ハルカは自慢げにノートを広げて私に差し出した。受け取って目を通すと一行目に「むかしむかし、とまではいかないちょっと最近の話。あるところに意地っ張りで強情で、夢見がちなお姫さまが住んでいました。」とだけ書かれていた。
「いや、二人の思い出を小説にしろって言ったじゃん! てかそもそも“ちょっと最近の話”って何よ!」
「大丈夫だよ、頭の中にはちゃんと入ってるし」
ふにゃりと笑ったハルカに何度目かのため息をついた。
ハルカは船を漕ぎ始め出した。風のない中、ボートはすいすいと進んでいく。遠くで水面に映る月が見えて、私は柄にもなく満面の笑みを浮かべた。
「ねえハルカ見て。もう少しで月に届くよ!」
興奮気味に身を乗り出し、水面を指さした。もうあと少しの所で月が揺れている。
そのとき、突然オールが水を切る音が止んだ。不思議に思って首を傾げながら振り返ると、ハルカは手を動かすのをやめていた。まっすぐに私を見つめるその瞳にたじろぎながら、「どうしたの」と少し首を傾げた。
「ミク、ありがとう」
突然のことに目を瞬かせる。なんだそんなことか、と頬を緩めた。
「楽しいね」
「ん」
「ワクワクだね」
「ん」
「これで、終わりだね」
一瞬息が止まった。下唇を噛んだせいで、返事ができなかった。
ハルカの顔を見ていられなくて俯いた。
「迎えにきてくれてありがとう。一緒に冒険してくれてありがとう。後ろに乗せてくれてありがとう。おれと一緒の時間を進んでくれて、ありがとう」
落ち着いた穏やかな声だった。
「本当に、本当に嬉しかったんだ」
それは、それは私だって。
ハルカと一緒にいたから、ハルカと冒険したから、ここまで来ることができた。
勇者の剣も、ハルカがいなければ私は蹴っ飛ばして通り過ぎてしまう。火を噴くドラゴンも私ひとりじゃ戦えない。全部ひとりじゃなかったから、冒険してこれたんだ。
汚くて面倒くさくてくそ喰らえって思うくらい阿保らしい世界で、ぽつりぽつりと「良いこと」が見え始めたのは、ハルカが側にいたからだ。ハルカが側に居なかったら、世界はドロドロな真っ黒で覆われたままだった。私はずっと息苦しいまま、この世界を一人で走り続けるしかなかった。
私だって、嬉しかった。楽しかった。それ以上に、私は。
「あのね、おれね。おれ────」
ハルカの声が湿ってハッと顔を上げる。
「おれ、ミクと出会えて、本当によかった……っ」
泣きながら笑っていた。ボロボロと涙を流しながら本当に幸せそうに微笑んでいる。
頭の中では言葉がどんどん溢れ出すのに、口が、心が、追い付かない。
胸で言葉がつっかえて、気持ちが溢れて膨らんで、いっぱいいっぱいになったその瞬間────弾けた。
「私、ハルカが好き……!」
今までそんなことは一度も考えたことがなかったのに、言葉にしてすとんと胸の中に落ちた。
伝えたいことはいっぱいある。でもこれだけでも全部伝わるような気がした。
ハルカは目を丸くした。何度か瞬きしてその長いまつ毛から雫がぽたぽたと落ちる。そして顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。
「おれも、ミクが大好きだよ」
両手を差し出して、私の手をぎゅっと握った。瞼を焼くような熱さにただただ顔を顰めて、離すものかと力を込めた。
この手を離したら、二人の冒険は終わってしまう。そんな気がしたから。
結局ボートは月には届かなかったけど、風に煽られて星空が映る湖の上を静かに進み続けた。
────十四年後。
「おーい、高木。新人賞の原稿、もうチェック終わったのか?」
「すみません、まだです!」
「さっさとしろよ、他の奴らも回し読みすんだから」
はい、と返事をしながら、手早くデスクの上の荷物をかき集めてカバンの中に突っ込む。
「先生から原稿受け取ってきます!」
うぃー、と先輩たちの返事が返ってきて、小さく頭を下げて会社を飛び出した。
一年就職浪人して児童書をメインとする出版社に就職できた私は、四年間営業部で経験を積んだ後ついに去年から念願の編集部に配属された。
仕事は毎日学びと失敗の繰り返しだけれどやりがいもある。自分が担当した作家の新刊が発売された日に書店で並んでいるのを見た時の感動は今でも忘れられない。それを見るとどれだけ残業しても、どれだけ編集長からダメ出しを食らってもがんばれた。
ただ、家に返ってそのままベッドにダイブした時、たまに昔みたいな息苦しさを感じる時がある。
「お前今月かなり残業してんだろ、今日くらいさっさと帰れよ」
すっかり日も暮れた頃、ジャケットを羽織った先輩が私の肩を叩いて「お疲れさん」と帰っていった。
スマホの画面を叩くと、もう定時から三時間も過ぎている。そして通知欄にはお母さんからのメッセージが届いているのに気がついた。
椅子にもたれかかって執務室を見渡す。いつの間にか残っているのは私一人だけだった。
一つ大きくのびをしてメッセージアプリを立ち上げる。電話マークを叩いて耳に当てると、五度目のコールで繋がった。
「もしもしお母さん?」
『未来?』
電話後しですら声が弾んでいるのが分かった。
『どうしたの? 何かあった?』
「お母さんからメッセージ来てたのに気付いて、とりあえず電話したんだけど」
スマホを肩と耳の間に挟みながらデスクの隅に寄せられた茶封筒の束に手を伸ばす。最近行われた児童書の新人賞の応募原稿だ。
