眠れる窓辺の王子さま


「重いって、ばか!」

「あ、かみのけ座も発見。おれ、お星さまを見るの好きなんだ」


どうやら空を見上げているらしく、聞いたこともないような星の名前をあげながら、楽しそうに声を弾ませた。

あははは、と呑気な笑い声が響く。

もう嫌だ。無視しよう。さっさと送り届けて帰ろう。それで二度と関わらない。

固くそう心に決めて仏頂面で運転していると三角公園を少し過ぎたあたりで、急に後ろが静かになった。

それと同時にぐわんと荷台が激しく揺れて悲鳴を上げる。


「ちょ、あんた何暴れてんの!?」


後ろからの返事はない。キキッと急ブレーキをかけて眉を吊り上げ振り向いた。


「……え? 嘘でしょ?」


目の前の光景にポカンと口を開ける。荷台のそいつは目を閉じてコクリコクリと舟を漕いでいた。

嘘でしょ信じらんない。この状況で寝るの!?


「ちょっと! 起きなよ!」


肩をゆするとまつ毛の長い瞼がわずかに震えて目が開く。

目が合うとふにゃりと微笑み、そのまま空を見上げた。つられて自分まで空を見上げる。雲ひとつない空に白い粒が点々と瞬く。


「あれは……りょうけん座だなあ。うん、今日もお星さまがきれいだね」

「って、起きてんならちゃんと座れ! 危ないでしょ!」


初対面の人の自転車の荷台で眠れるなんてどんな神経してんの?

額に手を当てて息を吐くと、もう一度サドルに跨ってペダルを踏んだ。


「あ」

「ああもう! 今度は何座よ!」

噛みつくようにそう言う。



「おれん家、このへん」


その声と共に、ふっと背中の重みが消えて軽くなる。荷台がもぞもぞと動く感覚にぎょっとする。


「ちょ、飛び降りないでよ!」


前を向いたまま、慌ててそいつの白いシャツを後ろ手に掴む。

ゆっくりと道の隅に自転車を止めてからシャツを離した。荷台の重みがなくなった瞬間、少し自転車が揺れる。


「うん、ここからなら分かるよ」

「ここからならてか……もう目の前じゃん」


クリーム色の煉瓦の家を指さしてあきれ気味に言った。


「ああ、うん」


家を見上げながら曖昧に笑ったそいつ。変な奴、と眉を顰めた。


「送ってくれて、どうもありがとう。でも急いでたんだよね。ごめんね」


最後にちょっと申し訳なさそうな顔をしたそいつに「は?」と聞き返す。


「だって初めて会ったとき、急いで走ってるみたいな顔だったから」


目を見開く。言葉に詰まった。

意味がわからない。そもそも急いでなんかないし、何なら機嫌よく本屋から出てきたところだった。

それなのになぜか胸の内側を暴かれたような、無性に逃げたい気持ちになる。

「別に」と目を逸らして急いで自転車に跨った。ハルカが一歩前に出た。


「おれ、ハルカ。遥か彼方の“ハルカ”」

「遥か彼方のハルカ……」

「うん。君の名前は? おれに教えてよ」


そいつ────ハルカは私に向かって手を差し出した。


「……未来」

「ミク?」

「うん、そう。未来のミク。じゃあもう行くから」




淡々とそう言って片足をペダルに置き、地面を強く蹴った。


「うん、バイバイ。未来のミク。また会えたら嬉しいな」


ぶんぶんと手を振るハルカを一瞥して、前を向いた。

また、なんてきっとないと思うけど。


「何なのあいつ」


ぽつりとつぶやいてから、振り向かずにペダルを強く踏みしめた。

辺りはすっかり暗くなっていて、自転車のライトを足で蹴って点けた。ヴーン、と低い音と共にペダルが少し重くなる。少し冷たい空気が火照った頬をなでて心地よい。

ポコンと短い電子音が鳴った。トークアプリに新着のメッセージが届いた音だ。信号待ちのタイミングでポッケからスマホを取り出し確認すると、それはお母さんから届いたメッセージだった。

