「うん。よし。いい感じ」
 オレが着ているシャツの襟を正し、千夏は満足げに頷く。
「これでわたしなら惚れ直すことまちがいなし」
 姿見に映った自分を一瞥してオレは苦笑する。
 伸ばしっぱなしにしていた髪はドライヤーで小綺麗に整えられ、冷たい水で洗わされた顔はスッキリと眠気を飛ばしている。ヒゲも剃った。口の中は歯磨き粉の香りで満たされている。スーツでも着ればそのまま企業の面接にだっていけそうだった。
「なんか、オレじゃないみたいだ」
 オレを一瞥しているオレに、先月までのような後ろ暗さはない。
 後悔なんてなくて。これから先の出来事に期待して。溢れるほどじゃないけどそれなりに自信みたいなものも纏っていて。本当に。
 偽物のオレが、鏡の向こうで笑っているみたいだった。
「大丈夫。コウはちゃんとコウだよ」
 オレは鏡から視線を外して千夏を見る。
 彼女の左耳では金魚のイヤリングが揺れていた。
「ちゃんと、やれるかな?」
 思い出したように不安を口にするオレの胸を、ゴン、と千夏が拳で叩く。
「しっかり。この一ヶ月、わたしでずっと練習してきたんだから。なにも心配ないっての」
「……ああ」
 本当は、言葉ほど不安はなかった。
 千夏が言うように、オレはずっと千夏自身と一緒にいたのだから。彼女に肯定された自分をさらに疑うほど、もうオレは子供じゃない。
 金魚だって掬えるし、こうして本物の千夏に会いにいくことだってできてしまう。
 それでも千夏に――ドッペルゲンガーの千夏に不安を漏らしたのは、なぜだろう?
 この期に及んでまだオレは、今目の前にいる彼女に引き留めてほしいとでも思っているのだろうか?
 だとしたら、それはまだオレの中から消えていない幼さが原因だ。
 しっかり、しないといけない。今日までの一ヶ月は、すべてこの日のためにあったのだから。
「それじゃあ」
 と、千夏がオレより先に玄関ドアを開けて外に出る。
「一緒にいくのか?」
「まさか。いったところで意味ないよ。忘れたの? ドッペルゲンガーの特徴」
 ドッペルゲンガーは、オリジナルと同じ空間に存在することができない。
「じゃあ、どうして?」
 尋ねてから、オレは千夏の手にレンタルDVDを入れた袋がいくつも持たれていることに気づく。
「返却期限って今日までだっけ?」
「ううん。まだ先だけど。返しておこうと思って。どうせもう、見られないし」
「どうして?」
「コウのところにはもう、いられないから」
 オレは耳を疑った。
「なんでだよ? まだ、消えちまうわけじゃないんだろ?」
「そうだけど、せっかくコウが本物のわたしと縁りをもどすのに。偽物のわたしがコウの家にいたら、ややこしくなっちゃうでしょ。いろいろと」
「そんなことない。千夏だってそんなこと気にしないはずだ」
「わたしが気にするんだよ」
 千夏の意志は固かった。
 オレがここでどんなに引き留めても、彼女が考えを変える気配はなかった。
「わたしはわたしのことでコウと千夏の関係がこじれる可能性をちゃんと摘んでおきたいの。わたしの願いのためにも。コウだって、自分がわたしの立場だったらきっとそうするでしょ?」
 ドッペルゲンガーの立場――オリジナルの心残りとして顕現し、それを解消するために動き、役目の終わりが命の終わりと直結する存在。
 自分がそうなったときどうするかなんて、実際にドッペルゲンガーになってみないとわからない。
「……オレのドッペルゲンガーも同じ選択をしてるだろうって言いたいのか?」
 千夏はコクリと頷いた。
「ドッペルゲンガーなんて、いないほうがいいんだよ」
 それはちがうと、言ってやりたかったのに。
 今のオレがそれを言うのは、あまりにも的外れで、状況に即していなかった。
「…………家を出ていって、それから千夏は――」
「コウ」
 千夏がオレの言葉を遮るように手のひらを立てる。
「千夏ごっこは今日でおしまい。その名前は、ちゃんと本物の千夏のために呼んであげてよ」
「おまえだって、千夏じゃないか!」
 オレの言葉に、千夏は首を縦にも横にも振らず曖昧に笑うだけだった。
「わたしはわたしのやりたいようにやる。残された時間を、コウの知らないところで、わたしの生きたいように生きる。だから、コウ。コウとはここでお別れ」
 大きく三歩歩いて立ち止まり、彼女はクルリと身を翻す。
 晴れ渡った朝空の下を泳ぐガラス細工の金魚が、日差しを反射してきらめく。
「子どものまま図体だけ大人になりかけてるみたいなコウに呆れることも多かったけど、コウと一緒にいたこの一ヶ月は、わたしにとって、たぶん、そう悪くない一時だったよ。たくさんサメ映画も見られたし」
「結局ソレかよ。おまえは」
「へへっ」
 これ以上ない笑みを浮かべて、彼女はオレに向かって手を振った。
「バイバイ! コウ! 今度こそ、うまくやりなよ! もうだれも、心残りのドッペルゲンガーなんて生み出すことがないように!」
 晴れやかな顔でそう口にする彼女に、オレはなんと返したらいいものかわからなかった。
 口を開けば、括ったはずの腹の底から情けない本音が溢れ出してきそうだった。
 だからオレはぐっと奥歯を噛み締め、精いっぱいの強がりで手を振り返した。
 そしてオレは“彼女”に背を向けて“千夏”と待ち合わせている町の駅へと歩み出した。

          †

 千夏は県外の大学に進学していた。
 こちらにはちょうど盆休みで帰省していて、今日の夜にはまた飛行機でもどるらしい。
 オレは駅の構内に入り、蜘蛛の巣が張られたベンチに腰を下ろして千夏を待った。
 やがて線路の向こうから鈍行の列車がやってくる。
 オレは千夏を迎えようと立ち上がる。
 しかし停まった列車はだれも降ろすことなく次の駅へと走り出した。
 そういうことが三度あった。
 オレは駅舎の丸時計を見上げる。
 待ち合わせの時間にはまだあと十五分ほどあった。
「……あいつと一緒にいようとか考えてたくせに、千夏が来るってわかったら、ちゃんと胸躍らせてるじゃないか」
 ドッペルゲンガーではなく本物の千夏と向き合おうとしている。
 それはきっと正しくて。あいつが望んだことで。オレが、望んでいることだ。
「……」
 踏切の警笛が鳴り始め、田舎町の駅にまた一台の列車が停まる。
 視線を向けると腰の曲がった婆さんが改札口を通っていた。
 無人駅にも関わらず、だれかに向かって礼を言っている。
 オレは視線を落としてケータイの画面を見つめる。
 ずいぶんと大人びたような、つまらない笑みを浮かべている自分がいた。
「コウ」
 そのとき、オレはたしかに聞き馴染みのある声をきいた。
 この一ヶ月ずっと隣できいていた、あいつの声だった。
 オレはガバリと顔を上げて辺りを見回す。
「ここだよ」
 すぐ横で呼びかけられて慌てて振り向く。
「…………え?」
 そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。
 高いヒールと、細い足。ふわりと膨らんだ紺色のスカートとフリルをあしらったグレーのシャツ。スラリと伸びた体躯を折り曲げて、とん、とん、と。跳ねるような足取りで彼女は後ろに二歩下がる。そして下げていた小さなカバンから片方の手を抜き、オレに向かってためらいがちに手を振った。
「ひさしぶり」
 懐かしそうな、けれどどこか緊張した様子で微笑む彼女の肌は作り物みたいに白くて、大きく見える目の下には薄いシャドウが引かれていた。
 乾きを知らなそうな唇には薄い紅が塗られていて。首筋を撫でる長い黒髪は軋みとは無縁の美しさだった。
 どこかの雑誌のモデルだと言われてもすんなりと信じられてしまうくらいに、本当に、見違えるほど様変わりしていて。キレイになっていて。すぐにはそうだと、気づくことさえできなかった。
「…………千夏、なのか?」
 恐る恐る尋ねると、彼女は恥ずかしそうにコクリと頷いた。
 成長した彼女はいつの間にか化粧を覚えていて。ヒールのおかげもあって背丈はオレと同じくらいになっていた。
 ――五年前はオレの胸までしかなかったのに。と、そこまで考えて、それは五年後の自分と比較したときの話だとかぶりを振る。
「どうしたの?」
「いや……」
 口ぶりからしても、彼女は明らかにオレが知っている千夏で。それなのに、目の前にいるのはまるでオレが知らない千夏みたいで。その錯覚に、オレは続けるべき言葉を逸していた。
 そしてオレはドッペルゲンガーが残していった「困ったときの切り札」にさっそく手をつけてしまう。
「……あの、コレ、誕生日プレゼント」
 オレはトートバッグを引っ張りながら立ち上がり、丁寧に包装された紙袋を取り出して千夏に手渡す。
「えー、ありがとう! なんだろう? 開けても、いいかな?」
 オレはコクコクと頷く。
 細い指でセロハンを剥がし、ゆっくりと中のモノを取り出した千夏は、不思議そうにオレの顔を見つめ返す。
「これって?」
「あ、えっと、ネックレスなんだけど」
 それはメタリックの小さな金魚をあしらったネックレスだった。
 今日、八月十五日が千夏の誕生日であることをオレが忘れたことはなかった。
 だからといって、今まで一度もなにかを渡せたことなんてなかったけれど。いい機会だと、オレは連絡をもらってからの一日を使って彼女に似合いそうなものを選んで買っておいた。
 買い物には千夏のドッペルゲンガーも連れていき、なにがいいか案を出してもらうはずだった。ところが土壇場になってオレのアイディアに一任されてしまった。オレが選んだものならなんでもうれしいというのが一応の理由だったが。
「……どう、かな? べつに気に入らなかったら捨ててもらっていいんだけど」
「まさか」
 千夏はさっと後ろ髪をかき上げる。
 そして浅く膨らんだ胸の上に金魚をぶら下げて首を傾げた。
「どう? 似合ってる?」
「……ああ。すごく」
「ありがとう」
 千夏はクスリと笑って、それから思い出したように言った。
「これから、どうしようか?」
「え?」
 打ち合わせでは、オレたちの周りで起こったことについて話し合う予定だった。
「このままここで立ち話っていうのも、ちょっとね」
「ああ。それは、たしかに」
 そう頷いたものの、あいにくこの近くで腰を落ち着かせて話し合えそうな場所はなかった。
 あのコーヒーが苦すぎる喫茶店にだって歩いていくには時間がかかる。
「オレの家くらいしか……」
「え?」
 顔を上げると千夏が驚いたような顔をしていた。
 そこでオレはようやく自分が無神経なことを口走ったことに気づく。
