「ちょっと君! 勝手に撮らないで!」
7月の初め、気持ちの良い夏空が広がる平日午前10時。
二つの市の境を流れる大きな河の河川敷で、僕は怒られている。
「君、まさかSNSにアップするつもりじゃないだろうね」
怒っているのは20代後半くらいの、グレーのTシャツにキャップをかぶった男性。
まわりの人間から〝助監督〟と言われていた。
そういう僕も、似たようなブルーグレーのTシャツ姿だ。
「困るんだよ、映画の公開前に出演者の映像流出なんてことになったら」
「すみません。でもべつに俳優さんを撮ってたわけじゃなくて……」
持っていたスマートフォンで写した動画を彼に見せる。
「ん? なんだこれ、機材に……俺? それに監督にカメラマンに——」
「映画の撮影に興味があって、撮影現場の様子を撮らせてもらってたんです」
「うーん……ならまあ」
彼は肩透かしをくらったとでも言いたげな、怒るでも笑うでもない微妙な表情をした。
「でもカメラを向けられたらみんな誤解するからね、いくら出演者を撮っていないといっても、ここから先は撮影は禁止だよ」
助監督の男性は注意するように僕を指差して、撮影に戻って行った。
彼の背中を見ながら「ふぅ」とため息をつく。
撮影を禁止されてしまった。こうなると、ここに来た意味の何割かが無くなってしまう。
蜂谷理公・19歳。
僕の将来の夢は、今のところ映画監督。
美大の映像系の学科に通って映像や演劇の勉強をしている。
今日は大学の教授の紹介で、地元の河川敷で撮影される映画のエキストラのアルバイトに参加しにきた。
与えられたのは河川敷を歩く通行人の役だ。もちろんセリフなんか無いし、顔だってわからないような映り方しかしない。
役者志望ってわけじゃないから、演技のできない僕にはそれはかえって好都合。
僕の目的は監督の仕事、スタッフの様子、彼らが俳優さんたちにどんな演技指導をするのかなど、撮影現場の雰囲気を見ることだ。
大きな河が流れているくらいしか特長の無いような、都会でも田舎でもないこの普通すぎる街で、映画の撮影に立ち会えるチャンスなんて滅多に無い。
だから今日は、たくさん動画や写真を撮るはずだったのに……。
「話を通しておくって言ってたのに。さすが進藤教授、テキトーだよなぁ」
メガネに小太りの初老の男性を思い浮かべながら、教授への恨みごとをぽつりとつぶやく。
仕方がないから撮影風景は目に焼きつけることにした。
この作品は漫画が原作のいわゆる青春恋愛もので、幼馴染の同級生同士が恋をする話だ。
今は河川敷で主役の二人がケンカするシーンの撮影中。
男の方の主役は人気アイドルグループ所属の雪村翔。
撮影場所は明かしていないのに、彼目当てのファンが何人か見学に来ていて、キャーキャーと騒がしくなるたびにスタッフが注意している。その様子を見ていると、さっき注意されたのも仕方ないのかなと思う。
だけど僕の目を惹きつけるのはヒロインを演じる若手女優・リアだ。
たしかイギリスと日本のハーフだったと思う。
雪村翔にもアイドルらしい華はあるけど、正直彼女と並ぶと霞んで見える。
夏の陽射しで色素の薄いセミロングの髪色が輝いて、白いシャツに白い肌も相まって、ものすごく、なんていうか……現実に目の前にいるのが信じられないくらい透明感がある。
目を奪われるってこういうことを言うんだろう。
……にしても、二人ともお世辞にも上手いとは言えないひどい芝居をしている。
雪村翔が感情のこもらないセリフでヒロインを励ませば、リアがそれを超えた棒読みでわざとらしく感激してみせる。
こんなものを喜んで観るファンがいるのかと頭が痛くなる。
思わず大きなため息が漏れた。
単調な撮影は一時間も見学すれば十分だった。
「エキストラは後でもう一回出てもらうから、その辺で適当に時間つぶしてて」
拘束時間だけが長くて、思ったよりずっと面倒なバイトだった。
授業に出席したことにしてくれるって条件が無ければとっくに帰っていたかもしれない。
河にかかる大きな橋の下、ブロックが階段状になった日陰に腰掛ける。
「このセリフはもっと抑揚をつけた方が絶対良かったよな」
空いてしまった時間に、もらった台本を広げてさっき撮影されていたシーンのセリフを見ながらぶつくさつぶやく。
セリフの無いエキストラにも台本を配ってくれたのはうれしい。
頭の中では自分が監督になった場合のシミュレーションが繰り広げられてる。
「でも肝心の役者があれじゃあな。雪村翔も大概だけど、リアもすげー下手くそで——」
「〝顔だけだなあ〟って感じ?」
突然背後から聞こえた声に肩どころか身体全体がビクッと跳ねるように上下した。
さっきまで遠くから聞こえていたのと同じ声。
振り向いて見上げると声の主が立っている。
「す、すみません!」
「いいよべつに。演技派で売ってないもん、私」
そう言いながらどういうわけか、リアは僕の隣に腰を下ろした。
「エキストラの人?」
「は、はい。リアさんは撮影中じゃ……」
「次は雪村くんだけのシーンだから」
「へ、へえ……」
だからってなんでわざわざ休憩中のエキストラのところに来るんだ?
「すごいねこれ、いろいろ書き込んである」
リアが僕の広げている台本をのぞき込む。
「俳優志望なの?」
彼女が笑いかけるから、思わずドキッとしてしまう。
「いえ、できれば映画監督になりたいんです」
「あはは! そんなにかしこまらないでよ、同い年くらいでしょ? タメ語でいいよ」
吹き出すように笑われる。
「暑いのよねーこの格好。このシャツ半袖じゃないんだもん。スカートも夏物じゃないし」
どう考えても彼女の馴れ馴れしい距離感の方がおかしいと思う。芸能人ってみんなこうなのか?
そんなことを考えながらリアの方を見ると、目が合ってしまった。
間近で見ると髪だけじゃなくて瞳の色も薄くてハチミツみたいな色をしている。本当に、人形みたいにきれいな顔だ。
「そんなに見つめられると恥ずかしいんですけど」
「え? あ! すみません」
あからさまに見惚れていた僕に、彼女は照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
こっちも顔が赤くなってそうだって、自分でわかる。
しょうがないだろ、芸能人が目の前にいるんだから……って、なぜか自分に言い訳をする。
「そこの自転車って君の?」
「はい」
「ってことは、地元の人?」
「はい」
「……全然タメ語にならないね」
リアは懐っこい雰囲気でケラケラと口を開けて明るく笑う。清純派のイメージとは少し違う気がする。
「ところで、さっき動画撮ってたよね? 見せてくれない?」
さっき注意されていたのを見られていたらしい。
「撮ってたっていっても機材とかそんな感じで」
「いいから見せて」
手のひらを僕に向けてスマホを渡すように促すリアの語気が強い。
こんなキャラだったのかとイメージとのギャップに若干ガッカリしながら、僕はしぶしぶスマホを出して動画を再生する。
「どうぞ」
リアはしばらく言葉も発さず、真剣な表情で画面を見つめていた。
2、3分程度の動画が終わると、また再生して食い入るようにのぞき込む。それを4回繰り返した。
「他にもあるの? 君が撮った動画」
黄金色の瞳を輝かせてこちらを見た。
「え? 今日はこれだけしか撮ってないです」
「今日のじゃなくてもいいの。何か無いの? 見たい、他のも」
「え、じゃあ……昨日学校からの帰り道に撮ったやつ」
リアからスマホを受け取って、動画フォルダを漁る。
「貸して!」
またスマホを奪い取られる。何なんだ、一体。
「商店街?」
「うん。大学の近くにレトロな商店街があって」
僕は練習も兼ねていろいろな風景を動画に収めて、編集で繋ぎ合わせたり音楽をつけて遊んでいる。
「これは? 見てもいい?」
〝OK〟の意味でコクリとうなずく。
「それは友だちのバンドのMV」
「へぇ……かっこいいし、おもしろい」
リアがボソッとつぶやいたのが聞こえた。心なしか笑って見える。
「……ねえ。地元の人ってことは、この河の上の方がどんなところか知ってる?」
スマホを見つめながら、突然話題を変えられた。
「上って上流ってこと?」
今度は彼女がうなずく。
「小清瑞渓谷って小さな湖と、ちょっとした温泉地があります」
河沿いに電車で一時間半も行けば、山の中の湖だ。季節によっては桜や紅葉が楽しめる。
「あ、この時期は蛍が見れるとか聞いたかも」
「やっぱりそうなんだ」
リアはスマホを見ながら言うと、こちらに顔を向けた。
「ねえ君、明日私につき合ってよ」
「え? 明日は学校ですけど。それにつき合うって、まさか小清瑞渓谷に?」
「そのまさか。観光したいから案内してよ」
芸能人を? なんで俺が? 頭の中が〝?〟だらけだ。
「でも明日は」
「なによー! 超人気女優が直々に誘ってあげてるのに!」
自分で言うかフツー。芸能人てすごいな。
「そんなこと言われても」
「ふーん断るんだ……」
急に彼女の声色が冷たくなった気がした。
「なら、君のこと訴えるよ」
「へっ?」
すぐには理解できない言葉だった。
「盗撮されたって。まずうちの事務所に言って、それから警察にも行こうかな」
「盗撮なんてしてないです。さっき見ましたよね? 機材とスタッフさんくらいしか映ってないって」
「ううん。映ってるよ、私も」
「は? どこに」
困惑して思いっきり眉を寄せると、リアが先ほどの動画を再生して見せてきた。
見返しても、やっぱりリアは映っていない。ホッと胸を撫で下ろす。
「映ってないじゃないですか」
「映ってるじゃない、ずーっと」
「え?」
「私の声」
たしかにこの動画を撮っていたのは、リアが長台詞を言っていたときだ。例のひどい棒読みで。だから、動画からは小さな彼女の声がずっと聴こえている。
「声だけで盗撮って……」
「声だけじゃないよ。ほらここ、これ私」
リアが指さした画面には、機材を撮ろうとグルっとカメラを回した瞬間、リアの髪だけが映り込んでいた。
「髪だけだろうが、声だけだろうが、女優の盗撮は許されないから」
「……わかりました。これ消します」
理不尽な指摘に呆れてしまう。
「ムダだよ。私のスマホに転送したもん」
いつの間に……。
「だから訴えられたくなかったら明日私を案内してよ」
なんでそんなに僕をつき合わせようとするんだ。
「だいたいリアさん、明日もここで撮影なんじゃないんですか?」
教授には二日間のスケジュールを聞いている。僕は学校があるから一日しか参加できないけど。
「……いいの。どうせ中止だから」
そうこぼしたリアの表情が曇る。
「中止? なんで?」
僕の質問に、リアは少し慌てたようにハッとする。
「あーえっと、思ったより撮影が順調で、明日の分まで今日撮れそうなの」
あのひどい演技で? と思ったけど、たしかにセリフを間違える以外はびっくりするくらいNGが出ない。
「小清瑞渓谷ってどうやって行くの?」
「電車で……でも僕も子どもの頃に行ったきり——」
「じゃあ明日朝9時に駅で。何かあったらメッセージちょうだい。じゃ、私出番だから!」
「え」
それだけ言うと、彼女は「リアー!」と呼ぶ声のする方へ駆け寄って行く。
スマホを見ると「Lia」という知らないIDが登録されていた。
芸能人が、ましてや清純派女優がこんなに簡単に一般人の男にIDを教えて良いのだろうか?
