それからも、オレと千夏はともに夏を過ごした。
千夏がどこかにでかけたいといえばオレは自転車のスタンドを蹴り上げ、千夏を乗せてどこまでも走った。何度かケーサツにサイレンを鳴らされたときは焦ったけれど、無事に逃げきったオレたちはハイタッチをして笑い合った。
家に帰ると借りてきたDVDを毎日三枚は見せられる。最初はただただくだらないだけだと思っていたサメ映画も、繰り返し二人で見ているとそのくだらなさが周回してたのしめた。
「どう?」
「ああ。うまい」
オレは千夏が作ってくれた料理をかき込みながら頷く。
コンビニ弁当とインスタントラーメンばかりでは味気ないと、いつからか千夏がキッチンに立ってくれるようになっていた。
オレの家にはエプロンもピーラーもなかったけれど、そうして料理を作る千夏はなかなか様になっていた。ただ、ときどきちょっと薄味のときがあって、指摘したら翌日とびきり塩辛いおむすびを握られた。
「あははっ!」
辛すぎて転げまわるオレをみて千夏は笑う。そうして自分だけ安全なものをパクパクやっていたので、こっそりすり替えたら千夏も同じようにのたうちまわって笑えた。
「コウ、ホンット子供なんだから!」
「おまえもだろ、千夏」
いつからか、オレはずいぶん素直に笑えるようになっていた。
千夏と一緒に過ごす日々は驚くほど色彩に満ちていて。そういえば昔はこんなふうに一瞬一瞬をたのしんだりしていたことを思い出す。
「なあ、千夏。今のオレはどうだよ?」
「どうって?」
「おまえと出会った頃よりはちょっとマシな顔になってるんじゃないか?」
千夏はすこしの間をおいて答えた。
「そうだね。じゃあ、そろそろ連絡とってみる?」
「連絡って?」
「本物の千夏に」
今度はオレのほうが沈黙を作ることになった。
――そういえばこいつはドッペルゲンガーだった、なんて。
千夏に言われるまで、オレは彼女の目的でありオレの目的でもあることを忘れていた。
「……そうだな」
オレはケータイに向かって伸ばした手をそっと下ろす。
「でも、まだいいかな」
「どうして?」
「だってオレ、まだ千夏に似合う男にはなってないんだろ?」
千夏はオレの顔をじっとみつめてから肩をすくめる。
「……そうだね。すくなくともまだ自分から踏み出せるようにはなってないみたい。それじゃ結局あのときの二の舞だから」
「ああ」
「……コウ、なんかうれしそうにしてない?」
「そんなわけないだろ」
口ではそう否定しておきながら、しかし実際オレは“まだ踏み出さずにいる現状”をすくなくとも残念がってはいなかった。
こうして千夏と過ごす何気ない日々はまるであの日選べなかった未来の再現みたいで。まるで幸せな夢を見ているような現状から、脱したくないと、心のどこかでは望んでいた。
思えば、彼女を千夏だと思うようにした日から一度もケータイを開いていなかった。
くるはずがないメッセージを待つより、たしかに存在している目の前の彼女と話していたほうがよっぽど有意義で、胸が高鳴ったから。
「なあ、千夏。おまえ、急にいなくなったりしないよな?」
「なに? 突然」
箸を口に運びながら疑問符を浮かべる千夏に、オレはずっと気にかかっていたことを尋ねる。
「オカルトとかにちょっとだけ詳しい大学の先輩に言われたんだ。ドッペルゲンガーとかそういうのは、大人になったら消えてなくなるって」
「なんか、ドッペルゲンガーに会ったことでもあるような物言いだね」
「ドッペルゲンガーはわからないけど、幽体離脱をしたり不思議な発光体を目撃したことはあるって」
「なにそれ。へんなの」
「ああ。へんな人なんだ」
千夏は小さな鼻からふうと息を漏らす。
そして視線を斜めに落としてから、オレの目をまっすぐに見つめて言った。
「急にはいなくならないよ」
その言葉はたしかな質量を込めて口にされていたけれど、オレにはそれがウソなのか本当なのか判別がつかなかった。
「言ったでしょ。わたしはオリジナルの千夏が抱いた心残り。だからわたしが消えるとしたらそれは本物の千夏がコウと縁りをもどしたとき」
「じゃあ……」
「じゃあ?」
オレは、オレがなにを言おうとしたのか、わからなかった。
「大丈夫だよ」
オレの内心をどこか見透かしたように千夏が言う。
「すくなくとも、コウの前から千夏がいなくなることはない。だからコウは安心してリア充の予行練習しようね」
頭をヨシヨシされてオレはその手を払いのける。
千夏はおかしそうに笑うばかりで。そこに悲哀の念はうかがうことができなかった。
「おまえは……」
「なに?」
「……いや」
千夏が深くはきいてこないので、オレもその先を口にすることができない。
オレはまだ、大事な言葉を言えない意気地なしのままだった。
「ねえねえ、コウ」
と、「ごちそうさま」をして^千夏が床に置いてあったチラシを見せてくる。
そこに書かれていたのは、あの日から毎年続いている夏祭りの案内だった。
「いくでしょ?」
わざとらしく千夏は首を傾げる。
オレは「ああ」と頷いた。
いい加減、大人にならないといけないと思った。
†
八月。迎え盆の日。
日差しが傾き空に茜が塗られても、夏の蒸し暑さは変わらず世界を満たしていた。
「もういいかい?」
オレは脱衣所の戸をノックする。
三回目の確認を経て、ようやく戸は開かれた。
この二週間余り。ずっとクローゼットで眠らせていた藍染めの浴衣に身を包んだ千夏がひらりと袖を翻す。
