わたしとアガサは部屋を出て、無機質で無表情な廊下を進んでいく。廊下の壁に備え付けられてる窓から入り込む陽の光が、一層この白い廊下を眩しく感じさせる。
一本道の廊下を進んだ先には広い談話室があった。施設のプログラムを受けてる色々な変わり者たちが羽を休める憩いの場所。くだらないニュース番組をしかめっ面で見てる人もいれば、相手もいないチェス盤を睨みつけてる人。絵を描いてる人もいれば、わたしたちみたいにお喋りをしてる人たちもいる。
でも一番異様なのは、ここにいる誰もが本当の笑顔で笑えない人たちばかりだということ。皆それぞれに心の闇を抱え込んでいて、本当の意味で解放されたいと願っている。
空に向かって飛ばしたシャボン玉が、ある境界線を越えた瞬間にパッと消えてしまうみたいに。
ここにいる誰もが、その境界線をどうにか越えてしまおうって行動を起こした人たちばかり。そしてわたしも、群れの中から飛び出して、柵の外に出た羊の一匹だ。
どうにもならない苛立ちと不安と劣等感。
頭の中で急いで整理しなくちゃならないことが、氷山のように押し寄せて、その途方もない大きさにわたしはただ何もできずにひざまずいていた。
常々思っていることはたった一つ。ただ目を閉じているだけで、わたしを取り巻く問題がすべてすっかり通り過ぎてくれれば良いのにって、それだけを考えていた。
やがて氷山は、わたしという大地を大きく削り取ると、この心には、ミシシッピ川のような大きな傷跡だけが残っている。
エレノアもパパも、そんな不安定なわたしを心配している。
だから一刻も早く立ち直って二人を安心させてあげたいけど、わたしはエレノアと違ってとても不器用。自分の心の闇に目を向けた途端に足がすくんで、身動き一つ取れなくなってしまう。
そして、その闇が近づいてきて耳元で囁くんだ。
「お前を幸せにはしない」って。
「お前は幸せになんて絶対になれない」って。
だからまた、目を閉じて願うんだ……。わたしを取り巻く問題のすべてが、今のうちに通り過ぎていってくれることを。
そして、この中の何人かは、今のわたしみたいに誰にも言わずに計画を練ってるはず。今度こそ、空に浮かべたシャボン玉があの境界線を越えていくんだって。
とにかく、この談話室でその傷ついた羽を休める者たちは、多かれ少なかれ、そんなことを企んでるようにわたしには見えた。
「あら、起きて来たのね?」
そう声をかけてきたのは、さっき鳥かご部屋に様子を見にきた看護師のレベッカだった。
「えぇ、スタイルズ大先生を待たせる訳にはいかないものね。今日はどんな新たな発見が飛び出してくるか、わたしも楽しみだわ」
茶化すように答えると、レベッカは苦笑いするだけ。
彼女の気持ちは十分にわかってるつもり。わたしのような頭のおかしい問題児とは、極力関わりたくないんだろう。でもきっと彼女の行動は正しい。この心の闇ってものは、伝染病のように人から人へと感染してしまうからだ。
一度、その闇に捕まってしまえば、完治させるのは難しい。だから、ここのスタッフは皆、わたしを腫れ物でも扱うように神経を尖らせて接する。間違っても自分たちが感染しないように、細心の注意を払いながら顔色を伺うんだ。つまりこの施設そのものは、リハビリセンターなんていう立派な看板を掲げただけの隔離病棟に過ぎない。
いつかわたしがこの施設を出られる日が来るとしたら、きっとそのときのわたしは、完全に治ったふりをしているか、この心臓が完全に停止してるかのどちらかだ。
「じゃあ、先生の部屋まで連れて行くわね」
レベッカがそう言って、談話室のさらに奥へと歩いていく。
