きみがわたしを××するまで


 どのみち追い詰められていることに変わりはないのだ。
 元に戻れるのなら、確かにそれに越したことはない。

「状況ごと再現しましょ」

「え、状況ごと?」

「先輩は適当に理由つけて、若槻先輩を歩道橋に呼び出してください。そしたら俺に追われてる(てい)で逃げて、若槻先輩を巻き込んで落ちればいい」

「なるほど。……ん? ちょっと待って」

 納得しかけたところにふとよぎった違和感。訝しむように眉を寄せた。

「あのとき追いかけてきてたのって、本当に菅原くんだったの?」

 若槻と一緒に階段から落ちた、とは言ったけれど、誰かが背後に迫ってきていたことは伝えていなかったはずだ。

「……まあ、はい。追いかけてたつもりはないですけど、お陰ですぐ通報できたんで結果オーライですね」

「そうだったんだ」

 わたしも若槻も傷だらけで意識を失ったけれど、菅原くんの通報によってすぐに病院まで運ばれたみたいだ。
 見守っていた、という言い分はあながち間違いではなかったのかもしれない。

 彼としては隠し通そうとしていたつもりが、ついぼろを出してしまったみたいで、ちょっと気まずそうにしていた。

「それはともかく、どうします? やりますか?」

 若槻を出し抜いて、自分を取り戻すための賭け────。
 リスクは伴うけれど、考えてみれば二者択一どころかそれが唯一の道のように思えてきた。

「……やる」

 心を決めて毅然と答えると、菅原くんは頷いた。

「いいと思います。さっそく今夜にでも実行しましょ」

「き、今日の今日?」

「はい。もうあとがないんだから、先延ばしにしてる余裕ないですよ」

「……それもそっか。分かった」

 そう答えたものの、心の準備をする暇もなくて自信が持てない。
 果たしてうまくいくかな……?

 そんなわたしの心情をまるごと見透かしたように、菅原くんはふと口元を綻ばせた。

「大丈夫ですよ。俺がついてるんで」



     ◆



 日が落ちてから、バイト先のカフェに向かった。窓越しに店内の様子を窺う。
 心配なのは茅野ではなくて“僕”の体裁(ていさい)、のはずだ。

「……!」

 思いのほか“僕”は意欲的に働いている。それどころか、接客の合間に菅原と談笑する余裕まであるようだ。

 ガラス越しには何を話しているのかまでは聞こえないが、意外なことに彼とは仲良くやっているらしい。
 ストーカーなんだからさすがに怯えるかと思ったのに、徹底的に僕を演じているというわけだろうか。

 ────窓の向こうで茅野が笑う。もとい“僕”が。
 自分でも知らないような、純真な表情をしていた。
 あんなふうに笑えたのか、と驚くほど。

 小さく息をつき、背を向ける。

「……他人と親しくなるな、って言ったのに」

 ささやかな抵抗を込めたぼやきは、夜空に吸い込まれる前に(くう)に溶けた。

【ぜんぶ思い出したから謝りたい】

【歩道橋で待ってる】

 バイト終わり、立て続けに2件のメッセージを若槻に送信しておいた。

 菅原くんとともに夜道を歩き、例の歩道橋近くで立ち止まる。
 上からは死角になる物陰に潜み、若槻が来るのを待つことにした。
 車通りはあるけれど、人通りはそれほどない。

 そのときはほどなくして訪れた。

「……あ、来ましたよ」

 建物の陰から顔を覗かせていた菅原くんが言う。
 はっとしてわたしも歩道橋の方を見上げた。スマホを片手にちょうど階段を上っていく“わたし”の姿を認める。

【着いたけど、どこにいるの?】

 そんなメッセージを受け取るとともに若槻があたりを見回したのが分かって、さっと身体を引っ込めた。

「じゃあ、やるよ……?」

「はい。ちょっと待ってから俺も追いますね」

 こく、と頷くと深呼吸をして鼓動を落ち着ける。
 恐らく機会は一度きり。失敗したらおしまいだ。だけど、やるならいましかない。
 どうにか緊張をおさえ込み、わたしは心を決める。

 地面を蹴って飛び出すと、急いで階段を駆け上がっていく。
 あの日、得体の知れない誰かに追われていた恐怖が自然と蘇り、わざわざ“ふり”なんてするまでもなく必死になった。

「……茅野?」

「若槻……っ」

 訝しむような戸惑うような表情でこちらを向いた彼に駆け寄り、目いっぱい手を伸ばす。
 突き飛ばすほどの勢いで迫った。
 てのひらが“わたし”の身体を捉える────。

