「チェック!」
扉が開く音と共に、看護師長のクレアの声が聞こえた。目を覚ましたわたしは、いまだにこの狭い鳥かごの中にいることを知り、大きなため息をつく。
いつの間にか真っ暗になっているこの部屋と、窓の向こう。すぐ傍には椅子に腰掛けたままで眠るアガサの姿があった。
「クレア……、今は何時なの?」
ベッドから訊ねると、クレアは腕時計の文字盤をペンライトで照らし、「午前二時前よ」と静かに答えた。
「手首と足はどう? 頭にこぶはできてない?」
「こぶ……?」
そう言われ、徐々にこの部屋で起きたドクター・スタイルズとアガサとのやり取りを思い出した。身を起こすと、わたしを縛りつけていた拘束ベルトが取り外されていることに気づいた。
「アガサが外してくれたのよ。スタイルズ先生には絶対に外すなって言われてるのに……だから、彼女の信頼に、あなたも応えてあげて」
手首を見ると、薄皮が剥がれ赤く熱を持っていた。何かが激しく擦れたような痕がいくつもついている。
「う……ん……」
アガサは話し声に目を覚ますと、まだ眠そうな目を擦りながら訊ねた。
「起きたのね。気分はどう?」
「気分は最悪よ……。一体どういうことなのか、説明しなさいよ!」
アガサを見ると、わたしの内側から訳のわからない怒りにも似た気持ちが湧きおこってくるのがわかる。強い口調で彼女を問いただすと、アガサはクレアに向かって言った。
「彼女と二人にしてくれない?」
クレアは肯くと、黙ったまま部屋を出ていった。
†
明かりのない病室に沈黙と秒針だけが響く。いくら暗がりに目が慣れたところで、心に迫る闇には一向に慣れそうにない。あどけない笑顔をいつも見せてくれていたはずのアガサが、似合わない神妙な顔をして口を開いた。
「なんでも訊いてくれて構わないわよ?」
「あなたもスタイルズも、一体何者なの? わたしをどうしようと言うの?」
アガサは座っていた椅子から立ち上がると、ベッドの足元に腰掛けて言った。
「その前に約束してほしいの。あなたにとって、どんなにつらい事実が立ちはだかっても、絶対に目を逸らさないって」
「わたしにとってつらい事実……?」
すぐ近くにアガサの体温を感じる。彼女は静かに肯くと言った。
「えぇ。ここは州立の精神病棟で、スタイルズ先生とわたしは、この病院のドクターとレジデントよ」
その言葉にわたしは驚愕した。
「ちょっと待ってよ! じゃあ、あなたは始めからわたしのことを騙していたの!?」
「問題は複雑なのよ……あなたに初めて出会ったとき、私はこの病院のレジデントとして、あなたと接していたわ。それが、ちょうど去年の今頃よ」
アガサは首を振り、そして切なそうに続けた。次々と飛び出してくる信じられない言葉にわたしは茫然とする。
「な、何を言ってるの? あなたと過去に面識なんてないし、わたしがここへやって来たのはたった数日前よ!?」
自分の中で、目の前に広がる現実が音もなく崩れてしまいそうな気がして不安で堪らない。
「思い出せないのは当然よ。あなたはこれまで、自分の真実を突き付けられるたび、それから目を逸らして記憶を消し続けてきたんだから」
嗚咽が走る、頭が割れそうだ。今、目の前にあるものが真実でないなら、一体わたしの真実はどこにあると言うのか?
