「素敵なお母さんだったんだね。君も、もう一人の双子も、お父さんよりも、お母さんの方が好きだったかい?」
スタイルズ先生の静かに響く声に再び瞼を上げたわたしは、薄暗い部屋の天井を眺めながらつぶやいた。
「パパは、わたしと同じで不器用なだけ」
パパは口数も少なくて、ママみたいに冗談を言って、無邪気に舌を出して笑ったりはしない。ただ、楽しくはしゃぎ回ってるわたしたちを半歩離れた場所から見守ってくれる、そんな人なんだ。
たしかに、わたしもエレノアも、子供の頃は、正直パパみたいな人は気難しく見えて抵抗があったのも事実。
でもそれは、単にパパが不器用で、わたしたちみたいに振る舞えないだけであって、決して楽しくない訳でも、関心がない訳でもないんだって気づいたんだ。
パパは、ラクロスの自動車修理工場で働いている。毎日、夜遅くまで働いて、時には、わたしたちが眠ってしまってから油塗れになって帰ってくるような日だってある。
それくらい、パパは自分の仕事に誇りと責任を持っていて、中途半端なことは絶対にしない人なんだってママが話してくれた。
家には車が二台あって、一台は毎週末にグランド・ブラフに出掛ける年代物のピックアップトラック。もう一台は、決してピカピカとは言えないけれど、使い勝手の良さそうなブルーのセダン。
普段パパが仕事に使ってるのは、こっちのなんの変哲もないセダンだった。でもどういう訳か、パパは毎日乗っているセダンよりも、明らかに色褪せたモスグリーンのピックアップトラックの方を大切にしていた。
ある週末の朝、いつもみたいに甘い蜂蜜と香ばしいトーストの香りを漂わせて、ママはわたしたちの寝室に入ってくると言った。
「二人共見て? パパがうっとりしながら磨いてるあのポンコツのトラックを」
部屋に光りを入れるために窓際に寄ると、ママはカーテンに手をかけながら、庭のガレージで車を整備するパパを指差した。起き上がり窓の外を見ると、パパはうっとりと微笑みながら、ボロボロのトラックを整備している。
「気持ち悪いでしょ?」
ママは笑いながら、パパに見つからないようにカーテンを少しだけめくって嬉しそうに眺めた。
「あのポンコツはね、私たちが結婚するずっと前、パパが初めて私をデートに誘うために、お金を貯めて買ったトラックなのよ」
そう話すママの横顔は差し込む陽の光りに照らされて、とてもキラキラとしていて綺麗だった。
「そんなにも前から乗ってる車なの!?」
驚いてわたしたちが声を揃えると、ママはさらに笑いながら言った。
「そうよ! あのポンコツトラックと同じように、私も歳を取っていったけど、あのトラックはあの頃のまま。パパは、あの頃の私と同じくらいあのポンコツを愛してるし、そして私やあなたたちのことも愛してるのよ」
このときは気づかなかったけれど、普段すごく口数が少なくて、しかも半歩下がった場所から家族を見守るパパの不器用な愛情が、わたしたちが生まれるずっと昔から形を変えることなく注がれていたんだってことが今でははっきりとわかる。
そして、グランド・ブラフからの帰り道。パパが運転するトラックは、まるで人が歩くほどのスピードでゆっくりと進む。そして、わたしもエレノアも知るのよ。そこにも、実は不器用な愛情が隠されてたってことを。
「ゆっくり進むことが、何か、パパの愛情と関係あるのかい?」
瞼を閉じた暗闇の中でスタイルズ先生の声が響くと、わたしは答えた。
「えぇ、そうよ」
グランド・ブラフからの帰り道、ガタガタと揺れる車の振動を少しでも抑えるように、パパはゆっくり車を走らせる。
それから荷台に座ってギターを弾くママの邪魔をしないように。そしてわたしたちが気持ち良くママと歌えるように。さらには、この帰り道から眺める心地好いラクロスの街並みの景色を、わたしたちが存分に堪能できるように。
