「私はちょっと間に合わなかったけどね」
「え?」
 俺は思わず聞き返した。間に合わない? 何が間に合わないと言うんだろう。柘植の木団地住民の古参、前島さんには、より住みやすくなった団地にぜひ住んでもらわなければ。

「ふふ、私甘えてたのよね。「選べる」立場にいたから、迷っていたのよ。贅沢よね。今回の松木さんのことがあって、私、踏み込めないでいたことにようやく踏み込む勇気が出たわ」
 
カラン、ドアが開いて二人の男性が入って来た。
「マスター、表のプレートクローズになってるけど、今日休み?」
 囲碁教室でよく見かける二人だ。この時間までサ店にいたことがあまりなかったから知らなかったけど、夕方一息つきに来る人も多い。一日の終わりにサ店のコーヒー、という気持ちもよく分かる。
「あ、すみません。OPENにするのを忘れていました。大丈夫です、どうぞ」
「あら、お客さん来ちゃったわね。じゃあ私、これで帰るわね。プレート、ひっくり返しておくわ」
「ありがとうございます前島さん」
「で、私もマスターの奢りってことで良いのかしら?」
 明るくふるまう前島さんに、須崎さんはいつもと変わらない口調で返した。
「もちろんですよ。美久ちゃん捜索隊は無料です」
「やったぁ、ご馳走様」

 前島さんは卵を持っていない方の片手をじゃ、と上げてサ店を出て行った。俺も職場に戻らないといけないけど、でも前島さんの言った「間に合わない」という言葉の意味が気になる。
「マスター……、前島さん、何があったんでしょう」
 須崎さんは、注文の入った今日の日替わりコーヒーと、仕込みの終わったトーストの準備をしながら、周りに配慮するように声量を少し下げて俺だけに伝わるように言った。
「前島さんは、これ以上選ばないという人生を選んだのかもしれませんね」
「選ばないという人生」
「前島さんならどこへ行っても、きっと前を向いて元気に歩いて行かれるでしょう。僕たち若輩者が口を出すことじゃないです」

 お客さんが増えてきて、それ以上の詮索は時間切れになった。もしかしたら前島さんがこの団地からいなくなるかもしれないという俺の予感は、胸の中にしまって職場へ戻ることになった。

「前島さん、離婚してご実家のある県へ戻られるみたいですよぉ」
 あ、大川君大川君、と昼休みの食堂で声を掛けてきたのは福祉課の林さんだった。
「へ?」