伸ばしたままにされていた髪は後ろでひとつに結ばれ、締めた帯からは巾着袋が垂れていた。
「もう。そんなに急かさなくたっていいじゃん」
そういって千夏は頬を膨らませ、ふうと息を吐いて照れくさそうに微笑む。
「どう?」
「ああ」
「ああ、じゃわかんないよ」
「キレイだし、かわいいんじゃないか」
「なんで他人事なのさ?」
「オレの感想なんて今更きくまでもないだろ」
「それでも言ってほしいの。せっかく時間かけて着たんだから」
「そのままでいいって言ったのに」
互いの間に沈黙が訪れた。
オレはため息交じりに答えを口にする。
「……キレイすぎて、思わず見惚れちまった。さすがオレが惚れた幼なじみだ」
「よろしい」
千夏は満足げに鼻を膨らませる。
千夏と一緒に過ごした時間のおかげか、これくらいのことであればオレはすんなりと口にできるようになっていた。千夏からすれば全然「すんなり」ではないらしいが、オレからしたらずいぶんな進歩だ。
ただそれはオレの好意が既にバレているからで。隠す意味がないからだ。
トートロジーのようだけど、まだ千夏に伝えていないことを、オレはまだ千夏に伝えられずにいる。
「コウも甚平とか着たらいいのに」
「べつにいいだろ、オレの格好なんて。服ひとつで見栄えの変わる顔でもない」
「たしかに」
「そこは一回くらい否定しとけよ」
「なんで?」
「……べつに」
「カッコよくなくてもいいじゃん。わたしは好きなんだから」
「…………おまえのそういうの、わざとやってるのか?」
「そういうのって?」
「なんでもない」
千夏はオレの気持ちを見透かしたようにニシシと笑った。
「じゃあ、いこっか」
「ああ」
他愛もないやりとりをしながら、オレは千夏が草履に履き替えるのを待つ。
その間になんとなく玄関の姿身を見て、思わず息を呑んだ。
「……オレって、こんな顔だったっけ?」
「なに? べつにそこまで悲嘆するほどじゃないから気にしなくていいって」
「そうじゃなくて」
いつか木崎さんに鏡を向けられたとき、オレは途方に暮れた顔をしていた。それはドッペルゲンガーなんて現実感のない事象に苛まれていたのもあるが、「これからどうしたらいいか」ということについてずっと答えを出せずに生きてきた結果の産物だと思う。
勤務中にタバコを吹かす店員の女に鏡を見せられたときはまだ戸惑いの中にあった。だからその表情も自然と曖昧で後ろ向きなものになっていた。
ところが、今はどうだ。
まだ一本まっすぐ芯が通っているとまでは言えないけれど、なんだかずいぶんと前を向けている気がする。まるで、自分の人生に行き場を見つけたみたいに。
「まあ、たしかにコウの顔つきはよくなってきてるよ」
千夏はオレの頬を手で引っ張る。
「ほら。笑顔もかなり自然な感じになってる」
「すくなくとも今のコレは自然じゃない」
「うん。ようやく十五歳のコウにもどれたって感じかな」
「なら、今はおまえと同い年だな」
「そうだね」
「…………なんかさ」
「あの頃にもどったみたい?」
オレは千夏の手をとって家を出た。
遠くから陽気な祭囃子がきこえていた。
†
祭り会場は人でにぎわっていた。
田舎の祭りであるため道が埋め尽くされるということはないものの、車道を貸し切って行われているだけあって、人の往来は多い。
うっかりしているとはぐれてしまいそうだった。
「ふらっといなくなったりするなよ?」
「だいじょうぶだよ」
繋がったままになっていた手を軽く掲げて千夏が微笑む。
たしかに、とオレは肩を竦める。
そしてあの頃のように、オレと千夏は縁日をまわった。
香ばしい匂いに誘われてみれば串にささった鳥がいい色で焼かれていて。腹の虫に促されるままオレたちはそれを買ってほとんど同時にかじりついていた。
「あっつ!」
「わ、わたしにはちょうどいいよ!」
またナゾの背伸びをしながら顔を震わせている千夏の手を引いて、オレは隣にあったかき氷屋に駆け込む。
「たしか、宇治抹茶でよかったよな?」
「うん。コウは?」
「ブルーハワイ」
「好きだよねえ」
オレたちは焼き鳥とかき氷を互いに持ち合い、そういえばと互いに顔を見合わせた。
「あのときも」
「うん。同じの食べてた」
熱いものを食べて、火傷した舌を冷ますために冷たいものを食べて。
「じゃあ、次は……」
「そうだね」
千夏がなにを考えているのかなんてきくまでもなくわかったし、オレがなにを考えているかも千夏には話すまでもなくわかっていた。
だからオレたちは頷いて、なんとなくあの日の再現をしてみることにした。
目についたクジ屋は一等にハワイ旅行を据えていた。
オレはシメシメと思いながらクジを引き、見事ハズして版元不明の宇宙人ストラップを手に入れた。
「よかったね。ハズレて」
「ああ。ハワイ旅行なんて当たっちまったらどうしようかと思った」
「ホントに」
呆れた顔をする屋台の店主に背を向けて、オレたちは次の店を探す。
いつの間にか手を繋いでいることに抵抗なんてなくなっていた。
「あったよ、輪投げ」
「一等は?」
「グアム旅行だって」
「よかった。まるで興味がない」
そんなことを言いながらオレは取った輪を投げて、これまた見事に的を外してみせる。
「相変わらずヘタっぴだなあ」
「ばか。わざと外してるんだよ」
「だったら試しに本気でやってみてよ」
うまくいくわけがないとでも言いたげな千夏の態度にムッとして、オレはとりあえず二つくらい勝ち星をあげておくことにした。
