サイレントに設定された携帯電話が、もう何十回と鳴っている。画面には、わたしの大好きな双子の姉の名前。
「ハイディー、エレノア……」
 時刻は深夜二時。実家のあるラクロスから、学生寮のあるミルウォーキーへ戻ってもう八時間は経ってるのに、わたしが無事に寮に帰り着いたか心配して、エレノアはずっと電話を掛け続けてくれていた。
「チャーリー? 心配させないでよ! 帰ったら連絡する約束でしょ?」
 安堵のため息の後に、疲れきったエレノアの声がわたしを責めてるようで、それだけで涙が溢れそうになるのを我慢しなくちゃならない。
「一体どうしたのよ? 今日は一日変だったわよ? わたしに何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
 疲れ気味の声で、急かすように訊ねるエレノアに、わたしはもう一度だけ、勇気を振り絞って伝える。
「もう、帰りたいよ。家族の傍にいたいよ」
 深いため息と呆れたような声で、受話器の向こう側のもう一人のわたしが口を開いた。
「チャーリー、それについてはもう十分話し合ったでしょ? あなたのためにも、今はこの街に残らない方が良いって。こっちは心配要らないから、あなたはあなただけのことを考えて」
 そう言ってエレノアが電話を切ろうとしたとき、わたしは慌てて彼女を止めた。
「待って! エレノア。子供の頃、ママによく連れて行ってもらった聖ローズ教会を覚えてる?」
「いい加減にしてよ、チャーリー。わたしは明日も仕事なのよ? また週末にでも話しましょ」
 疲れた声、呆れたままのエレノアの声は、そう伝えると強引に電話を終えた。真っ暗で、借り物の小さな部屋の中で、わたしは独り、震えた声で小さくつぶやいた。

「ハイディー、エレノア。ハイディー、チャーリー」

 独りぼっちでさみしい時は行こう……ダウンタウン。

 真っ暗闇の洗面台の鏡の前で、今にも泣き出してしまいそうなわたしが、わたしのことをじっと見つめている。

 心配事も悩み事も晴れるよ……ダウンタウン。

 悲しそうにこちらを見つめる彼女を振り払うように、わたしは洗面台の鏡を開いて視線を逸らす。

 街に流れる音色を聴くの。
 歩道に滲む可愛いネオン。

 手を伸ばした先には、アスピリンの入った大きなボトルケース。心配なんて要らない。不安なんて感じる必要もないわ。大丈夫、絶対に大丈夫よ。取り巻く悩みや不安や心配事はすべて、きっとこの薬が解決してくれるはずなんだから。

 そしてわたしたちは本当の意味で一つになれるはずなの。
 だから恐れることもないし、迷うこともないのよ。
 街の光が、すべて吹き飛ばしてくれる。
 空っぽになったアスピリンのボトルケースを洗面台の裏に戻して鏡を閉じると、鏡には、涙を流しながら、悲しそうに、そして嬉しそうに笑うわたしが立っている。

 大丈夫、さぁ、一緒に行きましょう。

 振り返ったわたしは静かに自分の寝室へと歩き出していく。

 物音はたてないでね? 
 明かりをつけるのも駄目。

 この暗闇のトンネルを越えた先には、キラキラと輝くあの頃の街並みが見えてくるんだから。慌てないで、ゆっくりと、そして慎重に自分のベッドへと体を滑り込ませていくのよ。そしてフカフカの布団に包まって頭の中で思い描くだけで良い。

 ダウンタウン 素敵な場所。
 ダウンタウン キラキラして。
 ダウンタウン あなたを待ってる。

 わたしたちは今、始まったばかり。そしていつまでも、いつまでも、終わることなく歩き続けていけるのよ。何をするにも一緒だったあの頃のように。
 夜が明けてカーテンから陽の光が漏れて部屋に滲む頃、なかなか起きて来ないわたしを心配して部屋に入ってきたルームメイトは一体どんな風に思うんだろう。
 わたしの遺書は、ちゃんと家族に読んでもらえるのかな? 
 わたしが死んでしまったら、今通ってる学校はどうなってしまうのかな? 
 もし病院に運ばれたなら、パパやエレノアの住むラクロスから、このミルウォーキーの街までどのくらい掛かるんだろう? 
 心配することに疲れてしまったよ。不安に思うことに疲れてしまったよ。劣等感を抱え込んだまま、優等生のあなたを追いかけ続けることに本当に疲れ果ててしまったよ。
 もしもまだママが生きていてくれたなら、わたしたちの未来はまた少し違ったものになったのかもしれない。
 でも、こんな結末を迎えるのだって、神様がわたしたちに与えた試練のような気がするわ。わたしとあなたは見た目はまったく同じなのに、中味はまったくの別物なんだもの。
 誕生日も違えば、利き手も違う。友達も違えば、好きな異性も違う。服の好みも、食べ物も、好きな色だって、何から何まで違ってしまったんだから。
 でも、本当に愛してるわ。自分のことのように。いいえ、それ以上にあなたが大好きなの。今でもその気持ちは変わらない。今までと同じように決して揺らいだりしない。
 もう少し器用に前に進むことができたなら、きっとあなたに追いついて、あなたと同じ速度で肩を並べて歩くことができたのに。わたしはいつもあなたの半歩後ろからついていくので精一杯だった。