「わッ……わたしのッ真実ってなによ!?」
動揺しているのか? それとも突拍子もない話にただ呆れているのか? とにかくわたしから飛び出す言葉は酷い吃りを伴い、体からは血の気が引いていく。
「あなたは、覚えてるはずよ? スタイルズ先生の最後の質問の答えを。秘密の花園の思い出の宝箱の中。あなたが手紙を入れたのか、それともあなたが手紙を読んだのかを」
そう言ったアガサは、自分のはめていた腕時計を外して、わたしに手渡した。
「なによ!?」
「時計のカレンダーを見て」
いつもは冗談めいたことばかり言っている今のアガサの表情には、笑顔なんてどこにも浮かんではいなかった。
彼女の腕時計のデジタル表示に目をやると、そこにはWed. 21 Oct. 2009の順番で、数字が並んでいる。
「どういうこと? これは何の冗談なの!?」
「冗談なんて言わないわ。これが、今日の日付よ」
アガサが同情するように、わたしの肩に手を添える。
「こんなもの、いくらだって変えることができるはずよ! わたしをだまして、混乱させていったいなにを企んでいるの!?」
触れるアガサの手を振りほどき、わたしはベッドから這い出した。アガサは心配そうにわたしを見つめ一呼吸置くと、ベルベットのカーディガンから小さなメモ用紙とペンを取り出す。
「ここに、あなたの名前を書いてくれるかしら?」
アガサが何をしたいのか見当もつかない。
「なんでそんなことしなくちゃならないのよ!!」
「大丈夫よ、大丈夫……大丈夫だから……」
アガサはそう言いながら、わたしをなだめすかすように、ゆっくりと近づいてくる。後ずさりするわたしの背中に、冷たい部屋の壁が退路を塞いだ。
「なにが大丈夫なのよ!?」
「証明してよ。あなたがチャーリーだと言うなら。ここへ、自分の名前を書くだけよ? 怖がらなくても良いわ。それとも名前の綴りを忘れてしまったかしら?」
アガサはさらに近づき、メモ用紙とペンを持つその手をやさしく伸ばした。彼女がわたしをバカにしてる訳じゃないのは、その表情をみれば一目でわかる。でも同時にこんな挑発に乗っちゃいけないことも良くわかっているつもり。
それでもわたしは手を伸ばし、彼女からメモ用紙を受け取るとそこに自分の名前を書いた。自分自身を証明しなければ、この悪夢はいつまでも終わることなく続いていくばかりだから。
わたしはアガサの目の前で、今日まで何万回と書いてきたはずの自分の名前をその小さなメモ用紙へと記していく。
――Charley Bright
チャーリー・ブライト。
これがわたしの名前。
ほら、なにも起きない。なにも変わらない。平気なんだから。
自分の名前を書き終わった瞬間、アガサがわたしのペンを持つ手を握って言った。
「あなたが一番わかってるはずよ。チャーリーは左利きだって」
アガサの温かい手が、ペンを持つわたしの右手に覆いかぶさり、その手の甲にポタポタと涙が落ちていった。
もちろんアガサは泣いてなんてないし、わたしだって涙を流す理由なんてなかったはず。そのはずだったのに。
ガシャンッ!!
テーブルの上から飛び降り自殺を図ったスープ皿が、床に叩きつけられて粉々になった。でも、わたしは知っているの。スープ皿は自殺なんかじゃなく、他殺だったのよ。
「もう、チャーリーったら本当に不器用ね。今月に入って三枚目のお皿よ?」
ママが慌ててキッチンから飛び出してきて、お皿の後始末をしながら言った。
「ごめんなさい、ママ……」
テーブルに両手をピッタリとつけてチャーリーが今にも泣きそうな顔で謝っている。でもママは必ず許してくれるし、それについてチャーリーを絶対に責めたりはしない。もしママがチャーリーを叱ったりしたら、今度はわたしがスープ皿をテーブルから突き落としてやるつもりなのをママは知ってたから。
そして最後に言うのよ。「ねぇ、チャーリー? エレノアの隣に座らない? そうすれば、きっとお皿を割らずに食事ができるはずよ?」って。
「嫌! わたしはエレノアの前が良いの!」
頑固なチャーリーの頭を撫でながらママは笑う。それ以上はなにも言わないけれど、本当はママは知っているんだ。チャーリーが本当は右利きだということを。いつだって鏡で合わせたようにわたしの正面にいて、わたしの真似をしたがるチャーリーが、不器用な左手をわざと使ってしまっていることを……。
そして、わたしも知っているんだ。そんなわたしたち双子のことを、ママはとても羨ましそうに微笑んで、いつでも見守ってくれていたということを……。
ガシャン! ガシャン!
現実が音をたてて崩れていく。雛鳥が内側から卵の殻を破っていくように、わたしの現実が変わってしまう!
「エレノア! 目を逸らさないで! あなたの現実から逃げては駄目よ!」
目の前で叫ぶアガサの声が遠く聞こえる。
助けて! エレノア! 皆がわたしたちを取り違えてる!
助けて! エレノア! このままじゃわたしたち双子が、あのチラシの裏に描いた絵のようにあべこべになってしまうわ!