大通りに差し掛かる頃には、街を走る車の数も増えてくる。変わらずのんびりと走るわたしたちは、他の運転手から野次が飛ばされたり、クラクションを鳴らされたりしてたわ。 でも、パパは決してスピードを上げたりはしないの。黙って運転席から腕を出すと、中指を立てて追い払ってくれた。
ラクロスの街が、波に乗らないオンボロのピックアップトラックに向けて、野良犬が吠えるみたいに騒音を撒き散らしてくる。わんわんと。
本当に不器用なパパだけど、わたしもエレノアも、ママと同じくらいパパのことを愛してるわ。
「ありがとう。じゃあ、今日はここまでにしよう」
先生の声に瞼を開くと、わたしはソファーから体を起こして訊ねる。
「ねぇ、先生? こんな思い出を辿ることに、何か意味があるの?」
「意味があるかないかは、やってみなくちゃわからないと私は思うよ。でも、この行為そのものを、意味のある物にするには、君の協力が必要不可欠だ」
スタイルズ先生は、やはり眉一つ動かさずに答える。わたしは、先生の要求にはすべて答えてるつもりだし、これ以上何かを求められてもどうすることもできない。
こんなくだらない茶番に付き合ってること自体がわたしの信用の証なのに、スタイルズ先生はそんなことまるっきり理解していないんだから。
「わたしは、先生の質問にはすべて答えてるつもりですよ?」
不服そうに答えると、落ち着き払った声で先生は肯いた。
「私は、ただ君の力になりたいだけだ。だから、私のことを君に信用してもらいたいんだよ」
そしてわたしは落胆する気持ちを隠しながら、やっぱりわたしはどうしようもないほどに壊れてしまってるんだって事実を知るの。
頭の中に浮かぶ緑と白の境界線。グランダッド・ブラフ・パークでエレノアと飛ばしたあのシャボン玉みたいに、どこまでもどこまでも飛んでいけたら良いのに。
そして目には見えない境界線を越えたそのときには、後ろを振り返る隙もなく、一瞬のうちに消えてしまってるのよ。
わたしは、絶対に幸せになんてなれないし、絶対に幸せになんてなっちゃいけない。わたしの心の闇が、いつだって耳元でそう囁いてる。
だからわたしは、もう一歩だって足を前に出せる気がしないし、これはわたしたち双子にかけられた悪い魔女の呪いのようなもので、その呪いからは逃げ出すことも抵抗することもできないんだから……。
†
静かなホールで看護師のレベッカを待つ間、わたしはそんなことばかり思い描いていた。エレベーターの扉が開いてレベッカが迎えに現れると、わたしを見て不器用に笑う。
「お疲れ様、チャーリー。アガサがあなたのことを心配していたわ」
たしかに、わたしはパパやエレノアのおかげで命拾いをし、こうして立ち直るために治療プログラムを受けている。でもそれがたとえ自分の意思じゃなかったにしても、こんな風に腫れ物を扱うような態度をとられたんじゃ心の開きようがないのよ。
わたしは無言のままエレベーターに乗り込んで、小さな箱の中で目を閉じる。何も変わらない息苦しいだけの現実に泡立ち続ける苛立ちを隠すように、ただ黙って目を塞ぐんだ。
エレベーターがわたしの生活するフロアで止まり、レベッカの後について、再び鳥かごの中へと帰っていく。鉄柵の向こう側では、体格の良い警備員のモーヴィーを押し退けるようにアガサがわたしに向かって手を振っていた。
「アガサさん! 困りますよ!?」
身を乗り出して扉を開けようとする彼女に、体の大きなモーヴィーが慌てふためく様子が可笑しい。
「アガサ。いくらチャーリーが心配だからって、モーヴィーを困らせないでよ」
前を歩くレベッカがアガサに向かって話すと、彼女もバツの悪そうな顔をして、舌を出して笑った。