そんな心持ちで挑んで投げた輪はどこにもかかることなく床の上に虚しく転がった。
「あははっ! やっぱりコウ!」
「うるさい。ならおまえはどうなんだよ、千夏」
ふふんと鼻を鳴らした千夏はオレの手にあった残り二つの輪を受け取り、同時に投げてそれぞれ端にある棒にひっかけた。
「…………プロかよ」
「コウが不器用なだけ」
千夏は四等の景品である金魚をかたどった小さなイヤリングを手にし、片方の耳につけて首を傾げる。
「どう?」
「どうって?」
「どう?」
「……ああ、はいはい。似合ってるよ」
「まーたそんな投げやりに」
金魚はすぐに割れてしまいそうなガラス細工でできていて。安物なのが透けていたけれど、千夏がつけると本当に映えて見えた。きっと千夏には素朴なものでもそれを美しく見えさせるだけの魅力が備わっているのだと思う。
なんてことを、まだ素直には言えないけれど。
「なにニヤニヤしてるの? コウ」
「べつに」
「あー、わかった。またわたしに見惚れてたなー」
このまま顔を覗かれているといつまでもからかわれそうだったから、オレは「腹が減った」とテキトーな理由をつけて千夏の前を歩いた。
「もう」
すぐ後ろでは千夏が頬を膨らませながら笑っているのがわかった。
オレだって、千夏にバレないようにこっそりと笑っていた。
ようやく見つけた的屋でしょぼくれた結果を出している頃には口の中が添加物の濃い味ばかりでごった返していたけれど、オレたちの足取りはずっと軽かった。
こうして二人で過ごしていると、本当に。あの頃にもどったみたいで。それ以外のことなんてどうでもいいことのように思えてきて。
――ずっと、こんな時間が続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。
「…………」
わかっている。ときどき忘れてしまうけれど、心の片隅ではちゃんと覚えている。彼女の正体がドッペルゲンガーであることは。所詮彼女は甘木千夏の心残りでしかないことは。
それでも。この瞬間。
オレの心は、ドッペルゲンガーである彼女によって満たされていた。
「コウ?」
立ち止まってしまったオレを見て千夏が首を傾げていた。
「いこっ」
オレは千夏に言われて再び歩き出す。
連れ立ってまわる縁日の喧騒はすべて薄い膜を隔てた向こう側からきこえてくるみたいで。いちばん近くにいる千夏の声だけがハッキリと耳に染み込んでいた。
「千夏」
オレは千夏のことを呼び止める。
千夏は足を止め、数秒の間を置いて振り返った。
「なに?」
オレはずっと言おうとしていた言葉を口にしようとする。
胸の奥から想いをせり上げて、喉を通し、舌の上に乗せたところで、噛み潰す。
「………………」
名前を呼んだ、その先が、どうしても出てこなかった。
対面した彼女の儚さに竦め取られて。訪れた沈黙に耐えられなくて。オレは結局また千夏から目を逸らしてしまった。
そして視線の先に金魚すくいの屋台をみつけた。
そのとき頭に浮かんだのは、千夏を待たせて金魚を掬い続けた日のことではなく、千夏と一緒に金魚を埋めた日のことだった。
「アレも、やる?」
隣で千夏の声がする。
心なしか、その声は低く、重く、淡い暗闇を孕んできこえた。
「…………お祭りの金魚って、なにを思って泳いでるんだろうね? どうせすぐに死んじゃうのに」
あの日千夏は、ボウルの中で死んだ金魚の運命を「しょうがないこと」だと言って終わらせた。
その冷たさだけが、オレの中に残されている唯一の違和感だった。
オレの知っている千夏は、そんなふうに生き物の命を冷たく見たりはしない。
そしてあのときの千夏も、口では冷たい言葉を吐きながら、実際は死んだ金魚を丁寧に埋葬していた。
そこには慈悲のようなものがたしかにあった。
今にして思えば、あのときの千夏はまるで、無常な死生観を口にすることで翻してそれを自分自身に言い聞かせようとしているようだった。
本当は受け入れたくない金魚の一生を、ムリをして飲み込もうとしているようだった。甘いものを好む子どもが背伸びをしてコーヒーを飲み干そうとするように。いつかは受け入れなければいけないこととして。
「……ドッペルゲンガーも同じってか?」
「え?」
オレは千夏のことを見る。
千夏は目を丸くして驚いていた。
「そんなこと、考えたこともなかったな」
ウソだ、とオレにはわかった。
千夏の視線は斜めに落とされていた。
「おまえが死ぬかどうかはわからない」
「わたしの場合は、死ぬとかそういうのじゃないから。わたしの――千夏の心残りがなくなって消えるだけ。痛みとかもないだろうし、埋葬の必要もない」
「……」
「ごめん。変な気遣わせちゃった? 大丈夫。わたしのことはいいから、お祭りたのしもうよ」
気丈に笑って、千夏はオレの手を引こうとする。
繋がった手を握り返して、オレはその場で立ち止まった。
そして怪訝そうに眉を寄せる千夏に言った。
「アレ、やろうぜ」
金魚すくいの屋台は今、ちょうど客がはけてヒマをしているところだった。
「……ホントにやるの?」
「ああ。あの日もやってたしな」
「でもコウ、掬えないじゃん」
「そんなの、やってみなくちゃわからないだろ」
「やってみなくちゃって……ずっとやってたんでしょ?」
「まあ」
「……べつにいいけど」
「よし、決まり」