「……?」

 あれ、と困惑した。
 動かない。わたしも若槻も。
 あのときのように一緒に転がり落ちるはずだったのに、いつまで経ってもその気配はない。

「え……!?」

 顔を上げて心底驚いた。
 そこにいたのは“わたし”ではなく、お兄ちゃんだった。

「おに────」

「おまえ……。いま、円花に何しようとしたんだよ」

 若槻に触れる寸前に割って入ったようで、手すりを握ったまま庇うように立ちはだかっている。
 どこに潜んでいたんだろう。まったく気づかなかった。

「突き落とそうとしたのか?」

「ち、ちが……っ。いま追われてて!」

 非難や怒りのような感情を宿した双眸(そうぼう)に怯んで慌てた。
 これほど厳しい表情を向けられたのは初めてで、動揺に体温を奪われていく。

 兄の過保護も優しさも、妹であるわたしに対してのものなのだ。
 いまのわたしは彼の妹じゃなくて、赤の他人。
 それどころか、大事な妹に危害を加えようとした不審人物でしかない。

(どうしよう。助けて、菅原くん────)

 縋るような思いで振り返った。
 だけど、そこには誰の姿もなかった。

(菅原くん……?)

 思わず身を乗り出して見下ろすものの、先ほどわたしたちがいたところにも彼はいない。

 陰にいるのなら見えないだけだろうけれど、この状況を傍観(ぼうかん)して隠れているとは考えづらかった。
 “守る”と言ってくれたのだから。

「円花をつけ狙ってるなら、これを機に諦めることだ。今日はこれで済ませてやるけど、また近づいたらそのときは容赦しないから」

「……はい」

 どう考えても()が悪く、大人しく引き下がるほかない。
 鋭い兄の言葉に気圧され、答えた声は細くなった。

 だけど、顔を上げられなくなったのは、兄よりもその背後にいる若槻を恐れたせいだった。

(……絶対、ヤバい)

 未然に防がれたとはいえ、ここまできたらわたしのしようとしていたことに察しがついたはず。
 彼の怒りを買っていることは容易に想像できた。

 (きびす)を返したふたりを窺うと、去り際に“わたし”から射るような眼差しを寄越される。
 絶望的な気持ちで、逃げるように顔を背けた。



     ◆



 彼女の思惑を悟り、腹が立っていた。
 僕との約束も過去も投げ出して、我が身かわいさに姑息(こそく)な手段に出たことに怒りを覚える。

 今回は涼介さんのお陰で助かった。
 僕だって元に戻りたくないわけではないが、こんな中途半端な状態で無に帰すのは不本意でしかない。

「……何で居場所が分かった、の?」

 彼のあとを歩きながら尋ねた。とても偶然とは思えなくて。

「ああ、綾音ちゃんから聞いたんだ。円花が変な男につきまとわれてる、って」

 小谷さんの言う“変な男”とは、恐らくストーカーの菅原を指しているのだろう。
 ただ、先ほどの状況では“僕”の方がそうだと、涼介さんには誤解されたかもしれない。

 ともかく、今回は毒が薬になったような感じだ。
 毒というのは小谷さんと涼介さんのことだが、ふたりは茅野と近しく、なかなかに邪魔な存在だった。
 そのうち茅野に復讐を果たすとしても、迂闊(うかつ)に手出しすることを阻む厄介な要因になり得るのだ。

(それにしても、しつこいな……)

 さすがは茅野の親友といったところか、と小谷さんに思いを()せる。
 付き合ってる、と言っておいたのにまだ菅原を警戒しているとは。

(……この分だと、入れ替わってることがバレててもおかしくないかも)

 ざわ、と胸騒ぎのような危機感を覚える。
 まだ心配そうな涼介さんを適当にあしらい、帰宅早々に自室へ込もった。

「確か、ここに……」

 机の引き出しから小さな機械を取り出す。いかにも盗聴器らしい無骨(ぶこつ)な黒いそれに、イヤホンを挿して耳につけた。

 最初にこれを見つけたときには引いてしまったくらいなのに、まさか僕が使うときが来るとは。
 良心や倫理観がせめぎ合っても、背に腹はかえられなかった。
 単純そうに見えて飄々(ひょうひょう)としている小谷さんの真意を探るべく、耳からの情報に集中する。

 ノイズ混じりの騒音が聞こえてきた。重低音や音楽、話し声に笑い声が響いている。

(カラオケ?)