『そうだったのね。ほら、来週のお父さんの誕生日会のこと話したくって』
「あー……もうそんな時期だったか」
『薄情な子ねぇ』
お母さんの呆れた声に苦笑いを浮かべる。
「その日作家さんと打ち合わせあってさ。悪いけど今年も当日の夜に寄るよ。誕生日探しは三人でやって」
分かったわ、とちょっと残念そうな声が聞こえて申し訳なさが顔を出す。
その時電話の奥から「電話、お姉ちゃん?」と明るい声がする。ガサゴソと衣擦れの音がして今度はクリアな声で『お姉ちゃん久しぶり!』と届く。
「久しぶり、明日香」
今年で十歳になる妹の明日香は、私が高三の夏に生まれた。お母さんと高木さん────お父さんが結婚して四年後に生まれた腹違いの妹だ。
私はお父さん似だと思うんだけれど、会う人全員が一番私にそっくりだという。それが妙に気恥ずかしくてかなり嬉しかった。
明日香と世間話をしていると今度はお父さんが帰ってきたらしい。「俺にも代わって」「まだ私が話してるの!」「ちょっと明日香、スマホ乱暴にしないで!」と何やら揉め始めて耳元が賑やかになる。
相変わらず仲良くやっているようで一安心だ。
「とにかく、誕生日会の日は夜に帰るから。必要なものとかあったら買ってからいくから、メッセージ送っといてってお母さんに伝えて」
『分かった! じゃあねお姉ちゃん!』
『あ、明日香待って待って! 未来〜、お父さんだぞ。今年も帰ってきてくれるんだって? 嬉しいなぁ、お父さん幸せ。ありがとね』
「はいはい、じゃあね」
くすくす笑いながら耳から離す。一つ息を吐いて天井を仰いだ。
幸せ、か。
リビングの机の上に置いてある瓶のことを思い出す。
中学生の頃に貯めた幸せ貯金。『辛くなったら、ひとつ取り出して読んでみる』、そう教えてもらった通りにしていたら、たくさんあったはずの貯金はもうすぐ底をつきそうなほどになっていた。
それにあの頃集めた幸せ貯金は、今の自分には眩しすぎてほんのばかし胸に刺さる。昔はあいつの見ている世界にひどく憧れていたのだけれど、やっぱりそこは私の手の届かない場所で、あの日届かなかった月のように、きっと遠いものなのだ。
必死に手を伸ばしていた頃を思い出すと、すっかり風化されたと思っていた切ない気持ちが溢れ出す。けれどそれをどうにかしようとする気持ちはもう湧き上がってこなくて、ただ自然と消えていくのを待つだけになってしまった。
息を吐きながら空を見上げると、少し胸が苦しかった。
「さっさと読んで帰ろ……」
そう呟いて一番上にあった茶封筒を開けた。原稿用紙をデスクに広げる。応募規定に沿っているのかを確認してから、タイトルと作家名に目を通す。作家名は“ヨウ”、タイトルは「未来が待ってるその先で」。
頬杖をついて目を通した。
小説はファンタジーもので、主人公が自分探しの旅をする話だった。
旅先で出会う人々との心温まる交流や、主人公に襲い掛かる試練の数々をとても丁寧に、そして柔らかな文章で書き綴っていた。
どこか懐かしさを帯びた文章と、ゆっくりと優しく穏やかに進むストーリーに浸りながら、私は最後の一枚をめくった。
ラストシーン。旅の末にたどり着いた夜空が映る湖を、小舟で進みながら主人公が想いを馳せる。
『きっと、わたしはいつまでも未来を想うのだろう』
目を瞬かせた。ルビの打ち間違いだろうか? しかし、こんなに大事なラストシーンで誤字があるなんて珍しい。
目を落としたまま冷めたコーヒーを飲む。しばらく地の文が続き、そしてまた主人公の感情が綴られる。
『ああ願わくば、未来に希望が満ち溢れますように。わたしは、いつも笑顔でいる未来がいい。』
思わずそこで目が留まってしまう。また未来のルビが『みく』になっている。片手に持っていた紙コップをデスクの上に置いて、眉間にしわを寄せながら『未来』の文字をそっと指でなぞった。じんわりと胸の中に広がるのは、心地よい温かさ。
『ああ、未来に幸あれ』
その一文を読んだその瞬間、胸に熱い何かがこみ上げてくる。
困惑を残したまま、【完】の文字を目で追った。
どういうことだろう、やはり最後まで未来はみくだった。
首を捻りながら茶封筒を手にした。なんとなく封筒を裏返したその瞬間、喉の奥がきゅっと閉まって、咄嗟に口元を抑えた。
一角目がとんで始まる丁寧なその文字。この十数年、辛くなった時に何度も何度も見てきた。息苦しい世界をちょっとだけキラッとさせる私のための魔法。私が好きな黄色のメモに描かれた、君の文字。
【牧野遥】
宛名に書かれたその文字に、口元を抑えた手の親指と人差し指の間に熱い雫がぽたりぽたりと落ちてきた。震える唇から、小さな嗚咽が漏れる。
ぼやけた視界の先で文字がぐらぐらと揺れている。口元を押さえていた手で目頭をぬぐい、震える手でその原稿を胸に抱き額に当てる。
「完結させるのに、何年かけてんのよ馬鹿……っ」
不思議なことに、何故かその原稿から懐かしい温もりをじんわりと感じるような気がした。涙は止まることなく溢れ出すのに、自然と頬が緩んだ。
「いい事なんて何もない」そう決めつけて、全部を恨んでいた中学二年生のあの頃。苦しくて仕方なかったこの世界を手を繋いで冒険した。目を閉じれば今でも、鮮明に思い出すことができる。
勇者の剣で倒したドラゴン、星が降る夜に月を目指して船に出したこと。君が見せてくれた世界は、すべてが輝いていた。