卵の殻を内側から破る雛鳥。それは、とてもじゃないけど受け入れられない現実。嗚咽が走るよ、頭は割れるように痛い。頭の中に大音量で響くノイズがすべてを掻き消してくれたなら、わたしは楽になれるのに!
「しっかりしなさい!! エレノア! ちゃんと現実と向き合うの!」
アガサがわたしの体を揺する。アガサの真剣な眼差しがこの胸に刺さる。
なあに、アガサ? いくらあなたの言うことだって、堪えられないことだってあるわ。
許せないことはひとつだけ! わたしがエレノアでもチャーリーでもそんなことはどちらでもいいの! ただわたしたち双子だけは、どちらも欠けちゃならないの!
だってわたしたちはオレンジの片割れなんだから!
「あなたは必ず、この問題にぶつかると記憶に蓋をしてしまうの。そして、また始めからやり直すのよ! まるで亡くなった妹さんを追体験するように!」
「やめて!!」
この身に降りかかるすべてを拒絶するように、ありったけの力を振り絞ってわたしは叫ぶ。この身に覆いかぶさる真っ黒な怒りを消し飛ばすように叫ぶ。この身までも吹き飛ばすように叫ぶ。
そして意識は薄れていく。
真っ白に塗り潰されていくわ。
真っ白になるまで、ただ、真っ白になるまで。
小さな鳥かごの中で声が枯れるまで唄うわたしはカナリア。この狭い檻の外に出てしまえば、無限に続く空と自由が待っている。
それでも、わたしがここに留まりたい理由は一つだけ。見たくないものを見ないで済むからだ。
「駄目よ! 目を開いて! 私を見て!」
アガサはわたしを揺さぶり、必死に声を届けようとする。今のわたしにとってこれほど迷惑な存在なんてない。
どこかに消えてしまえば良いのに!
目に見えない境界線を越えたシャボン玉のように、一瞬で弾けて消え去ってしまえば良いのに!
「エレノア、私から目を逸らさないで? 私はあなたの力になりたいのよ!」
すべてを投げ出したいのに、アガサがわたしを放っておいてくれない。
「その名前で呼ばないでよ! わたしはチャーリーよ!」
今日はもう何時間こうして叫んでは、憂鬱な気分に襲われ続けているんだろうか?
「わかってるはずよ! エレノア! 自分が誰なのか、あなたは理解してるわ! だからこうして目を逸らそうとするのよ!」
彼女の言葉一つ一つが、この胸をえぐるようで堪えられないの。
お願い、もうやめて。もう、本当に堪えられないの……。
「だって仕方ないじゃない! わたしが認めたら、チャーリーは本当に死んでしまうんだから!! 部外者のあなたが立ち入って良い話じゃないのよ!」
アガサの体を突き飛ばそうとすると、その瞬間に彼女はわたしにしがみつき、抱きついて離れなかった。「離して!!」
「それよ、エレノア」耳元でアガサが囁く。
「あなた本当は、チャーリーの死をちゃんと受け入れているわ。でも、チャーリーを死に追いやったあなた自身を許せないでいるのよ」
アガサの声に隠された震えは、このわたしの抑えられない身体の震えを受け止めてのことなのか? 枯れることのない闇が、また頭をもたげて高笑いをし始める。
「お前は幸せになんてなれないし、なっちゃいけない」
この内に湧き起こるドス黒い咆哮は、わたし自身の怯えて震える声。チャーリーを追い詰めて死に追いやった自分が許せなくて、生み出されたもう一人のわたし自身だ……。
わたしはずっと、あの声の主はチャーリーだと思っていた。
後から後から涙が溢れてくる。震えが止まらない。脳を走るすべての神経が遮断されたような気分でぐらぐらし、自分の体を起こしてもいられない。
それでもわたしは必死にもがいて、アガサの体にしがみつくんだ。溺れてしまわないように。自分の心から無限に溢れ出してくる悲しみの涙に、決して溺れてしまわないように!
