「チェックメイト!」
わたしのビショップを弾き飛ばしたエレノアは、嬉しそうにナイトを掲げた。
「なんで? エレノアの真似をしてるのに、なんでいつもわたしが負けちゃうの?」
チェスのルールなんてまったく知らなかったし、駒を置く場所さえ正確には知らなかったけれど、天気が悪くて外で遊べない日には、エレノアは率先してチェスを引っ張り出してはわたしを相手に大勝ちを決め込んだ。
このチェスは、元々近所のガレージセールでパパがわたしたちのためにクリスマスプレゼントとして買ってきてくれた物。
本物のクリスタルでできた立派な物じゃなく、樹脂でできた小振りで安っぽい駒だったけれど、とにかくクイーンとナイトの駒がとても素敵で、我が家にやってきたその日から大のお気に入り。だけどうちの家族には、誰もチェスのルールなんて知ってる人はいない。じゃあなぜ、知りもしないチェスをパパがわざわざ買ってきたのか?
その答えは、とても単純だった。
「チェスって言うのか? ……俺はてっきりクリスマスツリーのオーナメントだとばかり思って……」
ガレージセールから誇らしげにチェスを持ち帰ったパパはそう答えた。ママは大笑いしてたけれど、パパは真っ赤な顔をしてうなだれていた。
でもあんまりパパが悲しそうにしょげているから、それを見たエレノアが言った。
「チェスの駒をオーナメントに使っちゃいけないなんて決まりはないわ!」って。
だからその年のクリスマスツリーには、パパが買ってきてくれたチェスの駒を、みんなで麻の紐で括り着けてツリーにぶら下げたんだ。
もちろんチェスの駒の重みで、クリスマスツリーはパパと同じくらいうなだれていたけれど、それでも、わたしたち家族にとって、とても印象深いクリスマスになったのは確かだった。
「チェック」
看護師の声に我に返ったわたしは、まだ朦朧とする頭を左右に振って頭を冴えさせようとする。振った頭で目に映り込んだ視界は、さっきまでいたはずのレクリエーションルームじゃなく て、見慣れた鳥かごの部屋だった。
「ハイディー、チャーリー。気分はどう?」
ベッドの脇でアガサが心配そうに声を掛けると、レクリエーションルームで自分がしでかした騒動が脳裡に蘇った。
「最悪よ……。全部台なしにした気分」
そう答えると、アガサは苦笑いしながらわたしの肩に手を置いた。
「パパは?」
部屋には看護師のレベッカとアガサしかいない。わたしが憂鬱な気分で訊ねるとレベッカが答えた。
「今帰ったばかりよ。それまでずっとあなたの傍にいてくれてたわ。それじゃあ私も行くわね。何かあったら呼んでちょうだい
レベッカは忙しそうにそう言い残し、部屋の脇に立てかけてあったギターをわたしに渡すと部屋を出ていった。
アガサがわたしの正面に向き直り、笑顔を向ける。
「さあ二人っきりよ? ほら何か弾いてよ」
白いシーツの上でギターを抱えるわたしにアガサが言うけれど、とてもそんな気分になれずに首を振る。
「じゃあ、気分転換にでも行かない?」
アガサは立ち上がって、彼女が着ているベルベットのカーディガンの大きなポケットの中から、わたしが吸っていた煙草をそっと見せて笑った。
†
すっかりと傾いた陽の光りが差し込む白い廊下は、ほんのりとオレンジ色に染まってどこか淋しげに映る。今日の騒ぎを知る同じフロアの住人たちは、すれ違うたびにその顔を背けていった。
「ねえ、アビーはどうしてるの?」
前を歩くアガサに訊ねると、彼女は振り返って首を振った。
談話室を通り抜ける。いつもアビーが座るテーブルにも彼女の姿はない。その先にはいつものように厚着のベティーが落ち着きのない様子で自分の爪を噛んでいる。
談話室の水色の扉を出ると、鉄柵扉のモーヴィーがよそよそしい笑顔を見せている。
まるで皆が、わたしと接することを嫌がっているみたい。
わたしと接することで、問題が起きるのを恐れているみたい。
そんな風に感じた。
ナースステーションの手前でわざとらしく腰を落として屈んだアガサを無視して、わたしはそのまま堂々と廊下を横切り、レクリエーションルームの扉を開けて部屋へと入り込む。
見つかったら見つかったで構わない。何もかもがどうでもいいと思えた。ひどい孤独を感じる。こんなときは不思議と、今までは越えられないと思っていた壁さえ簡単に越えていけそうなほど、自分が高く飛べる気がするんだ。
真っ暗な部屋で、洗面台の鏡に映る自分の姿を探し続けるより、大量に入ったアスピリンのボトルに手を伸ばしてそれをすっかり空にする方が遥かに簡単だと思えた。
「ちょっと! チャーリー? クレアに見つかりでもしたら大目玉よ? 慎重に行動しなくちゃ!」
後ろから慌てて飛び込んできたアガサは、扉の隙間からナースステーションの様子を伺っている。
「関係ないわよ。どうせ皆、わたしみたいな面倒な奴とは関わりたくないから、見て見ぬふりをするわ」
彼女の警告も聞かずに、わたしはレクリエーションルームの奥にある小さな裏部屋の扉へと進んだ。狭くて古ぼけた階段を上るわたしの後ろから、アガサがため息混じりに言った。
「随分と捻くれちゃったわね? 一体何が気に入らないのよ?」
くだらないお喋りに、くだらないやり取り。いつまでも、わたしみたいな救えない女に付き纏うアガサが鬱陶しい。
エレノアも同じ気持ちだったのかな?
