「やめてくださいよ福留さん。前島さんにもイジられたんですから」

 あのオバハンも強力だからなぁガハハと笑って、福留さんは足を引きずりながら、林さんと俺を部屋へと引き入れた。

「で、福留さん。訪問ヘルパーの利用考えてみませんか? 買い物して4階まで帰って来るのこれ、大変ですよぅ」
「だから要らねえって。俺は一人で出来るっつうの。民生委員さんや団地の人にも手伝ってもらってるし大丈夫だって」
「でも、電球の交換とか力仕事とかぁ」
「大丈夫大丈夫」

 二人が相変わらずのやりとりをしている間に、俺は須崎さんから預かってきたボトルの蓋を開け、福留さんの家にある数少ない食器の中から湯呑みを取り出してバラココーヒーを注いだ。
 密封してあっただけあって、白い湯気が立つ。それとともに強めの香りが部屋中に広がった。

「おっ、バラコかい。ちょうど飲みたいと思ってたんだ」
 林さんとの会話を止めて、福留さんが嬉しそうな顔で湯呑みを受け取る。林さんもふぅ、と息をつくと、気を取り直したようにコーヒーの香りに笑顔を見せた。

「柘植の木喫茶さんも順調そうで良かったぁ」
「新しい入居者にも人気らしいですよ」
「そう言えば、お隣にパソコン教室入るらしいわねぇ」
「スマホの講習会もやるそうです」
「へぇ。スマホがあったら、離れて住まわれているご家族も安心よねぇ」
「そうですね」

 林さんと俺の会話をしばらく聞いていた福留さんだったが、コーヒーの入った湯呑みをテーブルに置くと、参った参った、と笑った。
「わぁったよ。林さんも再生くんも、こんな爺さん相手に毎度しつけぇよなぁ。ありがたくサービス使わせてもらうよ」
「良かったぁ、ありがとうございますぅ福留さん」

 バラココーヒーのアロマと柘植の木団地での暮らしが、福留さんの心を柔らかくしてくれたようだ。

 林さんは、じゃさっそく、と手持ちのカバンからそそくさと書類を取り出している。福留さんの記入が必要な箇所に、すべて鉛筆で丸をしてあったり付箋を付けてあったりと用意周到だ。林さんもまた、他人に手を差し伸べることで救われている何かがあるのかもしれないが、それはまた別の話だ。

 350ミリリットルの残り半分を福留さんの湯呑みに注ぐと、俺は黙々と林さんを手伝った。

「マスター、ボトルここに置いておきますよ」
 
 サ店に戻ると、前島さんや店内にいた客はすでに引き上げていた。こういう時間をアイドルタイムと言うらしい。    
 例のごとく森本さんが銀縁眼鏡をカチッと上げれば、軽い蔑みと共に俺の知らない情報が早口でもたらされるのである。