盗撮は訴えるとか言うくせに、さっぱりわけがわからない。
◇
翌朝8時50分、大学をサボって駅前で行き交う人々をながめる。
「………」
9時。
「………」
9時10分。
「………」
9時20分。
約束の相手はいまだに気配すら無い。
というより多分、約束なんてしたつもりになっているのは僕だけだったんだ。
からかわれたのか気まぐれだったのか知らないけど、〝超人気女優〟がよく知りもしないただの大学生と出かけるわけがないなんて、少し考えればわかることだ。
騙されたまぬけな自分に呆れて「はぁっ」と大きなため息をつく。
それから【帰ります】とメッセージを打とうとスマホを取り出したときだった。
「大きいため息だね。朝から疲れてる?」
また背後から声をかけられて少し驚きながら振り返って、そこにいた人物にまた驚く。
長い黒髪にキャップ、それからサングラスをかけた知らない女性が立っている。黒いワンピースを着ていて、全身真っ黒だ。
「ん? ああ、そっか」
僕がキョトンとしていると、彼女はサングラスを下にズラして見せた。
そこから見えた瞳はゴールドがかったブラウンだった。
目の前にいるのは、ウィッグで変装したリアだ。
「遅れてごめん。変装してホテルから出るのに時間がかかっちゃって」
「なんでそこまでして……」
「いいから行こ! 電車ってひさびさ」
彼女は僕の腕をグイッと引っ張って、強引に改札へと連れて行く。
電車に乗って30分。
徐々に乗客がまばらになっていく。
向かい合った座席に座ったリアが、周りをぐるっと確認してキャップとウィッグとサングラスをはずした。
「大丈夫なんですか?」
「人も少なくなったしね。それよりいい加減敬語やめてくれない?」
「そう言われても」
友だちどころか、知り合いともいえないような状態だ。
「せっかくのデートなのにー」
「デートって……」
困惑したところでリアが「ぷっ」と吹き出す。
「顔真っ赤。もしかしてデートしたことないの?」
「あるよ! デートくらい」
ついムキになってしまったのがなんとなく恥ずかしくて、ごまかすようにペットボトルの水を飲む。
「それ、昨日も飲んでたよね」
昨日だけじゃなくて、いつもこの天然水を飲んでる。だけど今日は違うものにすれば良かったかもしれない。
「その天然水のCM、私が出てるんだよ」
「……知ってる」
森の中でリアが水を飲むコマーシャルが浮かぶ。
「君ってもしかして私のファンなの?」
リアは自信ありげな表情でニヤリと笑った。
「べつに普通。でも昨日からイメージ壊れて好感度ダダ下がり中」
馴れ馴れしい上に、脅して無理矢理大学生を連れ出す清純派女優ってなんなんだよ。
「ふーん、普通か。良かった」
ファンじゃないと言われたのに、怒らないどころかむしろうれしそうだ。
「名前なんていうの?」
「蜂谷理公」
「リク? リアと似てるね。どんな字?」
スマホで名前の漢字を見せる。
「理公か。理公」
あらためて名前を呼ばれると反射的にドキッとしてしまう。
「何歳?」
「19」
「私と同じだね。やっぱりタメ語で正解じゃない」
そう言うと、リアは窓枠に肘をついて外の景色に視線を送る。
「きれいなところだね、さっきまで街にいたのが嘘みたい。それにこの川が昨日の場所につながってるのも不思議な感じ」
窓の外はすっかり山に入っていて、昨日撮影していた場所みたいには舗装なんかされていない石だらけの川原が、木々の間から線路の下の方に見える。
ガタンゴトンと車体の鳴らす音が響く。
「なんで小清瑞渓谷なんかに行きたいわけ?」
「言ったじゃない。観光」
「観光なら他にもいろいろあるだろ?」
リアが一瞬口籠った気がした。
「んー……蛍……」
彼女は窓の外を見たまま言った。
「蛍?」
「蛍って生で見たことないから。死ぬまでに一回くらいは見てみたいなって思って」
「死ぬまでならいくらでもチャンスあるじゃん。何もこんな急な思いつきみたいに出かけなくてもさ」
「そうでもないよ」
ずっと外を見たまま、それも遠くを見るような目をしたままだ。
「どういう意味?」
まだ19歳なんだから、どう考えても何度だってチャンスがある。
「この仕事してたら、こんな風に自由に出かけるチャンスなんてそうそう無いって意味」
頬杖をついたままこちらを向いて、どこかさみしそうに笑う。
「理公にお願いがあるんだけど」
出会って1日で散々僕を振り回してきたリアが、急にあらたまって〝お願い〟なんて言葉を口にするから変な感じだ。
「……金貸してくれとか言われそうで怖いんだけど」
「そんなんじゃないよ」
彼女は唇を尖らせる。
「撮ってほしいんだよね、今日の私を」
「撮るって? カメラは?」
「スマホでいい」
「嫌だよ。どうせまた訴えるとか言うじゃん」
「言わないよ!」
なんかさっきから声のトーンがマジなんだけど。
「撮ってほしいの、理公に。昨日見せてもらった動画みたいに撮ってほしい」
昨日、リアは僕が撮ったMVも真剣な顔で繰り返し何度も見ていた。
「何のために……?」
「べつに。今日のデートの思い出づくり」
「デートじゃないし」
「二人で出かけてるんだからデートでしょ。デートって言葉で照れちゃうなんて、理公ってかわいいね」
「照れてない!」
僕をからかって「あはは」と笑う彼女の声は、もとの馴れ馴れしいくらいの明るいトーンに戻っていた。
◇
電車の終点、小清瑞渓谷についた頃には昼になっていた。
「蛍が見たいのはいいけど、夜まで何する?」
「何って、自然とたわむれたりご飯食べたりいろいろやることあるでしょ。あ! ほら、観光マップがあるよ」
電車を降りた瞬間から、リアは『空気がおいしすぎるー』とか言いながら目を輝かせ続けている。
夏休み前の平日だからか、思ったよりずっと人が少ない。
「あ、湖に長い吊り橋がかかってるって。見て見て! 古民家カフェもあるんだって、結構遊べるね」
「とりあえず昼メシじゃない?」
マップを見ながらはしゃぐリアに提案して、蕎麦屋に入る。
「うーん……天ぷらもおいしそうだけど、せっかくこういうところだし山菜? あーでも……」
彼女はかれこれ15分はメニューとにらめっこしている。そんな場面もカメラに収める。
「そんなに悩む? こういうところの蕎麦はなんだっておいしいと思うけど」
「今日のご飯は絶対に失敗したくないの。蕎麦ってなんかちょっと渋いけど」
また真剣な顔をしている。
「もしかして……リアさんですか?」
注文をとりに来た店員が尋ねる。
「よく似てるって言われます。髪色が似てるからですかね、あんなにかわいくないんですけどね」
リアが笑顔で堂々と嘘をつくと店員は「失礼しました」と、そそくさと持ち場に戻って行った。
「嘘つき」
「こういうときは堂々としてた方が案外バレないの。〝こんなところにいるわけない〟って、みんな自信が無いからね」
面倒そうな彼女の表情に、人気芸能人の大変さを垣間見る。
「理公! ちょっと待ってよ! もっとゆっくり歩いて!」
蕎麦屋を出て、マップに載っていた湖の吊り橋を渡る。
湖は想像よりも随分小さくて、吊り橋で向こう側まで渡れる幅だ。
「なんだよ、自分が来たいって言ったんだろ?」
「そ、そうだけど! 女子を優しくエスコートしなさいよ」
「リア、もしかして怖いの?」
彼女の脚は、吊り橋の揺れ以上に震えているように見える。
「そんなわけないでしょ!」
強気な言葉と表情がまるで合ってない。
「ぷっ」と、今度は僕が吹き出してしまった。
「あ、何よー笑わないでよ!」
「いや、かわいいなって思って」
僕のひと言に、リアの顔が耳まで真っ赤に染まる。
「へえ、リアでも照れることあるんだ。顔真っ赤」
「嘘、そんなわけないじゃない! かわいいなんて毎日言われてるんだから」
必死で照れを隠そうとするリアは、テレビで見た彼女より、妙に馴れ馴れしくて強気な彼女より、自然体でかわいい。
「どうしたらいい? 手でも引いて連れてこうか?」
「待って待って。ロープから手 離す方が怖いから。ゆっくり歩いて……っていうか、ここは撮らなくていいんだけど」
「こういうレアな場面こそ撮っておかないと」
揺らす振りなんかしてからかいながら、予想の倍以上の時間をかけて対岸に渡ると、湖全体を見渡せる展望台があった。
「小さいけどきれいな湖だね」
