一時間ほどパパと過ごした後、看護師たちの昼食を告げる声と共に次第に廊下が騒がしくなっていく。レクリエーションルームの扉をノックする音が聞こえると看護師長のクレアが顔を覗かせた。
「チャーリー? 食事の時間だけど、どうする? お父さんの分と一緒に、ここへ運びましょうか?」
クレアに返事をせずに、わたしはパパの顔を見る。
「たまには、一緒に食事をしないか?」
申し訳なさそうにつぶやくパパにわたしは肯いて、その日の昼食はパパと二人で、このレクリエーションルームの真ん中に座り込んで食べた。
グランド・ブラフのピクニックみたいに茂った草の上に腰を降ろして、ママが作ったサンドイッチと、ストロベリージャムがたっぷり乗っかったタルトを頬張るみたいに、わたしたちは随分と久しぶりに親子での食事を楽しんだ。
ただ一つ、気になることを残して……。
パパを見送るために廊下へ出ると、食事を終えた人たちでナースステーション前は混雑していた。食後はこうして集まり、看護師から渡される白い紙コップに入ったカクテルを彼女たちの目の前で飲み干さなくてはならないからだ。
面会人が珍しいのか、レクリエーションルームから出たわたしたちを見るなり皆一同に好奇の視線を浴びせてくる。そのとき、薬を待つ人だかりの中から奇声にも近い甲高い声が鳴り響いた。
「パパーッ!?」
声の主はアビーだった。ナースステーション前が一瞬の静寂に包まれる。人混みを掻き分けながら物凄い形相で近づいてくると、さらに彼女は叫んだ。
「パパーッ! 遅いじゃない! すぐに迎えにくるって約束だったでしょ?」
錯乱したように叫び声を上げるアビーはまるで、流れが早く、そして深い川で溺れている女の子が父親に助けを求めるように、その手をパパへと差し伸ばしている。
「パパ! アビゲイルよ!? 忘れたの!?」
次第に迫り来るアビーの奇行に驚き戸惑うわたしたちの前に、突然アガサが割って入ると、彼女はレクリエーションルームの扉を再び開いて、わたしたちを部屋の中へと押し込んだ。
アガサが扉を閉める瞬間に、看護師たちに床へと押さえ付けられるアビーの姿がこの目に飛び込んだかと思うと、扉は重く閉ざされた。
扉の向こう側では、看護師たちに押さえ付けられながらも、必死にもがくアビーの叫び声が聞こえる。
「パパーッ! どうして!? わたしがパパを拒んだから!? 誤解よ!! あれはママがわたしたちの仲を妬んで、引き離したのよ!?」
冷たく閉ざされた扉の向こう側から、嗚咽を覚えるような、真っ黒くて重苦しい言葉の羅列が、わたしの鼓膜を襲う。
パパは悲痛な表情で顔を歪ませると、堪らずに扉から目を背けた。
「アビー! 落ち着いて!! あの人はあなたのお父さんじゃないわ!」
「パパーッ! パパーッ!」
「ハルドールとベルトを持ってきて!」
アビーの叫び声と共に、看護師たちのやり取りも聞こえると、それまで興奮気味だった彼女の声が次第に弱まっていった。
「突然のことで、ビックリするわよね? ここに家族が訪ねて来ることなんて殆どないから、アビーも少し混乱しただけよ」
アガサは妙に落ち着き払った態度でわたしたちに説明すると、大きなため息をついた。
悲しい沈黙が流れていく。
パパからすれば、ここで生活する人間は皆、一括りに見えているんだろうか? エレノアも、もしわたしを訪ねてここにやって来る日が来たなら、やっぱりそう思うのかな?
たしかにアビーが抱える闇は底無しで、わたしやアガサでさえも目を逸らしたくなるほどに深い傷なんだってのはわかる。
人が心に負う傷は大小様々だけど、それが大きいのか小さいのかなんてのは、当の本人でさえも計り知れないことだ。もしそれを理解し、自分で処理することができるなら、わたしたちはこんなにも狭い鳥かごの中に押し込められているはずがないんだから。
「ねぇ。パパ? わたしのことも、アビーと同じように頭がおかしくなったって思う?」
ざわめく扉の向こう側と、未だに沈黙が流れるこちら側の空気を切り裂いて、わたしは訊ねた。
「一体何のことだ? お前はお前だよ」
しどろもどろになったパパがごまかすように口を開くと、アガサがそれを庇うように言った。
「急にどうしたのよ、チャーリー?」
パパが会いに来てくれたのはとても嬉しかった。でも、それと同時にひっかかっていることがあるのも事実。
「チャーリー?」
アガサが不安そうにもう一度呼びかけたとき、わたしの中に溢れる黒い闇が、わたしの頭を、口を乗っ取っていった。
「じゃあ、なんでパパはそんなにも悲しそうにわたしを見るの?」
こうなってしまうと誰も止められない。もちろん自分自身でさえだ。
「なんでエレノアは来てくれないの?」
真っ黒な衝動が一瞬でわたしを飲み込み、すべてを破壊してしまおうとする。
「なんでパパはわたしの名前を呼んでくれないのよ?」
こうなってしまうときは、決まって思い通りにならないとき。小さな子供が理不尽な要求を無理矢理にでも通そうと、ただ我が儘を言いながら泣き叫んでいるに過ぎないんだ。
騒ぎを聞きつけた看護師たちが、慌ててレクリエーションルームへと駆け込んでくる。
「チャーリー?」
アガサの声が聞こえる。
大量のアスピリンを飲んで、境界線を越えようとしたあのときと同じ。わたしを取り巻くすべてが、スロー再生のようにゆっくりと流れていく。誰かがわたしの腕を引き掴んで、身動きを取れないようにする。冷たい何かがわたしに突き刺さる。
「チャーリー?」
アガサがわたしを呼んでいるの?