「チャーリー! また話を聞かせてよね?」
後ろから声をかけるアガサに肯いて見せると、わたしはレベッカの後を追った。
†
談話室には出入り口が二か所あり、今わたしたちが入ってきた側の反対側にも水色の扉がある。その先の廊下を進んで行くと、スタッフが待機するナースステーションがあった。 その手前には、白く塗られた鉄製の柵で仰々しく囲われた扉があって、その前には常に、体格の良い警備員のモーヴィーという名前の男が目を光らせて立っている。
その扉を抜けた先には、小さな昇降機が二基並ぶエレベーターホールがある。
一つは、施設のスタッフや患者、それに滅多にやって来ない物好きな来客者向けのエレベーター。そしてもう一つは、ドクター・スタイルズのカウンセリングルームに直結する、モルモット専用エレベーターだった。
レベッカの後ろについてエレベーターに乗り込み、やがて孤独な箱が停止すると、扉を開けたレベッカが言った。
「ドクター・スタイルズのカウンセリングが終わる頃に迎えに来るから、ここで待っていてね」
わたしは何も答えずに、ドクター・スタイルズの待つ部屋へと入っていく。
「やぁ、君か。じゃあ、さっそく始めようか」
顔を見るなりわたしをソファーに座らせると、先生はいつもの儀式を始めた。
「じゃあ、まず、今日の日付と君の名前。それに、家族構成を教えてくれるかい?」
カウンセリングを始める前に、先生はこんなくだらない儀式を必ずやらせる。一体、これにどんな意味があるのか? 検討もつかないけど、一つだけわかるのは精神分析の父であるフロイト自身も、きっと頭がおかしかったのよ。
ボイスレコーダーを向けるドクター・スタイルズに向かって、わたしは話し始めた。
「わたしの名前はチャーリー・ブライト。ママは去年の春に病気で亡くなったわ。わたしをミルウォーキーに追い出したパパと双子の姉のエレノアはラクロスで暮らしてる。そして今日は西暦二〇〇八年の十月のいつかよ。来月になれば、わたしは十七歳の誕生日をこの施設で迎えることになるわ」
うんざりしながら、ふて腐れて話すわたしの態度に、眉一つ動かさずに黙って聞いていた先生は、ありがとうと一言つぶやくと訊ねた。
「じゃあ、君のお母さんについて、自由に話してくれないか?」
ソファーにどっかりと横たわったわたしは、目を閉じて深呼吸をした。そして、大好きなママの思い出を辿る。
カーテンの隙間をかい潜って、窓から漏れる陽の光が部屋に差し込む週末の朝には、甘い蜂蜜と香ばしいトーストの香りを纏って、ママはわたしたちの部屋へと入ってきて優しい声でこう呼ぶんだ。
「ハイディー、エレノア。ハイディー、チャーリー」
わたしたちはそんなママの呼び声を、ベッドの中で毛布に包まりながら今か今かと待ちわびている。
甘い蜂蜜とトーストの香り。そして優しいママの声が揃ったとき、わたしたちはいっせいに毛布を跳ね退けてベッドから飛び出す。
ママは膝をつき、大きく両手を開いて飛び込む双子を優しく招き入れるの。さっきまで包まっていた暖かい毛布のように柔らかく心地好い愛情で。
「ハイディー! ママ」
お互いに意識しなくても、わたしたち双子は大事なときには息がピッタリ。寸分の狂いもなく、揃ってママに挨拶をすると、左右の頬にキスをした。
エレノアはママの右の頬に。
そしてわたしはママの左頬に。
「ハイディー」なんて古臭い挨拶、この街に住むどんなお年寄りだって、今どき使ったりはしない。
ママが教えてくれた。「ハイディー」ってのは、「こんにちは」って意味があるみたい。とても気さくな感じで、仲の良い人に声をかけるときに使うんだって。