「じょ、冗談! さすがに再開していきなりはないよな!」
 慌てるオレを見て、千夏はおかしそうに口元を緩ませた。
「じゃあ、とりあえず、どこかに出かける?」
「え? いや、でも……」
 千夏に渡すプレゼントを買うために金魚貯金をほとんど使いきったオレの財布にはもう、片道切符ぶんの金しか残ってはいなかった。
「うん。わかった」
 千夏は頷くと駅を出てキョロキョロとあたりを見回して手を掲げる。
 まもなく千夏のまえに一台のタクシーが停車した。
「いこっ」
「……タクシーは、高い」
「大丈夫だよ。お金ならわたしが持ってるから」
「でも……」
 と、逡巡していると視線の先にバスが停まった。
「なら、アレにしよう」
 オレはタクシーの運転手に頭を下げて出発しようとしているバスに飛び乗った。
「コウ」
「こっちのほうが、まだ安いから」
「そうじゃなくて」
 と、隣に腰かけた千夏が言う。
「手」
「え?」
 駆け出すとき、オレは自然に千夏の手を握っていた。
 まるでドッペルゲンガーの千夏に対してそうしていたように。
「わ、悪い」
 慌てて手を放そうとするオレに千夏は言う。
「ううん。いいよ。このままで」
 そして彼女はオレの手をそっと握り返した。
「……」
「……」
 時折緩慢に揺れながら。バスはオレたちを遠くの町へと運んでいく。

          †

 バスの終着地点はショッピングモールになっていた。
 間にもいくつか知った町の名前があったが、とりあえず一通りの店があるからいいだろうというじつに田舎らしい理由で、オレたちはバスに乗り続けることにした。
「こういうのも懐かしいな。都会だと、いる場所にあるものがそのまま目的地になっちゃうことが多いからさ」
「そっちはなんでもあるのか?」
「なんでもはないと思うけど、だいたいのものは揃ってるよ。お店も。人も。なにがないのかわからなくなっちゃうくらいには」
「へえ」
 千夏は窓の外を眺めていた。
 過ぎていく景色はオレと千夏が昔過ごした町のものではなかったけれど、田舎の風景なんてどこも似たようなもので。緑と、アスファルトと、光らない看板が、一遍調子で夏の日差しに照らされていた。
 しばらく。オレたちの間にゆるやかな沈黙が流れていた。
「ドッペルゲンガー」
「うん」
 千夏は窓の外に視線を放ったまま相槌を打つ。
「千夏のまえにも、現れたんだな」
「最初はびっくりしたよ。もうコウとは会えないと思ってたから」
「どうしてドッペルゲンガーだってわかったんだ?」
「センパイがね、教えてくれたんだ。わたしのまえに現れたコウのことを話したら、それはドッペルゲンガーじゃないかって」
「へえ」
 木崎さんみたいに変わった人も、どうやら都会にはごまんといるらしい。
「コウは?」
「オレも似たようなもんだよ」
「じゃあ、ドッペルゲンガーが現れた理由については?」
「それについては、本人から直接きいてる」
「そっか」
 千夏の胸で揺れている金魚が翻り、窓から差し込む光を反射した。
「心残りのドッペルゲンガー」
 伝えきいたであろう言葉を反芻し、彼女はどこか自嘲気味に笑う。
「コウにもあったの? 心残り」
 オレの手は変わらず彼女の手と繋がっていて。今更それを隠す気にはならなかった。
「実際に千夏のところにドッペルゲンガーが現れたんだから、きっとそういうことなんだろう」
 千夏は窓の向こうに放っていた視線をこちらに向ける。
「コウ、千夏って呼んでくれたこと、あったっけ?」
「え?」
 当然、あるだろうと思っていた。
 十年近く一緒に過ごした幼なじみなんだ。呼ぶ機会なんて何度もあっただろう。
 けれど、千夏の顔を見るに、どうやらなかったらしい。
 考えてみれば頷ける話ではある。ドッペルゲンガーに促されるまで、オレはあいつのことも名前で呼ぶことができなかったのだから。
「……甘木?」
「そっちもないよ」
 そういって、千夏はからかうように笑った。
「いいよ。千夏で」
「じゃあ、千夏」
「なに? コウ」
 よくある話かもしれないけれど、そうして名前を呼び合うだけで、離れていた時間がすこしずつ縮まっていくような気がした。
 同時に、あいつと重ねたはずの時間が、だんだんと薄らいでいくようだった。
「なんだかおかしな感じだね。互いに一言だって自分の想いを口にしてないのに、相手の気持ちを知り合ってるなんて。隠していた秘密を勝手にバラされたみたい」
「たしかに。でも」
「うん」
 オレが言葉を続けなくても、千夏にはオレがなにを言おうとしているのか伝わっていた。
「わかってたよ。あのときコウがなにを言おうとしてたのか」
 そう言いながら千夏が浮かべていた笑みは、十五歳の千夏と重なって見えた。
「そのへんは、でも、わたしのドッペルゲンガーからきいてるよね? たぶん」
「まあ、な」
 時折ガタンと揺れて。それが心地よい眠りへと誘う車内で。千夏はかみしめるように呟く。
「コウはあのときわたしに告白しようとしてくれてた」
「ああ。そして千夏はそれを待っていた」
 オレたちが五年間ずっと引きずり続けていた過去は――もしかしたらそうだったかもしれないという淡い期待は――ドッペルゲンガーの密告を介することでいともたやすく清算された。
「わたしのドッペルゲンガー、他になにか言ってた?」
「もし告白されてたとしても、断ってたかもしれないって」
「えー、なにそれ」
「ちがうのか?」
「……どうだろう? たぶんそんなことないと思うけど」
「あいつも可能性は低いって。ただ、付き合ったとしても別れてただろうとも言ってたな」
「わたしのドッペルゲンガーってそんなになんでもズケズケ言う感じだったの?」
「ああ。ドッペルゲンガーだからな。本人のためにも気は遣わないってさ」
「そうなんだ」
「オレのドッペルゲンガーはどうだったんだ?」
「え?」
 千夏はすこしの間言い淀んだ。
「コウは……そうだな。あのとき告白できなくてごめんとか、そういうことを言ってたかな」
「へえ」
 オレの知らないところで千夏と接触し、彼女と一緒にいたオレのドッペルゲンガー。
 その動向には興味があった。
「千夏のことをバカにしたりとかは?」
「そういうのは、あんまり」
「こっちはひどかったぞ。何度オレの人格を否定されたことか」
「そうなんだ」
 千夏はおかしそうに口元に手を当てて笑う。
「まあ、たしかにあのときのオレが至らなかったのは事実だからな」
「そんなことないよ。告白なんて本当はどっちからしてもいいんだし。至らなさを言うならわたしも同じ」
「それはまあ、そうかもしれないけど」
「うん」
「……」
「……」
 ドッペルゲンガーと話し続けていたせいだろうか。
 どうにも、千夏との会話がぎこちない。
 噛み合わないわけではないけれど、スムーズにいくと思ったところでどちらかの足並みがズレているというか。どちらかが相手に合わせているような感じがするというか。繋がっているはずの二人の手の間に、まだなにか空白があるみたいだった。
 ――あいつと話しているときは、こんなふうじゃなかったのに。
「コウはこの五年、どんなふうに過ごしてたの?」
「え? ああ、えっと……」
 と、答えようとしたところでバスがショッピングモールに到着した。
 慌てて財布から小銭を取り出そうとするオレの手を広げて千夏が小銭を握らせる。
「はい、五百二十円」
「いや、出すよ。自分のぶんくらいは」
「べつにいいよ。どうせタクシー代出そうとしてたんだし」
「でも……」
「じゃあ、誕生日プレゼントのお返しってことで。たしかコウも、来週誕生日でしょ?」
 オレは千夏がオレの誕生日を覚えてくれていたことに驚いた。
 自分の誕生日なんて、言われるまでオレ自身も忘れていたのに。
「……わかったよ。悪いけど、頼む」
 オレは既に空同然の財布をバッグにしまい、千夏と一緒にバスを降りた。
「さて、どうしようか」
「コウはどうしたい?」
 オレは首を捻って考える。
 話をするなら喫茶店かどこかに入ればいいと思う。
 けれど正直今のオレにはコーヒー一杯の金さえ出し渋りたい額だった。
「じゃあ」
 と、千夏が後ろの壁に張られたチラシを指差して言った。
「映画でも観よっか?」
「映画?」
 コーヒーどころか映画なんて、と困惑するオレに千夏は「大丈夫」と膨らんだ財布を見せる。
 できることなら甘え続けるのは避けたかったけれど、強がれる懐事情でもない。
 彼女の善意を突っぱね続ければ、どこにも入れないまま今日という一日が終わってしまいそうだった。
「……わかった。いつか絶対返すから」
「うん。おっけー」
 どれを見ようかとチラシを一瞥していると、水着の女がサメに呑まれているいかにもなサメ映画のポスターを見つけて苦笑する。
「おもしろそうなの、やってるな」
「そうだね。たのしみだな」
 オレは千夏の手を引いてモールの三階にある映画館に入った。

          †

「たのしかったね」
 声を弾ませて映画館を出る千夏にオレは尋ねた。
「本当によかったのか? この映画で」
 千夏が選んだのはいかにもなサメ映画ではなく、小説原作のミステリー映画だった。作家独自の世界観が特徴的で、語り口ひとつとっても好みが分かれそうなタイプの作品。
「コウはたのしめなかった?」
「いや、そんなことはないけど」
 むしろオレは昔からこういうのが好きでよく見ていた。
 だからたのしめなかった、なんてことはないけれど。
「千夏は、ああいうのが好きなんじゃないのか?」
 オレは通路の端に置かれたサメ型パネルを指差す。
「ああ」
 と、千夏は苦笑しながら言った。
「そういえば、昔はよく見てたな」
「今は好きじゃないのか?」
「そんなことはないけど、他のモノもたのしめるようになったって感じかな。だってサメ映画ってなんで流行ってるのかわからないくらいヘンテコだし」
「それはそうだけど」
「せっかく二人できてるんだから。わたしひとりがたのしむよりも、コウと一緒にたのしめるほうがいいかなって」
「そっか」
 千夏の言葉はもっともで。そこには独りよがりじゃない思いやりがあって。あの夏の姿をしたドッペルゲンガーと比較しながら、オレはあらためて彼女が成長していることを実感する。
 容姿だけじゃなくて。あたりまえに、彼女は大人になっている。
 それは正しいことで。言動ひとつとってもどう考えたって大人になった千夏のほうが優れているのに。
 ――どうして、オレはそこに哀しさを見出してしまうんだ?
