大通り沿いにある、小さなダイナーに移動したわたしたちは、店の公衆電話から連絡をして、パパが迎えにきてくれるのを待った。早朝でしかも突然だったから、始めは電話の相手がわたしだってことを信じてくれなかったパパも、アガサに代わった途端、ようやく現実だと気づいてくれた。
 近くにあった標識の番地を告げると、パパは、動かずに待っててくれと何度も繰り返し、名残惜しそうに電話を切った。
「すぐにパパが車を取りに来てくれるわ」
 席で待つランディにそう伝えると、彼女は嬉しそうに言った。
「ありがとう、世話になるね。ところであんたたちの名前は?」
 今の私は、そんな些細な質問にさえなんて答えれば良いのかわからずに思い惑ってしまう。すると隣に座るアガサが見兼ねて代わった。
「私はアガサよ、向かいの病院のスタッフ。そして彼女はエレノア」
 ランディは何も言わずに、黙ってわたしを見ていた。

 エレノア……。

 その名前を聞いて、わたしはまたひとつ胸をえぐられたような気分になった。

 開店直後らしき店内には客の姿なんて見当たらない。お店の女主人ですら、早朝からの来店に戸惑っているように見えたくらいだ。
 見るからにお手製のクロスが掛かったテーブルに、細長いカウンター。横一列に並ぶのは、よく手入れされた木製の丸椅子が数脚程度。壁には写真が何枚か飾られていた。きっと、ここは毎日同じ顔ぶれが並ぶ常連客のためのお店。
 生まれ育ったラクロスに相応しい雰囲気に、やっぱりここはミルウォーキーじゃないという現実にわたしは目眩を覚えるの。
「ホットレモネードはできるかい?」
 注文を取りに来た女主人にランディが訊ねると、彼女は躊躇うようにキッチンの方を気にして、それから肯くと言った。
「レモンなら、倉庫に売るほどあるからね。そっちのあんたはどうする?」
「えっと、あの、じゃあわたしはココアを……」
 わたしがココアを頼むと、アガサも同じものを注文した。
 やがて店内が甘酸っぱい香りで満たされると、ランディのレモネードがテーブルに運ばれてくる。その芳しさを羨ましく思いながらわたしは自分の注文を後悔していた。
 そんな様子を見ていたランディは何かを察知するように言った。
「人のものって良く見えるよな? でも案外そこに至るまでには、物凄い苦労があったりするものさ」
 きっと、彼女はわたしを気遣って言ってくれているんだろう。人は誰でも同じなんかじゃないし、躓き方もそれぞれなんだってことを。
 それでも今こうして、誰かに羨ましいと思われるような事柄があるなら、それはきっと、その人が「良い生き方」をしてきたからなんだと思う。そしてそれに気づいたのなら、人はいくらでもやり直せるってことも。
「グランダッド・ブラフには?」
 ランディは煙草を取り出して再び火をつけると、大きく吸い込んで煙を吐き出した。
「子供の頃、毎週末に家族と出掛けたわ。今のシーズンなら、燃えるような紅葉の赤と、澄んだ青空との境界線がとても素敵よ」
 わたしがココアを啜りながらそう口にすると、ランディは「へぇ……」とつぶやいて瞳の奥を小さく輝かせる。
「続けてくれよ」
 隣では、アガサが優しく目を閉じて肯くのを感じてわたしは促されるように続けた。家族四人で見たあの景色を……。
「時折り、冷たくて強い風がグランド・ブラフを吹き抜けていくの――」
 どこからやって来たのかもわからないその風は、公園内の小さな草花を我が物顔で通り過ぎ、そして辺りの空気をさらに引き連れて、広大な青空の中へと押し上げていくわ。
 それまで、足元に広がるミシシッピ河の景観にばかり目を奪われていたわたしたちは、そこで改めて気づかされるの。目の前に広がるパノラマと同じくらい、何億年と続いてきた壮大な青空がすぐそこに広がっていることに。
 野鳥の鷲が大きな翼を広げて、巻き上がった風を捕まえる。そして燃えるように染まる紅葉と、どこまでも続く青の境界線を飛び越えてさらに空へと高く昇っていく。
 いつも思ってたわ、彼等のように羽ばたいてこの大地を空から見下ろすことができたらどんなに素敵だろうって。そして、上空から見下ろされたわたしたちの姿は、どれだけちっぽけに映るのだろうかということも。