夏の陽射しに青みがかった濃いグリーンの水面がキラキラと輝いている。
「吸い込まれそうな色してる」
リアは展望台の柵から身を乗り出すように下をのぞき込む。
「そんなに乗り出したら落ちるよ」
「………」
「リア?」
体勢を直した彼女は無言で湖をみつめたままだ。
「落ちたら死んじゃうかな」
「え? そりゃあこの高さだし湖は深そうだし、当たり前だろ? 良くて大ケガかな」
「だよね」
リアは「フッ」と、意味深で温度のない笑みを浮かべた。
「あのね、私の本名オフィーリアっていうの」
「ふーん。それで芸名がリアなんだ」
彼女はうなずく。
「高橋オフィーリア」
「名字は普通の日本人って感じだね。名前は外国人って感じだけど」
「オフィーリアだってイギリスだったら普通だよ。だけど日本では目立つし、イギリスでは高橋の方がレアなんだよね。見た目も同じ……日本ではイギリス人扱いされるし、イギリスではアジア人扱い」
リアの表情はどこかさみしげで、まるで〝自分には居場所が無い〟と言っているように見える。
「なんかごめん」
リアは「いいの」と首を横に振る。きっと言われ慣れているんだ。
「知ってる? 『ハムレット』のオフィーリア」
「演劇関係の勉強してて知らないやつなんていないよ」
イギリスの有名な劇作家・シェイクスピアの『ハムレット』という作品に出てくる女性キャラクターだ。ストーリーを詳しく知らなくても、作品名と彼女の名前くらいは演劇学の基礎で習う。
「オフィーリアはとても悲しい出来ごとを経験して、失意のうちに川に落ちて死んじゃうの」
「知ってるけど、なんでそんな話……」
そんな悲しげな表情で……。
「……べつに。この名前で湖に落ちたら笑われちゃうかなって思っただけ。理公、何不安そうな顔してるの?」
今度は「あはは」と眉を下げて笑う。
「なんか喉かわいちゃった」
展望台の隅には自動販売機、それからベンチが設置されていた。
「あ……」
「さすが、人気女優。こんな山の中にもいるんだね」
自販機には僕も飲んでいる天然水のペットボトルも並んでいる。そして、CMキャラクターのリアの写真を使った販促POPも付けられている。
リアはため息をつきながら、山奥のせいかコンビニの倍の価格が書かれた天然水のボタンを押した。
「山の中で清純派女優と天然水なんて、CMみたいじゃない?」
自分の頬にペットボトルを当ててウィンクなんかしてみせる。
「撮ってみない? 未来の映画監督」
スマホのカメラ越しに言われる。
「いや、いいよ」
「ノリが悪いなー」
リアはすねたように唇を尖らせて、ベンチに腰を下ろした。
「そうじゃなくて、あのCM好きだから。あのイメージのままでいい」
僕の言葉にパッと顔を上げて、意外そうな顔で立ったままの僕の顔を見る。
「ファンじゃないって」
「タレントのファンじゃなくたって、好きなCMくらいあるだろ? あのCMのリアは表情が自然な感じがして好きだよ。リアが持ってる透明感と水のイメージもよく合ってる」
「……ほめすぎ。ファンじゃないくせに『好き』って言いすぎ」
「また照れてる」
僕が笑うと、リアは首をぶんぶん横に振った。
「……あのCM、セリフが無いでしょ?」
森の中を歩くリアにはセリフが無く、女性ボーカルの洋楽が流れているだけのCMだ。
「絵コンテを見せてもらった段階では、たくさんセリフもあったんだ。だけど撮影が始まる前に事務所が全部無しにしてくれって言って、セリフ無しになっちゃった」
残念そうなリアからCMの意外な制作秘話を聞かせてもらえたけど、昨日のあのひどい演技じゃ仕方ないなと納得してしまった。
「女優ってなんだろうね」
遠くを見たリアがポツリとつぶやいた。
それからしばらく湖をながめながら話したり、リアはまた僕のスマホの動画を見たがったりした。
「そろそろ行こっか」
「吊り橋渡らないと戻れないよ」
僕の言葉に絶望してリアの顔面がゆがむ。
さっきと同じで、こういうリアはテレビでも映画でも見られない表情でかわいい。
そう思った瞬間に〝あれ?〟という、モヤッとした違和感のようなものが胸に芽生える。
午後5時半。
「夏なのに、もう暗くなってきたね」
「山だし」
「蛍って何時に見られるの?」
「僕のスマホ、もう電池が危ない。自分で調べて」
昼間からリアを撮影し続けているから、モバイルバッテリーももう空っぽだ。
「調べてくれたっていいじゃない、ケチ。えーっと……夜の7時頃から見られるって。カフェでお茶でもして時間潰そうか」
「………」
「理公? どうかした?」
リアに声をかけられてハッとする。
「なんでもない」
「この古民家カフェ、有名なケーキ屋さんのパティシエだった人のお店なんだって。建物は渋いのにマカロンとかもあるって——」
リアはスマホで口コミを見ながら、また明るい声ではしゃいだような様子を見せる。
午後7時。
カフェを出て、湖の脇を静かに流れる小川のような場所に向かう。
外はもうずいぶん暗いけど、ところどころに設置された街灯で道は照らされている。
「……ねえ理公。蛍を見たら、帰りは別々の電車で帰ろ」
歩きながらリアが言う。
「え、なんで?」
「街に着いたときに万が一週刊誌の記者でもいたら、誤解されて理公に迷惑がかかっちゃうし」
「そんなの、別々の車両に乗ればいいだけじゃん」
リアが小さくため息をついたのが暗い中でもわかった。
「私、星も見たいの。運が良ければ流れ星なんかも見れるみたい」
「リアひとり残るってこと? 危ないよ。ここまでつき合ったんだから、つき合うよ」
「時間も遅いし、理公は明日学校でしょ?」
「明日は休み」
「でも——」
どうしても僕ひとり先に帰らせようとしているみたいだ。
「ねえリア、本当は——」
言いかけたタイミングで、スマホの電池が切れた。
それとほぼ同時に頬にポツリと雨粒が当たって、湿った土のにおいを感じる。
ポツリ、ポツリと降り始めたそれは、次第に顔に当たる間隔が短くなっていく。
近くに古い倉庫のようなプレハブ小屋を見つけて、その軒下で雨宿りをさせてもらう。
雨はそれほど強いわけでもないけど「サーッ」と音を立てて、しばらくやみそうにない。
「………」
前髪に雫を滴らせた彼女が雨をみつめる。
「リア……」
「こんなんじゃ見れないね、蛍」
リアがこぼす。
「……どこまでも運が無いなぁ」
うつむいたリアが、震えた声で、まるで自分に呆れているような笑いを孕んだ声で言う。
「リア。今日、本当はどうしてここに来た?」
僕の質問に、リアが顔をこちらに向ける。
暗がりでも、潤んだ金色の瞳は吸い込まれそうなくらい澄んでいる。
「変なこと聞くかもしれないけど……もしかして……死のう、とか考えてたわけじゃないよね」
リアは言葉を発しない。
「あ、いや、勘違いならいいんだけど……なんていうか……」
今日一日一緒にいて生まれた違和感を、思い切ってぶつけてみる。
「リアって、本当は演技が上手いんじゃないかって気がするんだけど」
「………」
「天然水のCM、よく考えたら自然な雰囲気を出すってすごいことだし、昨日と今日の馴れ馴れしいのも、演技っていうか……」
「……馴れ馴れしいって。言い方」
彼女はまた、呆れたように小さく笑う。頬には涙がうっすらと線を描いている。
「上手いかどうかはわからないけど、さすが未来の映画監督。するどいね」
「じゃあ」
「そうだよ。私、普段は男の子に〝君〟なんて言わない。それに初対面の人とはちゃんと敬語で話すよ」
「なんで演技なんか」
「だって、ああやって強引に誘わなかったらここに来られなかったでしょ?」
眉を下げて困ったように笑う。
「さっきの質問」
—— 『リア。今日、本当はどうしてここに来た?』
「さすがに理公の言ってたことまでは考えてないよ。一瞬……少しだけ……思ったけど」
——『もしかして……死のう、とか考えてたわけじゃないよね』
「ただね、帰りたくないなって思ったの。このまま消えちゃいたいなって」
僕には、彼女の言っていることがどこまで本音なのかわからない。『消えちゃいたい』って、つまりはそういうことじゃないのか? とも思う。
「どうしてそんな風に思うの?」
「……今日、どうして撮影が中止になったと思う?」
昨日リアの言った通り、今日の撮影は中止になっていた。
「撮影が予定より早く終わったからだって」
「ちがう」
リアは首を横に振る。