『何時に帰ってくる? 高木さんが来てるから早く帰ってきてね』

画面の眩しさに目を細めながらきゅっと唇を一文字に結ぶ。

喉の奥がぎゅっとしまって一瞬息ができなかった。

なんとか短く息を吐けば、胸の中にコントロール不能なドロドロした真っ黒が一気にあふれる。どんどん胸の中を圧迫し、重く重く沈めていった。 






ある日、魔女の呪いがたまらなく苦しかったお姫さまはお城から逃げ出しました。

逃げついたその先で、またあの王子さまと出会ったのです。





風の冷たい季節が過ぎ、5月に入った。

ハルカとの奇妙な出会いがあってから、もう二週間が過ぎた。あれから一度もあの家の前は通ってない。そもそもあの道は通学路じゃないし、わざわざ通る必要もないから。

強い日差しに目を細めながらパーカーを脱いで自転車のかごに放り込む。少し汗で張り付いた長袖のシャツを肘まで捲った。

私はこんな日にわざわざ出かけるようなアクティブな性格ではない。今日だって本当は読みかけの小説とクラスメイトにおすすめされたドラマの撮り溜めを見ようと思っていた。

けれど訳あって、私は今日一日家に帰れなくなってしまった。


『未来ちゃん、今日は家にいるの?』

『ええ。先に言うと逃げられちゃうから』

『でも未来ちゃんの気持ちを優先すべきじゃないかな』

『それは分かってるんだけど、やっぱり一度ちゃんと話してほしくて』


音がよく響くボロアパートの廊下側に位置する私の部屋は、誰かが階段を登ってくる足音すらもよく拾う。

そのおかげで階段を登りながら会話するお母さんともう一人の声をすかさずキャッチし、聞こえるや否や鞄に荷物を詰め込んでキャップを深く被り部屋を飛び出した。

私がドアを開けるのとお母さんがドアを引いたのはほぼ同じタイミングだった。


『未来! どこ行くの?』

『友達と約束。夜まで帰らないから』



キャップを深く被っていたから顔は見えなかった。

けれど男物のスラックスと革靴がチラリと見えて、やっぱりなと眉根を寄せる。

二人が気まずそうな雰囲気なのは確認せずとも分かった。


お小遣い制の私には飲食店で時間潰しができるほどの余裕もなく、逃げるようにやってきたのは近くの市営図書館だった。小説を読んだりアニメを見たりして過ごしていたけれど、十四時を過ぎたタイミングで流石に空腹が我慢できなくなり一度外に出てきた。

コンビニで何か買って公園で食べてまた戻ろう。
吹き抜ける心地よい風を感じながら自転車で突き進む。

スムーズに道を走っていると、ふと歩道橋が視界に入った。その真ん中に佇み身を乗り出す姿に二度見する。その体がぐらりと前のめりに揺れてぎょっと目を見開いた。考えるよりも先に自転車を投げ捨てる勢いで道の隅にとめて、歩道橋の階段を二段飛ばしに駆け上がる。

