なぜこんなものがあるのだろう?
怪我をしたときに汚したものを捨て忘れた、とかそういうことだろうか。
何となく気味の悪さを覚えつつ、チェストを元に戻す。
血まみれの靴下はビニール袋ごとその上に置いておき、クローゼットを閉めた。
彼女にはそのうち聞いてみることにする。
「…………」
扉に背を向けると、無意識のうちに眉頭に力が込もった。
彼女は過去を切り捨て、ことごとく頭から追い出して、記憶に蓋をしている。
僕と話してもすぐに思い出さなかったのはきっと、見た目や雰囲気が変わったせいだけじゃない。
いまと未来しか見ない姿勢は、過去に囚われている僕を嘲笑うかのようで余計に腹立たしかった。
病室ではああ言ったけれど、ちゃんと過去に向き合う気はあるのだろうか。
どのくらい真剣に捉えているんだろう?
彼女の性格上、思い出せないまま期限を迎えても、どうせ言い訳を並べて正当化するんだろうな。
それで許されると思っているのなら、うぬぼれもいいところだ。舐めてもらっては困る。
そう思うと、ばからしくなってきた。何であのとき温情なんて施したんだろう。
僕は彼女に何を期待したんだろう。
「……5日も待つ必要、ないね?」
家族に愛され、友人に恵まれ、充実した幸せな毎日を送っている彼女。
“あんなこと”をしたくせに、ぜんぶなかったことにして。
ふと沸き立った衝動に突き動かされ、机に歩み寄った。
荒々しい手つきでペン立てからカッターナイフを取り出すと、勢いよく刃を押し出す。
(もう、いますぐここで────)
手首に当てた瞬間、ぱっと何かが光った。天板に置いていたスマホの画面だ。
「……!」
弾かれたみたいにカッターを手放し、表示されたメールの通知を開いた。
食い入るようにその内容を確かめる。
「…………」
ごと、とスマホを戻すと、深く息をついた。
力なく椅子に雪崩落ち、ついた肘を支えに頭を抱えて目を閉じる。
(だめだ)
いますぐだなんて生ぬるい。手を下すのは目いっぱい苦しめてからだ。
そう思い直してふと目を開けると、再びカッターが視界に入った。
出しっぱなしになっていた刃を、ぎゅう、と何となく素手で握りしめる。
「え……?」
想像していたような痛みはいつまで経っても訪れなかった。
いまはこの程度に留めておいてやろう、という思惑をすり抜けて戸惑ってしまう。
傷そのものは確かについていた。
開いたてのひら、指のつけ根あたりに刻まれた真一文字の切り傷からは、真っ赤な鮮血が滲んでいる。