『目が覚めた時、植えたばかりだった種が花を咲かせて、冷たかった風が暖かくなっていて、街の匂いが変わっていて。見たかった映画が公開されていて、新しいお店ができていて、新しい道ができていて。起きて一番に窓から世界を見下ろすたびに、新しくなった景色にすっごくワクワクするんだ』
ハルカはそう言ってたじゃん。変わった景色を見ることが好きなんだって。ハルカはこの世界を楽しんでいたんじゃないの? ワクワクドキドキしていたんじゃないの?
「ああ、また窓のお花枯れてる。風も冷たいね、夏が終わったんだね。またおれだけ、ここに残されたんだね」
ああ、そうか。そうなんだ。そういうことなんだ。
植えたばかりの種が花を咲かせるなら、咲いていた花が枯れることだってある。見たかった映画が公開されていたなら、見たかった映画が終わっていることもある。
好きなお店が潰れて、よく通った道が工事されて、窓から世界を見下ろすたびに絶望してしまうことだってあるんだ。
「もう、もうやだ、つらい、寂しい……っ。どうしておれはこんななの? みんなおれを置いて先に行っちゃう。置いて行かないで、おれはまだここにいるよ!」
出会って初めてハルカの本音を、心の叫びを聞いた気がした。
ハルカは私とは違うと思っていた。だから羨ましいとさえ思っていた。でもそうじゃなかった。ハルカも私と同じだった。いいや、私以上に途方もない孤独を抱えていたんだ。
心臓がばくんと鳴って一瞬息が止まる。踝から脳天まで突き抜けるような何かが走り、気が付けばハルカの座るベッドに身を乗り出して飛び乗り、勢いのままにハルカの首に抱きつく。
ふたりして後に倒れこんだ。そばにあったクッションがベッドから転がり落ちて行く。
耳元で、押し殺したような嗚咽が聞こえる。
かける言葉が見つからず、固く目を閉じてハルカの頭を抱きしめる。胸が痛くて目頭が熱い。でもきっとハルカは、私よりも痛いはずだ。
言葉が上手くまとまらなくて、ただきつく抱きしめた。
「“こんな”ハルカだから、幸せを見つけるのが上手いんでしょ」
やっと出てきた言葉は、やっぱり意味不明で全然気の利いた言葉でも励ましの言葉でもない。ハルカは首を振った。
「おれは上手いんじゃなくて、必死に探してるだけだよ。じゃないと寂しくて寂しくて、この世界が大嫌いになりそうだったから。だから“幸せ貯金”を始めたんだよ」
「どんな理由でもいいじゃん。でも、もしほんとうに嫌なんだったら、私を手伝ってよ」
ハルカが目を瞬かせると、涙がポロリと零れていった。
「ハルカは幸せを探すのが上手くて、私は下手で、ハルカは道に迷うけど、私は迷わない。じゃあふたりで探せばいい、そうでしょ? 起きてる間は私がどこにでも連れて行ってあげる。だから私の分も探して」
ハルカは何も言わなかった。代わりに私の背中に腕を回してぎゅっと力を入れてきた。
「……おれ、嬉しかったんだ。ミクが自転車の後ろに乗せてくれている間は、同じ時間を進んでいる気持ちになれたから。その間はおれ、一人ぼっちゃじゃないって思えたんだ」
ハルカの声が震えている。
「でも、もう終わりなんだね。おれ、また一人ぼっちになっちゃうね。寂しいな。寂しいなぁ……」
私は何をすればいいんだろう。何を言えばいい? ハルカになんて声をかけてあげれば、ハルカは泣き止んでくれる?