 友人たちと盛り上がっている場面が想像できた。
 声を聞く限り、厄介な後輩である乙川(おとかわ)乃愛も同席しているらしい。

『円花先輩のこと誘わなくてよかったんですかー?』

 彼女が言う。実際には大して気にもとめていないように。

『いいのいいの、白けるし。あの子に合わせるのだって楽じゃないんだから』

『ちょっと持ち上げたらいい気になっちゃって。褒めても、当たり前でしょ、みたいに思ってるの透けてるし、絶対うちらのこと見下してるよね』

『こっちだってばかじゃないし、ステータスのために友だちのふりしてるだけなのにね』

 無意識のうちに強張ったような表情をしていて、我に返ると力を抜いた。
 これは自分に向けられたものではなく、あくまで茅野に対する悪口だ。

 とうに化けの皮は剥がれているらしい。
 同情しつつも、ざまあみろ、と思ってしまう。

『綾音もそう思うでしょ?』

 思わずイヤホンに手を添えた。
 彼女の本音が聞けるかも、とまた無意識のうちに前のめりになる。

『……まあね』

 ひときわ冷たい声が響く。

『あたしも涼介さんに近づくために仲良くしてるだけだし。あ、そうそう、今夜も株上げといたんだ。ストーカーくん様様(さまさま)だなぁ』

『うわ、こわーい!』

 なぜか息が詰まって、心臓が沈んだように重たくなった。
 深く息を吐き出し、止まりかけた呼吸を再開する。

 身体に残っていた茅野自身の感情の機微(きび)や心の痛みが自ずと反応したせいか、僕が擬似的に傷つけられたせいかは分からなかった。

 ただ、小谷さんが涼介さんを動かしたのは、茅野の身を案じたわけじゃない。
 自分のため。自分の想いのために利用しただけ。それは分かった。

『あ、ちょっとお手洗い行ってくるねー』

 小谷さんが席を立った気配があった。
 さすがにまずいか、とイヤホンを外そうとした瞬間、がさがさと走ったノイズに耳の内側をかき回される。

『……ねぇ、聞いてるんでしょ』

 はっとした。誰に話しかけているのかと戸惑う。

 ひとりで部屋を出たはずで、誰かに電話をかけたような素振りも受けたような感じもなかった。
 ────だとしたら、可能性はひとつしかない。

(僕、か……?)

 図らずも動揺してしまいながら、視線を宙に彷徨(さまよ)わせる。
 それすら見透かしたように彼女は笑った。

『幻滅した? それともムカついてるかな?』

 いつから気づいていたのだろう。盗聴器の存在と、盗聴されているという事実に。
 その態度を見る限り、気づいた上で茅野を泳がせていたとしか思えない。
 彼女を探るつもりが、腹の底がますます読めなくなった。

『どっちでもいいけど、言いたいことあるなら直接言いにきてよ。あたし、逃げも隠れもしないから』

 そう言われた直後、バキッと硬いものが砕けるような音がした。それきり、うんともすんとも言わなくなる。
 踏み潰したか握り潰したか、いずれにしても破壊したんだろう。

(行くしかないか……?)

 彼女なりに宣戦布告をしてみせた以上、もうのらりくらりと躱す気はないはずだ。
 小谷さんとの関係性は、僕自身の目的からするとどうでもいいかもしれないが、茅野である僕が無視するわけにはいかなかった。

 果たしてこの胸騒ぎは茅野のものだろうか。
 それとも、僕のものだろうか。



     ◆



 翌日、昇降口に入る前に小谷さんの姿を見つけた。
 つい緊張が高まるのを自覚しながら「ちょっと来て」と連れ出す。

 人の少ない渡り廊下側へ回ると、足を止めて対峙した。

「やっぱりね。盗聴してたのは円花だったんだ」

 こぼされたひとことに、いまさらながらはたと気がつく。
 そういえば彼女は昨晩、あくまで茅野の名前を呼んではいなかった。

 “逃げも隠れもしない”と誘い出せば、相手が自分から接触してくると踏んで罠を仕掛けていたのだろうか。
 僕は墓穴(ぼけつ)を掘って、自ら名乗りを上げたことになる?