ここ数週間ずっと頭の片隅をちらついていたその名前を呼んだ。


「ハルカ……っ!」


私の声に気がついてこちらに振り向くのと同時にその白いシャツを思いっきり引っ張る。勢いが良すぎたのかハルカはその場に尻もちをついた。


「何やってんの!? そんなに乗り出したら落ちるでしょ!」



驚いた顔をしたハルカが私を見上げる。目が合うなり「あ、ミクだ。こんにちは」と、まるで昨日も会っていたかのような調子でのほほんと笑う。

こちらが本気で怒っているのもつゆ知らず能天気なハルカに容赦なく鉄拳を落とした。


「アイタッ」

「痛くなかったら意味ないでしょうが! 話聞いてた!?」


抗議の声を上げるハルカは両手で脳天を押さえる。唇を尖らせて「聞いてたもん」と呟いたハルカにもう一度握りこぶしを見せれば肩を竦めた。

そんな姿に深い溜息をこぼしながら「何してたの」と尋ねると、阿保丸出しの顔で「高いとこ巡り」と答えた。


「自殺でもするつもり?」

「まさかぁ、ジョーダン上手いねえ。ミクは」


んふふ、と笑ったハルカの腕を引っ張り立ち上がらせる。


「ミクは何してたの?」

「……別に」

「急いだ顔してるから、お使いだ。あ、でも手ぶらだね」


あっ、と声を上げた。

慌てて自転車をとめた、というよりも投げ捨てた場所を見下ろす。自転車に外傷はなさそうだけれど、前かごに入れていたトートバッグは街路樹の土の上に放り出されていて、お財布と本が土まみれになっている。


「最悪! あれ図書館の本なのに! ハルカのせいだからね!」





さっきと同じように階段を二段飛ばしに駆け下り、最後は四段飛ばして着地する。

急いでトートバッグと自転車を救出する。ハルカが私を追って階段を降りてきているのが見えた。追いついたハルカが膝に手を着いて息をしながら笑う。


「ミクはいつも急いでるね」

「誰のせいよっ!」

「おれのせいです。ごめんなさい」


素直に謝ってくるとかずるい。もう少し責めさせろ馬鹿。


「……別に。もういい」


一言だけそう言うと、私は自転車のスタンドを強く蹴った。勢いよくグリップを押したが、カクンと体がつんのめった。眉根を寄せて振り返るとハルカが自転車の荷台を掴んでいた。


「……一応聞く、アンタ何してんの」

「少し待ってほしくて荷台を掴みました」

「『見て分からないの?』って顔で答えんな! てかそれ以前に掴むな!」


だって、とハルカが困ったように笑う。その顔に嫌な予感がした。


「……まさかとは思うけど、また迷子なの?」

「へへ、大正解。家まで送ってくれると嬉しいな」


スゥ、と息を吸いながら天を仰いだ。


「……後生だから勘弁して」

「『後生だから』って格好いい言葉だよね。有山浩道の『本と私と王子様』でヒーローが使っていたよ、『後生だから生きてくれ』って」

「そのシリーズ全部持ってる! あんたも好きなの? ……じゃなくて、今すぐ手を離せ手をっ!」
「お願い。おれ、すごく困ってるんだ」



何でそういう言い方するかなこいつは。

そんなふうに言われたら、助けない私がまるで意地悪な魔女みたいになるじゃない。いっそのこと、本当に意地悪な魔女だったらこいつを黙らせるために大鍋でぐつぐつ煮込んでやれるのに。

額を押さえて最大級の溜息を吐いた。


「……マジで今回限りだから」

「わぁい、ありがとう」


人の話を聞いているのかいないのか、また前みたいに背中合わせで荷台に跨った。

いつもよりも二倍重いペダルを踏みしめた。


「ごめんね、ミク。お出かけの途中だったのに」


人の弱みに漬け込んで後ろに乗ってきたくせに、しおらしく謝られた。

これでまだいじけるのも私が悪いみたいでずるい。


「……別に。図書館行って、ごはん買いに外出ただけだし」

「もうお昼だもんね。おれもお腹空いたなぁ」


きゅるるとハルカの腹の虫がなって思わずプッと吹き出す。


「あ、笑った。ひどいなぁ」


多分ぶうたれているハルカを無視してペダルを踏み込む。するとどこからか香ばしい匂いが漂ってきた。元をたどれば、スーパーの横にある小さなプレハブのたこ焼き屋に行きついた。


「ミク、ミク! いい匂いだよ!」


シャツの背中を引っ張られて急ブレーキをかける。


「だから暴れんなって言ってんでしょ!」


荷台から飛び降りたハルカが私のハンドルを引っ張った。思ったよりも力があるようで自転車が進み屋台の前まで連れて来られる。