じゃあ、どうしてママがそれを好んで使っていたのか? その理由は教えてくれなかった。でもニヤニヤしながら嬉しそうに話すの。
「これは、私が用意した、あなたたち双子のための謎掛けよ」って。
それからヒントもくれた。でもそのヒントってのがそのときはさっぱり理解できなかったんだ……。
「それは、一体どんなヒントだったんだい?」
落ち着き払った太くて静かな先生の声が耳に届くと、わたしはゆっくりと瞼を持ち上げて答えた。
「オレンジの片割れよ」
カーテンの閉じられた古臭い書斎のような部屋は薄暗くて、一瞬、今この瞬間が昼間だったのか、それとも夜だったのかわからなくなる。
部屋に置かれた大きな本棚には、隙間など少しもないくらいに、難しいタイトルの本が敷き詰められている。
メトロノームのように響く時計の秒針の音はとても心地好くて、どのくらいこの部屋にいたのかわからなくなるほどだ。
「オレンジの片割れ? つまり、二つで一つだってことかい?」
「えぇ、きっとそうよ。ママはわたしとエレノアが二人で一つだって言いたかったのよ」
相変わらず落ち着き払った表情で話に耳を傾ける先生が小さく肯いたのがわかると、わたしは再び目を閉じてママの思い出に浸っていった。
まだ子供だった頃、それこそ天気さえ良ければ毎週末のように、わたしたちはラクロスで一番見晴らしの良いグランダッド・ブラフへとピクニックに行ったわ。
甘い蜂蜜と、香ばしいトーストの香りで目を覚ましたわたしとエレノアが朝食を食べている間、パパはガレージでご自慢のトラックをピカピカに整備している。そしてママはキッチンで、ピクニックに持っていくサンドイッチと、ストロベリージャムがたっぷり乗っかったタルトを焼いているの。
毎週末、当たり前のように訪れるこの時間が、わたしもエレノアも本当に大好きだったわ。そしてそれはきっと、ママもパパも同じ。
シリアルにサラダ、湯気の立ったスクランブルエッグ。お皿はわたしの好きなグリーンに、エレノアのお気にいりのオレンジ。そしてあとでやってくるパパが飲むコーヒーを淹れるための、深い海みたいなブルーのカップ。
そんな色鮮やかな朝食が並んだテーブルに、わたしたちは必ず向かい合わせに座る。
わたしの席からは、楽しそうに歌いながらタルトを焼くママの姿が。そしてエレノアの席からは、表のガレージで楽しそうに車を整備するパパの姿が。そしてわたしたちはお互いに、そんなママとパパを見ながら、嬉しそうにニヤニヤとして朝食を食べているの。
わたしの背中側にいるパパの様子だって、向かいに座っているエレノアを見てれば、パパが今どんなだかがわかってしまうのよ。そしてエレノアもまったく同じ。わたしの顔を見て、自分の後ろにいるママの様子を楽し気に知るんだ。
わたしたちのどちらかが、どちらかを見えなかったとしても、向かい合わせに座るもう一人の自分の顔を見ればそれがわかってしまうのよ。
ピクニックに必ず持っていく物があった。それはママが若い頃に使っていた年代物のアコースティックギター。
グランド・ブラフからの帰り道は、パパを運転席に残してわたしたち女三人は、決まってトラックの荷台に乗り込んだ。ママがギターを弾きながら歌を歌い、そしてママの弾くギターに合わせて、わたしたちも歌うの。
独りぼっちで寂しい時は行こう。
ダウンタウン。
心配事も悩み事も晴れるよ。
ダウンタウン。
街に流れる音色を聴くの。
歩道に滲む可愛いネオン。
迷わないで。
あなたの抱えた不安も。
街の光りは吹き飛ばすの。
行こう!