 本当にごめんね、エレノア。大好きよ。
 パパをよろしくね。

 目を閉じると暗闇が覆うけれど、すぐ目の前には真っ白な光の筋が導くかのように足元を照らしている。横たわったままのわたしは、その光に照らされるように、硬くて冷たいベッドの上へと放り投げられていた。
 大勢の白衣を着た人たちが気難しい顔でわたしを眺めている。周りにいる人たちは、ビデオテープを早送りしたように忙しなく動いているのに、肝心のわたしは、まるでスロー再生されたように自由に体を動かすことすらできないでいた。
「ここは? ひょっとして病院なの?」
 せかせかと動き回る白衣を着たドクターらしき人に訊ねるけれど、彼はしかめっ面をしたままで、質問に答えてくれる気配はなかった。
 一人のドクターが、ものすごく太いチューブをわたしの喉の奥深くへと捩込むと真っ黒な液体を流し込んでいく。
「どうやら、自殺は失敗してしまったようね」
 頭の中でわたしがつぶやく頃、慌ただしく部屋へと入ってきてわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「チャーリー!!」
 わたしの大好きなもう一人のわたし。
 双子の姉のエレノアだ。
 大勢の白衣を着たドクターや看護師たちを押しのけて、真っ青な顔をしたエレノアとパパがベッドへと走り込んできて、横たわるわたしの手を握った。その温かい手の平は、わたしの冷たい手を重ねるには丁度良い大きさなんだ。
「ごめん……エレノア」
 わたしが彼女に向かって声をかけると、エレノアは大粒の涙を流しながら、子供のように泣きじゃくっていた。
 わんわんと。わたしたちが生まれ育ったラクロスのダウンタウンの騒音のようにわんわんと。

 どれくらい過ぎたんだろう? とても長い時間が過ぎていったような気もすれば、まだほんの数時間しか経っていない気もする。
 とにかくわたしは意識を失って、再び目を覚ましたときには、まだ冷たくて硬いベッドの上でチューブに繋がれたままだった。薬のせいなのか、瞼が重くてうっすらとしか持ち上がらないし、意識もまだ朦朧としている。
 部屋を埋め尽くすほどいた看護師やドクターの気配はすでになく、規則正しく鳴る医療機器の電子音だけが虚しく部屋を埋め尽くしていた。
 処置室の扉が開くと、パパが心配そうにやって来て、涙をいっぱいに溜めた目を擦りながらわたしの手を握った。
「良かった! 生きていてくれて本当に良かった!」
 普段口数が少なくて、いつも何を考えてるのかわからないパパが、こんな風に顔をグチャグチャにしながら感情を表に出すなんて、ママが病気で亡くなったとき以来初めてだ。
 ママ同様やっぱりパパも、不器用なりにその深い愛情をわたしたちに注いでくれていたんだと知ると、不謹慎だけれどとても嬉しいと感じた。
「パパ……本当にごめんなさい」
 掠れた声でパパの手を握り返すと、パパは何も言わずに首を振り、ボロボロと溢れる涙と鼻水を袖口で拭った。
「パパ……エレノアは? わたし……エレノアにも謝らなくちゃ……」
 パパの愛情とグシャグシャの泣き顔に緊張が緩んで安心したのか、それとも捨てるつもりだった命を失わずに済んだ安心感からなのか、とにかくわたしはまた意識が朦朧として、起きていられないほどの眠気に襲われる。
「大丈夫! 大丈夫だ! とにかく今は、お前が立ち直るのが先だ! エレノアには、パパから言っておくよ」
 ありがとう……パパ。

 安心したわたしは再び深い眠りの泉の底へと沈んでいく。
 きっとまた、わたしはエレノアを怒らせてしまった。失望させてしまった。近づこうとすればするほど距離が広がる一方で、こんな不器用な自分自身に嫌気がさすんだ。
 本当にごめんね。
 でも、わかってもらいたかったの……。