オレは店の前までいって百円玉とポイを交換する。
千夏はオレの隣で屈んで水面を泳ぐ金魚に視線を落としていた。
「ねえ、コウ。さっき、なにか言いかけてなかった?」
「ああ。でも、今は集中しなきゃだから。これ、掬うまで、待ってくれ」
「……ふーん」
赤。白。青色。
流れていく色彩に目を凝らして、あの日と同じだと苦笑する。
あの日のオレは結局金魚を掬えずに、千夏に言いたいことを伝えることができなかった。
そしてその後悔を引きずったまま日々を過ごし、堕落したオレのまえに再び十五歳の千夏が現れて。ようやくオレも昔と同じくらいには自然に笑えるようになってきた。
だから今日は本当にあの日の再現で。あの日の自分から前に進むとしたら――大人になるとしたら――そのきっかけは今だと思った。
オレはポイを水の中へとくぐらせて、赤い金魚を掬いあげる。
「あっ……」
――――チャポン。
破れたポイの向こうに金魚が落ちていく。
「ほらね」
千夏がため息とともに立ち上がろうとする。
オレは財布をひっくり返してありったけの百円玉をすべてポイと交換した。
「ムダ遣いだよ」
「ムダかどうかはやってみないとわからないじゃないか」
水面に映るオレの顔が波紋の中に溶けていく。
「……なあ、千夏。もしオレがこの金魚を掬えたら、ひとつ、きいてもいいか?」
「きくって、なにを?」
「それは……まだ言えない」
「どうして?」
「オレがまだ、意気地なしだから」
「……」
千夏はため息を吐いた。
そして立ち上がり、背後から覆いかぶさるようにしてオレの手に手を宛がった。
「コウはずっと鉄ベラみたいに使ってるからいけないの。お好み焼き作ってるんじゃないんだから。ポイはこう、端のほうをちょっとだけ浸けて、掬うの」
オレは水槽を泳ぐ金魚にポイを近づけていく。
密着した千夏の身体に、耳たぶにかかる温かい息に、心臓の動きを速くしながら。
「そう。その調子」
オレは金魚をそっと掬いあげる。
今まではすぐにポイを破って水槽の中へともどっていた金魚が、指の先でピチピチと跳ねていた。
「あっ」
――――チャポン。
あとすこしというところで、一際大きく跳ねた金魚がポイの向こうへと落ちていく。
「ああ、惜しい!」
千夏がオレの肩で項垂れる。
隣では新たにやってきた子供の客が慣れた手つきで金魚を掬って持ち帰っていた。
「わたしがやったげようか?」
「それじゃ意味ないんだ」
「ふーん」
足下に積まれたポイは三つ。つまり残されたチャンスはあと三回。
オレは千夏に教わったとおりにポイを動かしてなんとか金魚を掬おうとする。
二度目も、三度目も、金魚を掬いきることはできなかった。けれどたしかに上達の形跡はあった。ポイで運べる距離は少しずつ長くなり、水を張られた椀までの距離は少しずつ短くなっていた。
「あと一枚だよ」
「わかってる」
破れたポイの向こう側に、あの日の自分の面影が見えた。
「……」
掬って、逃げられて、破れたポイの向こうに最適の言葉を探していたあの日のオレは、千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていた。
そうしているうちにだんだん不安に駆られて。はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうかとか考えてしまって、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてきて、結局なにも言うことができなかった。
そして、同じことを、今のオレも考えている。
あんなに伝えなかった場合の後悔を重ねてきたのに、未だに伝えた場合の後悔について考えてしまっている。
この気持ちを伝えてしまってもよいものかという悩みが、消えない。
あの日オレの人生に落ちてきた巨大なフタが“その先”へ踏み出すことを拒んでいる。
本当は、金魚なんて、簡単に掬えるはずなんだ。その気さえあれば、簡単に。
「がんばって、コウ」
耳元で千夏の声がする。
その言葉がオレの背中を押してくれた。
オレは覚悟を決めてポイを水に浸ける。
そのとき、オレたちの後ろで大きな花火が打ち上げられた。
「わっ!」
夜空で炸裂した爆音と共に、祭りに群がる人々の喝采がきこえてくる。
驚いて振り向いた千夏がオレの肩を揺らす。
「コウ! ほら、花火!」
そういって声を弾ませていた千夏が「あっ」と声を漏らした。
オレが手にした椀の中には一匹の赤い金魚が泳いでいた。
「ずっと、ききたかったことがあるんだ」
手を叩く千夏の顔をじっと見つめて、オレは口を開く。
「千夏は、オレのことがまだ好きなんだよな?」
「うん。そうだよ。それについては前に話したじゃん」
なら、と。オレは“その先”について尋ねた。
「おまえはどうなんだよ?」
「え?」
「千夏のドッペルゲンガーであるおまえは、オレのことをどう思ってるんだ?」
千夏はしばらくの沈黙を挟んでから答えた。
「好きだよ。だって」
「千夏のドッペルゲンガーだから、か?」
オレは手にした椀をひっくり返す。
あらかじめ入れられていた水と一緒に金魚が落ちて、水槽の中へともどっていく。
「じゃあ、ここしばらくオレと過ごしてみて、おまえはどう感じた?」
「……どうしたの? なにが言いたいのか、よくわからない」
「ウソだ。おまえはわかってるはずだ」
視線を斜めに逸らす千夏の頭上では色鮮やかな花火が打ち上がり、夜の気配を打ち消していた。