「明日、週刊誌に記事が載るの。私と……前に出たドラマの監督との不倫報道。昨日の撮影中に週刊誌の記者からわざわざ事務所に連絡があって」
「え……」
思わず眉間にシワを寄せてしまった僕を見て、リアはまた首を横に振った。
「してないよ、そんなこと」
「じゃあなんで」
「私が軽率だったの。家に奥さんもいるからご飯でも食べながら仕事の話でもしようって言われて……だけどそんなの嘘だった。家に行ったら二人っきりで……」
リアは自分を落ち着かせるように、ゴクリと息を飲む。
「でも私、断ったんだよ。すぐに荷物を持って監督の家から出たの。……でも、そこを撮られてたみたいで」
「やましいことがないんだったら」
また、否定するために首を振る。
「理公にはわからないよ」
感情を昂らせたリアの目から涙があふれるように流れる。
「いくら何も無いって言ったって、誰も信じてくれないの。〝清純派〟ってイメージだけで売ってる女優もどきが不倫したなんて、退屈してる人たちにとってはいいオモチャでしょ」
つい最近も、〝優等生キャラのバラエティタレントが二股交際〟なんてネタがワイドショーやSNSをにぎわせて、当の本人は活動自粛に追い込まれたばかりだ。
「女優もどきって……本当は演技できるのに、なんで下手なフリなんか」
「演技力なんて求められてないから」
雨は変わらずに降り続いている。
「CMの話したでしょ? セリフなんていらないの。私の価値って、たまたまハーフに生まれてきたこの顔だけ」
「そんなこと」
「昨日理公も見た通り。雪村くんみたいな人気のあるアイドルの男の子と共演して、彼らより下手な演技をして華を持たせて笑ってるのが私の仕事」
あきらめが漂った声でリアが言う。
「だけど、だから……そんな演技の下手な私のせいで雪村くんの主演映画が公開中止なんてことになったら、ファンの子たちはどう思うのかな」
昨日、撮影現場に押しかけていたファンの様子を思い出す。
彼女たちは雪村翔には黄色い声を上げて、彼とリアが抱き合うシーンなんかを撮っている間は嫉妬心を隠さない視線を彼女に向けていた。
映画が公開されなかったら、リアにヘイトが向かうことなんて容易に想像できる。
「わかったでしょ。清純派じゃなくなった私なんてもう、なんの価値もないの」
名前の話をしたときの〝居場所が無い〟という表情の理由がわかった。
「だから今日、理公に一日自由な私を撮ってもらって引退しようと思ったの」
うまく言葉を紡げない僕に、リアが笑いかける。
「最後のシーンに蛍が映ってたらきれいだろうなって思ったんだけど、雨なんだもん。参っちゃうよね。神様にも見放されてるのかな」
引退なんて言葉で濁してるけど、今日一日のリアの言葉の数々を思い出すと、やっぱり物騒な想像をしてしまって胸が騒つく。
「神様がいるんなら……引退するなって言ってるんじゃないのかな」
「え……」
「リアだって本当は女優を続けたいって思ってるよね」
リアはまた否定しようとする。
「だったらなんでわざわざ映像なんて残すんだよ」
「………」
「ずっと演技してるところなんか撮らせて、リアって女優がいたんだって記録を残したかったんじゃないの?」
女優業への未練だとしか思えない。
「……自分でもよくわからない。本当は、今日は地元の人にここに連れてきてもらうだけで良かったの。なのに理公が撮った動画を見たらおもしろくて、最後にこの人に撮って欲しいって思っちゃったの」
昨日、食い入るように僕のスマホを見ていたリアの顔が過ぎる。
「最初は女優の仕事が好きだった。だけど今はもうよくわからない。だって自分がやりたくないお芝居の映像ばっかり残っていくから。地獄みたいだよ」
彼女は泣いたまま、苦しげに小さく息を吐いた。
「自分でももう、何が本当かわからなくなっちゃった。清純派なんて自分では思ってもないラベリングをされて、ずっと下手なお芝居をして、嘘ついて。もう本当の自分なんかいないんじゃないかって——」
「なら、僕が撮る」
リアが顔を上げて、まっすぐ目が合う。
「ちゃんとリアが納得できる映画を僕が撮るから。役者、やめないでよ」
「……同情なんかしなくていいよ」
「同情なんかじゃないよ」
リアの両手を掬い上げるように取って、優しくにぎる。
「今日一日一緒にいて、ファンになった。リアと、それから高橋オフィーリアの」
「え……」
「僕もリアを清純派で演技が下手な女優だってラベリングしてたような人間の一人だけど、リアがすごい女優だってわかったし……いや、多分もっとすごいんだろうなって思って好きになったし、吊り橋でビビって震えてる素のリアも人間味があって好きだよ。だから僕が映画監督になったら、リアの主演作を撮らせてよ」
「………」
「リア?」
リアはこっちを見たまま無言だ。それからだんだん眉が寄っていく。
「なんでそんなこと言えちゃうわけ?」
「なんでって」
「……ほめすぎ。『好き』って言い過ぎ」
「いいじゃん、もうファンになったんだから」
表情がいくらかやわらかくなったリアが、照れくさそうに唇を尖らせる。
「ありがとう、理公。……でもやっぱり怖いよ、現実に戻るのは」
バッシングを浴びるのを想像しているのか、また顔をこわばらせる。
僕は握った両手に少しだけ力を込めた。
「たしかに僕はリアがどんな世界で生きてるのか知らないから、君の恐怖はわからないけど、少なくとも、これくらいで照れてるリアが不倫なんかしないってわかるし」
「照れてないから」
思わず笑ってしまう。
「僕は、リアの味方だから。本当のリアは僕が知ってる」
「………」
「退屈してる人間のオモチャにされるって思ってるかもしれないけどさ、そんな人たちもひと月もすれば別のことに興味が移ってるよ」
「……そうだといいな」
リアは「ふうっ」と大きなため息をついた。
「雨、あがってる」
リアに言われて気づく。
「だけどきっと蛍は見れないね」
彼女は残念そうにつぶやく。
「いつかリベンジしようよ。帰ろう、リア」
「……うん」
◇
翌日からのワイドショーでの彼女へのバッシングは、想像以上にひどいものだった。
それでもあの日撮影していた映画は、代役を立ててなんとか公開延期で済むようだ。
『清純派女優が聞いて呆れる』
『悪女だったんだ』
『演技が下手なのにたくさん映画やドラマに出てて、おかしいと思った』
街頭インタビューもSNSも、連日言いたい放題。
うんざりしてテレビを消すと、僕のスマホが「ピコンッ」とメッセージの受信を知らせる。
【今日も謝りっぱなし。やっぱり戻ってこなければ良かった】
リアからのメッセージだ。
【絶対責任取ってよね! 映画監督にならなかったら許さないから】
そんなやや理不尽な言葉と、怒った顔のクマのスタンプが送られてきた。
報道後に謝罪会見を行ったリアは、不倫を否定しながらも、軽率だったと涙ながらに反省して見せて世間の風当たりもほんの少しだけ弱くなった。
【名演技】とメッセージを送ろうかと思ったけどやめておいた。
それでも結局イメージの悪化は避けられなくて、リアは日本の芸能界からは距離を置いてイギリスに渡ることになった。
◇
7年後の7月。
街頭ビジョンにニュース映像が映し出されていた。
『リアさん! イギリス映画祭の最優秀助演女優賞受賞、おめでとうございます』
そこに映っているのは、紛れもなく彼女だ。空港でカメラに囲まれている。
「え? リアって昔不倫してた? 演技下手だったよね」
周りの人ごみから、相変わらずの噂話が聞こえる。
「でも私この映画観たけど、リアすごく良かったよ。英語もペラペラだし」
リアは今ではすっかり演技派として評価されている。
「リアって名前変わったんだ〝オフィーリア・タカハシ〟だって」
別の人たちが話している。
「えーそうなの? 名字めっちゃ日本人」
彼女はイギリスに渡るときに『本当の自分を取り戻したい』と言って芸名を本名にした。
ちなみにリアとはずっとメールのやり取りをしている。
『リアさん、今回は突然の凱旋帰国の目的は?』
画面の中のリアがニッコリと微笑む。
『日本の蛍が見たくて』
『え? 蛍?』
『ついでに主演映画の打ち合わせも』
カメラのフラッシュがたかれたところで、別のニュースに切り替わった。
「映画がついでかよ」
僕は苦笑いでため息をついて、待ち合わせの場所に向かう。
fin.