ダウンタウン 素敵な場所。
ダウンタウン キラキラして。
ダウンタウン あなたを待ってる。
一日過ごした、夕日でオレンジに染まるグランド・ブラフを後に、わたしたちはパパが運転するピックアップトラックの荷台で家に帰り着くまで何度も同じ歌を歌う。
メイン・ストリートに差し掛かり、もうすぐ我が家も近くなってくる頃には、ラクロスの街もすっかり夜が近くなり、ママが歌う歌詞に出てくる街のように光りが燈されていき、キラキラとして見える。
わたしもエレノアも荷台から身を乗り出して、街の光りを眺めながら歌うのよ……。
一本道の廊下を進んだ先には広い談話室があった。施設のプログラムを受けてる色々な変わり者たちが羽を休める憩いの場所。くだらないニュース番組をしかめっ面で見てる人もいれば、相手もいないチェス盤を睨みつけてる人。絵を描いてる人もいれば、わたしたちみたいにお喋りをしてる人たちもいる。
でも一番異様なのは、ここにいる誰もが本当の笑顔で笑えない人たちばかりだということ。皆それぞれに心の闇を抱え込んでいて、本当の意味で解放されたいと願っている。
空に向かって飛ばしたシャボン玉が、ある境界線を越えた瞬間にパッと消えてしまうみたいに。
ここにいる誰もが、その境界線をどうにか越えてしまおうって行動を起こした人たちばかり。そしてわたしも、群れの中から飛び出して、柵の外に出た羊の一匹だ。
どうにもならない苛立ちと不安と劣等感。
頭の中で急いで整理しなくちゃならないことが、氷山のように押し寄せて、その途方もない大きさにわたしはただ何もできずにひざまずいていた。
常々思っていることはたった一つ。ただ目を閉じているだけで、わたしを取り巻く問題がすべてすっかり通り過ぎてくれれば良いのにって、それだけを考えていた。
やがて氷山は、わたしという大地を大きく削り取ると、この心には、ミシシッピ川のような大きな傷跡だけが残っている。
エレノアもパパも、そんな不安定なわたしを心配している。
だから一刻も早く立ち直って二人を安心させてあげたいけど、わたしはエレノアと違ってとても不器用。自分の心の闇に目を向けた途端に足がすくんで、身動き一つ取れなくなってしまう。
そして、その闇が近づいてきて耳元で囁くんだ。
「お前を幸せにはしない」って。
「お前は幸せになんて絶対になれない」って。
だからまた、目を閉じて願うんだ……。わたしを取り巻く問題のすべてが、今のうちに通り過ぎていってくれることを。
そして、この中の何人かは、今のわたしみたいに誰にも言わずに計画を練ってるはず。今度こそ、空に浮かべたシャボン玉があの境界線を越えていくんだって。
とにかく、この談話室でその傷ついた羽を休める者たちは、多かれ少なかれ、そんなことを企んでるようにわたしには見えた。
「あら、起きて来たのね?」
そう声をかけてきたのは、さっき鳥かご部屋に様子を見にきた看護師のレベッカだった。
「えぇ、スタイルズ大先生を待たせる訳にはいかないものね。今日はどんな新たな発見が飛び出してくるか、わたしも楽しみだわ」
茶化すように答えると、レベッカは苦笑いするだけ。
彼女の気持ちは十分にわかってるつもり。わたしのような頭のおかしい問題児とは、極力関わりたくないんだろう。でもきっと彼女の行動は正しい。この心の闇ってものは、伝染病のように人から人へと感染してしまうからだ。
一度、その闇に捕まってしまえば、完治させるのは難しい。だから、ここのスタッフは皆、わたしを腫れ物でも扱うように神経を尖らせて接する。間違っても自分たちが感染しないように、細心の注意を払いながら顔色を伺うんだ。つまりこの施設そのものは、リハビリセンターなんていう立派な看板を掲げただけの隔離病棟に過ぎない。
いつかわたしがこの施設を出られる日が来るとしたら、きっとそのときのわたしは、完全に治ったふりをしているか、この心臓が完全に停止してるかのどちらかだ。