「オレは、たのしかったよ。実際。おまえとくだらない話をしながらこうして過ごすのは、オレにとって悪くない……いや。きっと、これ以上ない日々だ。だってオレは、おまえのことが好きだから」
周りの子供や屋台の店主がありきたりな告白と勘違いしてはやし立てる。
けれどオレたちの関係は彼らが思っているほど単純じゃない。
“今はまだ”複雑な事情が絡まり合い、想いと言葉の間に余計な壁が発生してしまっている。
「おまえも、そうだったんじゃないのか?」
千夏と一緒に過ごすことで、オレの人生は確実に再生へと向かっていた。
それは他でもない、今目の前にいる千夏のおかげで。たとえドッペルゲンガーであろうとも。オレをこうして外に引っ張り出してくれるのは、まぎれもなく彼女だ。
オレの中にあるこの気持ちは、だから、ドッペルゲンガーの千夏に対してのものだ。
「……そうだね。きっと本物の千夏とも……」
「オレは今“ここにいる千夏”に話してるんだ」
オレは千夏の肩を抱く。
そして彼女に向かってまっすぐ言葉をぶつけた。
「オレはこのままおまえとずっと一緒にいたい」
はじめて彼女に出会った瞬間から、予感はあった。
自分の未来が見えるオレには、未来のオレがなにを考えるかわかっていた。
――このままドッペルゲンガーの千夏と一緒にいれば、いつかオレはドッペルゲンガーに対して愛情を抱いてしまう、と。
わかったうえで、オレは彼女が傍にいることを許した。というより、降って湧いたようなその可能性に、選択肢に、甘えた。どうしようもない現状から掬われることを願って。
「…………わたしはドッペルゲンガーなんだよ?」
「関係ない」
オレには、すくなくともオレには――彼女がドッペルゲンガーであるということは、この気持ちを伝える障壁にはなっても、この気持ちが湧くのを塞ぐフタにはなりえなかった。
彼女と千夏を同一視すると決めたとき、既にオレの中でそのフタは取り払われていた。
「……」
千夏は俯いて言葉を探していた。
互いの間を彷徨う沈黙を花火の音が攫い、着色された夜空が彼女の横顔を照らしていた。
ひとつ結びの後ろ髪が、やがて微かに上を向く。
千夏が、ぐっと歯を食いしばるのがわかった。
「関係、あるよ」
千夏は重ねていた手をやさしく払う。
そして諭すように淡々と言葉を落としていった。
「今のコウは、オリジナルのわたしと向き合うことから逃げてるだけ。オリジナルのわたしと連絡を取って縁りをもどす勇気がないからわたしにそんなことを言っているようにしか見えないよ」
「そんなことは……」
「わたしでいいなら、オリジナルのわたしでもいいはずだよ」
オレたちの間に重たい沈黙が下りた。
なにか、言い返さなければいけない気がした。
だからオレは言葉を探す。
ドッペルゲンガーの――目の前の千夏が――本物の千夏以上に必要な理由を探す。
オレを更生させてくれたこと。ずっとオレのそばにいてくれたこと。一緒にいるとそれだけで気持ちが晴れやかになっていくこと。
そのどれもに対して、本物の千夏を引き合いに出して同じ言葉で返してくる千夏の姿が見えた。
結局、大事なのは千夏がどう思っているかだった。
「……おまえは、オレと同じ気持ちだったりしないのか?」
傲慢かもしれない。
でも。
オレは千夏がオレと同じことを思ってくれているような気がしていた。
あの日の夏祭りで互いの気持ちが重なっていたように。
一緒にしばらくを過ごすうちに、ドッペルゲンガーの千夏も本当はオレといたいと思ってくれているのではないかと考えるようになった。
しょうがないと言って世話を焼きながら。心残りを抱えた千夏のためだと言いながら。その裏で、本当は、自ら望んでオレと関わってくれているのかもしれないと。
あの頃、金魚を口実にして自分の気持ちを伝えることから逃げたオレとは逆に、千夏はもしかしたら自分がドッペルゲンガーであることを口実にすることでオレと関わりを持ち、結果としてその関係に充足を感じてくれているのではないかと。
そんな気がして。そうであればいいなと思ったから、オレは千夏に尋ねた。
「かえろっか」
「え?」
千夏は長い息を吐き、それからうんと背伸びをしながら立ち上がって、言った。
「もうお金、なくなっちゃったし」
千夏はひどく大人びた笑みを浮かべてオレのことを見つめていた。
その笑みには今まであったはずの体温が感じられなかった。
まるで彼女の中にあった熱が急速に冷めてしまったような。
「……でも、花火……」
「見ていきたい?」
色とりどりの強烈な光が、千夏の表情に色濃い影を落としていた。
彼女は今でも変わらず手を伸ばせば繋いでいられるところにいるはずなのに。
オレと千夏の間に、なぜか距離ができてしまったようだった。
「……千夏は、帰りたいのか?」
そう尋ねると、千夏は困ったように頬をかいた。
「…………そうか」
オレは千夏と一緒に祭りの場をあとにした。
うるさく鳴り続ける花火の音にのしかかられて、オレは答えをきくことができなかった。
†
帰り道は無言が続いた。
まるでいつかの帰路みたいだった。
千夏は家に帰ると「汗かいちゃったね」と乾いた声で笑って脱衣所の戸を閉めた。
きこえてくるシャワーの音を耳にしながら、オレはポケットに入れたままになっていたストラップを手のひらで転がす。
「…………」
――オレは、間違えたのだろうか?
