「もう荷造りできてんのか、はーこ」

 俺はさもどこかへ出かける風に玄関を出て、向かいの家の庭にいる幼なじみに声をかけた。
 はーこは、今夜のフェリーで島を出る。

「段ボールはもう送ったよ。手荷物なんて財布とスマホとクラリネットぐらいだもん」
「楽器は送らないんだ。さすがクラリネット花子」
花枝(はなえ)だっちゅーの。ティンパニ太郎」
太一(たいち)だっつーの」

 俺の口から、なんだか空々しい笑いがもれた。

 この会話も、しばらくできない。
 いや、もう同じ吹奏楽部じゃないから未来永劫ないのだろうか。



 四月。俺たちは高校生になる。
 でも、はーこは本土の高校に行く。吹奏楽の強い高校の寮に入る。
 今夜、幼なじみはいなくなる。



 はーこのクラリネットが俺は好きだった。言ったことないけど。
 木管の柔らかい音が似合ってた。
 ずっと隣で聴けると思ってた。

 中学の吹奏楽部でクラリネットを始めたはーこ。
 人が足りないと打楽器要員で入部させられたけど、はーこのクラリネットを聴いていられるから、それでよかった。
 「花枝」と「太一」が部内では何故か花子と太郎でイジられてたけど、はーことセットだから、それでよかった。

 よかったんだけどな。



「……まあ、頑張れよ」
「うん。ゴールデンウィークとか夏休みには帰るから。そしたら花火やろうよ。去年できなかったし」
「そうだっけ」
「約束してたのに、たーくん夏風邪ひいたでしょ」

 本当はちゃんと覚えてる。
 はーこの好きな花火、買ったまま押し入れに突っ込んである。
 熱出して寝込むとかカッコ悪くて、あらためて誘えなくなったんだ。
 バカだな。ちゃんと言えばよかった。

 はーこはまっすぐに俺を見た。

「たーくん見送り来てよ」
「うん……みんな来るだろ」

 俺は少し目をそらす。
 だってはーこが強いから。

 あんなに優しい音を奏でる、はーこの心がこんなに力強いなんて。
 ひとりで旅立っていくなんて。
 俺より先に勝負に出るなんて。
 行ってしまうなんて、そうは思わないじゃないか。

「たーくんも来なきゃ駄目」
「まあ、行くよ」

 はーこが明るく笑ってくれて、俺はなんとか笑い返した。手をあげて、用事のフリしてそこを離れる。
 本当は、はーこと居たかったけど。
 居られないよ、情けなくて。




 夜の桟橋には同級生たちが集まっていた。
 はーこを囲んで、女子が抱き合ってベソをかいてる。俺は離れて眺めていた。
 乗船口で、はーこがチラリと振り返る。目が合った気がして俺は小さく手をあげた。

 この後はーこはデッキに出て来るだろう。
 船上と港のみんなで別れを惜しむんだ。知ってるよ、スマホの明かりを振り合うって。
 でも俺には、やることがある。



 みんなから離れた港の端に、俺は走った。
 港を出たら船はここを通るから。ここで俺は、はーこを見送る。
 みんなはスマホを手にしているだろう。だけど俺は。


 持ってきた袋から取り出したのは、花火と着火ライター。押し入れから引っ張り出してきた。
 一緒にはできなかったけど、はーこのために燃やしてみるよ。はーこにも見えるかな。


 線香花火はお預けだ。それ以外は全部使おう。
 ススキにスパーク。ラスイチは手筒。
 並べて準備していると、夜の空気を震わせて短く汽笛が鳴る。出港だ。

 船のデッキで明かりが一つ揺れてる。あれがはーこか。港の同級生たちのスマホが揺れ返す。

 俺は花火に火を点けた。
 パチパチと弾ける鮮やかな火花。
 それを大きく振る。船に向かって。
 はーこに向かって。

 二本、三本、絶やさないように火を点けては振る。見えるか、はーこ。
 パン、と小さく火花がはじける。
 ささやかな火の粉を振り回す。


 はーこを見送るなら本当は、大きな花火を打ち上げたいんだ。
 ドンと腹に響く尺玉の音。夜空に開く大輪の華。
 はーこにはそれが相応しい。

 だってそうだろう。
 はーこは、まだ十五だぞ。

 俺が親の家で飯食って馴染みの連中と島の高校に通うのに、はーこは知らない場所に戦いに行く。
 そんな奴を送り出すのに、どれだけの事をしたって足りるかよ。

 打ち上げ花火の下、オーケストラを揃えて交響曲を指揮し、派手にティンパニを打ち鳴らしてやりたい。

 だけど今の俺にできるのは、この花火を燃やすことだけだ。
 せめて指揮棒みたいに振ったってオケは鳴らない。
 パチパチいう花火の音も、はーこには聞こえない。
 俺はショボいティンパニストだ。


 フェリーがもう、通りすぎる。
 俺は最後の手筒花火に点火して、大きく大きく、振ろうとした。

「――あ」

 プスン。
 火薬が、くすぶって消えた。


 ――湿気ってんのか。去年のだからな。
 はは。なんだよ、俺の代弁するなよ花火のくせに。燃やし切れずにくすぶって、どうしろって言うんだよ。


 俺は花火を投げ捨てて座り込み、膝を抱えた。
 遠くなったフェリーをぼんやり見送る。
 島の海はもう暗い。

 その時、スマホの通知が鳴った。

 はーこ。


 ――花火ありがと。


 それだけ。
 そうか。
 見えてたか。俺だってわかったか。

 俺はもう一度、ほとんど見えないフェリーを見た。船上でスマホの明かりが揺れた気がした。

 ――行ってこい、はーこ!

 俺は心の中で、ティンパニを鳴らした。