「だから、出店希望者にビストロ・ヴァバールの元シェフ、須崎祥一さんがいました。同姓同名かと思っていましたがご本人でした」
「誰ですか、須崎祥一さんて」
「え、大川君、須崎シェフを知らない」
「知りません。有名な人なんですか?」
 森本さんは。あちゃーと大げさに天を仰いだ。え、そんなに知らないことがだめな感じなのか?
「ヴァバールのディナーは一ヶ月先まで予約が取れないって有名なんですが。大川君知らない。あ、そう。何年前だったか急に須崎シェフが辞めてしまって。味は美味しいからお店は今も変わらず人気なんですが、須崎シェフのファンで通っていた人には衝撃が走ったのです」

 森本さんの寄越す軽い蔑みの視線に身を縮めながら、その須崎さんとやらの書類にもう一度目を通すと、そこには柘植の木団地という名前を冠にした喫茶店にしたいと書いてあった。
高齢者や話し相手のいない人たちの憩いの場にしたいというのが目的だそうだ。メニューはコーヒーと調理の簡単な軽食のみ。

「そのビストロなんとかの元シェフが、コーヒーと軽食しか出さない喫茶店ておかしくないですか?」
「そうですね。たしかに勿体ないとは思いますが、もし須崎シェフがここに出店してくれるのならこんなにありがたいことはないので私は須崎さんを推します。大川君も一応三人まで選んでおいて下さい。今日中に課長に提出するので」
 じゃ、後片付けもお願いします。ミーティングは一方的に終わり、俺は会議室に一人とり残されたのだった。俺の意見はまず採用されないだろうな。
 予想通り森本さんの超絶早口のごり押しが効いて、一階の空きスペースには須崎さんの喫茶「柘植の木団地」が開店する運びとなったのだ。

 俺がその喫茶「柘植の木団地」を訪れたのは、開店して二ヶ月ほどたった日のことだった。あれだけ森本さんに弄られながら面談にも携わったというのに、課長の代理で頭を下げに行く仕事に追われて、結局開店準備の様子すら一度も見に行けていなかった。
いつの間にかオープンしていて、なんと課長も森本さんもすでにコーヒーを飲みに行っているらしい。まったく社会ってのは世知辛いな。
 実は少し気になっていた。そんなに有名なシェフがどうしてこんな過疎の街へ来て、しかもビストロではなく喫茶店なんかをやろうと思ったのか。