「わたし……」
言葉を発しても、自分自身にも聞き取れないくらいの、涙と鼻水に塗れたひどい声だった。
アガサがわたしを抱きしめたままささやいた。
「シーッ! 今は無理でも、自分を許す努力はできるはずよ。あなたのこんな姿を、チャーリーだって見たくないに決まってるわ」
わたしはただ、アガサの体に顔を埋めて肯いた。
ごめん……チャーリー。
心の中でそうつぶやきながら……。
扉が開く音と共に、看護師長のクレアの声が聞こえた。目を覚ましたわたしは、いまだにこの狭い鳥かごの中にいることを知り、大きなため息をつく。
いつの間にか真っ暗になっているこの部屋と、窓の向こう。すぐ傍には椅子に腰掛けたままで眠るアガサの姿があった。
「クレア……、今は何時なの?」
ベッドから訊ねると、クレアは腕時計の文字盤をペンライトで照らし、「午前二時前よ」と静かに答えた。
「手首と足はどう? 頭にこぶはできてない?」
「こぶ……?」
そう言われ、徐々にこの部屋で起きたドクター・スタイルズとアガサとのやり取りを思い出した。身を起こすと、わたしを縛りつけていた拘束ベルトが取り外されていることに気づいた。
「アガサが外してくれたのよ。スタイルズ先生には絶対に外すなって言われてるのに……だから、彼女の信頼に、あなたも応えてあげて」
手首を見ると、薄皮が剥がれ赤く熱を持っていた。何かが激しく擦れたような痕がいくつもついている。
「う……ん……」
アガサは話し声に目を覚ますと、まだ眠そうな目を擦りながら訊ねた。
「起きたのね。気分はどう?」
「気分は最悪よ……。一体どういうことなのか、説明しなさいよ!」
アガサを見ると、わたしの内側から訳のわからない怒りにも似た気持ちが湧きおこってくるのがわかる。強い口調で彼女を問いただすと、アガサはクレアに向かって言った。
「彼女と二人にしてくれない?」
クレアは肯くと、黙ったまま部屋を出ていった。
†
明かりのない病室に沈黙と秒針だけが響く。いくら暗がりに目が慣れたところで、心に迫る闇には一向に慣れそうにない。あどけない笑顔をいつも見せてくれていたはずのアガサが、似合わない神妙な顔をして口を開いた。
「なんでも訊いてくれて構わないわよ?」
「あなたもスタイルズも、一体何者なの? わたしをどうしようと言うの?」
アガサは座っていた椅子から立ち上がると、ベッドの足元に腰掛けて言った。
「その前に約束してほしいの。あなたにとって、どんなにつらい事実が立ちはだかっても、絶対に目を逸らさないって」
「わたしにとってつらい事実……?」
すぐ近くにアガサの体温を感じる。彼女は静かに肯くと言った。
「えぇ。ここは州立の精神病棟で、スタイルズ先生とわたしは、この病院のドクターとレジデントよ」
その言葉にわたしは驚愕した。
「ちょっと待ってよ! じゃあ、あなたは始めからわたしのことを騙していたの!?」
「問題は複雑なのよ……あなたに初めて出会ったとき、私はこの病院のレジデントとして、あなたと接していたわ。それが、ちょうど去年の今頃よ」
アガサは首を振り、そして切なそうに続けた。次々と飛び出してくる信じられない言葉にわたしは茫然とする。
「な、何を言ってるの? あなたと過去に面識なんてないし、わたしがここへやって来たのはたった数日前よ!?」
自分の中で、目の前に広がる現実が音もなく崩れてしまいそうな気がして不安で堪らない。
「思い出せないのは当然よ。あなたはこれまで、自分の真実を突き付けられるたび、それから目を逸らして記憶を消し続けてきたんだから」
嗚咽が走る、頭が割れそうだ。今、目の前にあるものが真実でないなら、一体わたしの真実はどこにあると言うのか?