ぽつぽつと、そんな考えが浮かんでくる。
オレの気持ちを伝えたら、千夏が動揺するのはわかっていた。千夏が困るのもわかっていた。
それでも、オレは千夏にそれを伝えることを選んだ。あの日のように後悔することがないようにと。
その結果として千夏に拒絶されたのならそれは自分の過ちとして処理できたし、もし千夏が傷ついたのであればオレはオレの浅はかさを正しく呪うことができた。
けれど、今はそうして自分を責めることもうまくできない。
「……あれは、本心だったのか?」
オレの意志に対して千夏が返した言葉はどれも弱々しくて、それを答えと呼ぶには芯の強度に欠けていた。
千夏が並べた理屈はどれも主体性のない、第三者の目を借りてきたようなものばかりだった。
端から自分を中心にして人生を構築していないみたいな。するべきではないと考えているような。
「…………」
堂々巡りの思考を払い、オレはとりあえず手元のストラップをつけておこうかと、置きっぱなしにしていたケータイを拾い上げる。
思えばこうしてケータイを触るのも久しぶりだった。
いつの間にか電源は落ちていた。
オレは充電ケーブルを差し込んでケータイにストラップを括りつける。
そのとき。
「はい」
と、脱衣所の戸を開けて千夏が出てくる。
「次、どうぞ」
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、千夏は普段通りの明るい口調のままに言った。
「さっきまでは、ごめんね」
「ずっと風呂でその切り出し方を考えてたのか?」
「もう。そこは気づかないフリしてよ。相変わらず無神経なんだから」
「だって、いつもより長かったから。そうでなければまたトイレかと」
ごん、とオレの頭をこづき、千夏は冷蔵庫の麦茶を取り出してグイと煽る。
「ぷはあっ!」
のぼせて赤くなった顔をエアコンの風で冷やしながら、ふうと息を吐いて千夏は言った。
「ずっと一緒には、いられないんだよ」
部屋を漂う空気の流れが、ピタリと止まったような気がした。
「ドッペルゲンガーの寿命は、たぶんそんなに長くない」
オレに背中を向けたまま語る千夏は、まるで表情を覗かれまいとしているようだった。
「……大人になったら消えてなくなるってやつか?」
木崎さんは部室でそんなことを言っていた。
ドッペルゲンガーなどといった眉唾物の存在と邂逅できるのは大人になるまでだと。
「うーん、どうだろう?」
「どうだろうってなんだよ?」
「時期についてハッキリとはわからない。ただ普通に考えればそうなるって話」
今千夏が語っているのは自分の寿命の話だ。
にも関わらず、彼女は飄々として他人事のようにそれを語っている。
そのことが、どうにもオレの心をざわつかせていた。
「べつになにか重大な秘密を隠してたとかってわけじゃない」
「大事なことだろ」
「そんなに心配そうな声出さないでよ」
そういって振り向いた千夏は、笑っていた。
「わたしは千夏の心残り。それが解消されたらわたしは消えていなくなる」
「ああ。逆に言えば、それが解消されない限りおまえはずっといることになる」
「そうだけど、そうじゃない」
「なにが?」
「コウは、人がずっと心残りを抱えて生きていけると思う?」
尋ねておきながら、千夏にはその問いの答えがわかっているようだった。
「……生きていけないのか?」
「生きていけないでしょ」
当然のことを教えるように千夏は苦笑する。
「だからこのことに関して逆説は成り立たない。考えられる可能性は、千夏がコウと一緒になって正しく心残りを解消するか、このままコウと縁りをもどすことなくコウと離れたまま、コウのことを忘れて生きていくか。どっちにしても、わたしの命はそこまで」
「……」
「どっちかしかないんだから、どうせなら物事はハッピーエンドのほうがいいでしょ? わたしはコウとずっと一緒にはいられない。だからわたしがいるうちに、コウはしっかり千夏に似合う男になるべきなんだよ」
「その幸せに、おまえはいないじゃないか」
オレと千夏が――本物の千夏が縁りをもどして。互いの好意を打ち明け合って。そうしたら、たしかにオレたちの心残りは解消されて大団円だ。
でも、じゃあ、そのために消えてしまうほうの千夏は幸せなのか?