 深く、深く、沈み込んでいく。
 深く、深く、真っ暗なトンネルの中を、どこまでも深く。

 エレノアとわたしは双子の姉妹。自分で言うのもおかしな話だけれど、わたしたちは本当に仲が良くて、そして大の親友だった。「だった」なんて付け加えたくはないけど、事実彼女は変わってしまったし、もちろんわたしも変わってしまっていたのかもしれない。
 去年の春にママを病気で亡くし、残されたわたしたち家族は、そのあまりの悲しみに突然狂い始めた。それは電池の切れかけた時計の秒針のように少しずつ狂っていき、そしてあっという間にバラバラになってしまったんだ。
 昔は何をするにも一緒だったエレノアとも、いとも容易く。
「チャーリー! 見て! 四つ葉のクローバーを見つけたわ」
 家族揃って訪れたグランダッド・ブラフ・パークで、エレノアは偶然にも幸せの四つ葉を見つけると、得意げに駆け寄ってくる。
 毎週末のように訪れたこの公園は、わたしたちが住むラクロス市でも最も高い山にあった。週末にもなれば観光客だけでなく、市内からも大勢の人たちが利用するラクロス市の中でも人気の場所で、ハイキングやトレイルなんかも楽しめる。
 頂上付近には公園があって、そこから見渡す壮大なミシシッピ川の渓谷のパノラマ風景に心を奪われて、何時間でもその場所に立ち尽くしている人たちもいるほど。もちろんミルウォーキーやシカゴなんかとは比べものにならないくらい穏やかでのんびりとした街だけど、わたしはラクロスが大好きだった。
「ずるいよ、エレノア! わたしの分も探すの手伝ってよ!」
 いつだって最初に行動を起こすのはエレノアで、わたしはいつも彼女の後ろを追いかけていた。それはわたしたちにかけられた悪い魔女の魔法のように運命づけられたもの。ママのお腹の中にいた頃にかけられた呪いだっていつも思ってたのよ。
 現に、先にママのお腹から飛び出していったのはエレノアで、いつまでもお腹の中でまごついてたわたしは、日付変更線の外側へと追いやられてしまったんだから。
 双子なのに誕生日が違うなんて、悪い魔女の呪いにでもかけられていなければ滅多に起こることじゃない。こうしてわたしたちは、双子なのに姉と妹の関係になってしまったの。
 でもママは事あるごとにこの出産秘話を持ち出しては、嬉しそうにわたしたちをからかった。率先して前へと飛び出していく器用な姉のエレノアと、いつまでもまごついてなかなか足を前に出そうとしない不器用な妹のわたし。
 それを象徴するように、わたしはいつもエレノアを追いかけ続けていた。少しでも彼女と肩を並べられるように、妹のチャーリーだなんて周りに言われないように。
「ほら! きっとそう言うと思って、チャーリーの分も見つけておいたんだ!」
 エレノアが笑いながら後ろに隠していた右手を差し出すと、その手の中には幸せの四つ葉が顔を覗かせていた。
「ありがとう、エレノア」
 わたしは左手で四つ葉を受け取って言う。でも心の中では、なんの抵抗もなくこんな風に伝えてるんだ。「ありがとう、お姉ちゃん」って。
 エレノアの伸ばす右手と、わたしの伸ばす左手が幸せの四つ葉を中心にして、鏡に写しあった自分自身のよう。
 見た目も背丈も一緒。チョコレートモカの甘い香りが漂ってきそうな濃いブラウンに、少し低い鼻と、腫れぼったく見える一重瞼に切れ長の目。紅茶のような薄い赤茶色の瞳と、その瞳が一層引き立つ白い肌。顔中に散らかってるそばかすの数だって、きっと同じだけあるに違いないんだ。
 わたしは、そんな自分の顔が大好きだった。
 もちろんこの顔が、ハリウッド女優のように甘酸っぱくて、それでいてスパイスが効いたような個性的なオーラを放つ美人になるなんて、ママが作ってくれるストロベリージャムたっぷりのタルトケーキの食べかすほどにも思ったことはないわ。
 それでもこの顔が大好きだって小さな胸を張って言える理由はただ一つ。それは、いつも目の前で向かい合ってくれるエレノアと、わたしがまったく同じ顔をしているから。
 それだけが自慢だったし、エレノアと繋がっているっていう何よりの証だから。
 そんな寸分違わぬわたしたち双子は、見た目はそっくりでも中味はまるで違っている。そう、シナモンロールの中味がレーズンやオレンジピール、クルミやチョコチップみたいに様々なバリエーションがあるように、見た目も大きさもまったく同じに見えるわたしたちでさえ、中味だけは違ってしまっているの。
 それは誕生日だったり、行動力だったり、考え方だったり、もっと言えば利き手だったり。
 エレノアが右利きに対して、わたしは左利き。
 でもそれは、わたしの不器用さにとても関係のあることなんだって、今でも時々思うことがあるんだ……。