わたしはずっと、彼女のようになるのが目標だった。だから絶えず傍にいて、彼女のことを見続けていた。彼女に近づくことがとにかく幸せだったから。でも自分にとっては心地好かったことが、実はエレノアにとっては不愉快だったとしたら?
そんなことを考えると、胸が張り裂けそうに苦しい。
「アガサだって本当は、わたしみたいな奴と一緒にいたくないんでしょ? 無理して一緒にいてもらわなくても、全然構わないわ!」
この施設の人たちのよそよそしさ。訪ねに来てくれたのに、わたしの名前すら呼ばずに帰ってしまったパパ。そして、会いにすら来ようとしないエレノア。
この内側の汚いモヤモヤは今も増殖を繰り返し、黒い衝動となって、今度はアガサにまで牙を剥こうとしている。わたしが吐き捨てるように放った言葉が、アガサの動きを止めた。
「そう……じゃあ好きにすれば良いわ。誰も彼もが、あなたを中心に生きてる訳じゃないのよ?」
いつも表情豊かなアガサが、声にも顔にも何の抑揚も示さずに放つ言葉は、普段の彼女を知っている分、とても冷徹に感じた。不安、そして恐怖すら抱くほどだ。
それでもわたしは辛抱強くアガサを睨みつける。
もし、今のわたしが境界線を越えようとするなら、きっと彼女との友情が邪魔をする。でもそれさえ失うことができたなら、今度こそわたしはあの瞬間に弾けて消えたシャボン玉のように、苦しまずに皆の前から姿を消すことができるはずだから。
アガサは大きなため息をつくとカーディガンから煙草を取り出し、テーブルの上に投げ置いて、呆れるように階段を下りていった。
これで、わたしは一人ぼっち。
これで、ようやく孤独に身を置くことができる。
自分で仕向けて、自分で望んだはずの結果にわたしはまったく満たされていない。こうなるってわかっているのに自分を止めることができないんだ。
そしてわたしの黒い咆哮が、積み上げてきたものすべてを消し去っていくのをただ黙って見ている。自分自身で選択し、思う通りに叶った結末を不服そうに睨みながら指をくわえて見るんだ。
ひとりきりの小さな部屋の、小さなテーブルの上にはアガサが置いていった煙草とライター。
白地に緑のマークの入った煙草のボックスを開き、その中からぎこちない手つきで煙草を一本取り出してみる。
昨日この部屋でアガサから貰った煙草は、如何にも女性が好んで吸いそうな細長いシルエットだったけれど、この煙草はメンソールの香りも強く、昨日のよりも太かった。
わたしは確かにこの煙草に見覚えがあった。
そして、確かにこの煙草の匂いを覚えている。
煙草を咥え、そっとライターの火をつける。昨日と同じにゆっくりと自分を落ち着かせるように、深く深く煙を肺の奥へと導いていく。
やがて先端の葉が微かにチリチリと音をたてると、昨日とは比べ物にならないほどの強烈な刺激と痺れが、舌の上、そして喉を通過して肺の中へと入り込んだ。
わたしは再び目に見えないくらい細かなガラスのかけらが肺の至る所に突き刺さった感覚に陥って、堪らず咳き込んでいた。
口の中から肺の奥まで、言葉にできないほどに不快で気持ち悪い。自分の唾液がひどく酸っぱく感じる。胸の中に残る違和感と息苦しさに何度も咳き込んでは、頭の中がクラクラとした。
この強烈なミントの匂い……。
わたしはこの煙草の匂いを覚えている。ハイスクールに入って、一年の夏休みにミルウォーキーの学生寮から実家のあるラクロスに帰った時の記憶が微かに蘇る。
わたしは、この夏休みをずっと楽しみに待っていた。やっとエレノアに会えるって、指折り数えながら待ち焦がれていたはずなのに。
夏休みをラクロスの自宅で過ごした記憶を思い出そうとすると、頭の中に突然流れ出すノイズがわたしの集中力を阻害してそのときの記憶が呼び起こせない。
なんでこのときのことを思い出そうとしたんだっけ?