アガサは本当に不思議で謎が多い。
ここのスタッフは皆、わたしを含めて患者を腫れ物でも扱うように接するのに、アガサに対してだけはまるで違う。なんて言うか、友達と接しているような態度なんだ。
ここにいるスタッフ全員が、アガサを知っている様子だし、彼女もまた、スタッフだけに留まらず、このフロアにいる患者を含めた全員を知ってるような口ぶりだ。
まぁ、彼女ほどマメで好奇心旺盛な性格なら、ここで生活する人をリサーチして、その全員と仲良くなってしまうくらい簡単なことなんだろうけれど、それだけに、やっぱりアガサっていう人物が謎めいて感じられてしまう。
彼女は一体、どんな深い心の闇を抱えてこの施設へとやって来たんだろうかって。
「ハイディー! チャーリー。フロイト博士の人体実験はどうだった?」
アガサは心配そうに近寄ると、レベッカに聞こえないよう耳元で囁いた。しかめっ面でわたしが首を振ると、やっぱりね! といった表情でアガサが満足気にするのをみて、わたしたちは笑いあった。
レベッカがアガサに向かって呼び掛ける。
「アガサ。次はあなたの番でしょ? さぁ、ドクターの所へ行くわよ」
「あなたもフロイト博士のカウンセリングを受けるの?」
わたしが訊ねると、彼女は目を丸くして、驚いたように笑った。
「ここはそういう施設よ?」って。
アガサの言葉はもっともなんだけれど、彼女はわたし以上に自分の闇と戦う意思なんて持っていないように見える。だから、カウンセリングなんていう行為そのものが、アガサにとっては無意味に感じてしまうんだ。
「なによ? その顔は?」笑いを堪えながら彼女は話す。「たしかに、チャーリーが来るまでは、カウンセリングの時間になれば、どこかに身を隠してやり過ごしてたけど、あなただって頑張ってるんだし、私もあなたを見習って少しは頑張ろうって思っただけよ」
照れ臭そうに笑うアガサを見ていると、わたしはエレノアを追いかけ続けていた頃の自分を思い出して懐かしい気持ちになる。
わたしはいつも一歩前を行くエレノアと肩を並べるために彼女を追いかけ続けていた。やることをなんでも真似して少しでも彼女との歩幅を縮めようと躍起になっていた。そんな風にエレノアのことを追いかけている自分が大好きだったし、そうすることですごく安心した気持ちにもなれたから。
だからもし今のアガサが、あの頃のわたしと似た感情を抱えているんだとしたら、彼女がわたしに望んでることはきっとたった一つ。――それは、一緒に肩を並べて歩くために、半歩分、アガサの歩みを待ってあげること。そしてアガサは残りの半歩分、いつもよりも努力すること。そうすれば二人はお互いに肩を並べて歩けるはずなんだ。
それは、あの頃のわたしがまさにエレノアに対して望んでいたこと。でもエレノアはそんな気持ちにちっとも気づいてはくれなかった。それでもわたしは彼女を追いかけ続けた。
悪い魔女の呪いは、いつまでも片割れに追いつこうという努力をさせる。たとえ、死ぬまでずっと気づいてもらえなくたって、わたしたちが同じ「オレンジの片割れ」であることは変わらないって信じていたから。
少なくとも、エレノアがわたしをミルウォーキーに追いやるまでは……。
「チャーリー? どうしたの?」
アガサが覗き込む。フラッシュバックした記憶に、きっと思い詰めた顔をしていたからだろう。「なんでもないよ」要らない心配をかけないよう笑いかけるけれど、彼女はまだ不安そうに首を傾げてわたしを見つめていた。
「アガサが終わるまで待ってるよ。だから安心して、フロイト博士の人体実験でも受けて来なさいよ」
彼女の不安そうな表情はこんな言葉一つで一瞬にして晴れやかになる。この真っ白なフロアの廊下が、建物の小さな窓から差し込む光りによってさらに白く、そして眩しく、希望に満ちて見えていくように。