「じゃあ、先生の部屋まで連れて行くわね」
レベッカがそう言って、談話室のさらに奥へと歩いていく。
「チャーリー! また話を聞かせてよね?」
後ろから声をかけるアガサに肯いて見せると、わたしはレベッカの後を追った。
†
談話室には出入り口が二か所あり、今わたしたちが入ってきた側の反対側にも水色の扉がある。その先の廊下を進んで行くと、スタッフが待機するナースステーションがあった。 その手前には、白く塗られた鉄製の柵で仰々しく囲われた扉があって、その前には常に、体格の良い警備員のモーヴィーという名前の男が目を光らせて立っている。
その扉を抜けた先には、小さな昇降機が二基並ぶエレベーターホールがある。
一つは、施設のスタッフや患者、それに滅多にやって来ない物好きな来客者向けのエレベーター。そしてもう一つは、ドクター・スタイルズのカウンセリングルームに直結する、モルモット専用エレベーターだった。
レベッカの後ろについてエレベーターに乗り込み、やがて孤独な箱が停止すると、扉を開けたレベッカが言った。
「ドクター・スタイルズのカウンセリングが終わる頃に迎えに来るから、ここで待っていてね」
わたしは何も答えずに、ドクター・スタイルズの待つ部屋へと入っていく。
「やぁ、君か。じゃあ、さっそく始めようか」
顔を見るなりわたしをソファーに座らせると、先生はいつもの儀式を始めた。
「じゃあ、まず、今日の日付と君の名前。それに、家族構成を教えてくれるかい?」
カウンセリングを始める前に、先生はこんなくだらない儀式を必ずやらせる。一体、これにどんな意味があるのか? 検討もつかないけど、一つだけわかるのは精神分析の父であるフロイト自身も、きっと頭がおかしかったのよ。
ボイスレコーダーを向けるドクター・スタイルズに向かって、わたしは話し始めた。
「わたしの名前はチャーリー・ブライト。ママは去年の春に病気で亡くなったわ。わたしをミルウォーキーに追い出したパパと双子の姉のエレノアはラクロスで暮らしてる。そして今日は西暦二〇〇八年の十月のいつかよ。来月になれば、わたしは十七歳の誕生日をこの施設で迎えることになるわ」
うんざりしながら、ふて腐れて話すわたしの態度に、眉一つ動かさずに黙って聞いていた先生は、ありがとうと一言つぶやくと訊ねた。
「じゃあ、君のお母さんについて、自由に話してくれないか?」
ソファーにどっかりと横たわったわたしは、目を閉じて深呼吸をした。そして、大好きなママの思い出を辿る。
カーテンの隙間をかい潜って、窓から漏れる陽の光が部屋に差し込む週末の朝には、甘い蜂蜜と香ばしいトーストの香りを纏って、ママはわたしたちの部屋へと入ってきて優しい声でこう呼ぶんだ。
「ハイディー、エレノア。ハイディー、チャーリー」
わたしたちはそんなママの呼び声を、ベッドの中で毛布に包まりながら今か今かと待ちわびている。
甘い蜂蜜とトーストの香り。そして優しいママの声が揃ったとき、わたしたちはいっせいに毛布を跳ね退けてベッドから飛び出す。
ママは膝をつき、大きく両手を開いて飛び込む双子を優しく招き入れるの。さっきまで包まっていた暖かい毛布のように柔らかく心地好い愛情で。
「ハイディー! ママ」
お互いに意識しなくても、わたしたち双子は大事なときには息がピッタリ。寸分の狂いもなく、揃ってママに挨拶をすると、左右の頬にキスをした。
エレノアはママの右の頬に。
そしてわたしはママの左頬に。
「ハイディー」なんて古臭い挨拶、この街に住むどんなお年寄りだって、今どき使ったりはしない。
ママが教えてくれた。「ハイディー」ってのは、「こんにちは」って意味があるみたい。とても気さくな感じで、仲の良い人に声をかけるときに使うんだって。
じゃあ、どうしてママがそれを好んで使っていたのか? その理由は教えてくれなかった。でもニヤニヤしながら嬉しそうに話すの。
「これは、私が用意した、あなたたち双子のための謎掛けよ」って。
