青白い蛍光灯がチラチラと足もとを照らす。真っ白な廊下は薄暗く、少しだけ不気味に見える。
「なんでギターまで持ち出す必要があるのよ? まるで家出じゃない!」
 小声で文句を言うアガサに、わたしも小声で答える。
「だってママの大切な形見なんだもの、置いてなんていけないわ。持ち歩かないと不安よ」
 ギターケースを抱えて、アガサの後ろを泥棒のようにコソコソと気配を消しながら廊下を進んでいく。鉄柵扉の前に、どうやらモーヴィーはいない。
「夜間はスタッフは配置されてないけど、この時間は誰一人エレベーターから外へ出ることはできないわ。電源そのものが落とされてるから」
 鉄柵扉を見つめるわたしの気持ちを察したのか、アガサはそう説明するとさらに廊下を先へと進んでいった。

 ナースステーションに近づくと、彼女はわたしに身を屈めてついて来るように言った。
「私がステーションでカードキーを貰うから、あなたはその姿勢で、一気にその先の非常扉の柱の陰まで行って、そこで待ってて」
 アガサと密やかに囁きを交わすこんな状況に、わたしはわくわくとした気持ちで落ち着かない。
 わたしは、エレノアと深夜に部屋から忍び出て、庭先で魔法のシャボン玉を飛ばしたあの夜のことを思い出していた。
「ちょっと、聞いてるの? エレノア」
 不安そうにするアガサにわたしが大きく肯いて見せると、彼女はさらに心許なげな表情でため息をついた。
「もう……」
「大丈夫よ。任せて」
「絶対にクビよ、クビだわ……」
 ブツブツ言うアガサの背中を押すと、彼女は渋々歩き出しナースステーション前で足を止めた。
「あら? こんな時間にどうしたの? エレノアは落ち着いた?」
 アガサはいかにも疲れたといった風に振る舞って、受付窓に肘をついて寄りかかり、立ち話を始める。
「えぇ、まったく大変よ。先生が私をこき使うものだから休む暇もないわ……。小腹が空いたから、通りの向こうのお店でビスケットでも買ってこようかと思って」
 わたしはそんなアガサの足元に身を屈め、ママのギターを両腕に抱えこんだまま慎重に通り過ぎていく。
「それなら私も一緒に行こうかしら? ちょうどこの時間ってお腹が空くのよね。私はチョコレートドーナツがいいわ」
 そんな二人のやり取りに、思わず身動きが取れなくなって固まってしまう。
「私がついでに買ってくるわ! だって外は寒いもの!」
 慌てたアガサが咄嗟に叫ぶと、再び廊下は一瞬の静寂に帰した。
「……そう? 抜け駆けはナシよ? じゃあ……お願いしようかしら」
 訝しみながらもステーション待機中の看護師が窓を開けてアガサにカードキーを手渡す。それを確認したわたしは、一気に非常口に向かって進んでいった。

 カンカンカンカン……。

 足音が響く。非常階段を駆け降りながら、アガサがふて腐れたように言った。
「だってしょうがないでしょ? わたしが目指してるのは、精神分析医よ? ペテン師じゃないわ!」
 非常扉を開けて中に滑り込み階段を降りる最中に、「あなたって嘘が下手なのね」と言ったわたしの言葉に反論した彼女なりの言い訳だ。
「あなたみたいにごまかしの下手な人に、一年もの間、騙されてたなんてとても信じられないわ!」
 皮肉めいた言葉でわたしがさらに罵ると、「好きに言えば良いわ」とアガサは膨れ面をさらに膨らませた。

