チャーリーがそれを望まないこともわかっていた。それでもママのベッドで泣き暮らすチャーリーを見ていたら、このまま家族の想い出の詰まったラクロスにいたら、いつまでたっても哀しみは癒えることはないだろうと思わせた。
 だからわたしは、喪失の痛みからチャーリーを遠ざけるためにミルウォーキーの高校へと追い出したんだ。将来のことを考えれば、たとえ恨まれることになったとしても、学校に通って将来の選択肢を増やした方が彼女のためになるとも思ったから。
 嫌がるチャーリーを無理矢理追いやって、パパと二人で精一杯頑張っていたつもりだった。朝も夜もなく、一日中働き通して、繰り返し、繰り返し、昨日と同じ毎日を過ごす。
 そんな生活の中で、わたし自身の身体と心がみるみる疲弊していくのが手に取るようにわかったわ。それでも、そうして一年も過ぎる頃には、ようやく立ち直り始めたパパに、わたしは少しだけ安心していたんだ。
 でもチャーリーは違っていた。一年前と何一つ変わることなく、ママの思い出と哀しみを、すべてあの日のままに引きずっていた。似合いもしない煙草まで吸って、明らかに反発するような態度までとって。
 悲しくて仕方なかったよ。こうなることは覚悟していたつもりだったけれど、大好きなチャーリーに嫌われてしまったようで、わたしは苦しくて仕方がなかったよ。
 それでもわたしは自分に言い聞かせたの。苦しいのは今だけだって……。この苦しみを乗り越えることができれば、きっとまたみんなで笑い合える日が訪れる。そんなこともあったね、って懐かしく思い出せる昔話になるんだって。
 長い夏休みを利用してラクロスに戻ってきていたチャーリーが、再びミルウォーキーへと帰った日、いつまで経っても無事に到着したっていう連絡が入らずに痺れを切らしたわたしは、何度もチャーリーに電話をかけた。
 チャーリーはようやく電話に出ると、受話器越しに言った。「ハイディー、エレノア」って。
 つい半日前まですぐ隣にいたのに、チャーリーのその声は、もう何年も交わしたことのない挨拶に聞こえるほど懐かしく感じられた。幼いあの頃を思い出させるのに十分な言葉だった。そして同時に、必死に忘れようとするママとの記憶を、次々と鮮明に呼び起こしてしまった。
「チャーリー!? 心配させないでよ! 帰ったら電話する約束でしょ?」
 思い出に浸っているわけにはいかなかった。決意はグラグラと音を立てて今にも崩れそうなのに。
 無理やりわたしは話題を変え、堪こらえきれない不安定な足元を踏んばるように、強い口調で話した。
 そんなわたしの情けなくて脆い気持ちが、チャーリーに伝わるはずはなかった。チャーリーはさらに弱々しくつぶやいた。
「もう、帰りたいよ。家族の傍にいたいよ」
 チャーリーは繰り返した。そんなことはわかっている、もう何度も聞いた。いやというほど! わたしは心臓をえぐられるような気分だった。何のために、誰のために、こんなにも苦しい思いをしながらわたしは頑張っているの?
 日頃の疲れに加えて、報われない思いに、わたしは少しだけ絶望感を味わった。
「お願いよ、チャーリー、わたしを困らせないで。また学校が休みになったらゆっくり会えるじゃない。時間なんてうんざりするほどあるんだから。もう切るわよ」
 わたしが強引に電話を切ろうとすると、それを察したチャーリーが慌てて声を強めた。
「待って! 切らないで!」
 そして縋り付くように思い出話を始める。
「……ねえ、エレノア? 子供の頃、ママによく連れて行ってもらった聖ローズ教会を覚えてる?」
「……」
 忘れるわけがない。グランダッド・ブラフと同じに、聖ローズ教会の日々はわたしたちの大切な輝かしい記憶だ。
 雨の週末に通った秘密の花園。あそこに埋めた思い出の宝箱の中に残してある魔法のシャボン液。
 あの夜、二人で願いを込めて空へ飛ばした手紙は、神様の元へは届かなかったんだろうか? それとも、もっと違った願い事をしたなら、その願いは聞き入れてもらえたのだろうか。――例えば、ずっと家族が健康で長生きできますように、とか……。
 ただ虚しさだけがいっぱいに広がって、重苦しい空気に堪えられなくなったわたしはそのまま返事をせずに受話器を置いた。
 そして悪夢が始まるの。
  チャーリーの寄宿する学生寮から知らせを受けて、わたしはすぐにミルウォーキーへ向かった。向かう電車の中で、すべての振動がわたしを粉々に壊してしまうんじゃないかというほどの恐怖だった。
 必死に堪えながらやっとの思いでたどり着いた病院の廊下は凍えるほど冷たく、そして途方に暮れるほど長く感じた。
 小さな診療室の小さなベッドの上に、チャーリーは横たわっていた。大勢の人間たちの目に晒されて、ただ天井を向いて横たわっているだけのチャーリーの姿が目に飛び込んできたとき、わたしはついに残されていたなにもかもを失ってしまった気がした。
 あの瞬間、確かにわたしも死んだのよ。だってわたしたち双子は、鏡に映った自分自身、オレンジの片割れなんだから。
 見た目も背丈も一緒。チョコレートモカの甘い香りが漂ってきそうな濃いブラウンの髪に、少し背の低い鼻と、腫れぼったく見える一重瞼に切れ長の目。紅茶のような薄い赤茶色の瞳と、その瞳が一層引き立つような白い肌。
 その片割れがこんなにも苦しんで、目の前で冷たくなっているのに、もう一方の片割れが無事でいて良いはずなんてないんだから。
 わたしは卑怯で臆病者。
 勇気の足りないわたしは、境界線を越える踏ん切りがつかないまま、抜け殻のように息をするのが精一杯だった。
 そして、ぼんやりと生と死の境界線を脳裏でたどるうちに気がついたの。チャーリーが、最後になぜローズ教会の名前を出したのか――。
 わたしたちの秘密の花園。秘密の宝箱を埋めた、二人だけの場所。チャーリーはそこへ遺書を埋めたのだとわたしは気づいた。
 わたしはすぐに花園へ向かった。そして見つけた、神様宛てではない『手紙』を読んだとき知ったの。――わたしがどれほどにチャーリーの意思を踏みにじり、そして彼女を孤独と淋しさの中で死に追い込んでしまったのかを……。
 遺書の横には、魔法のシャボン液の残りがコロンと横たわっていた。ハウスの中、それが月明りに照らされた瞬間、大切なチャーリーが二度と戻ってこないという現実を改めて思い知らされた。
 自分を絶対に許せないと感じた。自らが復讐の対象になったとき、不思議とこの身も境界線を越えられる勇気に溢れた。空を見上げれば、今ならこの願いは簡単に届くような気がした。目の前は、希望の光で溢れていたんだ……。
「エレノア! しっかりしなさい!! 誰も、あなたを責めたりなんてしてないわ!」
 アガサが叫び、わたしの頬を打つ。色々と面倒を見てくれた彼女だけど、もうわたしは疲れ果てて、何もする気になれないのよ。
「エレノア! 聞こえてるんでしょ!? いつまでそうやって逃げ続けるつもり!? 私は絶対に許さないわよ!」
 わたしを激しく揺さぶりながら、涙目で叫ぶアガサが見える。それでもわたしは、これ以上この現実の中で、エレノアとしてなど生きていたくはないの。
 だからお願い、もうわたしに構わないで……。
「ハイディー……エレノア。俺の話を聞いてくれ」
 そうつぶやいたパパの声が、わたしの体を駆け巡っていった。
「運命の赤い糸を信じるか? 俺にとって、ナオミがそうなんだ」
 声を震わせながらつぶやくパパの言葉が、わたしに流れる冷え切った血液を徐々に温めていくような錯覚を受ける。
「お前たち双子が生まれた年、ナオミが言ったんだ。この子たちは俺たちみたいに互いに運命の赤い糸で結ばれているんだって。この子たちが二人揃っているだけで、周りはたちまち幸せな笑顔で溢れていくんだって」
 初めて聞くママとの思い出に瞼を閉じ、ただ黙って想像していくの。
「だから、生まれた瞬間から慌てん坊のおまえと、おっとり屋のあの子のことを心配したナオミが、二人仲良く、足並みを合わせてすぐ隣にいられるようにと、お前たちの名前をつけたんだよ」
 ほんの少しだけ、沈黙の中で涙を拭い、鼻を啜ったパパは再び口を開いた。
「エレノア・ハイディー・チャーリー。二人の頭文字、EとCが半歩ずつHi!と歩み寄った先に、Dがあるんだ。ナオミが言うハイディーってのは、そんな願いが込められた言葉なんだよ」
 焼けるように、胸が熱くなっていく。
「ハイディー……エレノア」
 チャーリーと最後に話したときの彼女の言葉が頭から離れない。