「どうしたの? コウ」
「え?」
 いつの間にか立ち止まってしまっていたオレを千夏が待っている。
 オレは急いで駆け出して、彼女の横に並んだ。
「コウって、わたしのドッペルゲンガーとなにしてたの?」
「借りてきたサメ映画をひたすら見たり、死んじまった金魚を埋めたり」
「なにそれ」
「そっちは?」
「うーん、特に言えるようなことは」
「なにかあるだろ。一緒に暮らしてたんだから」
「え? 一緒に暮らしてはないよ?」
 オレたちの間に一拍の沈黙が下りた。
「……暮らしてないのか?」
「うん。ドッペルゲンガーとはいえ、一応男女だし」
 ポカンと口を開けていた千夏が、訝しげな顔でオレのほうを見つめてくる。
「……コウは、暮らしてたの?」
 オレは慌てて言葉を繕う。
「いや、だって住むところがないって言うからさ! それを突き放すのはさすがにオレの道徳心がさ!」
「なにもしなかった?」
「す、するわけないだろ!」
「ホントに?」
 オレはコクコクと頷く。
 疑われているようなやましいことはなにもしていない。
 ……強いてあげるなら、手を繋いで同じ布団で眠ったくらいだ。
 それもべつに欲情したからとかではなくて。サメ映画を見ているうちに眠くなって自然にそうなっていたにすぎない。
「だって、十五歳だぜ」
「え?」
「さすがにしないよ。その辺はわきまえてる」
 千夏はしばらく難しそうな顔をしていた。
 しかしやがて「そっか」と納得した様子で頷いた。
「そっちのオレはむしろ大丈夫だったのか? 無一文だったんだろ?」
「そのへん、コウはしっかりしてたから。ときどき家にはきたけど、泊っていくようなことはしなかったな。オリジナルのコウに悪いって」
「へえ」
 オレのドッペルゲンガーのことだ。
 きっとその言葉は本心ではなく、ただカッコつけようとしただけだろう。
「それでも、なんだかんだ千夏のためにやってたんだな。ドッペルゲンガーのオレは」
「うん。だって、コウだからね」
 それは誉め言葉だったけれど、褒められているのはオレじゃなくてオレのドッペルゲンガーのようだった。
 そこを同一視することが、どうにもできなかった。
「他には? ずっとサメ映画見てたわけじゃないでしょ?」
「あとは……そうだな。服買ったり、喫茶店いったりとか」
「喫茶店って?」
「サンドイッチがうまいところがあるんだ」
「へえ。いってみたいかも」
「ここからだとちょっと距離があるぞ」
 と、言ってから、通ってきたバス停のひとつがそういえば喫茶店にほど近い場所にあったことを思い出す。
「帰りにいってみるのはいいかもな」
「そうだね」
 話しながら歩いていると、いつの間にかオレと千夏の間には距離ができていた。
「悪い。先々いっちまって」
「ううん。それより」
 千夏はオレが着ている服を見て言う。
「それって」
「ああ。千夏のドッペルゲンガーに選んでもらったんだ」
「ふーん」
「悪くないだろ?」
 他でもない千夏のドッペルゲンガーが選んだものなのだから、オレはてっきりすぐに頷いてもらえるものだと思っていた。
 ところが千夏は曖昧に笑ってから「そうだ」と思いついたように言った。
「わたしが新しい服、買ってあげようか?」
「え?」
「誕生日プレゼントってことで」
「それはでも、バス代とか映画代とかで……」
「それはでも、返してくれるんでしょ?」
「まあ」
「それじゃプレゼントにはならないじゃん。やっぱりなにか、ちゃんと形のあるものをあげたいなって」
 それに、と千夏は言葉を続ける。
「ドッペルゲンガーが選んだ服なんて、ちょっと気味悪いでしょ?」
「…………え?」
 オレは返事に詰まった。
 すくなくとも今のオレは、オレを変えてくれたあいつに対して、そんな感情はちっとも持ち合わせていなかったから。
 感謝こそあれど、気味が悪いなんて、そんなこと。
「そんな服着てたら、いつまでも忘れられないでしょ?」
「忘れる?」
「ドッペルゲンガー」
 あたりまえのことを言うように千夏は続けた。
「ドッペルゲンガーなんて非現実、わたしたちは早く忘れないといけないんだよ」
「…………」
 ――――本当に、そうなのだろうか?
 たしかに、いい年をした大人が幽霊とかUFOとかについて真面目な顔をして語っていたら笑いものだ。
 木崎さんも言っていた。大人になるとそういう非現実的なモノにはいき合わなくなると。
 でも。それが大人になることなのだとしたら。
 非現実という言葉で一括りにされた者たちの一生は、あまりにも報われなさすぎやしないだろうか?
「……」
 オレはかぶりを振って浮かんだ思考を払う。
 オレはあいつと離れることに決めたんだ。それはあいつのことを忘れて過ごすことと同義じゃないか。
 あいつもそれを望んでいる。
 現実に生きているオレは、ちゃんと大人にならないといけない。
「じゃあ、お願いしようかな」
 オレの言葉に千夏は満足そうな笑みをこぼす。
 そしてオレたちはショッピングモール内にあるテキトーな服屋に入った。
「ぴらっちゃいませぇー!」
 オレたちが敷居を跨ぐなり、店の奥から絞められている鳥みたいな声の店員が近づいてくる。
 フライドチキンを頭に乗せているみたいな髪の彼女と対面して、オレは思わず立ち止まった。
「げっ」
「げっ」
 潰れたお好み焼きみたいな顔で笑っていた彼女の顔が一瞬ひきつる。
「知り合い?」
 不思議そうな顔をして首を傾げる千夏。
 素直に打ち明けようか、すこし迷った。
 その間に店員の女は潰れたお好み焼きみたいな顔をとりもどし、絞められた鳥みたいな声でもう一度仕切り直した。
「ぴらっちゃいませぇー。ごカップルさんですかぁー?」
 それをきいてどうするんだという疑問をぐっと飲み込んで、オレは千夏と顔を見合わせる。
 千夏は驚いたような顔でオレのほうを見つめ返していた。
 けれどやがて壁に貼られた『大特価! カップル割り!』のチラシを目にして、恥ずかしそうに視線を落としながら彼女はオレに耳打ちする。
「……カップル限定で、ペアの服が九割引きなんだって」
「へえ」
「ねえ、コウ」
 千夏が躊躇いがちにオレの手を握ろうとする。
「…………え?」
「あ…………」
 オレは彼女の手を避けていた。
 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかった。
 さっきまで自然と繋げていたのに。
 いくら恥ずかしくたって、あいつとは、ちゃんと繋ぐことができたのに。
 心のどこかが、千夏のなにかを、拒んでいた。
「……」
 オレと千夏の間に気まずい沈黙が流れそうになる。
 それが嫌で、オレは慌てて一度避けた千夏の手をとった。
「どうも。カップルです」
 オレは店員の女に向かって白々しく笑いかける。
 その宣言をきいて千夏はぎこちない笑みを浮かべる。
 店員の女は潰れたお好み焼きみたいな顔で笑うと勝手にオレたちをペアルックのコーナーへと案内した。
「ふざけた企画だけど、安くしてくれるんだからいいよな」
「うん」
「そのためなら恋人のフリくらいできるって」
「うん」
「予行練習だと思って」
「え?」
 ポカンと口を開ける千夏を見て、オレはようやくオレの言葉が機能不全を起こしていることを自覚する。
「ああ、いや、えっと……あいつと、そういう会話をしたことがあったんだ」
「あいつって、わたしのドッペルゲンガー?」
「ああ。いつか本物の千夏とできるようにって」
「ふーん。そうなんだ」
 千夏が気のない返事をする。
 てっきり呆れられてしまったのかと思った。
 しかし千夏はやがてぎこちなかった笑みを崩して、自然な表情で言うのだった。
「じゃあ、今が本番だね」
 心を掌握するみたいなそのセリフを受けて、オレの胸の奥でなにかが軋んだ。
 白い歯をのぞかせて笑っている千夏に店員がペラペラしゃべりながら様々な服を渡していく。
 オレの服を買いにきたのだと千夏は説明していたが、ペア割りなんだから先に選べばいいと、オレは千夏を試着室に見送った。
「ふう」
 店員の女がくたびれたように息を吐く。
 合わせてなにか白い煙のようなものが目の前を覆って、様子を窺ったオレは失笑した。
 女はどこからか取り出したタバコを口に咥えて一服していた。
「いいじゃないか、ね。タバコの一本くらい」
 呆れているオレに気づいたのか、女はどこかのだれかみたいな人を喰った物言いでつらつらと言葉を落としていった。
「あれから勝手にセールしてるのが店長より上の人間にバレてブチギレられた。どうせ解雇するなら怒らなくたっていいのに」
「勝手にやってたんですか、アレって。じゃあ、今回のも……」
「まったく、ニコチンでもとらないとやってられない」
 女は店の端でぷかーと煙を吐いて吊るされた服を人知れず汚していく。
「ようやく新しいバイト先見つけたってのに。またのこのこ現れやがって」
「……もしかして、オレのせいにしてます?」
「だれのせいにしてもいいだろ。これはただのひとりごとだ」
「ひとりごとでもバッチリきこえてるんだけどな」
「ならこれは愚痴になるかな?」
「そうですね」
「だったら互いに相手の秘密を黙っておくことでウィンウィンの関係を築いておこう」
 いつかと重なるやりとりをペラペラと続けていたオレの口が、そこでピタリと動きを止めた。
「……オレの秘密って、なんですか?」
「キミがちょっとまえまで他の女の子と恋人ごっこしてたモテモテ男子であることとか」
「……」
 見当ちがいな糾弾にオレは苦笑する。
「同一人物なんですよ。あいつも、彼女も」
「違法と合法くらい年はちがって見えるけど?」
「じゃあ、ちがいなんてそれだけなのかもしれませんね」
「なるほど。それはたしかに些細なちがいだ」
 くっくっくっと喉を鳴らしながら彼女は笑う。
「でも、私にはやっぱりそうは思えないかな」
「外見とか似てませんか? ちょうどあいつの五年後、みたいな」
「内面も?」
「それは、もちろん」
「ふーん。まあ、キミがいいならいいけれど」
「ずいぶんと含みのある言い方ですね」
 だって、と彼女は言う。
「キミはべつに好きな人がいるって感じの顔をしてる」
 女が平然と口にしたその言葉に、オレは耳を疑った。
「……なにを言ってるんですか」
 一拍の沈黙を挟んで、オレは彼女に向かって言う。
「あのときあなたに言われた好きだったやつが、今カーテンの向こうにいる人なんですよ」
「へえ。じゃあそれはもう過去の話だ」
「過去って……オレってそんなに軽薄に見えますか?」
「いいや。むしろ重すぎて昔の恋愛を延々と引きずってしまうタイプに見える」
「……まあ、当たってますよ。だからオレは……その過去と向き合うことにしたんです。あなたの言葉で言うなら、オレはもう、可能性のカーテンを開けたんですよ」
「それはどうかな? 私からしてみれば、キミはまだ変わらず少年のままだけど」
「オレなりに大人になったつもりですよ」
「ならどうしてそんな顔をしてるのさ?」
「どんな顔ですか」
「こんな顔」
 女はどこからか手鏡を取り出してオレに向けた。
 オレは鏡に映ったオレを見て、ゾッとした。
「…………」
 あんなに変われたと思っていたのに。
 千夏に認められるくらいはマシな顔になったはずだったのに。
 今のオレの顔には、あのときと同じ戸惑いが滲んでいた。
 ドッペルゲンガーと一緒にいながら本物の千夏のことを想っていたオレと同じ顔をしている。
 あのとき願ったとおり、今はこうして本物の千夏と一緒にいるのに。ひさしぶりに会えて、たくさん話をしながらデートみたいなことをして。これ以上ないくらい、夢中にならないほうがおかしいくらいにたのしいはずなのに。
 そんな今に没頭せずに、いったいオレはだれのことを考えている?