一人じゃないとか、一緒にいるよとか、多分そんな言葉はこれまでたくさん受け取ってきたはずだ。それでもハルカは今もこうして孤独の中にいる。孤独の中に取り残されたハルカを引っ張り出すにはどうしたらいいんだろう。
結局言葉は見つからずに、ハルカはずっと押し殺すように泣いていた。私はハルカの頭を抱きしめることしか出来なかった。
外の景色が赤くなり始めて、私たちは手をつないだままレースのカーテンを潜り、出窓に座って外を眺めた。
いつの間にか日は傾いていて、空の端が黄、オレンジ、赤、そして徐々に藍色に染まっていく。東の空はもう夜が始まっていて、一番星が輝いていた。
ハルカの顔が夕日に照らされ赤くなっていた。
「前にも言ったけど、私はハルカの見ている世界が羨ましいよ」
外を眺めながら呟くようにそう言った。握る手に力を籠める。
「おれの見ている世界は、ミクが見ている世界と何にも変わらないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「……そうだといいな」
私たちを赤く照らす夕陽が、向かいの家のさらに奥へと沈んでいく。
夕暮れが終わる頃、頬の火照った熱とほんの少しの切なさだけが最後まで残っていた。
塔の窓は今日も固く閉ざされています。
お姫さまは毎日、王子さまを案じて塔を見上げていました。
今日も窓は固く閉ざされている。
呪いをかけたれた王女さまが眠るイバラの森の塔みたいに。いくら見上げてもカーテンは開かず、待っている人も現れない。
肩を落として帰路に着く。今日もハルカには会えなかった。ハルカに会えずにもう一週間が過ぎた。
ハルカは本当は、ずっとずっと寂しかったんだ。
でもその気持ちに誰も気づいてあげられなかった。それがハルカをどんどん孤独にしてしまったんだ。
あの時ハルカに何を言っていれば、ハルカは笑ってくれたんだろうか。毎日そればっかり考える。
私がもっと大人で、言葉選びが上手だったらハルカは今も私と、自転車に乗ってあちこちを走り回ってくれていたんだろうか。
ベッドに寝転んで枕元に転がしていた小説を手に取った。ハルカが好きだと言ったお父さんの小説、私が主人公の物語。
顔の上に置いて深い息を吐いたその時、古ぼけたインターフォンが部屋中に鳴り響いた。
どうせ迷惑なセールスだろうと思ってのんびり小説のページをめくりながら確認しに向かうと、カメラに写っていたのは高木さんだった。
慌てて玄関の鍵を開けると、高木さんは「よかった、寝ちゃってたらどうしようかと思った」と朗らかに笑う。
「どうしたんですか? お母さんは今日残業だってさっきメッセージ来てましたけど……」
「うん、僕も聞いてね。ミクちゃん一人じゃ大変だろうから、晩御飯作りにきたんだ」
目を瞬かせながらそう尋ねると、高木さんは両手に提げていた買い物袋をガサリと持ち上げる。
「迷惑だったかな……?」
「あ、いや、迷惑ではないんですけど」
私がそう言い籠ると、高木さんは急に不安そうな顔をする。面と向かっては言いづらくて頬をかいた。
「その……お母さんが高木さんは壊滅的に料理ができないって言ってたから、そっちのが不安かも」
そう言うと、まるでたった今自分が料理ができないことを思い出したみたいな顔をして固まった高木さん。
数秒後他人事みたいに「どうしよう?」と青い顔で呟き、堪えきれずにぶっと吹き出した。
「高木さんはもうご飯食べましたか?」
「あ……いや。あわよくば一緒に食べて交流を深めようと……」
それって普通黙っておくことなんじゃないの?