7月の初め、気持ちの良い夏空が広がる平日午前10時。
二つの市の境を流れる大きな河の河川敷で、僕は怒られている。
「君、まさかSNSにアップするつもりじゃないだろうね」
怒っているのは20代後半くらいの、グレーのTシャツにキャップをかぶった男性。
まわりの人間から〝助監督〟と言われていた。
そういう僕も、似たようなブルーグレーのTシャツ姿だ。
「困るんだよ、映画の公開前に出演者の映像流出なんてことになったら」
「すみません。でもべつに俳優さんを撮ってたわけじゃなくて……」
持っていたスマートフォンで写した動画を彼に見せる。
「ん? なんだこれ、機材に……俺? それに監督にカメラマンに——」
「映画の撮影に興味があって、撮影現場の様子を撮らせてもらってたんです」
「うーん……ならまあ」
彼は肩透かしをくらったとでも言いたげな、怒るでも笑うでもない微妙な表情をした。
「でもカメラを向けられたらみんな誤解するからね、いくら出演者を撮っていないといっても、ここから先は撮影は禁止だよ」
助監督の男性は注意するように僕を指差して、撮影に戻って行った。
彼の背中を見ながら「ふぅ」とため息をつく。
撮影を禁止されてしまった。こうなると、ここに来た意味の何割かが無くなってしまう。
蜂谷理公・19歳。
僕の将来の夢は、今のところ映画監督。
美大の映像系の学科に通って映像や演劇の勉強をしている。
今日は大学の教授の紹介で、地元の河川敷で撮影される映画のエキストラのアルバイトに参加しにきた。
与えられたのは河川敷を歩く通行人の役だ。もちろんセリフなんか無いし、顔だってわからないような映り方しかしない。
役者志望ってわけじゃないから、演技のできない僕にはそれはかえって好都合。
僕の目的は監督の仕事、スタッフの様子、彼らが俳優さんたちにどんな演技指導をするのかなど、撮影現場の雰囲気を見ることだ。
大きな河が流れているくらいしか特長の無いような、都会でも田舎でもないこの普通すぎる街で、映画の撮影に立ち会えるチャンスなんて滅多に無い。
だから今日は、たくさん動画や写真を撮るはずだったのに……。
「話を通しておくって言ってたのに。さすが進藤教授、テキトーだよなぁ」
メガネに小太りの初老の男性を思い浮かべながら、教授への恨みごとをぽつりとつぶやく。
仕方がないから撮影風景は目に焼きつけることにした。
この作品は漫画が原作のいわゆる青春恋愛もので、幼馴染の同級生同士が恋をする話だ。
今は河川敷で主役の二人がケンカするシーンの撮影中。
男の方の主役は人気アイドルグループ所属の雪村翔。
撮影場所は明かしていないのに、彼目当てのファンが何人か見学に来ていて、キャーキャーと騒がしくなるたびにスタッフが注意している。その様子を見ていると、さっき注意されたのも仕方ないのかなと思う。
だけど僕の目を惹きつけるのはヒロインを演じる若手女優・リアだ。
たしかイギリスと日本のハーフだったと思う。
雪村翔にもアイドルらしい華はあるけど、正直彼女と並ぶと霞んで見える。
夏の陽射しで色素の薄いセミロングの髪色が輝いて、白いシャツに白い肌も相まって、ものすごく、なんていうか……現実に目の前にいるのが信じられないくらい透明感がある。
目を奪われるってこういうことを言うんだろう。
……にしても、二人ともお世辞にも上手いとは言えないひどい芝居をしている。
雪村翔が感情のこもらないセリフでヒロインを励ませば、リアがそれを超えた棒読みでわざとらしく感激してみせる。
こんなものを喜んで観るファンがいるのかと頭が痛くなる。
思わず大きなため息が漏れた。
単調な撮影は一時間も見学すれば十分だった。
「エキストラは後でもう一回出てもらうから、その辺で適当に時間つぶしてて」
拘束時間だけが長くて、思ったよりずっと面倒なバイトだった。
授業に出席したことにしてくれるって条件が無ければとっくに帰っていたかもしれない。
河にかかる大きな橋の下、ブロックが階段状になった日陰に腰掛ける。
「このセリフはもっと抑揚をつけた方が絶対良かったよな」
空いてしまった時間に、もらった台本を広げてさっき撮影されていたシーンのセリフを見ながらぶつくさつぶやく。
セリフの無いエキストラにも台本を配ってくれたのはうれしい。
頭の中では自分が監督になった場合のシミュレーションが繰り広げられてる。
「でも肝心の役者があれじゃあな。雪村翔も大概だけど、リアもすげー下手くそで——」
「〝顔だけだなあ〟って感じ?」
突然背後から聞こえた声に肩どころか身体全体がビクッと跳ねるように上下した。
さっきまで遠くから聞こえていたのと同じ声。
振り向いて見上げると声の主が立っている。
「す、すみません!」
「いいよべつに。演技派で売ってないもん、私」
そう言いながらどういうわけか、リアは僕の隣に腰を下ろした。
「エキストラの人?」
「は、はい。リアさんは撮影中じゃ……」
「次は雪村くんだけのシーンだから」
「へ、へえ……」
だからってなんでわざわざ休憩中のエキストラのところに来るんだ?
「すごいねこれ、いろいろ書き込んである」
リアが僕の広げている台本をのぞき込む。
「俳優志望なの?」
彼女が笑いかけるから、思わずドキッとしてしまう。
「いえ、できれば映画監督になりたいんです」
「あはは! そんなにかしこまらないでよ、同い年くらいでしょ? タメ語でいいよ」
吹き出すように笑われる。
「暑いのよねーこの格好。このシャツ半袖じゃないんだもん。スカートも夏物じゃないし」
どう考えても彼女の馴れ馴れしい距離感の方がおかしいと思う。芸能人ってみんなこうなのか?
そんなことを考えながらリアの方を見ると、目が合ってしまった。
間近で見ると髪だけじゃなくて瞳の色も薄くてハチミツみたいな色をしている。本当に、人形みたいにきれいな顔だ。
「そんなに見つめられると恥ずかしいんですけど」
「え? あ! すみません」
あからさまに見惚れていた僕に、彼女は照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
こっちも顔が赤くなってそうだって、自分でわかる。
しょうがないだろ、芸能人が目の前にいるんだから……って、なぜか自分に言い訳をする。
「そこの自転車って君の?」
「はい」
「ってことは、地元の人?」
「はい」
「……全然タメ語にならないね」
リアは懐っこい雰囲気でケラケラと口を開けて明るく笑う。清純派のイメージとは少し違う気がする。
「ところで、さっき動画撮ってたよね? 見せてくれない?」
さっき注意されていたのを見られていたらしい。
「撮ってたっていっても機材とかそんな感じで」
「いいから見せて」
手のひらを僕に向けてスマホを渡すように促すリアの語気が強い。
こんなキャラだったのかとイメージとのギャップに若干ガッカリしながら、僕はしぶしぶスマホを出して動画を再生する。
「どうぞ」
リアはしばらく言葉も発さず、真剣な表情で画面を見つめていた。
2、3分程度の動画が終わると、また再生して食い入るようにのぞき込む。それを4回繰り返した。
「他にもあるの? 君が撮った動画」
黄金色の瞳を輝かせてこちらを見た。
「え? 今日はこれだけしか撮ってないです」
「今日のじゃなくてもいいの。何か無いの? 見たい、他のも」
「え、じゃあ……昨日学校からの帰り道に撮ったやつ」
リアからスマホを受け取って、動画フォルダを漁る。
「貸して!」
またスマホを奪い取られる。何なんだ、一体。
「商店街?」
「うん。大学の近くにレトロな商店街があって」
僕は練習も兼ねていろいろな風景を動画に収めて、編集で繋ぎ合わせたり音楽をつけて遊んでいる。
「これは? 見てもいい?」
〝OK〟の意味でコクリとうなずく。
「それは友だちのバンドのMV」
「へぇ……かっこいいし、おもしろい」
リアがボソッとつぶやいたのが聞こえた。心なしか笑って見える。
「……ねえ。地元の人ってことは、この河の上の方がどんなところか知ってる?」
スマホを見つめながら、突然話題を変えられた。
「上って上流ってこと?」
今度は彼女がうなずく。
「小清瑞渓谷って小さな湖と、ちょっとした温泉地があります」
河沿いに電車で一時間半も行けば、山の中の湖だ。季節によっては桜や紅葉が楽しめる。
「あ、この時期は蛍が見れるとか聞いたかも」
「やっぱりそうなんだ」
リアはスマホを見ながら言うと、こちらに顔を向けた。
「ねえ君、明日私につき合ってよ」
「え? 明日は学校ですけど。それにつき合うって、まさか小清瑞渓谷に?」
「そのまさか。観光したいから案内してよ」
芸能人を? なんで俺が? 頭の中が〝?〟だらけだ。
「でも明日は」
「なによー! 超人気女優が直々に誘ってあげてるのに!」
自分で言うかフツー。芸能人てすごいな。
「そんなこと言われても」
「ふーん断るんだ……」
急に彼女の声色が冷たくなった気がした。
「なら、君のこと訴えるよ」
「へっ?」
すぐには理解できない言葉だった。
「盗撮されたって。まずうちの事務所に言って、それから警察にも行こうかな」
「盗撮なんてしてないです。さっき見ましたよね? 機材とスタッフさんくらいしか映ってないって」
「ううん。映ってるよ、私も」
「は? どこに」
困惑して思いっきり眉を寄せると、リアが先ほどの動画を再生して見せてきた。
見返しても、やっぱりリアは映っていない。ホッと胸を撫で下ろす。
「映ってないじゃないですか」
「映ってるじゃない、ずーっと」
「え?」
「私の声」
たしかにこの動画を撮っていたのは、リアが長台詞を言っていたときだ。例のひどい棒読みで。だから、動画からは小さな彼女の声がずっと聴こえている。
「声だけで盗撮って……」
「声だけじゃないよ。ほらここ、これ私」
リアが指さした画面には、機材を撮ろうとグルっとカメラを回した瞬間、リアの髪だけが映り込んでいた。
「髪だけだろうが、声だけだろうが、女優の盗撮は許されないから」
「……わかりました。これ消します」
理不尽な指摘に呆れてしまう。
「ムダだよ。私のスマホに転送したもん」
いつの間に……。
「だから訴えられたくなかったら明日私を案内してよ」
なんでそんなに僕をつき合わせようとするんだ。
「だいたいリアさん、明日もここで撮影なんじゃないんですか?」
教授には二日間のスケジュールを聞いている。僕は学校があるから一日しか参加できないけど。
「……いいの。どうせ中止だから」
そうこぼしたリアの表情が曇る。
「中止? なんで?」
僕の質問に、リアは少し慌てたようにハッとする。
「あーえっと、思ったより撮影が順調で、明日の分まで今日撮れそうなの」
あのひどい演技で? と思ったけど、たしかにセリフを間違える以外はびっくりするくらいNGが出ない。
「小清瑞渓谷ってどうやって行くの?」
「電車で……でも僕も子どもの頃に行ったきり——」
「じゃあ明日朝9時に駅で。何かあったらメッセージちょうだい。じゃ、私出番だから!」
「え」
それだけ言うと、彼女は「リアー!」と呼ぶ声のする方へ駆け寄って行く。
スマホを見ると「Lia」という知らないIDが登録されていた。
芸能人が、ましてや清純派女優がこんなに簡単に一般人の男にIDを教えて良いのだろうか?