それともエレノアがわたしを呼んでいるの?
身の回りで起こるすべての出来事は、もっと騒々しいはずなのに、不思議と心だけが落ち着いていくんだ。わたしの中から溢れ出した黒い咆哮は、積みあげたすべてを破壊して消していく。
後には何も残らないの。強烈なハリケーンが、街のすべてをもぎ取っていくみたいに何も……。
悲しそうなパパの顔が見える。そしてエレノアの顔も。
ごめんね。わたしは自分から逃げてばかり。
こんなんじゃ、エレノアがわたしに会いたがらない訳よね。パパがこんなにも悲しそうな顔でわたしを見つめる訳よね。
わたしという名の川の水が、理想と現実の両手の平から零れ落ちて、憂鬱な川の流れへと戻っていく。あと何回繰り返したら気が済むのかな? あと何回繰り返したら、本当に境界線を越えてしまうのかな?
ママが病気でこの世を去ったよ。次はわたしの番。
わたしがこの世を去ったよ。次は誰の番?
理想ならいつもぶれずに持っているよ。家族四人で幸せに過ごしたラクロスでの時間。グランド・ブラフでエレノアが見つけてきた小さな四つ葉のクローバーは、まさにわたしたち家族を象徴してるようで大切な宝物になった。
ママが病気でこの世を去り、残されたわたしたちが三つ葉になってしまっても、残された葉は、失った葉を補うために、力を合わせてその悲しみを乗り越えるんだって信じていた。
わたしの目指す理想はそこにあるのに、どうしても、目指そうと足を前に出した瞬間、湧き上がる黒い衝動がすべてを消し去ってしまう。
真っ白になる……真っ白になる……。
アビーの言葉が頭にこだまする。
そしてわたしの意識は遠退いていった。
「チャーリー? 食事の時間だけど、どうする? お父さんの分と一緒に、ここへ運びましょうか?」
クレアに返事をせずに、わたしはパパの顔を見る。
「たまには、一緒に食事をしないか?」
申し訳なさそうにつぶやくパパにわたしは肯いて、その日の昼食はパパと二人で、このレクリエーションルームの真ん中に座り込んで食べた。
グランド・ブラフのピクニックみたいに茂った草の上に腰を降ろして、ママが作ったサンドイッチと、ストロベリージャムがたっぷり乗っかったタルトを頬張るみたいに、わたしたちは随分と久しぶりに親子での食事を楽しんだ。
ただ一つ、気になることを残して……。
パパを見送るために廊下へ出ると、食事を終えた人たちでナースステーション前は混雑していた。食後はこうして集まり、看護師から渡される白い紙コップに入ったカクテルを彼女たちの目の前で飲み干さなくてはならないからだ。
面会人が珍しいのか、レクリエーションルームから出たわたしたちを見るなり皆一同に好奇の視線を浴びせてくる。そのとき、薬を待つ人だかりの中から奇声にも近い甲高い声が鳴り響いた。
「パパーッ!?」
声の主はアビーだった。ナースステーション前が一瞬の静寂に包まれる。人混みを掻き分けながら物凄い形相で近づいてくると、さらに彼女は叫んだ。
「パパーッ! 遅いじゃない! すぐに迎えにくるって約束だったでしょ?」
錯乱したように叫び声を上げるアビーはまるで、流れが早く、そして深い川で溺れている女の子が父親に助けを求めるように、その手をパパへと差し伸ばしている。
「パパ! アビゲイルよ!? 忘れたの!?」
次第に迫り来るアビーの奇行に驚き戸惑うわたしたちの前に、突然アガサが割って入ると、彼女はレクリエーションルームの扉を再び開いて、わたしたちを部屋の中へと押し込んだ。
アガサが扉を閉める瞬間に、看護師たちに床へと押さえ付けられるアビーの姿がこの目に飛び込んだかと思うと、扉は重く閉ざされた。
扉の向こう側では、看護師たちに押さえ付けられながらも、必死にもがくアビーの叫び声が聞こえる。
「パパーッ! どうして!? わたしがパパを拒んだから!? 誤解よ!! あれはママがわたしたちの仲を妬んで、引き離したのよ!?」
冷たく閉ざされた扉の向こう側から、嗚咽を覚えるような、真っ黒くて重苦しい言葉の羅列が、わたしの鼓膜を襲う。
パパは悲痛な表情で顔を歪ませると、堪らずに扉から目を背けた。
「アビー! 落ち着いて!! あの人はあなたのお父さんじゃないわ!」
「パパーッ! パパーッ!」
「ハルドールとベルトを持ってきて!」
アビーの叫び声と共に、看護師たちのやり取りも聞こえると、それまで興奮気味だった彼女の声が次第に弱まっていった。
「突然のことで、ビックリするわよね? ここに家族が訪ねて来ることなんて殆どないから、アビーも少し混乱しただけよ」
アガサは妙に落ち着き払った態度でわたしたちに説明すると、大きなため息をついた。
悲しい沈黙が流れていく。
パパからすれば、ここで生活する人間は皆、一括りに見えているんだろうか? エレノアも、もしわたしを訪ねてここにやって来る日が来たなら、やっぱりそう思うのかな?