そもそもわたしが煙草を吸い始めたきっかけはなんだっけ?
頭の中を薄暗いモヤが包んでいく。言いようのない不安と、そして怒りのような感情が、お腹の下辺りで渦巻いて、喉の奥辺りまで逆流してくる。
ポケットに突っ込んだ煙草を取り出して火をつけると、すぐ側にいたエレノアが取り乱すように叫んだ。
「チャーリー? それは一体何? いつから煙草なんて吸うようになったのよ?」
ヒステリー気味に叫ぶエレノアからわたしは視線を逸らす。
「エレノアには関係ないでしょ? わたしの体をわたしがどうしようと!」
「なんで? 煙草なんて体に悪いだけよ? それに、チャーリーに煙草なんて絶対に似合わないもの!」
涙を流しながら詰め寄るエレノアを直視できず、わたしは顔を背けたまま。
知ってるよ、煙草が似合わないことくらい。
エレノアに煙草が似合わないってわたしが思うのと同じように、エレノアがわたしをどう思ってるかなんて全部わかる。だって、わたしたちは世界でたった一組の双子なんだもの……。
煙草のせいでクラクラとし、目眩で立っていることもできない。立ちくらみでも起こしたような気分で頭は白々しくぼやけ、肺に流れ込んだ強烈なメンソールの煙は息をするのも難しくさせた。
わたしのビショップを弾き飛ばしたエレノアは、嬉しそうにナイトを掲げた。
「なんで? エレノアの真似をしてるのに、なんでいつもわたしが負けちゃうの?」
チェスのルールなんてまったく知らなかったし、駒を置く場所さえ正確には知らなかったけれど、天気が悪くて外で遊べない日には、エレノアは率先してチェスを引っ張り出してはわたしを相手に大勝ちを決め込んだ。
このチェスは、元々近所のガレージセールでパパがわたしたちのためにクリスマスプレゼントとして買ってきてくれた物。
本物のクリスタルでできた立派な物じゃなく、樹脂でできた小振りで安っぽい駒だったけれど、とにかくクイーンとナイトの駒がとても素敵で、我が家にやってきたその日から大のお気に入り。だけどうちの家族には、誰もチェスのルールなんて知ってる人はいない。じゃあなぜ、知りもしないチェスをパパがわざわざ買ってきたのか?