スタイルズ先生の静かに響く声に再び瞼を上げたわたしは、薄暗い部屋の天井を眺めながらつぶやいた。
「パパは、わたしと同じで不器用なだけ」
パパは口数も少なくて、ママみたいに冗談を言って、無邪気に舌を出して笑ったりはしない。ただ、楽しくはしゃぎ回ってるわたしたちを半歩離れた場所から見守ってくれる、そんな人なんだ。
たしかに、わたしもエレノアも、子供の頃は、正直パパみたいな人は気難しく見えて抵抗があったのも事実。
でもそれは、単にパパが不器用で、わたしたちみたいに振る舞えないだけであって、決して楽しくない訳でも、関心がない訳でもないんだって気づいたんだ。
パパは、ラクロスの自動車修理工場で働いている。毎日、夜遅くまで働いて、時には、わたしたちが眠ってしまってから油塗れになって帰ってくるような日だってある。
それくらい、パパは自分の仕事に誇りと責任を持っていて、中途半端なことは絶対にしない人なんだってママが話してくれた。
家には車が二台あって、一台は毎週末にグランド・ブラフに出掛ける年代物のピックアップトラック。もう一台は、決してピカピカとは言えないけれど、使い勝手の良さそうなブルーのセダン。
普段パパが仕事に使ってるのは、こっちのなんの変哲もないセダンだった。でもどういう訳か、パパは毎日乗っているセダンよりも、明らかに色褪せたモスグリーンのピックアップトラックの方を大切にしていた。
ある週末の朝、いつもみたいに甘い蜂蜜と香ばしいトーストの香りを漂わせて、ママはわたしたちの寝室に入ってくると言った。
「二人共見て? パパがうっとりしながら磨いてるあのポンコツのトラックを」
部屋に光りを入れるために窓際に寄ると、ママはカーテンに手をかけながら、庭のガレージで車を整備するパパを指差した。起き上がり窓の外を見ると、パパはうっとりと微笑みながら、ボロボロのトラックを整備している。
「気持ち悪いでしょ?」
ママは笑いながら、パパに見つからないようにカーテンを少しだけめくって嬉しそうに眺めた。
「あのポンコツはね、私たちが結婚するずっと前、パパが初めて私をデートに誘うために、お金を貯めて買ったトラックなのよ」
そう話すママの横顔は差し込む陽の光りに照らされて、とてもキラキラとしていて綺麗だった。
「そんなにも前から乗ってる車なの!?」
驚いてわたしたちが声を揃えると、ママはさらに笑いながら言った。
「そうよ! あのポンコツトラックと同じように、私も歳を取っていったけど、あのトラックはあの頃のまま。パパは、あの頃の私と同じくらいあのポンコツを愛してるし、そして私やあなたたちのことも愛してるのよ」
このときは気づかなかったけれど、普段すごく口数が少なくて、しかも半歩下がった場所から家族を見守るパパの不器用な愛情が、わたしたちが生まれるずっと昔から形を変えることなく注がれていたんだってことが今でははっきりとわかる。
そして、グランド・ブラフからの帰り道。パパが運転するトラックは、まるで人が歩くほどのスピードでゆっくりと進む。そして、わたしもエレノアも知るのよ。そこにも、実は不器用な愛情が隠されてたってことを。
「ゆっくり進むことが、何か、パパの愛情と関係あるのかい?」
瞼を閉じた暗闇の中でスタイルズ先生の声が響くと、わたしは答えた。
「えぇ、そうよ」
グランド・ブラフからの帰り道、ガタガタと揺れる車の振動を少しでも抑えるように、パパはゆっくり車を走らせる。
それから荷台に座ってギターを弾くママの邪魔をしないように。そしてわたしたちが気持ち良くママと歌えるように。さらには、この帰り道から眺める心地好いラクロスの街並みの景色を、わたしたちが存分に堪能できるように。