 最後の扉を開き、朝靄で煙る地上に降り立つ。視界にはどこか懐かしい匂いのする街の景色が広がっていた。施設の正面には比較的きれいな大通りがあり、その向こう側には古いレンガ造りのマーケットが建ち並び、歴史を感じさせる。
 まだ早い時間帯のせいか、人も車も殆どなく大通りは静かだった。たまに見える人と言えば、早朝からジョギングで汗を流す人影くらいだ。大通りを横切りながら街並みを見渡して空を見上げると、果てしなく広がる空とそれを遮らない平穏な眺めに、緊張していたせいか心がほっとした。
「ミルウォーキーってもっと都会だと思ってたわ。これじゃラクロスと大差ないわね」
「その通りよ」つぶやいたわたしに、アガサがすぐさま答えた。
「ここはあなたが生まれ育った街、ラクロスだから」
 当たり前だけれど、わたしはずっとミルウォーキーの施設にいると思っていた。病院を抜け出し、今目前に広がるこの街並みがずっと生まれ育ってきたラクロスのものだと言われてもにわかには信じられない。それでも、わたしの記憶がすっかりと抜け落ちてしまっているのは、当然のことなのかもしれない。
 アガサたちが言うように、わたしがエレノアなのだとしたら、ミルウォーキーの街並みなんて知る由もないし、街での生活や、ハイスクールで過ごした記憶もあるわけがない。それはすべて、チャーリーの記憶であるはずだからだ。それでもこんな現実を突き付けられるたび、胸が苦しくなっていく。
「エレノア、大丈夫?」
 虚ろなわたしをアガサが気遣う。そのとき、ふと道路の向こう側を見覚えのあるピックアップトラックがガタついて走っていくのが視界に飛び込んだ。この静かな街に如何にも不似合いな懐かしい排気音を騒がしく轟かせている。
「パパ!」
 目を疑う間もなくわたしは走り出した。それは、まさにパパの乗っていたモスグリーンのオンボロトラックだったからだ。
「エレノア! 待って!」
 アガサの制する声も聞かずに、向かってくるピックアップトラックの前へと飛び出すと、激しいクラクションの音が穏やかな通りをつんざいた。
 けたたましいスリップ音に、焼けたゴムの不快な臭い。トラックは路肩に乗り上げてぐらつきながらも停止すると、運転席から扉を跳ね飛ばすような勢いで女性ドライバーが降りてくる。
「あんた、何考えてるんだ!? もう少しでミンチにするところだよ!!」
 まっすぐこっちを睨みつけながら向かってくる姿に、わたしは震えたまま固まった。今にも掴みかかってきそうな形相だ。
「待って! 彼女は長い間入院が続いてたから、少し混乱してるのよ!」
 止めに入ってくれたアガサがわたしを抱き起こしながら説明すると、女性ドライバーは今度は品定めするようにわたしを睨んだ。
 白い肌に、パーマのかかった飴色の髪を雑にまとめ、見た目は若そうだけれど、まるで男の人が着るようなヨレた赤いチェックのシャツにボロボロのジーンズという出で立ちで、女性的な印象はまったく受けない。
「まったく! ついてないよ! 車の調子は悪いし、道路に飛び出すバカを撥ねそうになるしで……」
 ひどい文句を垂れながら、不機嫌さをエンジニアブーツにぶつけるようにしてガツガツ音を立てトラックへと戻っていく。
「……助かったのかしら?」
 ほっとしてそうつぶやくと、今度はアガサが怖い顔でわたしを睨みつけた。
「冗談じゃないわよ? 一体どういうつもりなの! 向かって来る車に飛び出していくなんて」
 アガサがわたしにお説教を始めると、さっきの女性ドライバーが叫び声を上げた。
「あぁ! とうとうエンジンもかからなくなっちまったよ!」
 車のボンネットからは、見るからに危なそうな黒い煙が狼煙のように立ち上っている。
「どうしてくれるんだい? せっかくグランダッド・ブラフから見えるパノラマ風景を撮りに、わざわざこんな田舎までやって来たってのに!」
 女性は荷台から大きなバッグを引きずり下ろすと、再びわたしたちの元へとやって来て言った。
「あんたたちのせいだからね? タクシーを捕まえるのを協力してもらうよ?」
 そう言って彼女が担いだバッグをわたしたちの目の前にどっかりと置いたそのとき、その腕にたくさんのタトゥーが彫られているのが見えた。
「あなた、カメラマンか何か?」
 アガサが訊ねると、彼女はポケットから煙草を取り出して火をつけると、煙を吐き出しながら答えた。
「ランディで良いよ。まあね、そんなところだよ」
 得意気に細い煙を空へと吹き付ける。そんな彼女の左手の甲に彫られたタトゥーがわたしの興味をそそった。
 その手には、ドリンクグラスの中に丸のままのレモンが描かれ、そのレモンにはストローが刺さっている。そして、その絵柄の下の大きなリボンには「Alex」と彫られた文字。いまどきタトゥーなんて別段珍しくもないけれど、見たことのない図柄だった。
「そのタトゥーには、何か意味があるの?」
 思わずじっと見てしまったことを見咎められたくなくて、興味本位を装って訊ねると、彼女は照れ臭そうに笑いながら話した。
「人生に酸っぱいレモンを貰ったら、甘い砂糖を混ぜてレモネードにすれば良いんだよ」
 ママのような謎掛けを言う彼女に、わたしは訳もわからずただ苦笑いするだけ。でもそれを聞くと、アガサはほっとしたような声でつぶやいた。
「アレクサンドラね。レモネードスタンドの……」
「あぁ、そうさ。アレックスだよ」
 会話に入っていけずに、わたしはただ交互に彼女たちの顔を眺めるので精一杯だった。
「車。ごめんなさい。パパと同じ車だったから、勘違いしてしまって……でも、パパは自動車の修理工なの、だからきっと直してくれるわ」
 わたしがそう謝ると、ランディは豪快に笑ってバッグから取り出したカメラでわたしたちを撮り、そして言った。
「旅の記念くらいにはなるだろ?」
 彼女はきっと強い人だ。躓いたときでも笑って立ち上がる、そんな強さを持った人。こちらを見つめる力強いまなざしを見ているとそんな風に思った。