「チェックメイト!」
 チャーリーのビショップを弾き飛ばしながら、わたしは誇らしげにナイトを掲げる。
「なんで? エレノアの真似をしてるのに、なんでいつもわたしが負けちゃうの!?」
 納得いかないって顔をしながら、チャーリーは膨れっ面でわたしをにらむ。わたしはもちろんチェスのルールなんて知らない。適当に駒を動かしていって、そして適当なところでお気に入りのナイトを掲げてこう言うだけ。「チェックメイト!」って。
 いつだってバカ正直にわたしの真似ばかりしていたチャーリーが、わたしより先にチェックすることは一度だってなかった。それでも何度でも立ち向かってくるチャーリーを不憫に思ったわたしは、とうとう本当のことを打ち明けた。
「ひどい! 今までずっとズルしてたのね!?」
 顔をパンパンに赤く膨らませながら、チャーリーがわたしをにらむ。
「ごめんね、チャーリーがあんまりむきになるから、言い出せなくて……」
 申し訳なさそうに俯いて謝るわたしに、チャーリーは大袈裟にため息をつくと腕を組みながら言った。
「ハイディー! エレノア。良いわ、許してあげる」
 そして、得意顔でニンマリと笑いながらさらに言うの。
「エレノアの我が儘を許してあげられるのは、わたしだけよ!」
 って……。
「ナオミが死んで、すべてを失った気持ちで絶望していた俺は、自分の悲しさばかりを見つめてしまって、ナオミの残してくれたふたつの本当の宝物を見失っていたんだ……」
 涙が止まらない。自分の流す涙に溺れて、わたしは息苦しくて堪らないんだ。
「同じ運命の赤い糸の相手を失ってしまったんだ。おまえの辛さは痛いほどわかるよ。だから、今こそ俺たちふたりで、力を合わせて助け合わなきゃならないんだ。じゃなけりゃ……ナオミやチャーリーに、どう謝って良いかわからないだろ?」
 パパも大粒の涙を流しながら、袖口で拭いては、また涙を零した。
 優しくわたしの頭を撫で、不器用な手つきでわたしの額にキスをする。こんなにもパパのキスが心地好いって思うのは、生まれて初めてだと感じるくらいに。

 ハイディー……チャーリー……、
 本当にごめん……。

 わたしは、そっとチャーリーに謝った。