大通りに差し掛かる頃には、街を走る車の数も増えてくる。変わらずのんびりと走るわたしたちは、他の運転手から野次が飛ばされたり、クラクションを鳴らされたりしてたわ。 でも、パパは決してスピードを上げたりはしないの。黙って運転席から腕を出すと、中指を立てて追い払ってくれた。
ラクロスの街が、波に乗らないオンボロのピックアップトラックに向けて、野良犬が吠えるみたいに騒音を撒き散らしてくる。わんわんと。
本当に不器用なパパだけど、わたしもエレノアも、ママと同じくらいパパのことを愛してるわ。
「ありがとう。じゃあ、今日はここまでにしよう」
先生の声に瞼を開くと、わたしはソファーから体を起こして訊ねる。
「ねぇ、先生? こんな思い出を辿ることに、何か意味があるの?」
「意味があるかないかは、やってみなくちゃわからないと私は思うよ。でも、この行為そのものを、意味のある物にするには、君の協力が必要不可欠だ」
スタイルズ先生は、やはり眉一つ動かさずに答える。わたしは、先生の要求にはすべて答えてるつもりだし、これ以上何かを求められてもどうすることもできない。
こんなくだらない茶番に付き合ってること自体がわたしの信用の証なのに、スタイルズ先生はそんなことまるっきり理解していないんだから。
「わたしは、先生の質問にはすべて答えてるつもりですよ?」
不服そうに答えると、落ち着き払った声で先生は肯いた。
「私は、ただ君の力になりたいだけだ。だから、私のことを君に信用してもらいたいんだよ」
そしてわたしは落胆する気持ちを隠しながら、やっぱりわたしはどうしようもないほどに壊れてしまってるんだって事実を知るの。
頭の中に浮かぶ緑と白の境界線。グランダッド・ブラフ・パークでエレノアと飛ばしたあのシャボン玉みたいに、どこまでもどこまでも飛んでいけたら良いのに。
そして目には見えない境界線を越えたそのときには、後ろを振り返る隙もなく、一瞬のうちに消えてしまってるのよ。
わたしは、絶対に幸せになんてなれないし、絶対に幸せになんてなっちゃいけない。わたしの心の闇が、いつだって耳元でそう囁いてる。
だからわたしは、もう一歩だって足を前に出せる気がしないし、これはわたしたち双子にかけられた悪い魔女の呪いのようなもので、その呪いからは逃げ出すことも抵抗することもできないんだから……。
†
静かなホールで看護師のレベッカを待つ間、わたしはそんなことばかり思い描いていた。エレベーターの扉が開いてレベッカが迎えに現れると、わたしを見て不器用に笑う。
「お疲れ様、チャーリー。アガサがあなたのことを心配していたわ」
たしかに、わたしはパパやエレノアのおかげで命拾いをし、こうして立ち直るために治療プログラムを受けている。でもそれがたとえ自分の意思じゃなかったにしても、こんな風に腫れ物を扱うような態度をとられたんじゃ心の開きようがないのよ。
わたしは無言のままエレベーターに乗り込んで、小さな箱の中で目を閉じる。何も変わらない息苦しいだけの現実に泡立ち続ける苛立ちを隠すように、ただ黙って目を塞ぐんだ。
エレベーターがわたしの生活するフロアで止まり、レベッカの後について、再び鳥かごの中へと帰っていく。鉄柵の向こう側では、体格の良い警備員のモーヴィーを押し退けるようにアガサがわたしに向かって手を振っていた。
「アガサさん! 困りますよ!?」
身を乗り出して扉を開けようとする彼女に、体の大きなモーヴィーが慌てふためく様子が可笑しい。
「アガサ。いくらチャーリーが心配だからって、モーヴィーを困らせないでよ」
前を歩くレベッカがアガサに向かって話すと、彼女もバツの悪そうな顔をして、舌を出して笑った。
アガサは本当に不思議で謎が多い。