「わッ……わたしのッ真実ってなによ!?」
動揺しているのか? それとも突拍子もない話にただ呆れているのか? とにかくわたしから飛び出す言葉は酷い吃りを伴い、体からは血の気が引いていく。
「あなたは、覚えてるはずよ? スタイルズ先生の最後の質問の答えを。秘密の花園の思い出の宝箱の中。あなたが手紙を入れたのか、それともあなたが手紙を読んだのかを」
そう言ったアガサは、自分のはめていた腕時計を外して、わたしに手渡した。
「なによ!?」
「時計のカレンダーを見て」
いつもは冗談めいたことばかり言っている今のアガサの表情には、笑顔なんてどこにも浮かんではいなかった。
彼女の腕時計のデジタル表示に目をやると、そこにはWed. 21 Oct. 2009の順番で、数字が並んでいる。
「どういうこと? これは何の冗談なの!?」
「冗談なんて言わないわ。これが、今日の日付よ」
アガサが同情するように、わたしの肩に手を添える。
「こんなもの、いくらだって変えることができるはずよ! わたしをだまして、混乱させていったいなにを企んでいるの!?」
触れるアガサの手を振りほどき、わたしはベッドから這い出した。アガサは心配そうにわたしを見つめ一呼吸置くと、ベルベットのカーディガンから小さなメモ用紙とペンを取り出す。
「ここに、あなたの名前を書いてくれるかしら?」
アガサが何をしたいのか見当もつかない。
「なんでそんなことしなくちゃならないのよ!!」
「大丈夫よ、大丈夫……大丈夫だから……」
アガサはそう言いながら、わたしをなだめすかすように、ゆっくりと近づいてくる。後ずさりするわたしの背中に、冷たい部屋の壁が退路を塞いだ。
「なにが大丈夫なのよ!?」
「証明してよ。あなたがチャーリーだと言うなら。ここへ、自分の名前を書くだけよ? 怖がらなくても良いわ。それとも名前の綴りを忘れてしまったかしら?」
アガサはさらに近づき、メモ用紙とペンを持つその手をやさしく伸ばした。彼女がわたしをバカにしてる訳じゃないのは、その表情をみれば一目でわかる。でも同時にこんな挑発に乗っちゃいけないことも良くわかっているつもり。
それでもわたしは手を伸ばし、彼女からメモ用紙を受け取るとそこに自分の名前を書いた。自分自身を証明しなければ、この悪夢はいつまでも終わることなく続いていくばかりだから。
わたしはアガサの目の前で、今日まで何万回と書いてきたはずの自分の名前をその小さなメモ用紙へと記していく。
――Charley Bright
チャーリー・ブライト。
これがわたしの名前。
ほら、なにも起きない。なにも変わらない。平気なんだから。
自分の名前を書き終わった瞬間、アガサがわたしのペンを持つ手を握って言った。
「あなたが一番わかってるはずよ。チャーリーは左利きだって」
アガサの温かい手が、ペンを持つわたしの右手に覆いかぶさり、その手の甲にポタポタと涙が落ちていった。
もちろんアガサは泣いてなんてないし、わたしだって涙を流す理由なんてなかったはず。そのはずだったのに。
ガシャンッ!!
テーブルの上から飛び降り自殺を図ったスープ皿が、床に叩きつけられて粉々になった。でも、わたしは知っているの。スープ皿は自殺なんかじゃなく、他殺だったのよ。
「もう、チャーリーったら本当に不器用ね。今月に入って三枚目のお皿よ?」
ママが慌ててキッチンから飛び出してきて、お皿の後始末をしながら言った。
「ごめんなさい、ママ……」
テーブルに両手をピッタリとつけてチャーリーが今にも泣きそうな顔で謝っている。でもママは必ず許してくれるし、それについてチャーリーを絶対に責めたりはしない。もしママがチャーリーを叱ったりしたら、今度はわたしがスープ皿をテーブルから突き落としてやるつもりなのをママは知ってたから。
そして最後に言うのよ。「ねぇ、チャーリー? エレノアの隣に座らない? そうすれば、きっとお皿を割らずに食事ができるはずよ?」って。
「嫌! わたしはエレノアの前が良いの!」
頑固なチャーリーの頭を撫でながらママは笑う。それ以上はなにも言わないけれど、本当はママは知っているんだ。チャーリーが本当は右利きだということを。いつだって鏡で合わせたようにわたしの正面にいて、わたしの真似をしたがるチャーリーが、不器用な左手をわざと使ってしまっていることを……。
そして、わたしも知っているんだ。そんなわたしたち双子のことを、ママはとても羨ましそうに微笑んで、いつでも見守ってくれていたということを……。
ガシャン! ガシャン!
現実が音をたてて崩れていく。雛鳥が内側から卵の殻を破っていくように、わたしの現実が変わってしまう!
「エレノア! 目を逸らさないで! あなたの現実から逃げては駄目よ!」
目の前で叫ぶアガサの声が遠く聞こえる。
助けて! エレノア! 皆がわたしたちを取り違えてる!
助けて! エレノア! このままじゃわたしたち双子が、あのチラシの裏に描いた絵のようにあべこべになってしまうわ!