 だれのことを、想ってしまっている?
「シュレディンガーの夏」
「…………」
「キミはまだ可能性のカーテンを開けてないよ。精々開けようとしてる段階ってところだ」
「……そんなことない。オレは決めたんだ。オレがずっと好きだった相手とちゃんと向き合うことに」
「まあ向き合ってはいるんだろう。でも、向かってはいない」
「言いませんでしたか? オレ、物理学とかはわからないんですよ」
「だから言っただろ。ただの人生学だって」
「なら、なにが正解だって言うんですか? オレはあいつのことが昔からずっと好きで。なのにあいつから目を逸らしちまったから、もう目を逸らさずにいようとしている。それってまちがいじゃないでしょう?」
「それを他人にきいてる時点でキミはまだ少年だよ」
 やれやれと肩を竦めて女は言う。
「まあ、べつにまちがいじゃないさ。大事なら大事にするべきだし、好きなら好きにするべきだ」
「なら……っ!」
「キミ、ホントにあの子が好きなの?」
 ポツリと落とされたその言葉が、オレの脳を揺さぶった。
「おまたせ」
 着替えを済ませた千夏がカーテンを開けて出てくる。
 ワンポイントをあしらっただけの赤いTシャツは、彼女が既に身に着けていた紺色のスカートとは妙に調和がとれていなかった。
 千夏もそれを自覚しているようで、曖昧な笑みでオレの顔を窺っていた。
「似合ってるよ」とオレは言う。
「うん」と千夏は頷く。
 どうしてウソなんて吐いているのかわからなかった。
 店員の女は「そうでもないね」とタバコの煙を吐き出しながら思ったままを口にする。
 そして彼女は店の奥から適当なスカートを引っ張り出して千夏に渡し、タバコをポイと店の端に捨てながら言った。
「彼女からしてみれば、カーテンを開けてみるまでそこにどんなわたしがいるかわからない。店員をやってるわたしかもしれないし、店員であることをキューケイしてるわたしかもしれない。だけどキミは変わらずにいるだろう。よくもわるくも、そのままのキミが」
「……なにが言いたいんですか?」
「キミが向き合うべきなのは、他人の心でも過去の自分でもなくて、今の自分の心なんじゃないのかい?」
 オレの事情なんてちっとも知りやしないくせに。勝手な考えをバラまいた女は、最後にひと喋りしてからオレに買わせる服を選びにバックヤードへともどっていった。
「あの日の彼女と今の彼女が同じだとキミは言うけれど、やっぱりどうにも私には二人がちがって思える」
「どこが?」
「すべてが」
 そんなはずがない、と。すぐに言い返すことがオレにはできなかった。
「まあ、人間なんて五年も経てばふつうは変わってるものさ。変わってない人間がいるとしたら、それは時間の流れにとり残されているってことになんだろう。よくもわるくもね」
「…………」
「だから、まもなく青年になる少年。キミが可能性のカーテンを開けるときをたのしみにしてるよ」
 オレは千夏が買ってくれたシャツとズボンを着て店を出た。
 千夏は買った服をそのまま袋に入れていた。
 その袋の中にオレが着ていた服を丸めて押し込んでいると、なんだか自分の気持ちを潰しているような気になった。

          †

 それからも、オレと千夏は互いの近況について明かしながらショッピングモールをまわった。
 千夏は映像研究会に所属していて。隔月で映画を撮影しては学内の人間を集めて上映会をしているらしい。千夏はそのサークルの女優で、この夏休みは同時に三本の映画に出演するため、盆くらいしか休めるときがないそうだ。
 本人は謙遜していたけれど、彼女に人気が集まっているのは明らかで、オレとはちがって立派に大学生をやっているのが伝わってきた。
「ってことは、やっぱいつかはプロの女優になるのか? 事務所に所属したり」
「まさか」
 千夏はありえないことだと笑いとばす。
 女優をやっているのはあくまで成り行きであり、元は映画のディレクションについて学びたくて映像研究会に入ったらしい。
 けれどそれも単なる興味でしかなく。大学に入るまえから彼女は既に自分の未来を決めていた。
「スクールソーシャルワーカー?」
「うん。元々それを学びたくて入った大学だし。知ってる? スクールソーシャルワーカー」
 オレは首を横に振った。
「まあ、簡単に言うと、カウンセラーと先生の中間みたいな仕事」
「へえ」
「一応、資格試験とかもあるんだけど、そんなに難しくないからさ」
「そうなのか」
「うん」
 会話が途絶えると、千夏はオレのことをきいてきた。
 オレはきかれたことについていくつかの話をした。
 千夏はなんでもない相槌を打っていたが、貼りつけた笑みの奥で心をひきつらせているのがわかった。
 オレの大学生活は、千夏と比べてお世辞にもいいものとは言えなかったから。
 やがて千夏はオレの近況についてきくのをやめた。
 きいてもいいことはないと悟ったのだろう。
 気まずい沈黙が続くのを恐れてオレはしきりに千夏に質問を重ねた。
 けれどそうして千夏について尋ねれば尋ねるほど、オレの中でノイズのようなものが生まれていった。
 千夏が映像研究会に入っていたことも、スクールソーシャルワーカーなんて横文字の仕事に就こうとしていることもオレは知らなかった。
 単に見識がなかったというだけではない。
 オレは、オレが知っている十五歳までの甘木千夏から、そんな未来を思い描くことができなかった。
 千夏は人前に出てなにかをするのを好むようなやつじゃなかった。カメラを回しても、回される側になるのは嫌がりそうなものだった。たしかにサメ映画は好きだったけれど、彼女から映画を撮ってみたいという話はきいたことがなかった。だからあくまで消費者としての「好き」でしかないのだと思っていた。
 仕事にしたって、千夏は「なりたいから」ではなく「なれそうだから」でそれを選んでいるようだった。
 そんな理由で仕事を選んでもいいのかなんて尋ねる資格はなかったけれど、「そんな理由で仕事を選んでいる自分」にまるで葛藤がない様子の千夏を見ていると、なんだか彼女がずいぶん遠いところにいってしまったような気になった。
 同い年のはずなのに。
 幼なじみのはずなのに。
 ひさしぶりに会った千夏は、オレよりずっと大人になって見えた。
 時間の流れ方がちがっているかのような。オレの知らない世界にいってひとりで大人になってきてしまったかのような。
 ――かつてはたしかに千夏だったはずの、知らないだれかが、オレの隣にいるみたいだった。
「…………」
「…………」
 やがて、オレたちの間から会話がなくなっていった。
 昔はなにも考えなくたって話くらいできたし。話さなくたって、それで緊張することなんてなかったはずなのに。
 あの頃とはちがう、妙な居心地の悪さが、オレと千夏の間に下りていた。
「…………千夏?」
 ふと、隣に彼女の気配を感じなくなって振り返ると、千夏が足を押さえて蹲っていた。
「どうした?」
 駆け寄って彼女の手をどけてみる。
「お、おい。どうしたんだよ、これ?」
 千夏の足首は赤く腫れあがっていた。
「ああ、うん。ごめん。ちょっとくじいちゃって」
「いつ?」
 一拍の沈黙を挟んで、彼女は言った。
「さっき」
 口元を緩ませて笑おうとしている千夏の視線は斜めに落とされていた。
 それは千夏がウソを吐くときのクセだった。
 オレは彼女がウソを吐いてまでなにを隠そうとしているのか考える。
 考えて、思い出して、息が詰まった。
「……オレのせいか?」
 思えば、ショッピングモールに着いてから今日一日、彼女の歩みは遅かった。
 それが今の千夏の歩幅なのかと思って合わせようとしていたけれど、もし、ケガが理由で、それを悟られまいとしていたのだとしたら。オレは彼女にずっと痛みを我慢させていたことになる。
 ――あのとき。バスに乗り込もうと彼女の手を引いたとき。思えば一瞬だけ、背後で千夏の苦悶に歪んだ声をきいたような気がした。
「…………ごめん、千夏。ヒールの靴だもんな。いきなり走ったりしたら、ダメだよな」
「コウのせいじゃないよ。わたしがフラフラしてたから」
「痛むか?」
「……ちょっとだけ」
 オレは腰を屈めて彼女を背負った。
「ちょ、ちょっとコウ? なにしてるの?」
「その足で歩かせるわけにはいかないだろ」
「でも……」
 千夏が恥ずかしそうに顔を赤くして辺りを見回す。
 同じようにすれ違う人々もチラチラとオレたちの様子を窺っていた。
「……帰ろう」
 オレはだれの目にも留まることがないように早足で歩いた。
 エレベーターに乗ろうかと考えたけれど、既に何人かが待っていたのでエスカレーターを下った。
 集まる視線を振り切ってショッピングモールを出たオレたちは、ちょうど帰りのバスが停まっていることに気づく。
 いつの間にか空は茜色に染まり、夕映えの光線が遠くの山のふもとから放たれていた。
「いいよな?」
「……うん」
 オレは千夏を背負ったままバスに乗り込んだ。
 そして間もなく、バスはショッピングモールをあとにして走り出した。
 千夏は肩から手を滑らせるように離して席に座る。
「ありがとう、コウ」
「礼を言われることじゃないよ」
「重くなかった?」
「ああ、特には」
「そっか。よかった」
 小さく笑いながら息を吐いて千夏は言った。
「コウって、変わってないよね。昔から」
「そうか?」
「そんなふうにカッコつけるところとか」
 ドッペルゲンガーの千夏にも同じことを言われた。
 あの日はひとりで延々と土を掘り返して。案の定、翌朝は筋肉痛で散々だった。
「コウは……」
 と、なにかをいいかけて、千夏は言葉を呑む。
「なんだ?」
「ううん。コウは、昔と変わんないなあって」
「それはさっきも言ったじゃないか」
「うん。そうなんだけど、本当に。そうなんだなあって」
 噛みしめるように千夏が呟いた想いと逆のことを、オレは千夏に対して感じていた。
 千夏は、なんというか、すごく大人になってしまったような気がする。
 それは千夏が言うように、オレがいつまでも子供のままでいたからかもしれないけれど。
 見た目はもちろん。考え方とか、振る舞いとか、将来に関する見通しとか。
 オレが知っている千夏と、今の千夏とは、なにもかもがちがって見える。
「コウって、今、付き合ってる人とかいるの?」
「え?」
 脈絡のない突飛な質問だと思った。
「いるわけないだろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 そんなこと、きくまでもないことのような気がした。
「オレはおまえのところにドッペルゲンガーを送り込んじまうくらい人生にまいってるんだぜ?」
「そんなこと、自信満々に言わないでよ」
 窓の外を見つめながら笑う千夏に、オレは同じことをきいてみる。
「千夏は、いるのか?」
「いないよ」
 千夏はすぐにそう言葉を返した。
「コウは、五年もずっとわたしのことを好きでいてくれたんだよね」
 千夏はなにかをたしかめるように言葉を落とす。
「ああ。千夏も」
「うん」
 今さらの確認を重ねながら、オレはふいに違和感を覚える。
 ひさしぶりに会った千夏は、オレほど人生にまいっている感じがしなかった。
 この一か月でオレだってそれなりに改善してどん底の調子ではなくなっている。
 だけどそれはずっとオレと一緒にいて人生のカウンセリングを施してくれていたドッペルゲンガーのおかげで。あいつのおかげでようやくオレは“昔と変わっていない状態”まで回帰することができた。
 けれど、千夏は、そんなオレとちがって、あたりまえに成長している。
 オレと同じく心残りのドッペルゲンガーを生み出して、ずっとあの日に想いを馳せていたはずなのに。
 オレも、千夏も、あの日に心を残してきたはずなのに。
 千夏ばかりが大人びて見えるのはなぜだろう?