その答えは、とても単純だった。
「チェスって言うのか? ……俺はてっきりクリスマスツリーのオーナメントだとばかり思って……」
ガレージセールから誇らしげにチェスを持ち帰ったパパはそう答えた。ママは大笑いしてたけれど、パパは真っ赤な顔をしてうなだれていた。
でもあんまりパパが悲しそうにしょげているから、それを見たエレノアが言った。
「チェスの駒をオーナメントに使っちゃいけないなんて決まりはないわ!」って。
だからその年のクリスマスツリーには、パパが買ってきてくれたチェスの駒を、みんなで麻の紐で括り着けてツリーにぶら下げたんだ。
もちろんチェスの駒の重みで、クリスマスツリーはパパと同じくらいうなだれていたけれど、それでも、わたしたち家族にとって、とても印象深いクリスマスになったのは確かだった。
「チェック」
看護師の声に我に返ったわたしは、まだ朦朧とする頭を左右に振って頭を冴えさせようとする。振った頭で目に映り込んだ視界は、さっきまでいたはずのレクリエーションルームじゃなく て、見慣れた鳥かごの部屋だった。
「ハイディー、チャーリー。気分はどう?」
ベッドの脇でアガサが心配そうに声を掛けると、レクリエーションルームで自分がしでかした騒動が脳裡に蘇った。
「最悪よ……。全部台なしにした気分」
そう答えると、アガサは苦笑いしながらわたしの肩に手を置いた。
「パパは?」
部屋には看護師のレベッカとアガサしかいない。わたしが憂鬱な気分で訊ねるとレベッカが答えた。
「今帰ったばかりよ。それまでずっとあなたの傍にいてくれてたわ。それじゃあ私も行くわね。何かあったら呼んでちょうだい
レベッカは忙しそうにそう言い残し、部屋の脇に立てかけてあったギターをわたしに渡すと部屋を出ていった。
アガサがわたしの正面に向き直り、笑顔を向ける。
「さあ二人っきりよ? ほら何か弾いてよ」
白いシーツの上でギターを抱えるわたしにアガサが言うけれど、とてもそんな気分になれずに首を振る。
「じゃあ、気分転換にでも行かない?」
アガサは立ち上がって、彼女が着ているベルベットのカーディガンの大きなポケットの中から、わたしが吸っていた煙草をそっと見せて笑った。
†
すっかりと傾いた陽の光りが差し込む白い廊下は、ほんのりとオレンジ色に染まってどこか淋しげに映る。今日の騒ぎを知る同じフロアの住人たちは、すれ違うたびにその顔を背けていった。
「ねえ、アビーはどうしてるの?」
前を歩くアガサに訊ねると、彼女は振り返って首を振った。
談話室を通り抜ける。いつもアビーが座るテーブルにも彼女の姿はない。その先にはいつものように厚着のベティーが落ち着きのない様子で自分の爪を噛んでいる。
談話室の水色の扉を出ると、鉄柵扉のモーヴィーがよそよそしい笑顔を見せている。
まるで皆が、わたしと接することを嫌がっているみたい。
わたしと接することで、問題が起きるのを恐れているみたい。
そんな風に感じた。
ナースステーションの手前でわざとらしく腰を落として屈んだアガサを無視して、わたしはそのまま堂々と廊下を横切り、レクリエーションルームの扉を開けて部屋へと入り込む。
見つかったら見つかったで構わない。何もかもがどうでもいいと思えた。ひどい孤独を感じる。こんなときは不思議と、今までは越えられないと思っていた壁さえ簡単に越えていけそうなほど、自分が高く飛べる気がするんだ。
真っ暗な部屋で、洗面台の鏡に映る自分の姿を探し続けるより、大量に入ったアスピリンのボトルに手を伸ばしてそれをすっかり空にする方が遥かに簡単だと思えた。
「ちょっと! チャーリー? クレアに見つかりでもしたら大目玉よ? 慎重に行動しなくちゃ!」
後ろから慌てて飛び込んできたアガサは、扉の隙間からナースステーションの様子を伺っている。
「関係ないわよ。どうせ皆、わたしみたいな面倒な奴とは関わりたくないから、見て見ぬふりをするわ」
彼女の警告も聞かずに、わたしはレクリエーションルームの奥にある小さな裏部屋の扉へと進んだ。狭くて古ぼけた階段を上るわたしの後ろから、アガサがため息混じりに言った。
「随分と捻くれちゃったわね? 一体何が気に入らないのよ?」
くだらないお喋りに、くだらないやり取り。いつまでも、わたしみたいな救えない女に付き纏うアガサが鬱陶しい。
エレノアも同じ気持ちだったのかな?
わたしはずっと、彼女のようになるのが目標だった。だから絶えず傍にいて、彼女のことを見続けていた。彼女に近づくことがとにかく幸せだったから。でも自分にとっては心地好かったことが、実はエレノアにとっては不愉快だったとしたら?