「あんたは、どう思ったんだい? エレノア」
 ふとした質問だったけれど、チャーリーの存在を知らないこの人は、エレノアとしてのわたしの意見を聞きたがっているように見えた。
「わからない……でも、あなたの言う通り、彼等はそこに至るまでの苦労があっただろうし。それは、彼等から見たわたしたちも同じなのかもしれない……」
 残ったココアを飲み干して、静かにカップを置き続ける。
「だから、そう思われるような『良い生き方』がしたいわ。たとえ見える景色に、何の変化が感じられなくても」
 ランディは満足そうに煙草の煙を吐き出すと、吸殻を灰皿へ押しつけた。そのとき、お店の古いドアベルがガチャガチャと音を鳴らすと、男が一人、慌てた様子で店内へと入ってくる。
「エレノア!!」
 ボサボサの髪にまだ寝巻き姿のパパが、青白い顔をしながらわたしの名前を叫んでいる。その瞬間、心の中でせき止められていた感情のダムが決壊してしまったかのように、わたしの目からは一気に涙が溢れ出していた。
 頑なに、自分はエレノアだと認めたくなかったはずなのに、パパがその名で呼んでくれた瞬間、その一言がエレノアであるわたしを許してくれたような気がした。チャーリーを追い詰めて、そして死に追いやったわたしを……。
 狭い店内に置かれたテーブルにぶつかりながら、パパは駆け寄りわたしをきつく抱きしめる。
「パパ! ごめんなさい! わたし、わたしがチャーリーを……」
 それ以上、言葉を続けることはできなかった。熱い涙が、浜辺の波のように溢れては引き、そしてまた溢れていく。
 チャーリーは不器用だったよ。でも、誰よりも努力家だったよ。 わたしって存在に憧れて、いつだって真似ばかりしてるチャーリーが大好きだったよ。
 いつも前向きに努力し続ける大切な双子の妹をがっかりさせたくなくて、わたしはいつも一歩先を歩こうとした。彼女に追い付かれた先のことを考えると、不安で堪らなかったから。
「お前が悪いんじゃない。ナオミが死んでしまって、すべてに絶望して目を逸らし続けた俺が悪いんだ!」パパは痛いほどわたしを抱きしめる。「俺が一番しっかりしなくちゃならないときに、俺は何もできなかった。無理して家族をまとめようとしてくれたお前に、甘えていたんだよ」
 パパもチャーリーと同じで不器用だよ。でもそれは、本当にママを愛していたからだよ。気持ち悪いって笑われるほど、パパの愛はまっすぐにママへと向けられていたんだ。わたしもチャーリーも、パパがどれほどママを愛していたかなんて説明されなくたって知ってたもの。
「気持ち悪いでしょ?」
 オンボロトラックを黙々と整備するパパを見ながら笑ったママだって、恋人を友達に自慢するただの女の子の顔をしていたから。それくらいお互いに夢中だった二人。
 だからパパがママを失ってすべてに絶望を感じるその気持ち、わたしにもわかるよ……。
「チャーリーの学生寮の寮母から電話を受け取って、あの子の危篤の知らせを聞いたときのことを覚えてるか?」
 わたしの様子を慎重に伺いながら、恐る恐るパパが口を開く。目を背けたくなる過去の記憶が、固く閉ざした蓋の隙間から滲み出てくると、それだけでわたしは狂気に染まってしまいそうだ。
「ブライトさん! エレノアにはまだ早いわ! そこは私たちに任せてください」
 咄嗟にパパを止めたアガサの言葉も虚しく、既にわたしの脳内ではあのときの記憶が再生され始める。擦り切れかかったビデオテープのように、苦痛を伴うノイズが記憶のあちこちにちりばめられる。
 ママを失った悲しみに、お酒に逃げ続けるパパと、学校にも行かずに嘆き続けるチャーリー……。いとも簡単に、ママが大切にしてきたこの家族はバラバラになってしまう! わたしはひどく恐れた。
 今何とかしなければ手遅れになってしまう……そして、それができるのはわたししかいないんだ! そう信じて疑わなかった。
 苦しいのはきっと今だけ! ここさえ乗り切ることができれば、ママは帰ってこなくても、きっと前のように家族揃って幸せに暮らしていける!
 だからわたしは、苦しくても歯を食いしばって、自分でも雇ってもらえるような仕事を見つけ、傷ついた家族を助けるために昼も夜も働き続けた。