おじいさんは、しばらく目を閉じたままだった。店外のイヌツゲの木が風にそよいだ頃、ゆっくり目を開けたおじいさんは、かなり色の濃いその液体を鼻元へ近付け、さっき須崎さんがしたように香りを嗅いだあと、ひと口含んだ。おじいさんの表情に変化はない。
 俺はおじいさんとコーヒーから視線をそっと外し、自分のコーヒーへと意識を戻した。こないだのブレンドコーヒーより酸味がなく少し腹に溜まる感じだ。俺はこっちの方が好きかもしれない。
 次サボる時も、このマンデリンを頼もう。そんな風に思う自分に少し戸惑う。

「困りましたね」
「森本さんのところにも連絡来てますよねぇ」
「団地内のルールが守られていないと再生課としても動きづらいので」
「ですよねぇ」

 森本さんのところに珍しく別の課の職員が来ていた。森本さんは何となく孤高の人だと思っていたから、役所内に他に会話の出来る人がいるなんてちょっと意外だった。

「で? 林さんがその方のところへ行くんです?」
「そういうことになっちゃいましたぁ。ちょっと気が重いですぅ……」
「うちからも一人出しましょうか? 役に立つか分かりませんが」
「助かりますぅ」
「分かりました、課長と打ち合わせしておきます」

 林さんという女性は、ネームプレートによると福祉課の人のようだ。役所の本棟からわざわざ別棟の再生課にまで相談に来るくらい深刻なトラブルということか。

「いいところに大川君」
 あ、しまった。森本さんと目が合ってしまった。
「課長に相談があるので、一緒に来てもらえますか」
「なんで、俺が?」
「なんでもです」
 めんどくせえ……。そういうトラブルからは一番遠いところにいたい俺だが、森本さんにロックオンされては嫌だとも言えない。ある意味課長より怖い存在かもしれない。森本さんの机のフィギュア達に見送られ、俺は課長のところへ連れて行かれた。

「──で、その件なんだが。団地の民生委員から福祉課に連絡があった際、うちにも関係があるかもしれないと福祉課の課長が一報くれたんだ」
「林さんからもそう聞きました」
「ああそうか。森本君は彼女と同期だったな」
「はい」

 あ、なるほど。森本さんと林さんは同期なのか。出向の際、再生課に関連する部署にしか挨拶しなかったのでその辺の事情までは知らなかった。再生課と福祉課は、基本的に交流することがない。なのに今回は一体どういうトラブルなのか。

「あの、すいません。で、俺は何をすれば」
「そうそう。そこで大川君はどうでしょう、という提案です課長」
「大川君か。うむ」
「ですから、俺が何をどう?」