(……いや、そんなことないか。“やっぱり”ってことは)

 大なり小なり見当はついていて、それが確信に変わったというところだろう。

「さすがに気持ち悪いよ。そこまでして嫌われたくないの? ていうか、好かれていたい?」

 蔑むような眼差しと言葉を向けられるが、僕としても同感だ。

 あるいは暴走した承認欲求なのだとしても、必死にもほどがある。
 どれほど他人の目を恐れているのだろう。

「……友だちじゃなかったの?」

 口をついて出たのは僕の本音だった。
 小谷さんは心底おかしそうに声を上げて笑う。

「昨日聞いてたでしょ? あれがあたしの本心だよ。友だちだと思ったことなんか一度もない」

「……!」

「あんたが涼介さんの妹じゃなかったら、きっと話もしなかっただろうね」

 開き直った態度はいっそ清々しいほどだ。
 けれど、その明瞭さとは裏腹に、彼女という人物像が(かす)んで逃げていく。

「だからって、何で急に……? このこと、兄に告げ口してもいいんだよ」

「無駄だよ」

 半ば感情的に返した言葉は、ただの負け惜しみに近かった。
 その豹変ぶりが不気味で、主導権を握られているのが不本意で、戸惑うばかりだ。

 小谷さんがせせら笑う。

「あたしも、あんたと同じ。涼介さんの前では完璧に振る舞ってきた。昨日のこともあって完全にあたしのこと信じてるから」

 今度こそ言葉を失った。
 いや、わざわざむきになって反論する必要なんて、最初からなかったかもしれないが。

「そういうことで、くだらない友だちごっこはもう終わりね。ストーカーくんとお幸せに」
     ◇



 足がすくんで動けなくなった。
 綾音の声が、言葉が、濁流のように思考を飲み込んでいく。

 連れ立ってどこかへ向かうふたりを見かけて、気になったからといってあとを追ったのが間違いだったのかもしれない。こんなことを聞かされるくらいなら。
 だけど、ただならぬ気配を感じて無視できなかったのだ。

(どうしてこんなことになってるの……)

 分かりやすく嫌味な捨て台詞を残し、歩いていく綾音から身を隠す。
 そのまま若槻からも校舎の陰に隠れてやり過ごそうとしたのに、不運なことに気づかれた。

「……聞いてたんだ。その顔からして」

「…………」

 血の気を失って顔面蒼白にちがいない。
 動揺を隠せないわたしにはあれこれ考える余裕もなく、若槻に腕を引かれるがままに踏み出した。

 ────立ち止まったのは校舎裏の小庭になっている部分で、先ほど以上に人気(ひとけ)がない。

「……綾音とは、入学してすぐの頃からの友だちだったの」

 気がついたらそんな言葉が口をついていた。

 みんなが褒めてくれると、何かと水を差すような言動をする彼女を、近頃は確かに疎ましく思っていたかもしれない。

 だけど、頭を鈍器で殴られたような衝撃が落ちてきてから尾を引いたまま、一向に立ち直れなくて自覚する。
 わたしの中で綾音は、確かに“友だち”だった。
 言われた内容そのものよりも、綾音に言われたことがショックだった。

「でも、そう思ってたのはわたしだけだったんだ」

 彼女はお兄ちゃんのことが好きで、わたしはそのためだけに利用されていたのだ。

 ────友だちだと思ったことなんか一度もない。

 ────みんな自分のために一緒にいるのに、気づいてなくて可哀想。

 綾音や乃愛の残酷な言葉が、いまになって深々と胸に突き刺さる。

(何だったんだろう、わたしって)

 何事も“完璧”な人気者。そんな現実はまやかしで、理想は幻想でしかなかったのだろうか。

「……傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な女王さまの冠は脱げても、嫌われ者なのは相変わらずだったね」