たしかにアビーが抱える闇は底無しで、わたしやアガサでさえも目を逸らしたくなるほどに深い傷なんだってのはわかる。
人が心に負う傷は大小様々だけど、それが大きいのか小さいのかなんてのは、当の本人でさえも計り知れないことだ。もしそれを理解し、自分で処理することができるなら、わたしたちはこんなにも狭い鳥かごの中に押し込められているはずがないんだから。
「ねぇ。パパ? わたしのことも、アビーと同じように頭がおかしくなったって思う?」
ざわめく扉の向こう側と、未だに沈黙が流れるこちら側の空気を切り裂いて、わたしは訊ねた。
「一体何のことだ? お前はお前だよ」
しどろもどろになったパパがごまかすように口を開くと、アガサがそれを庇うように言った。
「急にどうしたのよ、チャーリー?」
パパが会いに来てくれたのはとても嬉しかった。でも、それと同時にひっかかっていることがあるのも事実。
「チャーリー?」
アガサが不安そうにもう一度呼びかけたとき、わたしの中に溢れる黒い闇が、わたしの頭を、口を乗っ取っていった。
「じゃあ、なんでパパはそんなにも悲しそうにわたしを見るの?」
こうなってしまうと誰も止められない。もちろん自分自身でさえだ。
「なんでエレノアは来てくれないの?」
真っ黒な衝動が一瞬でわたしを飲み込み、すべてを破壊してしまおうとする。
「なんでパパはわたしの名前を呼んでくれないのよ?」
こうなってしまうときは、決まって思い通りにならないとき。小さな子供が理不尽な要求を無理矢理にでも通そうと、ただ我が儘を言いながら泣き叫んでいるに過ぎないんだ。
騒ぎを聞きつけた看護師たちが、慌ててレクリエーションルームへと駆け込んでくる。
「チャーリー?」
アガサの声が聞こえる。
大量のアスピリンを飲んで、境界線を越えようとしたあのときと同じ。わたしを取り巻くすべてが、スロー再生のようにゆっくりと流れていく。誰かがわたしの腕を引き掴んで、身動きを取れないようにする。冷たい何かがわたしに突き刺さる。
「チャーリー?」
アガサがわたしを呼んでいるの?
それともエレノアがわたしを呼んでいるの?
身の回りで起こるすべての出来事は、もっと騒々しいはずなのに、不思議と心だけが落ち着いていくんだ。わたしの中から溢れ出した黒い咆哮は、積みあげたすべてを破壊して消していく。
後には何も残らないの。強烈なハリケーンが、街のすべてをもぎ取っていくみたいに何も……。
悲しそうなパパの顔が見える。そしてエレノアの顔も。
ごめんね。わたしは自分から逃げてばかり。
こんなんじゃ、エレノアがわたしに会いたがらない訳よね。パパがこんなにも悲しそうな顔でわたしを見つめる訳よね。
わたしという名の川の水が、理想と現実の両手の平から零れ落ちて、憂鬱な川の流れへと戻っていく。あと何回繰り返したら気が済むのかな? あと何回繰り返したら、本当に境界線を越えてしまうのかな?
ママが病気でこの世を去ったよ。次はわたしの番。
わたしがこの世を去ったよ。次は誰の番?
理想ならいつもぶれずに持っているよ。家族四人で幸せに過ごしたラクロスでの時間。グランド・ブラフでエレノアが見つけてきた小さな四つ葉のクローバーは、まさにわたしたち家族を象徴してるようで大切な宝物になった。
ママが病気でこの世を去り、残されたわたしたちが三つ葉になってしまっても、残された葉は、失った葉を補うために、力を合わせてその悲しみを乗り越えるんだって信じていた。
わたしの目指す理想はそこにあるのに、どうしても、目指そうと足を前に出した瞬間、湧き上がる黒い衝動がすべてを消し去ってしまう。
真っ白になる……真っ白になる……。
アビーの言葉が頭にこだまする。
そしてわたしの意識は遠退いていった。