盗撮は訴えるとか言うくせに、さっぱりわけがわからない。
◇
翌朝8時50分、大学をサボって駅前で行き交う人々をながめる。
「………」
9時。
「………」
9時10分。
「………」
9時20分。
約束の相手はいまだに気配すら無い。
というより多分、約束なんてしたつもりになっているのは僕だけだったんだ。
からかわれたのか気まぐれだったのか知らないけど、〝超人気女優〟がよく知りもしないただの大学生と出かけるわけがないなんて、少し考えればわかることだ。
騙されたまぬけな自分に呆れて「はぁっ」と大きなため息をつく。
それから【帰ります】とメッセージを打とうとスマホを取り出したときだった。
「大きいため息だね。朝から疲れてる?」
また背後から声をかけられて少し驚きながら振り返って、そこにいた人物にまた驚く。
長い黒髪にキャップ、それからサングラスをかけた知らない女性が立っている。黒いワンピースを着ていて、全身真っ黒だ。
「ん? ああ、そっか」
僕がキョトンとしていると、彼女はサングラスを下にズラして見せた。
そこから見えた瞳はゴールドがかったブラウンだった。
目の前にいるのは、ウィッグで変装したリアだ。
「遅れてごめん。変装してホテルから出るのに時間がかかっちゃって」
「なんでそこまでして……」
「いいから行こ! 電車ってひさびさ」
彼女は僕の腕をグイッと引っ張って、強引に改札へと連れて行く。
電車に乗って30分。
徐々に乗客がまばらになっていく。
向かい合った座席に座ったリアが、周りをぐるっと確認してキャップとウィッグとサングラスをはずした。
「大丈夫なんですか?」
「人も少なくなったしね。それよりいい加減敬語やめてくれない?」
「そう言われても」
友だちどころか、知り合いともいえないような状態だ。
「せっかくのデートなのにー」
「デートって……」
困惑したところでリアが「ぷっ」と吹き出す。
「顔真っ赤。もしかしてデートしたことないの?」
「あるよ! デートくらい」
ついムキになってしまったのがなんとなく恥ずかしくて、ごまかすようにペットボトルの水を飲む。
「それ、昨日も飲んでたよね」
昨日だけじゃなくて、いつもこの天然水を飲んでる。だけど今日は違うものにすれば良かったかもしれない。
「その天然水のCM、私が出てるんだよ」
「……知ってる」
森の中でリアが水を飲むコマーシャルが浮かぶ。
「君ってもしかして私のファンなの?」
リアは自信ありげな表情でニヤリと笑った。
「べつに普通。でも昨日からイメージ壊れて好感度ダダ下がり中」
馴れ馴れしい上に、脅して無理矢理大学生を連れ出す清純派女優ってなんなんだよ。
「ふーん、普通か。良かった」
ファンじゃないと言われたのに、怒らないどころかむしろうれしそうだ。
「名前なんていうの?」
「蜂谷理公」
「リク? リアと似てるね。どんな字?」
スマホで名前の漢字を見せる。
「理公か。理公」
あらためて名前を呼ばれると反射的にドキッとしてしまう。
「何歳?」
「19」
「私と同じだね。やっぱりタメ語で正解じゃない」
そう言うと、リアは窓枠に肘をついて外の景色に視線を送る。
「きれいなところだね、さっきまで街にいたのが嘘みたい。それにこの川が昨日の場所につながってるのも不思議な感じ」
窓の外はすっかり山に入っていて、昨日撮影していた場所みたいには舗装なんかされていない石だらけの川原が、木々の間から線路の下の方に見える。
ガタンゴトンと車体の鳴らす音が響く。
「なんで小清瑞渓谷なんかに行きたいわけ?」
「言ったじゃない。観光」
「観光なら他にもいろいろあるだろ?」
リアが一瞬口籠った気がした。
「んー……蛍……」
彼女は窓の外を見たまま言った。
「蛍?」
「蛍って生で見たことないから。死ぬまでに一回くらいは見てみたいなって思って」
「死ぬまでならいくらでもチャンスあるじゃん。何もこんな急な思いつきみたいに出かけなくてもさ」
「そうでもないよ」
ずっと外を見たまま、それも遠くを見るような目をしたままだ。
「どういう意味?」
まだ19歳なんだから、どう考えても何度だってチャンスがある。
「この仕事してたら、こんな風に自由に出かけるチャンスなんてそうそう無いって意味」
頬杖をついたままこちらを向いて、どこかさみしそうに笑う。
「理公にお願いがあるんだけど」
出会って1日で散々僕を振り回してきたリアが、急にあらたまって〝お願い〟なんて言葉を口にするから変な感じだ。
「……金貸してくれとか言われそうで怖いんだけど」
「そんなんじゃないよ」
彼女は唇を尖らせる。
「撮ってほしいんだよね、今日の私を」
「撮るって? カメラは?」
「スマホでいい」
「嫌だよ。どうせまた訴えるとか言うじゃん」
「言わないよ!」
なんかさっきから声のトーンがマジなんだけど。
「撮ってほしいの、理公に。昨日見せてもらった動画みたいに撮ってほしい」
昨日、リアは僕が撮ったMVも真剣な顔で繰り返し何度も見ていた。
「何のために……?」
「べつに。今日のデートの思い出づくり」
「デートじゃないし」
「二人で出かけてるんだからデートでしょ。デートって言葉で照れちゃうなんて、理公ってかわいいね」
「照れてない!」
僕をからかって「あはは」と笑う彼女の声は、もとの馴れ馴れしいくらいの明るいトーンに戻っていた。
◇
電車の終点、小清瑞渓谷についた頃には昼になっていた。
「蛍が見たいのはいいけど、夜まで何する?」
「何って、自然とたわむれたりご飯食べたりいろいろやることあるでしょ。あ! ほら、観光マップがあるよ」
電車を降りた瞬間から、リアは『空気がおいしすぎるー』とか言いながら目を輝かせ続けている。
夏休み前の平日だからか、思ったよりずっと人が少ない。
「あ、湖に長い吊り橋がかかってるって。見て見て! 古民家カフェもあるんだって、結構遊べるね」
「とりあえず昼メシじゃない?」
マップを見ながらはしゃぐリアに提案して、蕎麦屋に入る。
「うーん……天ぷらもおいしそうだけど、せっかくこういうところだし山菜? あーでも……」
彼女はかれこれ15分はメニューとにらめっこしている。そんな場面もカメラに収める。
「そんなに悩む? こういうところの蕎麦はなんだっておいしいと思うけど」
「今日のご飯は絶対に失敗したくないの。蕎麦ってなんかちょっと渋いけど」
また真剣な顔をしている。
「もしかして……リアさんですか?」
注文をとりに来た店員が尋ねる。
「よく似てるって言われます。髪色が似てるからですかね、あんなにかわいくないんですけどね」
リアが笑顔で堂々と嘘をつくと店員は「失礼しました」と、そそくさと持ち場に戻って行った。
「嘘つき」
「こういうときは堂々としてた方が案外バレないの。〝こんなところにいるわけない〟って、みんな自信が無いからね」
面倒そうな彼女の表情に、人気芸能人の大変さを垣間見る。
「理公! ちょっと待ってよ! もっとゆっくり歩いて!」
蕎麦屋を出て、マップに載っていた湖の吊り橋を渡る。
湖は想像よりも随分小さくて、吊り橋で向こう側まで渡れる幅だ。
「なんだよ、自分が来たいって言ったんだろ?」
「そ、そうだけど! 女子を優しくエスコートしなさいよ」
「リア、もしかして怖いの?」
彼女の脚は、吊り橋の揺れ以上に震えているように見える。
「そんなわけないでしょ!」
強気な言葉と表情がまるで合ってない。
「ぷっ」と、今度は僕が吹き出してしまった。
「あ、何よー笑わないでよ!」
「いや、かわいいなって思って」
僕のひと言に、リアの顔が耳まで真っ赤に染まる。
「へえ、リアでも照れることあるんだ。顔真っ赤」
「嘘、そんなわけないじゃない! かわいいなんて毎日言われてるんだから」
必死で照れを隠そうとするリアは、テレビで見た彼女より、妙に馴れ馴れしくて強気な彼女より、自然体でかわいい。
「どうしたらいい? 手でも引いて連れてこうか?」
「待って待って。ロープから手 離す方が怖いから。ゆっくり歩いて……っていうか、ここは撮らなくていいんだけど」
「こういうレアな場面こそ撮っておかないと」
揺らす振りなんかしてからかいながら、予想の倍以上の時間をかけて対岸に渡ると、湖全体を見渡せる展望台があった。
「小さいけどきれいな湖だね」