ここのスタッフは皆、わたしを含めて患者を腫れ物でも扱うように接するのに、アガサに対してだけはまるで違う。なんて言うか、友達と接しているような態度なんだ。
ここにいるスタッフ全員が、アガサを知っている様子だし、彼女もまた、スタッフだけに留まらず、このフロアにいる患者を含めた全員を知ってるような口ぶりだ。
まぁ、彼女ほどマメで好奇心旺盛な性格なら、ここで生活する人をリサーチして、その全員と仲良くなってしまうくらい簡単なことなんだろうけれど、それだけに、やっぱりアガサっていう人物が謎めいて感じられてしまう。
彼女は一体、どんな深い心の闇を抱えてこの施設へとやって来たんだろうかって。
「ハイディー! チャーリー。フロイト博士の人体実験はどうだった?」
アガサは心配そうに近寄ると、レベッカに聞こえないよう耳元で囁いた。しかめっ面でわたしが首を振ると、やっぱりね! といった表情でアガサが満足気にするのをみて、わたしたちは笑いあった。
レベッカがアガサに向かって呼び掛ける。
「アガサ。次はあなたの番でしょ? さぁ、ドクターの所へ行くわよ」
「あなたもフロイト博士のカウンセリングを受けるの?」
わたしが訊ねると、彼女は目を丸くして、驚いたように笑った。
「ここはそういう施設よ?」って。
アガサの言葉はもっともなんだけれど、彼女はわたし以上に自分の闇と戦う意思なんて持っていないように見える。だから、カウンセリングなんていう行為そのものが、アガサにとっては無意味に感じてしまうんだ。
「なによ? その顔は?」笑いを堪えながら彼女は話す。「たしかに、チャーリーが来るまでは、カウンセリングの時間になれば、どこかに身を隠してやり過ごしてたけど、あなただって頑張ってるんだし、私もあなたを見習って少しは頑張ろうって思っただけよ」
照れ臭そうに笑うアガサを見ていると、わたしはエレノアを追いかけ続けていた頃の自分を思い出して懐かしい気持ちになる。
わたしはいつも一歩前を行くエレノアと肩を並べるために彼女を追いかけ続けていた。やることをなんでも真似して少しでも彼女との歩幅を縮めようと躍起になっていた。そんな風にエレノアのことを追いかけている自分が大好きだったし、そうすることですごく安心した気持ちにもなれたから。
だからもし今のアガサが、あの頃のわたしと似た感情を抱えているんだとしたら、彼女がわたしに望んでることはきっとたった一つ。――それは、一緒に肩を並べて歩くために、半歩分、アガサの歩みを待ってあげること。そしてアガサは残りの半歩分、いつもよりも努力すること。そうすれば二人はお互いに肩を並べて歩けるはずなんだ。
それは、あの頃のわたしがまさにエレノアに対して望んでいたこと。でもエレノアはそんな気持ちにちっとも気づいてはくれなかった。それでもわたしは彼女を追いかけ続けた。
悪い魔女の呪いは、いつまでも片割れに追いつこうという努力をさせる。たとえ、死ぬまでずっと気づいてもらえなくたって、わたしたちが同じ「オレンジの片割れ」であることは変わらないって信じていたから。
少なくとも、エレノアがわたしをミルウォーキーに追いやるまでは……。
「チャーリー? どうしたの?」
アガサが覗き込む。フラッシュバックした記憶に、きっと思い詰めた顔をしていたからだろう。「なんでもないよ」要らない心配をかけないよう笑いかけるけれど、彼女はまだ不安そうに首を傾げてわたしを見つめていた。
「アガサが終わるまで待ってるよ。だから安心して、フロイト博士の人体実験でも受けて来なさいよ」
彼女の不安そうな表情はこんな言葉一つで一瞬にして晴れやかになる。この真っ白なフロアの廊下が、建物の小さな窓から差し込む光りによってさらに白く、そして眩しく、希望に満ちて見えていくように。