卵の殻を内側から破る雛鳥。それは、とてもじゃないけど受け入れられない現実。嗚咽が走るよ、頭は割れるように痛い。頭の中に大音量で響くノイズがすべてを掻き消してくれたなら、わたしは楽になれるのに!
「しっかりしなさい!! エレノア! ちゃんと現実と向き合うの!」
アガサがわたしの体を揺する。アガサの真剣な眼差しがこの胸に刺さる。
なあに、アガサ? いくらあなたの言うことだって、堪えられないことだってあるわ。
許せないことはひとつだけ! わたしがエレノアでもチャーリーでもそんなことはどちらでもいいの! ただわたしたち双子だけは、どちらも欠けちゃならないの!
だってわたしたちはオレンジの片割れなんだから!
「あなたは必ず、この問題にぶつかると記憶に蓋をしてしまうの。そして、また始めからやり直すのよ! まるで亡くなった妹さんを追体験するように!」
「やめて!!」
この身に降りかかるすべてを拒絶するように、ありったけの力を振り絞ってわたしは叫ぶ。この身に覆いかぶさる真っ黒な怒りを消し飛ばすように叫ぶ。この身までも吹き飛ばすように叫ぶ。
そして意識は薄れていく。
真っ白に塗り潰されていくわ。
真っ白になるまで、ただ、真っ白になるまで。
小さな鳥かごの中で声が枯れるまで唄うわたしはカナリア。この狭い檻の外に出てしまえば、無限に続く空と自由が待っている。
それでも、わたしがここに留まりたい理由は一つだけ。見たくないものを見ないで済むからだ。
「駄目よ! 目を開いて! 私を見て!」
アガサはわたしを揺さぶり、必死に声を届けようとする。今のわたしにとってこれほど迷惑な存在なんてない。
どこかに消えてしまえば良いのに!
目に見えない境界線を越えたシャボン玉のように、一瞬で弾けて消え去ってしまえば良いのに!
「エレノア、私から目を逸らさないで? 私はあなたの力になりたいのよ!」
すべてを投げ出したいのに、アガサがわたしを放っておいてくれない。
「その名前で呼ばないでよ! わたしはチャーリーよ!」
今日はもう何時間こうして叫んでは、憂鬱な気分に襲われ続けているんだろうか?
「わかってるはずよ! エレノア! 自分が誰なのか、あなたは理解してるわ! だからこうして目を逸らそうとするのよ!」
彼女の言葉一つ一つが、この胸をえぐるようで堪えられないの。
お願い、もうやめて。もう、本当に堪えられないの……。
「だって仕方ないじゃない! わたしが認めたら、チャーリーは本当に死んでしまうんだから!! 部外者のあなたが立ち入って良い話じゃないのよ!」
アガサの体を突き飛ばそうとすると、その瞬間に彼女はわたしにしがみつき、抱きついて離れなかった。「離して!!」
「それよ、エレノア」耳元でアガサが囁く。
「あなた本当は、チャーリーの死をちゃんと受け入れているわ。でも、チャーリーを死に追いやったあなた自身を許せないでいるのよ」
アガサの声に隠された震えは、このわたしの抑えられない身体の震えを受け止めてのことなのか? 枯れることのない闇が、また頭をもたげて高笑いをし始める。
「お前は幸せになんてなれないし、なっちゃいけない」
この内に湧き起こるドス黒い咆哮は、わたし自身の怯えて震える声。チャーリーを追い詰めて死に追いやった自分が許せなくて、生み出されたもう一人のわたし自身だ……。
わたしはずっと、あの声の主はチャーリーだと思っていた。
後から後から涙が溢れてくる。震えが止まらない。脳を走るすべての神経が遮断されたような気分でぐらぐらし、自分の体を起こしてもいられない。
それでもわたしは必死にもがいて、アガサの体にしがみつくんだ。溺れてしまわないように。自分の心から無限に溢れ出してくる悲しみの涙に、決して溺れてしまわないように!
「わたし……」
言葉を発しても、自分自身にも聞き取れないくらいの、涙と鼻水に塗れたひどい声だった。
アガサがわたしを抱きしめたままささやいた。
「シーッ! 今は無理でも、自分を許す努力はできるはずよ。あなたのこんな姿を、チャーリーだって見たくないに決まってるわ」
わたしはただ、アガサの体に顔を埋めて肯いた。
ごめん……チャーリー。
心の中でそうつぶやきながら……。