夏の陽射しに青みがかった濃いグリーンの水面がキラキラと輝いている。
「吸い込まれそうな色してる」
リアは展望台の柵から身を乗り出すように下をのぞき込む。
「そんなに乗り出したら落ちるよ」
「………」
「リア?」
体勢を直した彼女は無言で湖をみつめたままだ。
「落ちたら死んじゃうかな」
「え? そりゃあこの高さだし湖は深そうだし、当たり前だろ? 良くて大ケガかな」
「だよね」
リアは「フッ」と、意味深で温度のない笑みを浮かべた。
「あのね、私の本名オフィーリアっていうの」
「ふーん。それで芸名がリアなんだ」
彼女はうなずく。
「高橋オフィーリア」
「名字は普通の日本人って感じだね。名前は外国人って感じだけど」
「オフィーリアだってイギリスだったら普通だよ。だけど日本では目立つし、イギリスでは高橋の方がレアなんだよね。見た目も同じ……日本ではイギリス人扱いされるし、イギリスではアジア人扱い」
リアの表情はどこかさみしげで、まるで〝自分には居場所が無い〟と言っているように見える。
「なんかごめん」
リアは「いいの」と首を横に振る。きっと言われ慣れているんだ。
「知ってる? 『ハムレット』のオフィーリア」
「演劇関係の勉強してて知らないやつなんていないよ」
イギリスの有名な劇作家・シェイクスピアの『ハムレット』という作品に出てくる女性キャラクターだ。ストーリーを詳しく知らなくても、作品名と彼女の名前くらいは演劇学の基礎で習う。
「オフィーリアはとても悲しい出来ごとを経験して、失意のうちに川に落ちて死んじゃうの」
「知ってるけど、なんでそんな話……」
そんな悲しげな表情で……。
「……べつに。この名前で湖に落ちたら笑われちゃうかなって思っただけ。理公、何不安そうな顔してるの?」
今度は「あはは」と眉を下げて笑う。
「なんか喉かわいちゃった」
展望台の隅には自動販売機、それからベンチが設置されていた。
「あ……」
「さすが、人気女優。こんな山の中にもいるんだね」
自販機には僕も飲んでいる天然水のペットボトルも並んでいる。そして、CMキャラクターのリアの写真を使った販促POPも付けられている。
リアはため息をつきながら、山奥のせいかコンビニの倍の価格が書かれた天然水のボタンを押した。
「山の中で清純派女優と天然水なんて、CMみたいじゃない?」
自分の頬にペットボトルを当ててウィンクなんかしてみせる。
「撮ってみない? 未来の映画監督」
スマホのカメラ越しに言われる。
「いや、いいよ」
「ノリが悪いなー」
リアはすねたように唇を尖らせて、ベンチに腰を下ろした。
「そうじゃなくて、あのCM好きだから。あのイメージのままでいい」
僕の言葉にパッと顔を上げて、意外そうな顔で立ったままの僕の顔を見る。
「ファンじゃないって」
「タレントのファンじゃなくたって、好きなCMくらいあるだろ? あのCMのリアは表情が自然な感じがして好きだよ。リアが持ってる透明感と水のイメージもよく合ってる」
「……ほめすぎ。ファンじゃないくせに『好き』って言いすぎ」
「また照れてる」
僕が笑うと、リアは首をぶんぶん横に振った。
「……あのCM、セリフが無いでしょ?」
森の中を歩くリアにはセリフが無く、女性ボーカルの洋楽が流れているだけのCMだ。
「絵コンテを見せてもらった段階では、たくさんセリフもあったんだ。だけど撮影が始まる前に事務所が全部無しにしてくれって言って、セリフ無しになっちゃった」
残念そうなリアからCMの意外な制作秘話を聞かせてもらえたけど、昨日のあのひどい演技じゃ仕方ないなと納得してしまった。
「女優ってなんだろうね」
遠くを見たリアがポツリとつぶやいた。
それからしばらく湖をながめながら話したり、リアはまた僕のスマホの動画を見たがったりした。
「そろそろ行こっか」
「吊り橋渡らないと戻れないよ」
僕の言葉に絶望してリアの顔面がゆがむ。
さっきと同じで、こういうリアはテレビでも映画でも見られない表情でかわいい。
そう思った瞬間に〝あれ?〟という、モヤッとした違和感のようなものが胸に芽生える。
午後5時半。
「夏なのに、もう暗くなってきたね」
「山だし」
「蛍って何時に見られるの?」
「僕のスマホ、もう電池が危ない。自分で調べて」
昼間からリアを撮影し続けているから、モバイルバッテリーももう空っぽだ。
「調べてくれたっていいじゃない、ケチ。えーっと……夜の7時頃から見られるって。カフェでお茶でもして時間潰そうか」
「………」
「理公? どうかした?」
リアに声をかけられてハッとする。
「なんでもない」
「この古民家カフェ、有名なケーキ屋さんのパティシエだった人のお店なんだって。建物は渋いのにマカロンとかもあるって——」
リアはスマホで口コミを見ながら、また明るい声ではしゃいだような様子を見せる。
午後7時。
カフェを出て、湖の脇を静かに流れる小川のような場所に向かう。
外はもうずいぶん暗いけど、ところどころに設置された街灯で道は照らされている。
「……ねえ理公。蛍を見たら、帰りは別々の電車で帰ろ」
歩きながらリアが言う。
「え、なんで?」
「街に着いたときに万が一週刊誌の記者でもいたら、誤解されて理公に迷惑がかかっちゃうし」
「そんなの、別々の車両に乗ればいいだけじゃん」
リアが小さくため息をついたのが暗い中でもわかった。
「私、星も見たいの。運が良ければ流れ星なんかも見れるみたい」
「リアひとり残るってこと? 危ないよ。ここまでつき合ったんだから、つき合うよ」
「時間も遅いし、理公は明日学校でしょ?」
「明日は休み」
「でも——」
どうしても僕ひとり先に帰らせようとしているみたいだ。
「ねえリア、本当は——」
言いかけたタイミングで、スマホの電池が切れた。
それとほぼ同時に頬にポツリと雨粒が当たって、湿った土のにおいを感じる。
ポツリ、ポツリと降り始めたそれは、次第に顔に当たる間隔が短くなっていく。
近くに古い倉庫のようなプレハブ小屋を見つけて、その軒下で雨宿りをさせてもらう。
雨はそれほど強いわけでもないけど「サーッ」と音を立てて、しばらくやみそうにない。
「………」
前髪に雫を滴らせた彼女が雨をみつめる。
「リア……」
「こんなんじゃ見れないね、蛍」
リアがこぼす。
「……どこまでも運が無いなぁ」
うつむいたリアが、震えた声で、まるで自分に呆れているような笑いを孕んだ声で言う。
「リア。今日、本当はどうしてここに来た?」
僕の質問に、リアが顔をこちらに向ける。
暗がりでも、潤んだ金色の瞳は吸い込まれそうなくらい澄んでいる。
「変なこと聞くかもしれないけど……もしかして……死のう、とか考えてたわけじゃないよね」
リアは言葉を発しない。
「あ、いや、勘違いならいいんだけど……なんていうか……」
今日一日一緒にいて生まれた違和感を、思い切ってぶつけてみる。
「リアって、本当は演技が上手いんじゃないかって気がするんだけど」
「………」
「天然水のCM、よく考えたら自然な雰囲気を出すってすごいことだし、昨日と今日の馴れ馴れしいのも、演技っていうか……」
「……馴れ馴れしいって。言い方」
彼女はまた、呆れたように小さく笑う。頬には涙がうっすらと線を描いている。
「上手いかどうかはわからないけど、さすが未来の映画監督。するどいね」
「じゃあ」
「そうだよ。私、普段は男の子に〝君〟なんて言わない。それに初対面の人とはちゃんと敬語で話すよ」
「なんで演技なんか」
「だって、ああやって強引に誘わなかったらここに来られなかったでしょ?」
眉を下げて困ったように笑う。
「さっきの質問」
—— 『リア。今日、本当はどうしてここに来た?』
「さすがに理公の言ってたことまでは考えてないよ。一瞬……少しだけ……思ったけど」
——『もしかして……死のう、とか考えてたわけじゃないよね』
「ただね、帰りたくないなって思ったの。このまま消えちゃいたいなって」
僕には、彼女の言っていることがどこまで本音なのかわからない。『消えちゃいたい』って、つまりはそういうことじゃないのか? とも思う。
「どうしてそんな風に思うの?」
「……今日、どうして撮影が中止になったと思う?」
昨日リアの言った通り、今日の撮影は中止になっていた。
「撮影が予定より早く終わったからだって」
「ちがう」
リアは首を横に振る。