もしもオレがドッペルゲンガーなら、それを幸せだと呼べるのか?
「大丈夫だよ」
と、千夏は言った。
「そんなに心配なら、こう考えればいいんだよ。わたしは消えていなくなるわけじゃない」
「消えていなくなるわけじゃない?」
「そう。元の千夏とひとつになって、わたしはコウと一緒にいる。そう考えたら、全然なにも不都合なんてないでしょ?」
詭弁だ、と思った。
考え方を変えたところで事実が変わるわけじゃない。
それはオレがこの五年で飽きるほど学ばされ続けたことだった。
「だからわたしのことなんて気にしないで――」
そうして千夏が千夏自身を軽んじることに、オレはもう耐えられなかった。
だから、オレは千夏の言葉を遮るように、千夏のことを後ろから抱きしめた。
一瞬、驚いて身を固くした千夏の身体が前に傾く。
オレはそんな千夏を支えて立ち尽くす。
サイドテーブルに置いていたケータイがガタンと床に落ちた。
しばらく、無言の時間が続いた。
「…………なに?」
「オレはまだ、おまえの口からおまえの気持ちをきいてない」
重ねた身体の距離に適した声のトーンで、オレは千夏に向けて言葉を放つ。
「気持ちって……ずっと言ってるじゃん。コウはここにいるわたしじゃなくて、コウのことを未だに想ってる本物のわたしを見るべきだって」
「それはおまえの気持ちじゃない。自分の立場を客観視して最適解を見出せる神様の戯言だ」
「なにそれ……意味わかんないよ」
「本当に、わからないのか?」
千夏には、オレがなにを言おうとしているのかわかるはずだった。
だってオレたちは一ヶ月どころか、十年以上も一緒にいて、互いを想い合っていた幼なじみなのだから。
あの日本当は互いに互いのことが好きであるとわかっていたように。言葉なんてなくたって、オレの気持ちは千夏に伝わるはずだった。
「…………コウはそんなに、わたしに『寂しい』って言ってほしいの?」
「……」
「わたしは大丈夫だって、気にしないでいいって、言ってるのに」
「それがおまえの本音なら、べつにそれでかまわない。だけどおまえはおまえのことに関して、まだ一度も願望を口にしていない。『しょうがない』とか『そういうものだ』とかばかりで、『こうであってほしい』をきいてない」
「そんなの言葉の揚げ足取りだよ」
「おまえの言葉が全部カラッと揚がるまで、オレはこの手を離さないぞ」
「……なにそれ」
千夏は「ぷっ」と吹き出して笑った。
「ふふっ! コウったら、ホント意味わかんない」
堪えきれなくなった千夏は天井を仰ぎ、笑い声と一緒に長い息を吐き出して口を開く。
「…………ホントに、意味わかんないくらい、コウは優しいんだから」
外では夏の虫が鳴いていた。
正面の曇りガラスには淡い月光が写り込んでいて。人がすべて出払われたような静寂の世界で、やがて千夏はポツリポツリと言葉を落としていく。
「人の心配できるほど安定した人生じゃないくせに」
「それはいいだろ、べつに」
「あのときだってそう」
呆れ笑いを覗かせながら、千夏は天井の向こうにいつかの情景を見る。
「コウが告白しないって選択をしたとき、わたし、ガッカリしたけど、同時に、じつはちょっとだけうれしかったんだよ」
「どうして?」
「だって、コウが考慮してくれたことはたぶん、だいたいそのとおりだったから」
そういって、千夏はあの日の心境について語ってくれた。
オレはあの日、千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていた。
そうしているうちにオレはだんだん不安に駆られていく。
はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうか?
好きだったとして、それを知りながらする告白は打算の色が強すぎやしないだろうか?
愛や恋がなにかもまだ定義できない十五歳の自分にソレを伝える資格があるのだろうか?
伝えて、実った想いは、いつか枯れたりしないだろうか?