「それだけ?」
「え?」
 見れば千夏がオレのほうを覗きながら首を傾げていた。
「わるい。なんだっけ?」
 千夏は「なんでもない」と言って細い息を吐いた。
 夕焼け色の窓が微かに曇った。
「帰りの飛行機には、まだちょっと時間あるんだ」
「なら、昼間言ってた喫茶店、いくか? サンドイッチがうまいとこ」
「いきたい」
 オレと千夏は駅から三つ手前のバス停で下りた。

          †

「ホントにおぶらなくていいのか?」
「うん。まだちょっと痛いけど」
「なら……」
「あそこでしょ?」
 と、千夏が向かいの喫茶店を指さす。
 相変わらず掲げられた『コーヒー一杯五十円』ののぼりが安物買いを招いている。
「さすがに背負われたままお店に入るのはね」
 そういって千夏は横断歩道を渡り始める。
 オレは千夏の歩調に合わせてゆっくりと後ろからついていった。
 オレたちの間には二人分くらいの距離ができていた。
「昔やらなかった? 横断歩道の白線だけ踏んで歩くやつ」
「ああ、やってたやってた」
 オレはとん、とん、とん、とアスファルトの上を飛んで千夏の前に躍り出る。
 千夏はそんなオレを見て苦笑いを零していた。
「千夏は、できないよな」
「うん。そうだね。もう、できないかな」
 その言葉の真意すらわからぬまま、オレは店の中へと入り席についた。
「なににする?」
「サンドイッチがおいしいんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、それと」
 ガラス窓の向こうではためくのぼりを一瞥して千夏は言う。
「コーヒーかな」
 オレは同じようにソレを頼んで苦さにやられたドッペルゲンガーのことを思い出していた。
 元からコーヒーなんて全然好きじゃないくせに。あいつはいつも背伸びして大人ぶっていた。まるで苦いコーヒーさえ飲めれば大人になれると信じているみたいに。
「やめといたほうがいいぞ」
「どうして?」
「ここのコーヒー、すごく苦いんだ」
「へえ。そうなんだ」
「だから飲むなら覚悟して……」
「飲まないよ」
「え?」
 当然のような顔でそう答える千夏に、オレは続いていたはずの言葉を失った。
「だって苦いんでしょ?」
「……それは、そうだけど」
「じゃあ他のにしとく」
「なんで?」
「え?」
 オレの問いに今度は千夏のほうが困惑を露にする。
「なんでって、理由はだから、苦いからだけど」
「そうだけど、でも、千夏は、昔からよく飲んでただろ。無糖のコーヒー」
「……ああ、飲んでたね。そういえば」
 懐かしそうに瞳を陰らせて千夏は言う。
「コウのまえでだけ、ムリして飲んでたなあ」
 千夏はあっさりと自供した。
 ドッペルゲンガーのあいつが、十五歳の千夏が一度も認めようとしなかった強がりを、過去のこととして語って。彼女は開いたメニューをざっと見てからカフェオレを頼んだ。
「コウは?」
「ああ、えっと、じゃあ、コーヒー」
「それと、サンドイッチで」
 注文を済ませた千夏はメニュー表を閉じて笑った。
「いいの? 苦いんでしょ?」
「……背伸びするの、やめたのか?」
「うん。だってもう、背伸びしなくていいくらい、大人になっちゃったし」
 オレが渡したネックレスが彼女の胸元で光っていた。
 十五歳だった彼女と比べて、その胸も、その背も、ずいぶんと成長して変容を遂げていた。
「わたし、変わったでしょ?」
 オレのほうをじっと見つめて千夏はふっと口元を緩ませる。
「ああ。たしかに」
「五年もあれば人は変わるものだよ、よくもわるくも。大人になるにつれて平均値に近づくように目減りされて特別じゃなくなっていく。相手に合わせることもできるようになるし、納得できないことにも折り合いをつけて妥協することを覚えていく」
「…………」
「だからコウも、きっと変わってるんだって思ってた」
 沈黙の中でオレはゆっくりと理解していく。
 オレと千夏の間にずっと漂っていた違和感の正体について。
「変わってないって、よく言われたな。今日は」
「うん」
 その言葉をオレは好意的に解釈していた。
 久しぶりに再会した幼なじみが、ずっと好きだった相手が、変わらずにいてくれてよかったと。
 変わっていない――その言葉が必ずしも賞賛の意味を含んではいないことくらい、すこし視野を広げて考えてみればわかりそうなものに。
 オレは千夏に、変化なんて求めていなかった。というより、変わってしまった千夏なんて想像することもできなかった。なぜならオレ自身があの日で空想の時間を止めて、過去に縋って生きて、未来など視ようともしていなかったから。
 けれど、どうやら千夏のほうはちがっていたらしい。
 千夏はこの五年、しっかりと人生をやっていて。その五年の積み重ねで自身を変化させていた。その結果として見違えて、千夏ではないべつのだれかに思えてしまうくらいに、オレが知っている千夏との間に齟齬ができてしまっていた。
 ――――この五年で、千夏は変わって、オレは変わっていなかった。
 それが今日一日オレたちの間にずっとあった不調和の原因だった。
「でも、なんでだよ?」
 ふつうに生きていたら人は五年で大なり小なり変わってしまう。
 現在を、未来を生きるために、過去と折り合いをつけて生きていくしかない。
 たしかにそうだろう。
 だけどオレたちの間には既にひとつ、ふつうじゃないことが起こっている。
「千夏も過去に囚われていたからドッペルゲンガーなんてものを生み出しちまったんじゃないのか?」
 心残りのドッペルゲンガー。
 それは紛れもなく当人が折り合いをつけられてない過去を保持している証明だった。
「うん。そうだね。わたしもこの五年間、よくあの日のことを考えてた」
 でもね、と千夏は言う。
「考えてたけど、それを理由に足を止めたりはしなかったよ。だってそうしているうちに大事なものをとりこぼしていっちゃうかもしれないし。わたしにとって心残りは点だから」
「点?」
「そう。ふいに振り返ってそこにあったことを思い出す、人生の線上にある点」
 オレは、そんなふうに考えたことがなかった。考えることができなかった。
 オレにとって心残りは点ではなくフタだった。
 振り返るものではなく、目の前に――あるいは目の上にあり続けて視界を遮り、行く手を阻む天井のフタ。
 それによってオレの人生はずっと前進を止められていた。
「今日一緒にいて、懐かしかったよ。なんか、十五歳のときのコウが隣にいるみたいで」
 彼女の言葉にトゲはない。皮肉のようにも感じられない。
 だからそれは裏のない素直な言葉だった。
 思えば彼女は、ドッペルゲンガーが口にしていたような鋭い言葉を、再開してから一度も口にしていなかった。
 オレの至らなさにも目を瞑り、いろんなことを曖昧な笑みで流していた。
 その振る舞いは千夏が本来持っているやさしさであり、気遣いであり、もしかしたら大人になるにつれて覚えた妥協なのかもしれないと思った。
「コウは、わたしといて、懐かしかった?」
 押し黙ったオレの答えを見透かしたように千夏は笑みをこぼす。
 コーヒーより苦いものなんていくらでも知っていそうなその笑みは、こぼした感情の奥に得体の知れない気持ちをいくつも含んでいそうで。美しくもあり、妖しくもあり、気持ち悪くもあった。
 そして彼女はおもむろに言った。
「わたしのところに現れたドッペルゲンガーは、ちゃんと来週で二十歳になるコウだったよ」
「……二十歳の、オレ? 十五歳じゃなくて?」
「うん。二十歳の、現実のコウより大人びてるコウ」
 それはオレと千夏の間にある明確な差異だった。
「なんで今まで言わなかったんだ? 言うタイミングなんていくらでもあっただろ?」
「そうなんだけど、言わないほうがいいのかなって思って」
 千夏は躊躇いがちに視線を逸らして、ポツリと呟く。
「言っちゃったら、そこでなにかが終わっちゃう気がしたから」
「なにかって?」
「さあ、なんだろう?」
 そういって千夏は曖昧に笑う。
 もしかしたら彼女にもハッキリとその答えについては見えていないのかもしれない。
 ただ、千夏はそういう思いを抱えながら、それでもここでドッペルゲンガーの差異について打ち明けた。
 それはたしかな真実だった。
「……そっか」
 オレはオレの中でストンとなにかが落ちるのを感じた。
 店員が注文した品を机に並べて去っていく。
 千夏はカフェオレを一口含んでため息に変えた。
「二十歳のオレはどんなやつだった?」
「わたしのほうから言ってもいいことを先に言ってくれて、わたしがなにも言わなくてもわたしのことを理解してくれてるような人だった」
 その一言だけで、オレはおおよそのことを理解する。
「なるほど。それはちょっと、今のオレじゃ背伸びしても届かなそうだ」
 そういって苦笑しながらオレはコーヒーに口をつけてその苦さに舌をやられた。
「このコーヒーも、オレのドッペルゲンガーならおいしく飲めるのかもな」
「うん。そうかもね」
「すくなくとも、ヒール履いてるのにいきなり手を引っ張ったり、出かけることがわかってるのに持ち合わせをきらせたりはしなさそうだ」
 オレの言葉に頷くことはせず、千夏は窓の外に視線を投げていた。
 二人の間に下りた沈黙は鈍重で。オレたちのこれからを暗示しているみたいだった。
 にも拘わらず、オレの心は不思議なくらいに落ち着いていた。
 オレは、大人になった千夏に違和感を覚える度に、オレの認識がまちがっているのだと思っていた。
 ドッペルゲンガーと――あいつと長く一緒にいすぎたせいで感覚がおかしくなっているのだと、思おうとしていた。
 だから千夏が千夏らしくない言動をしても気にしないようにしていた。
 千夏らしさなんてものはオレが勝手に抱いている幻想で、今目の前にいる千夏をしっかりと認めることこそが自分のすべきことなのだと言い聞かせて、胸の奥で渦巻いている気持ちから目を逸らしていた。
 でも、オレがそうやって自分の気持ちをごまかしている間、きっと千夏も同じことを考えていたにちがいない。
 だからあの「なにかがちがう」という感覚が“オレの中からではなくオレたちの間から”消えなかったんだ。
 オレがひさしぶりに会った千夏に対して違和感を覚えたように、千夏もまた今のオレに対して「なにかがちがう」という思いを抱えているのだとしたら。
 オレたちの間に漂うソレは、間違いでも気のせいでもなく、たしかにそこにある「齟齬」ということになる。
 それはもしかしたら覆しようのない齟齬なのかもしれないけれど、それでも「なにがちがうのか」という疑問に対してなにも答えが見えないよりはマシだった。
「でも、なんでオレたちのまえに現れたドッペルゲンガーは歳がちがうんだろうな? どっちもオリジナルの心残りのはずなのに」
「たぶん観測者がちがうからじゃないかな」
「観測者?」
「心残りっていっても、それって本来は形のないものでしょ? そこに形を与えるのは、だからオリジナルじゃなくて観測者のほうなんだよ」
