市役所の人間なら大抵は知っている団地の顔、前島さん。その前島さんですら得られない福留さんの信用を得たと俺の株が上がったのも、一年前の話だ。正確には俺がというより須崎さんのおかげなんだが。

「大川君、大川君」
 ちょいちょい、と須崎さんが俺だけに見えるように小さく手招きをした。前島さんと林さんは来月のワクチン接種会場について話をし始めている。団地の住民が接種会場まで足を運ぶのは厳しいのよ、と前島さんが林さんに詰め寄り、「ご意見、担当に通してみますぅ」と林さんが宥めるパターンはいつものことだ。俺はさりげなくその場を離れ、須崎さんのいるカウンターに身を寄せた。

「福留さんに、これを。密閉してあります」
 須崎さんが、カウンター越しに350ミリリットル入りの耐熱ボトルを寄越してきた。俺たちの話を聞いている間に用意してくれたらしい。たぶん福留さんの好きなバラココーヒーが入っている。

 店で出すサイフォンコーヒーの豆は、須崎さんの知り合いが焙煎したものを仕入れているそうだが、このバラココーヒーだけは、須崎さんが直接フィリピンの農場から買い付けているんだそうだ。淹れ方もこれだけネルドリップという特別仕様。クセのある味らしく(俺は飲んだことがない)、ここいらでこのコーヒーを飲むのは福留さんだけ。福留さんが須崎さんを信頼するようになった理由のひとつだ。
 さすが須崎さん、ナイスアシスト。俺はボトルをちょっと持ち上げて軽く頭を下げた。これさえあれば、福留さんもご機嫌に違いない。
「じゃ、マスター。行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 名付けて「福留さん事件簿」とでも言ったらいいか。一年前の出来事、そして須崎さんとの出会いはバラココーヒーの香りとともにやってきた、なんちゃって。

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「え、なんで俺が再生課なんですか」
 俺は、地方にある中堅だが実績のあるゼネコン「大川組」の社長の息子だ。修行のために別の企業で経験を積むのはよくある話だが、俺が大学院を卒業したあと出向させられたのは、なぜか市役所の、しかも土地建物に関係なさそうな発足したての部署。
「いや、君のご実家の仕事とも全く無縁というわけではなくてね。いずれは再開発にも携わっていく部署だ。君の力を思う存分発揮してもらえたらと思ってお父さんに打診したんだ」
 面接の時に課長がそう言ったから、俺はこの話を受けたのに。