まぁ言っちゃうところが高木さんらしいんだけど。
玄関ドアを大きく開いた。
「お母さんが遅い日、私が晩御飯作るんです。オムライスでもいいですか?」
「も、もちろん! 僕も手伝うね」
「台所の天井焦がしちゃうような人、うちの台所には立たせられません」
なぜそれを、と胸を押さえた高木さんに我慢ができずくすくす笑った。
自分の気持ちを二人に打ち明けてから私の中で整理がついたのか、お母さんと高木さんの関係を心からちゃんと応援できるようになった。
最近は週に一回三人で出かけたり、こうして高木さんが家まで遊びに来たりもする。
自分で言うのもなんだけれど、高木さんとはいい関係を築けていると思う。
高木さんには完成したコンソメスープの火の番だけを任せたので、うちの天井が焦げることなく無事晩御飯が完成した。
高木さんは誰だって作れるような簡単なオムライスを大袈裟なまでに「美味い美味い」と言って食べる。
子供みたいなその顔をぼんやりと見つめながらスプーンをくわえた。
「ミクちゃん、なんだか元気ないね。学校で何かあった?」
「え……?」
「あ、思い違いだったらごめんね。いつもと違うふうに見えたから」
首を傾げた高木さんに目を瞠る。態度に出していたつもりはなかったのに。
「……その」
何から話せばいいのかわからずに言葉を詰まらせる。目を細めて「うん」と頷いた高木さんはゆっくりとスプーンを置いた。
「寂しがりやの、友達がいて」
「クラスの子?」
「では、ないんだけど」
ふんふんと高木さんが頷く。
「訳あって私たちと同じように生活することができなくて、それがすごく苦しいんだって。取り残されたみたいだって言うの」
コンソメスープをずずっとすする。
私の曖昧な説明にも嫌な顔をせず高木さんは真剣な顔で相槌を打つ。
「私前に、ハルカに助けてもらったことがあるんだ。だから今度は、私はハルカのために何かしてあげたいんだけど……」
「なるほど。未来ちゃんはその子のために何かしてあげたい。でもその方法がわからない、と言うことかな」
うん、と頷く。
かける言葉ならたくさん考えた。「ハルカは一人じゃない」「私がいる」とかそんな言葉。でもそんな私が思いつく程度の言葉は、薄っぺらくてありきたりで、きっとイバラの森の城に閉じ籠ってしまったハルカにはきっと届かない。
じゃあ私には何ができる?
「そうだなぁ。じゃあさ未来ちゃん。自分に置き換えて考えてみようか」
「自分に?」
そう、と高木さんが微笑む。
「未来ちゃんは孤独を感じて寂しい時、どうして欲しい?」
私が寂しいとき……?
視線をテーブルの木目に落とす。
私が寂しい時、その時は。
「何もしなくていいから、そばにいてほしい……かな。一人じゃないんだって思えるように。でも、それじゃダメなの。もうすぐ引っ越して、すぐには会えないところに行っちゃうから」
「だったら、一人じゃないって思えるだけのたくさんの思い出があれば、少しはその子の勇気になるんじゃないかな」
高木さんの言葉を心の中で繰り返す。
────一人じゃないって思えるだけのたくさんの思い出。
テーブルの隅に寄せていたお父さんの小説に小指が触れた。私が主人公の私の物語。
お父さんと二人でお使いにいった時に、私が水溜りに飛び込んで遊んでいたのを見て書き始めた物語だって言っていた。
だからこれは私とお父さんの思い出が詰め込まれた話。
ハルカにも、そんな思い出があればハルカにも────。
次の瞬間、私は勢いよく立ち上がった。
「高木さんありがとう……! 私ちょっと行ってくる!」
「あ、こら! 門限もう過ぎてるでしょ?」
「今日だけ見逃して! すぐに帰ってくるから、お母さんには上手く言っといて!」
リビングを飛び出して、椅子の背にかけていたトートバッグに新しいノートとボールペンを詰め込んだ。
上着に手を通しながらバタバタと玄関へ走る。
「せめてスマホはちゃんと持っていって!」
高木さんが慌てて玄関まで追いかけてきた。私のトートバックにスマホをストンと入れた。ちょっと呆れたような顔をして笑っている。
「遅くなり過ぎないでね。あと、ハルカちゃんによろしくね」
「え? ハルカは男だよ」
「え?」
目を瞠った高木さんに「行ってきます!」と声をかけて飛び出した。
自転車に飛び乗ってイバラの森の塔を目指す。
空は東の空にいくつか星が登っていた。短く息をしながら必死にペダルを回す。もう、息苦しくはない。