「……哲学とか、やってたりするのか? 大学で」
「まあ、ちょっとだけね」
 そんなイメージもなかったよ、と呆れるオレに苦笑いで返して千夏は話を続ける。
「ドッペルゲンガーって、オリジナルと同じ空間には存在できないって話だったでしょ?」
「ああ」
「そういう縛りがあるから観測者――つまりわたしたちのまえに姿を現すにあたって、わたしが思うコウに――コウが思うわたしに――ちょっとだけ変質しちゃったんじゃないかな」
「わるい。あんまり詳しくなくて」
「つまり、わたしはあの日から成長してるんだろうなってコウを思い浮かべていたからそのとおりのコウが現れた。だけどコウはあの日のままのわたしを空想してたから、その姿のわたしが現れたっていう。まあ、あくまでただの仮説だけど」
「……なら、要するに、ドッペルゲンガーとオリジナルは別人ってことなのか?」
 観測者の――つまりオレの空想がドッペルゲンガーの性格を形作っているとしたら。それは千夏の心残りが形をもったというより、オレの空想がドッペルゲンガーとして現れたというほうが正しいように思える。
 それなら現実の千夏と千夏のドッペルゲンガーが重ならなくても無理はない。
「……まあ、そうかもね」
 そう頷く千夏の表情はなぜだかすこし淀んで見えた。
「コウはどこで出会ったの? わたしのドッペルゲンガーと」
「このあたりでやってた夏祭りの会場で」
「ひとりでお祭りにいってたの?」
「ああ」
「なにしてたの?」
「金魚掬い」
 真面目な顔で答えるオレを見て、千夏はクスクスと口に手を当てて笑った。
「掬えるようになった? 金魚」
「ああ。最近になってようやくな。あいつにコツを教えてもらって」
「あいつって?」
「千夏のドッペルゲンガー」
「コウがあいつって言うときって、いつもわたしのドッペルゲンガーだよね」
「他にそんな呼び方できるようなだれかと関わることがなかったからな。ひどい人生だろ?」
「わたしのせいかな?」
「ちがうよ。勝手におまえのこと引きずってたオレのせいだ」
 オレはストローに口をつけて一気にコーヒーを飲み干そうとする。
 ところが、途中で口の中に昇ってくる苦みが止まった。
「……?」
 身を乗り出した千夏が、オレのストローに指でフタをしていた。
「コウ、なんか、はやく帰りたがってるみたい」
「……そんなことない。ただ、千夏の飛行機のこともあるから」
「まだ時間ある」
「何時?」
「……」
「空港まで、電車とバスだろ? ギリギリまで粘ってもし乗り遅れることがあったら悪いし」
「乗り遅れてもいいよ」
 言葉ごと、なにかを捨てるように、千夏はそう言った。
「どうして? 払い戻しとかってできなかったんじゃ?」
「お金のことなんていいんだよ、べつに」
 千夏はバッグから取り出した財布の口を開けてひっくり返す。
 机の上に一万円札がばらまかれ、揺らめく紙面の上をいくつもの小銭がうるさく泳いだ。
「お金なら手のひらで掬えるくらいはあるし、これからいくらでも稼げる」
「……映画の撮影とか、試験勉強もあるんだろ?」
「……あるよ」
 だったら、という言葉をオレは飲み込んだ。
 けれど、それが喉の奥で新しい言葉に変わることはなかった。
「…………ここまで言っても、ダメなんだ」
 そう呟いて笑う千夏は、人がなにかを諦めるときの顔をしていた。
「ねえ、コウ」
 艶めいた声でオレの名前を呼んで、千夏は小さく首を傾げる。
「わたしのこと、好き?」
 それは一日一緒にいて、互いに一度として直接向けようとはしてこなかった問いだった。
 なぜならオレたちはその気持ちについてドッペルゲンガーを介することで尋ねるまでもなく既に知っていて。知られていて。知ったうえで、会うことに決めたのだ。
 だからそんなこと、今更きくまでもないことのはずなのに。
 今のオレには、答えることができなかった。
「わたしは好きだよ、コウのこと」
 揺らぐ想いに打ちつける楔のような言葉を千夏は投げかけてくる。
「…………どうして?」
 ようやく返せたのは、そんな程度の言葉だった。
「だって、おかしい。おまえはオレに変わっててほしかったんだろ。二十歳相応に気が使えるようなやつになっててほしかったんだろ? おまえと一緒にいたっていうドッペルゲンガーみたいに」
「そうだね」
「だけどオレは、まだ変われてない」
「そうだね」
「なら」
「ドッペルゲンガーを選べばいいって?」
 オレの心を見透かしたように千夏は言った。
「選べないよ」
「どうして?」
「だって、もう消えちゃったから」
 千夏は長い息を吐いてから、隠していた秘密を打ち明けるように言った。
「消えた?」
「うん。コウに連絡したすぐあとに」
 千夏からケータイに連絡があったとき。
 オレは本物の千夏ではなくドッペルゲンガーの千夏を選ぼうとしていた。
 けれど、オレのドッペルゲンガーがいると明かされ、オレの中にもまだオレに自覚できていない心残りがあるのだと思って、ドッペルゲンガーの千夏に想いを伝えることができなかった。
 たしかに見えていたはずの気持ちにフタをして、オレはあいつと別れてしまった。
「元々、消えかかってたんだ。ちょっとまえから。コウのドッペルゲンガーと出会ったのは先月だけど、日を重ねるごとにその姿が透明になっていった」
「……」
「コウ、わたしのこと、忘れようとしてたでしょ?」
「……忘れようとしてたわけじゃない。ただ……」
「もしかして、ドッペルゲンガーのほうを選ぼうとしてた?」
 まるで自分のことを語っているような正確さで千夏はオレの過去を言い当ててみせる。
 そして彼女は浮かせていた腰をイスにもどして言った。
「ねえ、コウ。ドッペルゲンガーなんてホントはいないんだよ」
「……なに言ってんだよ?」
 千夏は指先でストローを弄ぶ。
 カフェオレの中で氷がカランと音をたてた。
「いるじゃないか。オレと一緒にいたように。おまえと一緒にいたように。オレたちのドッペルゲンガーは」
「うん。でも、だから、わたしたちの日常が今はおかしくなってるんだ。夢でも見ているみたいに、ありえちゃいけないはずのことがありえてる。だって、おかしいでしょ? 心残りが好きだった人の姿になって現れるなんて」
「……」
「ドッペルゲンガーっていうのはとどのつまり、わたしたちの空想なんだよ」
「でも、たしかにいる。オレはこの一ヶ月毎日あいつと話してたし、千夏だってオレのドッペルゲンガーと話したからこうしてオレと会うことにしたんだろ?」
「そうだけど、今はもういない」
「……千夏のドッペルゲンガーは、まだいる」
「それはどうかな? 実際に確認できてるわけじゃないし」
 千夏の中の心残りが消えたとき、自分の存在もまた消えてなくなってしまうとあいつは言っていた。
 けれど、それを待つまでもなく。たしかに今、まだ、あいつがどこかにいるという保証はない。
 もしあいつが既にオレのところからではなく、この世界からいなくなってしまっていたとしても、オレにはそれをたしかめる術がない。
「……ふふっ。ごめん。いじわるだったね。うん。いると思うよ。わたしのドッペルゲンガーは、まだ」
 そういって千夏はサンドイッチを一口頬張る。
「でもそれは、わたしの中にまだコウへの未練があるから。わたしがコウを好きじゃなくなっても、このままコウと一緒になっても、ドッペルゲンガーはじきに消えるよ」
 千夏はまるで、自分自身を人質にするかのようにして言葉を紡ぐ。
「ねえ、コウ。本物と空想を天秤にかけて空想のほうを選ぶっていうのは、シャボン玉を掴もうとするようなものなの。できっこないの」
「……だから、本物のオレで妥協するっていうのか?」
「コウはわたしのこと、好きじゃないの?」
 千夏は長い髪を耳にかける。
 露になった首筋が喫茶店の薄ぼんやりとしたライトに照らされてひどく扇情的に見えた。
「大丈夫だよ、きっと。わたしたちの間にある違和感はすぐになくなる」
「……どうして?」
「わたしが大人になったように、コウも大人にならずにはいられないから」
 いつの間にか千夏は唇を尖らせてオレに迫っていた。
 首を傾けて、鼻で小さく息を吸って、目を閉じて。
 呆然としているオレの唇に、千夏はそっと唇を重ねた。
「……ッ!」
 気がつくと、オレは千夏のことを突き飛ばしていた。
 ドサリ、と。千夏がイスの上にたおれる。
「もしかして、はじめてだった?」
 そういって笑う千夏の気持ちが、オレにはわからなかった。
 昔はあんなにわかり合えていたはずなのに。たしかに気持ちが重なっていたはずなのに。
 口の中に広がるサンドイッチの味が、ただただ気持ち悪かった。
「……なに、してんだよ?」
「ねえ、コウ。わたしたち、付き合ってみる?」
「そんな話、してないだろ」
「じゃあどんな話がしたいの?」
 子供を諭す大人のような口調で千夏は言う。
「あの日と同じ。コウが話したいことを話すのに、わたしはどれだけ待てばいいの?」
「それは……」
「もう、時間切れなんだよ」
 上体を起こして座り直した千夏の胸でネックレスが翻る。
 成長して大人びた今の千夏に、オレが買ったネックレスはあまりにもチープだった。
「わたしは大人になっちゃったし、コウももうすぐ大人になっちゃうんだよ。嫌でも、ならなくちゃいけないんだよ」
「…………」
「コウだってその気だったんでしょ? わたしと会うことにしたってことは」
「その気って、なんだよ?」
「それをきかなきゃわからないなら、たぶんきいても必要なことはわからないよ。だからコウ、今日、コウの家に泊めてくれないかな?」
「ちょっと、待ってくれよ」
 会話の速度が、急に早まったみたいだった。
 オレの理解を待たずに並べられる言葉は共有されていない専門用語みたいで。相対的に、今までの会話が全部、ずっと、オレの理解を促すために紡がれていた探り探りの言葉だったのだと思い知らされる。
「オレの知ってる千夏は、そんな一方的に話を進めるようなやつじゃなかった」
「なら、これからは本当のわたしを知っていってよ」
 オレたちの間に沈黙が下りた。
 やがて、千夏は大きなため息を吐いて席を立った。
「ちょっと、いってくるね」
「どこに?」
 尋ねるオレを見下ろして千夏は呆れた様子で笑ってみせる。
「カバン、みててね」
 そういって、千夏は店の奥に消えていった。
 オレの前には、散らばった小銭と、札と、飲みかけのカフェオレがあった。
 なにも整頓されていない。それがまるでオレと千夏の関係みたいだと思って、笑えて。
 オレはオレの未熟さに頭を抱えた。
「…………くそ……」
 千夏は変わってしまった。
 それを受け入れられずに、言葉に言葉で返すことしかできないオレは本当に子供だ。いつまでも幼いままでいようとするガキだ。わかってる。
 ――――千夏のことがきらいなわけじゃない。あたりまえだ。ずっと好きだったんだから。
 いくらあいつが変わったからって、根本がまるごと覆されたわけじゃない。