「明日、週刊誌に記事が載るの。私と……前に出たドラマの監督との不倫報道。昨日の撮影中に週刊誌の記者からわざわざ事務所に連絡があって」
「え……」
思わず眉間にシワを寄せてしまった僕を見て、リアはまた首を横に振った。
「してないよ、そんなこと」
「じゃあなんで」
「私が軽率だったの。家に奥さんもいるからご飯でも食べながら仕事の話でもしようって言われて……だけどそんなの嘘だった。家に行ったら二人っきりで……」
リアは自分を落ち着かせるように、ゴクリと息を飲む。
「でも私、断ったんだよ。すぐに荷物を持って監督の家から出たの。……でも、そこを撮られてたみたいで」
「やましいことがないんだったら」
また、否定するために首を振る。
「理公にはわからないよ」
感情を昂らせたリアの目から涙があふれるように流れる。
「いくら何も無いって言ったって、誰も信じてくれないの。〝清純派〟ってイメージだけで売ってる女優もどきが不倫したなんて、退屈してる人たちにとってはいいオモチャでしょ」
つい最近も、〝優等生キャラのバラエティタレントが二股交際〟なんてネタがワイドショーやSNSをにぎわせて、当の本人は活動自粛に追い込まれたばかりだ。
「女優もどきって……本当は演技できるのに、なんで下手なフリなんか」
「演技力なんて求められてないから」
雨は変わらずに降り続いている。
「CMの話したでしょ? セリフなんていらないの。私の価値って、たまたまハーフに生まれてきたこの顔だけ」
「そんなこと」
「昨日理公も見た通り。雪村くんみたいな人気のあるアイドルの男の子と共演して、彼らより下手な演技をして華を持たせて笑ってるのが私の仕事」
あきらめが漂った声でリアが言う。
「だけど、だから……そんな演技の下手な私のせいで雪村くんの主演映画が公開中止なんてことになったら、ファンの子たちはどう思うのかな」
昨日、撮影現場に押しかけていたファンの様子を思い出す。
彼女たちは雪村翔には黄色い声を上げて、彼とリアが抱き合うシーンなんかを撮っている間は嫉妬心を隠さない視線を彼女に向けていた。
映画が公開されなかったら、リアにヘイトが向かうことなんて容易に想像できる。
「わかったでしょ。清純派じゃなくなった私なんてもう、なんの価値もないの」
名前の話をしたときの〝居場所が無い〟という表情の理由がわかった。
「だから今日、理公に一日自由な私を撮ってもらって引退しようと思ったの」
うまく言葉を紡げない僕に、リアが笑いかける。
「最後のシーンに蛍が映ってたらきれいだろうなって思ったんだけど、雨なんだもん。参っちゃうよね。神様にも見放されてるのかな」
引退なんて言葉で濁してるけど、今日一日のリアの言葉の数々を思い出すと、やっぱり物騒な想像をしてしまって胸が騒つく。
「神様がいるんなら……引退するなって言ってるんじゃないのかな」
「え……」
「リアだって本当は女優を続けたいって思ってるよね」
リアはまた否定しようとする。
「だったらなんでわざわざ映像なんて残すんだよ」
「………」
「ずっと演技してるところなんか撮らせて、リアって女優がいたんだって記録を残したかったんじゃないの?」
女優業への未練だとしか思えない。
「……自分でもよくわからない。本当は、今日は地元の人にここに連れてきてもらうだけで良かったの。なのに理公が撮った動画を見たらおもしろくて、最後にこの人に撮って欲しいって思っちゃったの」
昨日、食い入るように僕のスマホを見ていたリアの顔が過ぎる。
「最初は女優の仕事が好きだった。だけど今はもうよくわからない。だって自分がやりたくないお芝居の映像ばっかり残っていくから。地獄みたいだよ」
彼女は泣いたまま、苦しげに小さく息を吐いた。
「自分でももう、何が本当かわからなくなっちゃった。清純派なんて自分では思ってもないラベリングをされて、ずっと下手なお芝居をして、嘘ついて。もう本当の自分なんかいないんじゃないかって——」
「なら、僕が撮る」
リアが顔を上げて、まっすぐ目が合う。
「ちゃんとリアが納得できる映画を僕が撮るから。役者、やめないでよ」
「……同情なんかしなくていいよ」
「同情なんかじゃないよ」
リアの両手を掬い上げるように取って、優しくにぎる。
「今日一日一緒にいて、ファンになった。リアと、それから高橋オフィーリアの」
「え……」
「僕もリアを清純派で演技が下手な女優だってラベリングしてたような人間の一人だけど、リアがすごい女優だってわかったし……いや、多分もっとすごいんだろうなって思って好きになったし、吊り橋でビビって震えてる素のリアも人間味があって好きだよ。だから僕が映画監督になったら、リアの主演作を撮らせてよ」
「………」
「リア?」
リアはこっちを見たまま無言だ。それからだんだん眉が寄っていく。
「なんでそんなこと言えちゃうわけ?」
「なんでって」
「……ほめすぎ。『好き』って言い過ぎ」
「いいじゃん、もうファンになったんだから」
表情がいくらかやわらかくなったリアが、照れくさそうに唇を尖らせる。
「ありがとう、理公。……でもやっぱり怖いよ、現実に戻るのは」
バッシングを浴びるのを想像しているのか、また顔をこわばらせる。
僕は握った両手に少しだけ力を込めた。
「たしかに僕はリアがどんな世界で生きてるのか知らないから、君の恐怖はわからないけど、少なくとも、これくらいで照れてるリアが不倫なんかしないってわかるし」
「照れてないから」
思わず笑ってしまう。
「僕は、リアの味方だから。本当のリアは僕が知ってる」
「………」
「退屈してる人間のオモチャにされるって思ってるかもしれないけどさ、そんな人たちもひと月もすれば別のことに興味が移ってるよ」
「……そうだといいな」
リアは「ふうっ」と大きなため息をついた。
「雨、あがってる」
リアに言われて気づく。
「だけどきっと蛍は見れないね」
彼女は残念そうにつぶやく。
「いつかリベンジしようよ。帰ろう、リア」
「……うん」
◇
翌日からのワイドショーでの彼女へのバッシングは、想像以上にひどいものだった。
それでもあの日撮影していた映画は、代役を立ててなんとか公開延期で済むようだ。
『清純派女優が聞いて呆れる』
『悪女だったんだ』
『演技が下手なのにたくさん映画やドラマに出てて、おかしいと思った』
街頭インタビューもSNSも、連日言いたい放題。
うんざりしてテレビを消すと、僕のスマホが「ピコンッ」とメッセージの受信を知らせる。
【今日も謝りっぱなし。やっぱり戻ってこなければ良かった】
リアからのメッセージだ。
【絶対責任取ってよね! 映画監督にならなかったら許さないから】
そんなやや理不尽な言葉と、怒った顔のクマのスタンプが送られてきた。
報道後に謝罪会見を行ったリアは、不倫を否定しながらも、軽率だったと涙ながらに反省して見せて世間の風当たりもほんの少しだけ弱くなった。
【名演技】とメッセージを送ろうかと思ったけどやめておいた。
それでも結局イメージの悪化は避けられなくて、リアは日本の芸能界からは距離を置いてイギリスに渡ることになった。
◇
7年後の7月。
街頭ビジョンにニュース映像が映し出されていた。
『リアさん! イギリス映画祭の最優秀助演女優賞受賞、おめでとうございます』
そこに映っているのは、紛れもなく彼女だ。空港でカメラに囲まれている。
「え? リアって昔不倫してた? 演技下手だったよね」
周りの人ごみから、相変わらずの噂話が聞こえる。
「でも私この映画観たけど、リアすごく良かったよ。英語もペラペラだし」
リアは今ではすっかり演技派として評価されている。
「リアって名前変わったんだ〝オフィーリア・タカハシ〟だって」
別の人たちが話している。
「えーそうなの? 名字めっちゃ日本人」
彼女はイギリスに渡るときに『本当の自分を取り戻したい』と言って芸名を本名にした。
ちなみにリアとはずっとメールのやり取りをしている。
『リアさん、今回は突然の凱旋帰国の目的は?』
画面の中のリアがニッコリと微笑む。
『日本の蛍が見たくて』
『え? 蛍?』
『ついでに主演映画の打ち合わせも』
カメラのフラッシュがたかれたところで、別のニュースに切り替わった。
「映画がついでかよ」
僕は苦笑いでため息をついて、待ち合わせの場所に向かう。
fin.