「チェック!」
女性の声が聞こえてわたしは目を覚ます。目に映るのは、所々剥がれかけたシンプルなアイボリーの壁紙と真っ白な天井にぶら下がったブリキのカバーの小さなライト。
「チャーリー? スタイルズ先生とのカウンセリングの時間になるわよ? そろそろ起き上がっても良いんじゃない?」
ベッドから上半身を起こし、声の方に顔を向けると、看護師が笑いながら再び部屋の扉を閉めた。
小窓の付いたこの個室は、薬物自殺を図った愚かなわたしのためにパパが用意した精神科の治療プログラム施設の一室。ミルウォーキーの寮で、薬物自殺を図って担ぎ込まれた病院と提携を結んでいる、同じ市内にあるリハビリセンターだ。
この建物の外観も、何階建てかもよくわからない。わたしが生活するこのフロアの部屋はどこも同じ間取りで、壁際に置かれた鉄製の硬いベッドと、引き出しも付いていない小さな机。
たったそれだけ。まるで、囚人が閉じ込められるような味気ない部屋。このフロア内ならどこへでも行くことはできるけど、それだけが今のわたしに与えられた最大の自由だった。ベッドから起き上がって、開くこともできない窓に手を添えて外の景色を眺めても、名前も知らない誰かが撮った写真の風景のように何も感じない。冷たさも暖かさも、まるで何も感じられないんだ。
自らの足で立ち上がることも、自らの意志で動き回ることも、なんだってできるはずなのに、わたしの気持ちは依然朦朧としたまま。そしてこの狭い鳥かごの中での生活が、心のどこかで心地好いって感じてる自分に抱く嫌悪感と、それでもここに残っていたいって思う自分に絶望感を抱いている。
手を伸ばせば届くところに自由はあるのに、その手を伸ばそうって気持ちにどうしてもなれない。パパやエレノアが心配する通り、きっとわたしは重症なんだろう。
「ハイディー、チャーリー?」
ただ黙って小窓に映る無機質な風景を眺めていると、看護師が出ていった扉からわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。このフロア一番の変わり者のアガサだ。
彼女は、わたしがここに放り込まれたときには既にいた古株で、こうして新参者の様子を伺いに毎日やって来る。そして必ずと言って良いほど、名前を呼ぶ前に「ハイディー」なんて、古臭い挨拶を付け加えるんだ。以前のわたしやエレノア、そしてママのように。
ママが亡くなって、エレノアの考えでこのミルウォーキーに追いやられて一年ほど暮らしたけど、実際にわたしたち以外で「ハイディー」なんて挨拶をする人間に出会ったのはアガサが初めてだった。
「入るわよ? チャーリー」
そう言って、アガサは躊躇いもせずに入ってくる。彼女の特徴を強いて上げるなら、わたしより歳上で二十代の中盤か後半くらい。そしてきっと恵まれた家の生まれで、かなり頭がどうかしちゃってるってことだ。
アガサが、一体いつからこの施設に厄介になってるのかは知らないし興味もないけど、少なくともこのフロアにいるスタッフは全員彼女のことをよく知ってるみたいだし、さらにはこのフロアで生活する患者たちも皆、彼女をよく知っているようなそぶりだからだ。
こんな施設に長期間入っていられるなんて、よっぽどのお金持ちしか有り得ない。それにアガサはここでの生活を心の底から満喫してるように見えるから。彼女ほど生き生きと笑い、そして話す人間なんてここにはいないもの。
ここでの生活に、心のどこかで居心地の良さを感じてるわたしでさえ、彼女のようには笑えないし、他の誰かと会話を楽しもうなんて気にもならない。そういった意味でも、彼女はわたしよりさらに重症で、取り返しがつかないほどいかれてしまってるに違いないの。
そうでもなければ、こんな風にわたしに纏わり付くはずないもの。でもそんなアガサをわたしが敬遠しないのは、この退屈な施設での暇潰しくらいにはなるからなんだ。
「今からでしょ? ドクタースタイルズの人生相談は」
アガサが、スタイルズ先生の真似をしながら部屋の机の椅子に座り、そしてカルテを見比べるジェスチャーと、ボイスレコーダーを持つ先生の物真似をしながら訊ねた。
「カルテNo.26チャーリー・ブライト。君は神の存在を信じているかい?」
無表情に真面目ぶって、くだらない質問までしてくるその様は、まさにドクター・スタイルズそのもので可笑しい。
この施設へやって来てからというもの、アガサは毎日纏わり付いて子供のようにくだらない質問を繰り返す。好きな食べ物だったり、テレビ番組だったり、音楽だったり……。
初めは面白がって質問に答えていたけど、いつまでも続く質問責めに正直気味が悪くなってしまった。
ひょっとしたら彼女はそっちの気があるんじゃないかって。だからいつだったか? 思い切って質問してみたことがある。もちろん、単刀直入に聞いて彼女を傷つけるようなことはしない。おもいっきり遠回りな質問で。
「もし、あなたの目の前に雄と雌の子猫が捨てられていて、どちらか一匹を連れて帰るなら、どちらを連れて帰る?」
精神分析医みたいな口ぶりでわたしが訊くと、彼女は大笑いして答えた。
「家には強くてたくましい番犬がいるから、連れて帰らないわ」
何がそんなに可笑しいのかわからないけれど、まぁわたしが心配するほど彼女に毒はないだろうって、バカみたいに笑う彼女を見ていたらそう思えた。