 昔からあいつはオレに合わせてくれるところがあったし、今日だって本当に、さっきまでは、待っていてくれたんだ。オレのほうから“これから”について切り出すのを。それくらいは、わかってる。
 今のコレだって、ドッペルゲンガーなんて得体の知れない存在が原因で揉めているだけだ。
 オレが、あいつのことをちゃんと忘れられたら。なかったことにできたら。いさかいなんて起きなかった。
 あいつと別れたときに、ちゃんと本物の千夏だけを見ると決めたのに。
「……」
 嫌いなわけじゃないことと、好きなこととが繋がらない。
 その間にあるはずのなにかが、欠けてしまっている。
 かつては、たしかに、あったはずなのに。
「…………」
 茶色。銀色。薄黄色。
 散らばった色彩を眺めながら、オレはそこにまちがいを見出す。
 こんなに汚れてはいなかった。あの日泳いでいた金魚はもっと色鮮やかで。何度も掬おうとしては逃げられて。そんなオレに、あいつが手を貸してくれた。
「…………ははっ」
 オレの思い出は、いつの間にか上書きされていた。
 ふいに思い出す情景が、覚えていたい出来事が、遠い昔から、数日前のあの日に、すり替わっていた。
 どちらの記憶にも、オレの隣には変わらず十五歳の千夏がいる。
 片方は本物の千夏。
 そしてもう片方は、千夏の心残りが生み出したドッペルゲンガー。
 新しいほうはまやかしみたいな記憶なのに。およそ現実感のない、すべてがふいに泡沫に帰す夢みたいな時間なのに。
 オレの頭はあいつとのことばかりを思い出して。勝手に後悔を運んでくる。
 もっと言えることがあったんじゃないか。
 もっと言うべきことがあったんじゃないか。
 もっとすべきことがあったんじゃないか。
 そんなことばかりを考えて。
 オレの中で、心残りが渦巻いていた。
「……オレは、まだちゃんと答えを出せてない」
 あのとき、ドッペルゲンガーの千夏を抱きしめたとき。オレのドッペルゲンガーがいると知らされて、オレの中に迷いが生まれた。
 オリジナルの千夏に言われて、ドッペルゲンガーの千夏に諭されて、オレはオレの気持ちを信じきることができなかった。
 信じきれなくて、最後まであいつに想いを伝えきることができなかった。
 オレはまだ大人になれていない。
 オレはまだあいつから“本当の気持ち”をきけていない。なぜならオレがそれを伝えきれていないから。
 結局、あいつが口にしたのは状況証拠から導き出した神様の戯言だ。
 だからオレは、それをきかない限り、ずっと心残りを抱え続けて生きていくことになる。
 ありえたかもしれない“もしも”に期待して、性懲りもなく新たなドッペルゲンガーを生み続ける人生になってしまう。
「もういやだ。そんなのは」
 オレはブラックコーヒーを一口に飲み干す。
 そして散らかった硬貨をひとつところにまとめ、積み上げた段に最後の一枚を乗せようとしたとき。
 ――――硬貨に空いている穴の向こうに、赤い金魚が見えた。
 安っぽちのガラス細工でできた金魚は、彼女の左耳で揺れていた。
「――――」
 一瞬、時間が止まったような錯覚を覚える。
 窓ガラスの向こうに、十五歳の千夏の姿があった。
 後ろで括った長い黒髪を夏の風になびかせて。一緒に買った服を着て。どこかへいってしまったはずのドッペルゲンガーが、たしかにそこにいた。
 オレと彼女の視線はそのとき、たしかに重なっていた。
 このまま時間が止まってしまえばいいと思った。
「……!」
 ――――カラン。
 指の間から五十円玉がすべり落ちた。
 同時に、店先で立ち尽くしていた千夏が駆け出す。まるでオレから逃げるように。
「――――千夏!」
 オレは席を立って店を飛び出す。
 そのとき。
「――――コウ!」
 開け放った扉の奥で、オレを呼ぶ千夏の声がした。
「どこにいくの?」
「千夏のところに」
「わたしならここにいるよ」
 オレは足を止めて振り返る。
 そして、たしかにそこにいる千夏に向かって言った。
「なあ、千夏。おまえ、なにかあったんだろ? 大学で」
「…………なにもないよ」
 千夏の視線は斜めに落ちていた。
 それは千夏がウソを吐くときのクセだった。
「オレ、まだ子供だからさ。なにか言ってくれないと、力にさえなってやれないんだ。そしてたぶん、言われたところでオレは背伸びしないとおまえの支えになってやることもできない。おまえと離れすぎたオレにはもう、おまえがなにに悩んでいるのか、なにを考えているのか、わかってやることができない」
「悩んでいるなんてことも、力になれないなんてことも、ないよ。わたしはコウのことが好きなんだから、コウはただ傍にいてくれるだけでいい。わたしと一緒に大人になってくれれば、それで」
 胸の底から込み上げてくる苦しさを堪えて、ちゃんと伝わる言葉に変えて、オレは千夏に向けて吐き出す。
「オレは、あいつを置いて、大人になることは、できない」
「あいつって?」
「ドッペルゲンガーの千夏」
「それは、幻なんだよ?」
「幻でも、本物だ。オレにはあいつに言わなくちゃいけないことがあって、あいつの口からきかなくちゃいけないこともあるんだ」
「それは、わたしを選べない理由になるの?」
「ここでおまえを選んだら、オレはまた心残りを抱えることになっちまう。だから今はおまえとの未来を見ることができない」
「じゃあ、今じゃなかったら……」
「そしてたぶん、あいつの本心をきいちまったら、オレの心はもうずっと、おまえの心とは重ならない」
 ドッペルゲンガーと一緒にいた日々を忘れて。そういえば遠い昔にそんなこともあったかもしれないなんてふいに思い出して。大人になった千夏と笑い合って。
 そんな未来を想像しようとしたら、目の前が真っ暗になる。
 あの日、人生に巨大なフタが落ちてきて、オレはオレの未来が見えるようになった。
 でも。
 だけど。
 オレがドッペルゲンガーの千夏よりオリジナルの千夏に心を預けられる未来は、どれだけ覗こうとしても見えなかった。
「そんなの、わかんないじゃん。コウがそう思い込んでるだけかもしれないじゃん」
「なら、千夏には見えてるのか? オレがいつか、千夏のところに現れたドッペルゲンガーみたいな大人になってる姿が」
「……見えてるよ」
 オレがその目を見つめようとしても、千夏の瞳にオレは映らない。
 ずっとなにもない床に視線を落として、自分の中にある後ろめたさとばかり向き合っている。
 オレはようやく、千夏がドッペルゲンガーを生み出してしまった理由がわかった気がした。
「千夏の言うとおりかもしれない。オレに見えてないだけで、フタをされているだけで、本当は千夏との幸せな未来だってありえるのかもしれない」
「なら……」
「でも、そっち側にいくには、オレはまだ背中に大事なものを残しているんだ。それを捨ててまでそのフタを開けようと、オレには思えない」
「…………その、わたしより大事なものっていうのが、十五歳だったときのわたし?」
「ちがう」
 と、言うのに――それだけのことに、ここまでかかってしまった。
「ずっと過去に囚われていたオレを、あいつは絶望から掬い出してくれたんだ。だから、千夏の分身だからじゃなくて。その向こうにおまえを見るんじゃなくて。オレは、あいつと、あいつ自身と、これから大人になっていきたいんだ」
「…………ありえないよ」
 千夏がようやくオレのほうを見た。
 呆れ果てたようなその目はひどくくすんでいて。オレのことを必死に理解しようとしてくじけた痕跡がみてとれた。
「だって、ドッペルゲンガーなんだよ? そんなの偽物で、ウソじゃん。もうすぐ消えるし、もう消えてるかもしれないんだす?」
「……それでも、オレはこの気持ちにウソは吐けない」
「わたしじゃ、ダメなの?」
「ああ」
 喉を震わせながら歩み寄ってこようとする千夏に、オレは言う。
「あたりまえだけど、ダメなのは千夏じゃなくてオレのほうだ。ふつうに考えたら、ここで千夏を選ばない理由がない」
「そうだよ。わたし、これでけっこうモテるんだよ?」
「そんなの、一目見たらわかるよ」
「絶対、後悔するよ?」
「そうならないように、精いっぱいがんばるよ」
「コウ!」
 背を向けて駆け出そうとするオレに、千夏の言葉が突き刺さる。
「わたし、ホントに好きだったんだよ! コウのこと!」
 オレは振り返って千夏の目を見た。
 千夏は、まっすぐオレのほうを見つめていた。
「久しぶりに会って。全然変わってないコウにガッカリしたけど。正直、カッコよくないなって思ったけど。でも。それでも。カッコよくないくせにカッコつけて、わたしのこと引っ張っていこうとするコウに、わたしの人生まるごと預けてもいいかなって。現在も、未来も、全部投げうってもいいかなって。本当に、思ったんだよ。その結果、不幸になったっていいかなって、思ったんだよ。すくなくとも、今日一緒にいた、長い間の、ほんの一瞬くらいは。だってわたし、コウのそういうところが、好きだったから」
 ずっと好きだった幼なじみにここまで言われて。言わせて。カッコつかないオレの心は、遠心分離してしまいそうなくらいに、揺れた。
 それでも、ここで彼女の言葉に、想いに、甘えて。自分で決めたことを、決めようとしていることを、投げ出すのはちがうと思ったから。それじゃいつまでたっても子供のままだと思ったから。
 オレは精いっぱい強がって、余裕ぶった笑みを浮かべながら、千夏に言った。
「オレには、その気持ちを受け止める度胸も、その気持ちと一緒に潰れてやれる気概もないよ」
 オレたちの間に、一拍の沈黙が流れた。
 やがて、千夏は大きく息を吸って、吐いた。
 その間に、彼女がなにかを捨てるのがわかった。
 ただそれは、先ほどよりもいくばくか前向きな投棄に思えた。
「わかった」
 と、千夏は言った。
「わたし、今、告白の返事待ってもらってるの。大学で知り合った人。同い年とは思えないくらいに優しくて、お金も持ってて、気も遣えて、コウのドッペルゲンガーよりよっぽどよくできてて、顔もコウと比べたら悪くない感じの」
「へえ」
「わたし、その人と大人になっちゃうから。コウとの思い出も、今日のことだって、全部上塗りされて、コウのことなんて一秒も思い出さなくなっちゃうから」
「ああ」
「コウはそれで、いいんだね?」
 オレは大きく息を吸って、吐いて。それからもう一度息を吸って。それから。
 ずっと好きだった幼なじみに向かって言った。
「オレは、それでいい」
「わかった! じゃあもう、ずっとの、バイバイ!」
「ああ」
 オレは十年来の幼なじみに別れを告げて、この夏に現れたドッペルゲンガーのもとへと走った。
 千夏が吐いた最後のウソには、気づかないフリをして。

          †

 傾いた日は落ちて、やがて世界に夜が訪れようとしていた。
 太陽を捩って絞り出したような残光が町に最後の明かりを降ろしている。
「はあ、はあ」
 息が切れる。足が攣る。小指はくじいた。
 こんなに走ったのはいつ以来だろう?