そんなことを考えると、胸が張り裂けそうに苦しい。
「アガサだって本当は、わたしみたいな奴と一緒にいたくないんでしょ? 無理して一緒にいてもらわなくても、全然構わないわ!」
この施設の人たちのよそよそしさ。訪ねに来てくれたのに、わたしの名前すら呼ばずに帰ってしまったパパ。そして、会いにすら来ようとしないエレノア。
この内側の汚いモヤモヤは今も増殖を繰り返し、黒い衝動となって、今度はアガサにまで牙を剥こうとしている。わたしが吐き捨てるように放った言葉が、アガサの動きを止めた。
「そう……じゃあ好きにすれば良いわ。誰も彼もが、あなたを中心に生きてる訳じゃないのよ?」
いつも表情豊かなアガサが、声にも顔にも何の抑揚も示さずに放つ言葉は、普段の彼女を知っている分、とても冷徹に感じた。不安、そして恐怖すら抱くほどだ。
それでもわたしは辛抱強くアガサを睨みつける。
もし、今のわたしが境界線を越えようとするなら、きっと彼女との友情が邪魔をする。でもそれさえ失うことができたなら、今度こそわたしはあの瞬間に弾けて消えたシャボン玉のように、苦しまずに皆の前から姿を消すことができるはずだから。
アガサは大きなため息をつくとカーディガンから煙草を取り出し、テーブルの上に投げ置いて、呆れるように階段を下りていった。
これで、わたしは一人ぼっち。
これで、ようやく孤独に身を置くことができる。
自分で仕向けて、自分で望んだはずの結果にわたしはまったく満たされていない。こうなるってわかっているのに自分を止めることができないんだ。
そしてわたしの黒い咆哮が、積み上げてきたものすべてを消し去っていくのをただ黙って見ている。自分自身で選択し、思う通りに叶った結末を不服そうに睨みながら指をくわえて見るんだ。
ひとりきりの小さな部屋の、小さなテーブルの上にはアガサが置いていった煙草とライター。
白地に緑のマークの入った煙草のボックスを開き、その中からぎこちない手つきで煙草を一本取り出してみる。
昨日この部屋でアガサから貰った煙草は、如何にも女性が好んで吸いそうな細長いシルエットだったけれど、この煙草はメンソールの香りも強く、昨日のよりも太かった。
わたしは確かにこの煙草に見覚えがあった。
そして、確かにこの煙草の匂いを覚えている。
煙草を咥え、そっとライターの火をつける。昨日と同じにゆっくりと自分を落ち着かせるように、深く深く煙を肺の奥へと導いていく。
やがて先端の葉が微かにチリチリと音をたてると、昨日とは比べ物にならないほどの強烈な刺激と痺れが、舌の上、そして喉を通過して肺の中へと入り込んだ。
わたしは再び目に見えないくらい細かなガラスのかけらが肺の至る所に突き刺さった感覚に陥って、堪らず咳き込んでいた。
口の中から肺の奥まで、言葉にできないほどに不快で気持ち悪い。自分の唾液がひどく酸っぱく感じる。胸の中に残る違和感と息苦しさに何度も咳き込んでは、頭の中がクラクラとした。
この強烈なミントの匂い……。
わたしはこの煙草の匂いを覚えている。ハイスクールに入って、一年の夏休みにミルウォーキーの学生寮から実家のあるラクロスに帰った時の記憶が微かに蘇る。
わたしは、この夏休みをずっと楽しみに待っていた。やっとエレノアに会えるって、指折り数えながら待ち焦がれていたはずなのに。
夏休みをラクロスの自宅で過ごした記憶を思い出そうとすると、頭の中に突然流れ出すノイズがわたしの集中力を阻害してそのときの記憶が呼び起こせない。
なんでこのときのことを思い出そうとしたんだっけ?
そもそもわたしが煙草を吸い始めたきっかけはなんだっけ?
頭の中を薄暗いモヤが包んでいく。言いようのない不安と、そして怒りのような感情が、お腹の下辺りで渦巻いて、喉の奥辺りまで逆流してくる。
ポケットに突っ込んだ煙草を取り出して火をつけると、すぐ側にいたエレノアが取り乱すように叫んだ。
「チャーリー? それは一体何? いつから煙草なんて吸うようになったのよ?」
ヒステリー気味に叫ぶエレノアからわたしは視線を逸らす。
「エレノアには関係ないでしょ? わたしの体をわたしがどうしようと!」
「なんで? 煙草なんて体に悪いだけよ? それに、チャーリーに煙草なんて絶対に似合わないもの!」
涙を流しながら詰め寄るエレノアを直視できず、わたしは顔を背けたまま。
知ってるよ、煙草が似合わないことくらい。
エレノアに煙草が似合わないってわたしが思うのと同じように、エレノアがわたしをどう思ってるかなんて全部わかる。だって、わたしたちは世界でたった一組の双子なんだもの……。
煙草のせいでクラクラとし、目眩で立っていることもできない。立ちくらみでも起こしたような気分で頭は白々しくぼやけ、肺に流れ込んだ強烈なメンソールの煙は息をするのも難しくさせた。