女性の声が聞こえてわたしは目を覚ます。目に映るのは、所々剥がれかけたシンプルなアイボリーの壁紙と真っ白な天井にぶら下がったブリキのカバーの小さなライト。
「チャーリー? スタイルズ先生とのカウンセリングの時間になるわよ? そろそろ起き上がっても良いんじゃない?」
ベッドから上半身を起こし、声の方に顔を向けると、看護師が笑いながら再び部屋の扉を閉めた。
小窓の付いたこの個室は、薬物自殺を図った愚かなわたしのためにパパが用意した精神科の治療プログラム施設の一室。ミルウォーキーの寮で、薬物自殺を図って担ぎ込まれた病院と提携を結んでいる、同じ市内にあるリハビリセンターだ。
この建物の外観も、何階建てかもよくわからない。わたしが生活するこのフロアの部屋はどこも同じ間取りで、壁際に置かれた鉄製の硬いベッドと、引き出しも付いていない小さな机。
たったそれだけ。まるで、囚人が閉じ込められるような味気ない部屋。このフロア内ならどこへでも行くことはできるけど、それだけが今のわたしに与えられた最大の自由だった。ベッドから起き上がって、開くこともできない窓に手を添えて外の景色を眺めても、名前も知らない誰かが撮った写真の風景のように何も感じない。冷たさも暖かさも、まるで何も感じられないんだ。
自らの足で立ち上がることも、自らの意志で動き回ることも、なんだってできるはずなのに、わたしの気持ちは依然朦朧としたまま。そしてこの狭い鳥かごの中での生活が、心のどこかで心地好いって感じてる自分に抱く嫌悪感と、それでもここに残っていたいって思う自分に絶望感を抱いている。
手を伸ばせば届くところに自由はあるのに、その手を伸ばそうって気持ちにどうしてもなれない。パパやエレノアが心配する通り、きっとわたしは重症なんだろう。
「ハイディー、チャーリー?」
ただ黙って小窓に映る無機質な風景を眺めていると、看護師が出ていった扉からわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。このフロア一番の変わり者のアガサだ。
彼女は、わたしがここに放り込まれたときには既にいた古株で、こうして新参者の様子を伺いに毎日やって来る。そして必ずと言って良いほど、名前を呼ぶ前に「ハイディー」なんて、古臭い挨拶を付け加えるんだ。以前のわたしやエレノア、そしてママのように。
ママが亡くなって、エレノアの考えでこのミルウォーキーに追いやられて一年ほど暮らしたけど、実際にわたしたち以外で「ハイディー」なんて挨拶をする人間に出会ったのはアガサが初めてだった。
「入るわよ? チャーリー」
そう言って、アガサは躊躇いもせずに入ってくる。彼女の特徴を強いて上げるなら、わたしより歳上で二十代の中盤か後半くらい。そしてきっと恵まれた家の生まれで、かなり頭がどうかしちゃってるってことだ。
アガサが、一体いつからこの施設に厄介になってるのかは知らないし興味もないけど、少なくともこのフロアにいるスタッフは全員彼女のことをよく知ってるみたいだし、さらにはこのフロアで生活する患者たちも皆、彼女をよく知っているようなそぶりだからだ。
こんな施設に長期間入っていられるなんて、よっぽどのお金持ちしか有り得ない。それにアガサはここでの生活を心の底から満喫してるように見えるから。彼女ほど生き生きと笑い、そして話す人間なんてここにはいないもの。
ここでの生活に、心のどこかで居心地の良さを感じてるわたしでさえ、彼女のようには笑えないし、他の誰かと会話を楽しもうなんて気にもならない。そういった意味でも、彼女はわたしよりさらに重症で、取り返しがつかないほどいかれてしまってるに違いないの。
そうでもなければ、こんな風にわたしに纏わり付くはずないもの。でもそんなアガサをわたしが敬遠しないのは、この退屈な施設での暇潰しくらいにはなるからなんだ。
「今からでしょ? ドクタースタイルズの人生相談は」
アガサが、スタイルズ先生の真似をしながら部屋の机の椅子に座り、そしてカルテを見比べるジェスチャーと、ボイスレコーダーを持つ先生の物真似をしながら訊ねた。
「カルテNo.26チャーリー・ブライト。君は神の存在を信じているかい?」
無表情に真面目ぶって、くだらない質問までしてくるその様は、まさにドクター・スタイルズそのもので可笑しい。
この施設へやって来てからというもの、アガサは毎日纏わり付いて子供のようにくだらない質問を繰り返す。好きな食べ物だったり、テレビ番組だったり、音楽だったり……。
初めは面白がって質問に答えていたけど、いつまでも続く質問責めに正直気味が悪くなってしまった。
ひょっとしたら彼女はそっちの気があるんじゃないかって。だからいつだったか? 思い切って質問してみたことがある。もちろん、単刀直入に聞いて彼女を傷つけるようなことはしない。おもいっきり遠回りな質問で。
「もし、あなたの目の前に雄と雌の子猫が捨てられていて、どちらか一匹を連れて帰るなら、どちらを連れて帰る?」
精神分析医みたいな口ぶりでわたしが訊くと、彼女は大笑いして答えた。
「家には強くてたくましい番犬がいるから、連れて帰らないわ」
何がそんなに可笑しいのかわからないけれど、まぁわたしが心配するほど彼女に毒はないだろうって、バカみたいに笑う彼女を見ていたらそう思えた。