 たぶん、中学生のとき無理やり参加させられたマラソン大会が最後だ。
 テキトーに流して終わるつもりだったのに。あのときは先に走り終えて休んでいた千夏に冗談っぽく応援されてしまって。それがはずかしくて、同時にちょっとうれしくて、逃げるように、トラックの中を、ぐるぐるぐるぐる、走ったんだっけ。
『――――がんばれ、コウ』
 あのときの声が勝手に脳内で再生されてオレの背中を押す。
 その声に頼りながらオレはあいつを探す。
 どこにいるのかなんてわからなかった。
 それでも必ず、もう一度出会えると思っていた。
 だって、あの夏祭りのときだって、さっきだって、オレが会いたいと思ったときに、いつだって、あいつはそこにいたんだから。
 散々都合よく、まるでオレの願いを叶えるみたいにして現れておきながら。ここでいきなり突き離されて、出会えなくなるなんてウソだった。
「……千夏……千夏……ッ!」
 オレは町中を探した。
 破格のぺア割を実施していたアパレルショップ。サメ映画をホラーにカテゴライズしているレンタルビデオ店。一緒に金魚を掬った縁日の会場。
 あいつとでかけた場所に赴く度に、あいつとの思い出ばかりが蘇ってくる。
 それが苦しくて、同時にそれがうれしかった。
 オレにとって大切な相手が、思い出してしまう相手が、ちゃんとあいつだけになっていることがわかったから。
 もう、オレにとって大切なものは、取りもどせない過去ではなく、手を伸ばせばまだ届く未来になっていた。ずっと人生に覆いかぶさっていたフタを開けて、オレは未来に向かって走っていた。
 だから、絶対に、その先に、あいつはまだいてくれているはずなのに。
「…………ッゥ……!」
 からまった足が宙を蹴って、次の瞬間にはもうオレの視界は薄闇に包まれた空を眺めていた。
「……ってぇ……!」
 河川の丘をごろごろと転がり、砂利にひっかかれた額から血が垂れてくる。
 ばたん、と。落ちた手のひらを支えに起き上がろうとして腕を擦りむいた。
 もう、身体に力が入らなくなっていた。
 曲がらない両足はプルプルと痙攣し、伸ばした腕には地面を撫でるほどの力しか入らなかった。びっしょりと汗で濡れた服は砂粒まみれになっていて。脱げた靴の先には赤い血が滲んでいた。
「…………なんでだよ」
 日は沈み、黄昏は世界から消えてしまった。
 一遍調子で流れる川の音に紛れてどこかで夜の虫が鳴き始める。鈴虫だった。
 流れる汗がだんだん冷たくなっていって。デネブとベガを一本の線で結べなくなって。遠くからキンモクセイの香りが漂ってきて。
 夏が、ゆっくりと終わろうとしていた。
「……まだ、オレは、あいつに……あいつを……」
 疲労で思考がぼやけて言葉にならない。
 渇いた喉が声を枯らす。
 その名を呼ぼうとしても、からまった唾が声すら奪う。
 自分の情けなさに、涙さえ出なかった。
 霞んで濁った目を閉じて、まだ終われないと目を開ける。
 すると、視界の端に二本の棒きれが見えた。
 地面に突き立てられたその木の棒には、逆さまに「アタリ」と書かれていた。
 今時アタリつきの棒アイスも珍しい。そんなことを思って、ようやくオレはここがあの日あいつと金魚を埋めた河原だと気づく。
 オレはない力を振り絞って寝返りをうつ。
 そうして地面を転がって、金魚の墓の前で震える手を合わせた。
「…………」
 死んだ金魚に祈りを捧げて、オレは墓標代わりのアイス棒にかみつく。
 そしてそれを支えに立ち上がろうとするが、歯の力が尽きるより先に木がバキリと折れてしまった。
 オレは顎から金魚の墓に転がった。
「……バッカみたい」
 そのとき、オレはあいつの声をきいた気がした。
 這う這うの体で身を翻し、オレは傍らに鼻緒の切れた草履をみつける。
 その草履の上にある傷だらけの白い足に手を伸ばして、パチンとはたき落された。
「へんたい」
 聞き馴染みのある、ずっとききたいと思っていた、声だった。
 もう一度ききたくて手を伸ばすと、今度は無言ではたき落された。
「なにしてんの、まったく」
 額に影がかかる。
 視線を持ち上げると、十五歳の千夏が屈んでオレのことを見下ろしていた。
「…………千夏……」
「どうして本物のわたしを置いてこんなとこにいるの?」
「……おまえに、会いたくて」
「バカみたい」
 千夏は呆れた顔でオレの頭を撫でる。
 その手つきは優しくて。冷たい言葉とは裏腹の温かさがあった。
「わたしは千夏のドッペルゲンガーなんだよ? 本物の、偽物。なのに、なんで追いかけてくるの? おかしいでしょ」
「オレはまだ、おまえに言えてないことがある」
「だから?」
「それを言いたくて、走ってきた」
「はあ」
 千夏は観念したようにため息を吐いた。
「ようやくコウから解放されて自由になれると思ったのに」
「オレは、おまえが好きだ、千夏」
「はいはい」
 オレにとって一大事の告白は、あっさりと流されてしまった。
「……それだけ?」
「他になんて言ってほしいの?」
 千夏はオレの目をじっと見つめて言う。
「そんなこと、今更言われなくたってわかってるよ」
「オレとずっと一緒にいてくれ」
「いやだよ」
 オレは千夏の顔を見続ける。
「なに? ウソなんて吐いてるように見えないでしょ?」
 千夏は視線を斜めに逸らしてしまうことがないように。ずっと目に力を込めていた。
 それがおかしくて。オレはしゃがれた声で笑った。
「なに?」
「ふつう、こんなこと言われたら、多少は狼狽えて視線くらい外しそうなもんだけどな」
 言われてようやく気づいたのか、千夏は今さら視線を斜めに落として言った。
 どこかに夕映えが隠れていたのか、その頬は赤く照りついていた。
「コウのことなんて、好きじゃない」
「ああ」
「追いかけられても迷惑だよ」
「ああ」
「今からでも千夏のところにもどったら?」
「生憎、しばらくは立てそうにない」
「もう、カッコつけられないの?」
「ああ。すくなくとも、しばらくは」
「そっか。カッコ悪いね」
 千夏は足をついてオレの頭を膝に乗せる。
「わたしも走りすぎちゃったから、しばらくは動けそうにないや」
 そういってやわらかな笑みをこぼす千夏に、オレは言った。
「おまえの本心を、ききにきた」
「本心って?」
「今みたいに、あのときおまえがウソ吐いてまで隠そうとした、おまえの本当の気持ち」
「きいてどうするの?」
「大人になる」
「なにそれ」
 笑い飛ばそうとする千夏をオレは真剣な面持ちで見つめる。
 冗談で流すことはできないと悟ったのか、千夏は「はあ」と息を吐いて言った。
「いやだよ」
「どうして?」
「だって、それを言っちゃったら、コウはわたしのこと、忘れられなくなっちゃうでしょ?」
「言わなくたって、もうとっくに忘れられなくなってるよ」
 オレにとってかけがえのない存在である千夏はもう、今目の前にいる千夏で固定されてしまっている。
 今更言葉ひとつ欠けたって、それが変わることはない。
 それでも、言葉を必要としたのは、オレがちゃんと過去を――心残りを清算して――大人になるためだった。
 人はいつか大人になる。
 ならその一歩は、ちゃんと自分の意志で踏み出したかった。
「わたしはコウに忘れられたい」
「もうやめろよ、ウソ吐くのは」
 千夏の身体は僅かに透けていた。
 もう、あまり時間は残されていないようだった。
 彼女の向こう側に、やがて訪れる夜の光が見えていた。
「おまえはもう、おまえの気持ちを話していいんだから」
「ウソを吐き通したいって気持ちだって本心だよ」
「じゃあ、オレのためにもウソは吐かないでくれ」
 トロンと目の端を落として千夏は言った。
「こんなときだけ、コウはずるいなあ」
 それから、すこしの静寂が流れた。
 訪れた沈黙は安らかで。互いの呼吸だけが鮮明で。他のすべてが薄らぼやけていて。吐いた息が二人の間で重なったときだけ小さく笑みをこぼした。
 完全な幸福というものがあるのだとしたら、それはこういう時間のことなのかもしれないと思った。
「じゃあ、コウ、もっかい言って」
「好きだよ、千夏」
 オレは千夏の目を見て囁く。
 千夏はなにも言わなかった。
 ただ、そっと、オレの唇に唇を重ねて、必要な言葉のすべてを一呼吸ぶんの吐息に変えた。
 素直になれない千夏らしいやり方だと思った。
「……」
 ゼロセンチメートルの距離で、千夏は目の端を垂らして笑う。
 そしてオレの目の上に手のひらでフタをした。
 オレはそっと目を閉じる。
 それはまばたきよりも一瞬の時間だった。
 そしてオレが再び目を開けたとき、唇にあった感触はなくなっていた。千夏の姿もまた同じく。
 河原には冷たい夜の風が吹いていて。終わりゆく夏の静けさだけが辺りに満ちていた。
 オレは自分の唇に触れて、そこにまだ温かさだけは残っていることに気づく。
 心残りのドッペルゲンガーは、そうしてオレの中にたしかな思い出を残して、夏の夜に消えた。