの白い光を弾く刃を見た瞬間、息をのむと同時に身体を起こした。
 拘束のせいで苦戦しながらも、どうにか座った姿勢をとる。

 先ほどの物音は、ものが散乱しているのは、兄が物色したせいだろうと気がついた。

「どうして」

 掠れた声がひとりでにこぼれ落ちる。
 あとをつけていたのはお兄ちゃんだった? 何のためにこんなことを……?

「本気で分からなくて聞いてるのか? どういうつもりか聞きたいのは俺の方だよ」

 低められた声からは確かな怒りを感じる。
 正面に屈んだ兄は、喉元に包丁の切っ先を突きつけてきた。

「!」

 ひゅ、と冷たい風が身体の内側を通り抜ける。……怖い。
 身を震わせて硬直したまま動けなくなった。

 幼い頃から一緒だった兄が、まったく知らない誰かになってしまったようだ。それも、敵に。
 包丁を握る手に不慣れな不安定さがあって、逆に危うさを孕んでいた。

「円花に近づくな、って言ったのに、またあんなところで何しようとしてたんだ」

「そ、それ……は────」

「実害がなくちゃどうせ警察はあてにならない。でも、それじゃ手遅れだろ。おまえみたいなストーカーが妹に手を出せないように、その手足、使えなくしてやろうか?」