 若槻が皮肉じみたことを言う。“わたし”の顔が歪んで見えた。

「ざまあみろ、って言いたいところだけど」

「……慰めとか、いらない」

「するわけないでしょ。そうじゃなくて、おかしいと思わない? 小谷さんの本性がああだったとしても、急にあんな態度」

 解せない、と言いたげに怪訝そうな面持ちで腕を組む。

「きみが涼介さんの妹なのは不変の事実なんだから、本心を明かすメリットがない。別にふたりの仲が進展したわけでもないしさ」

「……確かに」

 突然、強気に出た理由は何なのだろう?
 綾音の意図がまるで読めなくて眉をひそめる。

「まあ、それはともかくとして」

 若槻が腕をほどき、歩み寄ってくるなりこちらを見上げた。

「約束の期限は今日だけど、ちゃんと思い出してくれた?」

「それ、は……」

 気を抜いていた、というか気が抜けていたわたしの首根っこを唐突に掴まれた気がして心臓が跳ねた。
 答えに窮して俯いてしまう。
 その瞬間、ふっと呼吸が詰まった。

「……っ」

 吸い込もうとしても酸素を取り込めない。
 首に圧迫するような鈍い痛みを感じ、思わず手で押さえる。

 混乱しながら顔をもたげると、冷ややかにこちらを眺める“わたし”と目が合う。
 あろうことか、自身の首を両手で絞めていた。

「な……」

「出し抜こうとした罰、受けとく?」

 その口元が不敵に緩む。
 背中を恐怖が滑り落ちていき、さっと青ざめた。

「ま、待って……! お願い。謝るから。ごめん、昨日のことは本当に────」

 言い終わらないうちに力が抜けて、がくりと膝から崩れ落ちた。
 したたかに打ちつけたはずの膝の痛みは感じない。

 ガッ、と前髪を掴まれて無理やり上向かされる。
 怒りと呆れと侮蔑、ことごとく非難するような眼差しを突き刺された。

「そうじゃないだろ……?」

 ぞく、と寒気を帯びた肌が粟立つ。

「────最初から言ってるよね。僕の目的はただひとつ、きみに復讐することだ。ひと思いに殺してあげる」

「嫌だ……!」

「反省も何もない。覚えてもいない。……ふざけてるにもほどがある。結局、猶予を与えたのに思い出す努力もしないで、騙し討ちなんてしようとして。いまも昔も、きみは自分のことしか考えてない」

 ようやく現実感がリアルに追いついてきた。
 ずっと、わたしの首には死神の鎌があてがわれていたのに、その危うさを見落とし続けていた。
 そもそも真剣に向き合おうとしなかった時点で、危ういことに気づいてもいなかった。

 泣きつけばどうにかなる、だなんて全然そんなことはなかったのだ。
 若槻は本気だ。その度合いを甘く見ていたばっかりに、こうなるまで分からなかった。

 乱暴に彼の手から解放され、力なくその場にへたり込む。
 じわ、と視界が滲んだ。
 彼が怖いのか、自分が不甲斐ないのか、いずれにしても感情に押し負ける。

「このまま、きみの身体で自殺しようか。それとも、(きみ)を殺そうか」

 興がるような笑みをたたえつつ、背を向けて滔々(とうとう)と語り出す。

「どっちにしても僕は目的を果たせる。……もともと自分の身体にも人生にも執着なんてないし、茅野円花としてこの先生きることになったって構わないんだ」

 ぎゅう、とたまらず地面ごと拳を握りしめたとき、手に乾いた何かが触れた。
 折れた木の小枝。瞬間的に“わたし”の後ろ姿と見比べる。

「せっかくだから、きみに選ばせてあげようか?」

 そう言った振り向きざま、若槻が身を折った。
 余裕の笑みが消え、その顔を苦痛に歪めながら腿のあたりを押さえている。

「痛……っ!」

 驚いたように確かめても、当然ながらそこに傷はない。
 逆にわたしの、若槻自身の脚には枝が突き刺さって鮮血が滲み出し、灰色のスラックスに濃い染みを作っていた。

「……思い通りになんてさせない」

 突き立てた枝を抜き、その場に放り捨てる。
 少しおぼつかないながらも、立ち上がって“わたし”を見下ろした。

「確かにわたしは覚えてない。過去にあんたと何があったのか」

「…………」

「でも、だからこそ大人しくやられるわけにはいかない。そもそも、あんたの記憶が正しいって言いきれるの?」

「は……。何をいまさら」

 一笑(いっしょう)()したにしては言葉尻が弱く、やや面食らったようだった。
 彼も彼で、そんなふうにはこれまで考えもしなかったのだろう。

「とにかく、わたしは簡単に殺されたりしないから。そのときはあんたも道連れにしてやる」

「……生意気言っちゃって」

 若槻がせせら笑う。

「分かってるの? お互いさまだよ」

「望むところ」

「じゃあ、せいぜい足掻いてみれば? 元に戻れる保証はないけど」



     ◇



 昼休みになると、相変わらず離れようとしない乃愛を振り切って、逃げるように屋上へ出た。

(何とかなった……のかな、これは)

 痛い思いも苦しい思いもしたけれど、何となくタイムリミットのことはうやむやになった気がする。
 だけど、それはいいことでも悪いことでもあった。

 今後はもう、わたしの命は保証されていない。
 “わたし”もわたしも、いつ若槻に手をかけられてもおかしくなかった。

 ただ、入れ替わっている以上はどうしたってお互いの命運を握り合うことになる。
 “お互いさま”というのはそういう意味で、迂闊に手を出せば自身も無事ではいられない、という牽制だ。

「早く戻らなきゃ……」

 いや、不本意だけれどそれについては彼の言う通りなんだ。
 昔のことを思い出して、過去を清算することで身の安全を確保する方が先決かもしれない。