それからヒントもくれた。でもそのヒントってのがそのときはさっぱり理解できなかったんだ……。
「それは、一体どんなヒントだったんだい?」
落ち着き払った太くて静かな先生の声が耳に届くと、わたしはゆっくりと瞼を持ち上げて答えた。
「オレンジの片割れよ」
カーテンの閉じられた古臭い書斎のような部屋は薄暗くて、一瞬、今この瞬間が昼間だったのか、それとも夜だったのかわからなくなる。
部屋に置かれた大きな本棚には、隙間など少しもないくらいに、難しいタイトルの本が敷き詰められている。
メトロノームのように響く時計の秒針の音はとても心地好くて、どのくらいこの部屋にいたのかわからなくなるほどだ。
「オレンジの片割れ? つまり、二つで一つだってことかい?」
「えぇ、きっとそうよ。ママはわたしとエレノアが二人で一つだって言いたかったのよ」
相変わらず落ち着き払った表情で話に耳を傾ける先生が小さく肯いたのがわかると、わたしは再び目を閉じてママの思い出に浸っていった。
まだ子供だった頃、それこそ天気さえ良ければ毎週末のように、わたしたちはラクロスで一番見晴らしの良いグランダッド・ブラフへとピクニックに行ったわ。
甘い蜂蜜と、香ばしいトーストの香りで目を覚ましたわたしとエレノアが朝食を食べている間、パパはガレージでご自慢のトラックをピカピカに整備している。そしてママはキッチンで、ピクニックに持っていくサンドイッチと、ストロベリージャムがたっぷり乗っかったタルトを焼いているの。
毎週末、当たり前のように訪れるこの時間が、わたしもエレノアも本当に大好きだったわ。そしてそれはきっと、ママもパパも同じ。
シリアルにサラダ、湯気の立ったスクランブルエッグ。お皿はわたしの好きなグリーンに、エレノアのお気にいりのオレンジ。そしてあとでやってくるパパが飲むコーヒーを淹れるための、深い海みたいなブルーのカップ。
そんな色鮮やかな朝食が並んだテーブルに、わたしたちは必ず向かい合わせに座る。
わたしの席からは、楽しそうに歌いながらタルトを焼くママの姿が。そしてエレノアの席からは、表のガレージで楽しそうに車を整備するパパの姿が。そしてわたしたちはお互いに、そんなママとパパを見ながら、嬉しそうにニヤニヤとして朝食を食べているの。
わたしの背中側にいるパパの様子だって、向かいに座っているエレノアを見てれば、パパが今どんなだかがわかってしまうのよ。そしてエレノアもまったく同じ。わたしの顔を見て、自分の後ろにいるママの様子を楽し気に知るんだ。
わたしたちのどちらかが、どちらかを見えなかったとしても、向かい合わせに座るもう一人の自分の顔を見ればそれがわかってしまうのよ。
ピクニックに必ず持っていく物があった。それはママが若い頃に使っていた年代物のアコースティックギター。
グランド・ブラフからの帰り道は、パパを運転席に残してわたしたち女三人は、決まってトラックの荷台に乗り込んだ。ママがギターを弾きながら歌を歌い、そしてママの弾くギターに合わせて、わたしたちも歌うの。
独りぼっちで寂しい時は行こう。
ダウンタウン。
心配事も悩み事も晴れるよ。
ダウンタウン。
街に流れる音色を聴くの。
歩道に滲む可愛いネオン。
迷わないで。
あなたの抱えた不安も。
街の光りは吹き飛ばすの。
行こう!
ダウンタウン 素敵な場所。
ダウンタウン キラキラして。
ダウンタウン あなたを待ってる。
一日過ごした、夕日でオレンジに染まるグランド・ブラフを後に、わたしたちはパパが運転するピックアップトラックの荷台で家に帰り着くまで何度も同じ歌を歌う。
メイン・ストリートに差し掛かり、もうすぐ我が家も近くなってくる頃には、ラクロスの街もすっかり夜が近くなり、ママが歌う歌詞に出てくる街のように光りが燈されていき、キラキラとして見える。
わたしもエレノアも荷台から身を乗り出して、街の光りを眺めながら歌うのよ……。