考えれば考えるほど、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてきて。告白なんてしないほうがいいような気がしてきて。結局、オレは千夏になにも伝えられなかった。
そして、同じことを、千夏も考えていたらしい。金魚を掬っているオレを眺めながら。
はたしてここでオレと――真中コウと付き合ってもいいのか。そういうことを、十五歳なりに考えながらオレのことを待っていたのだと、千夏はまるで昨日のことを思い出すようにして語った。
「……なんだよ。じゃあ、おまえがオレのこと意気地なしとか言ってたのって」
「うん。ブーメランだね」
笑い声と一緒に雑多な感情をすべて吐き出した様子の千夏は、驚くほどあっけらかんとしていた。
「なら、あのときオレがおまえに告白しなかったのは正解だったのか?」
「正解じゃないでしょ。こうしてドッペルゲンガーなんて生み出しちゃうくらいに千夏は後悔してるんだから」
でも、と千夏は言葉を続ける。
「まあ、告白されてたら、それはそれで、もしかしたら断ってたかもしれないけど」
「はあ⁉ なんだよそれ!」
「女心は夏の海なんだよ」
「おまえはおまえで意味がわからん」
「その場合も結局後悔して、わたしはここにいただろうけどね」
「だったらどっちにしろオレにとっては負け戦だったってことになるじゃないか」
「あくまで仮定の話だよ。確率でいえばたぶんふつうに付き合ってたと思うよ。まあ、そのあと何年続いたかはわからないけど」
「……」
「ほーら。暗くならないの」
千夏がオレの腕の間からスルリと手を伸ばし、あやすようにオレの頭を撫でてくる。
十五歳の幼なじみに子ども扱いされるのはさすがに恥ずかしかったけれど、不思議と千夏の手を払う気にはなれなかった。
「まあ、だから、ガッカリしつつ、ホッとして、思ったんだ。わたし、ムリしてカッコつけちゃうところだけじゃなくて、コウのそういうやさしいところも、かなり好きだったんだなって」
不意打ちめいた告白に、オレの心臓が跳ねる。
「それでもあと一歩踏み出しきれないのがコウのダメなところだったのに。いきなりわたしのこと抱きしめたりして。金魚が一匹掬えたくらいでそんなふうになれるもんなの?」
冗談めいた言葉で流そうとする千夏に、オレはもう一度尋ねる。
「おまえは、オレと一緒にいたくないのか?」
「えー。まだその話するの?」
「大事なことだろ」
「じゃあ、一緒にいたいって言ったら、どうするの?」
腕の中で千夏がクルリと身を翻す。
彼女の目はまっすぐオレのほうを見つめていた。
「わたしが、コウとずっと一緒にいたいって言ったら、コウはどうする?」
千夏の瞳の奥には不安が揺らめいていた。
だからそれは、飄々としているくせに本当は臆病な千夏なりの、精いっぱいの言葉なのだと思った。
「いつ消えてしまうかもしれないわたしが、オリジナルのために生まれたはずのわたしが、それでもわがままに『コウと一緒にいたい』なんて言っちゃったら、コウはどうするの?」
オレは、オレの人生に落ちてきた巨大なフタに、ようやく取っ手が見えた気がした。
それを手に取り、押しのけるとしたら、それは今しかないと思った。
オレは決めていた覚悟を引っ張り出し、まっすぐ千夏の目を見つめながら、深く息を吸って言葉を放つ。
「オレは、おまえと――――」
そのときだった。
今までろくに鳴らなかったはずのケータイが、唐突にだれかからの着信を知らせていた。
オレたちの間に一拍の沈黙が下りた。
その一拍の沈黙こそが、オレたちのこれからを決定づける、運命の岐路ともいうべき猶予だった。
「だれからだろう?」
千夏がケータイに意識を向ける。
オレは口にしようとしていた言葉を引っ込めて落ちていたケータイを拾い上げる。
ケータイには一通のメッセージが届いていた。
オレはそのメッセージの送り主を見て唖然とする。
『どういうこと?』
そんな不可解な短文をオレに送ってきたのは、他でもない、いつかなにかの拍子でまたやりとりが始まったりするのではないかと期待し、オレがずっと想い、待ち続けていた、思い出の中にいる幼なじみだった。
――――甘木千夏。
通知欄にはハッキリとその名が表示されていた。
どうやら落ちた拍子に電源が入ったらしい。
オレは画面から目を離して振り返る。
隣にはたしかに十五歳の千夏が立っていた。
けれど。
先刻までの彼女と、今の彼女は、大事ななにかが、決定的に、違ってしまっているように見えた。
「すごいじゃん! コウ! わたしからメッセージがきたよ! わたしのめんどくさい性格を考えたら、メッセージなんて送れるはずないのに! たぶんこれはよっぽどのことがあったんだよ!」
「あ、ああ」
千夏はオレの腕の中からスルリと抜け出し、興奮した様子で言う。
「これは千載一遇のチャンスだよ。この機を逃す手はないよ」
「なあ、千夏。さっきの話だけど……」
「そんなことより今はこっちでしょ」
千夏はオレのケータイをビシリと指差す。
「ボヤボヤしてるうちにまた返信の機会を逸しちゃうんだから」
千夏の言うことにはたしかに覚えがあった。
オレはしかたなくケータイの画面に注意をもどし、返信画面を開く。
「なにが『どういうこと』なんだ?」
「さあ? とりあえずそれをきいてみるべきじゃない?」
「そうだな」
オレは千夏に『なにが?』と返した。
「相変わらず愛想がないなあ」
「他にないだろ」
「一文には二文以上で返してほしいってわたしは思うよ」
「あんな漠然とした質問に二文も返せるか」
「わからないよ。単に話がしたくなっただけかもしれないし」
「それならそう言うだろ」
「言えないからこんなことになってるんでしょ。お互いに」
「それはそうだけど」
と、そんな話をしているうちに、千夏からの返信を知らせる音が鳴る。
『ドッペルゲンガー』
表示されたそのワードに、オレは再び隣の千夏と顔を見合わせた。
「わからない」
と、千夏はオレが尋ねるより先に首を横に振った。
そして続けてケータイはメッセージを受信する。
『コウの、ドッペルゲンガーがいる』
オレは絶句した。
そしてなにか事情を知らないかと千夏のほうを見る。
そのとき千夏が浮かべていた表情は、ひどく力ない、すべてを悟って諦めたような人間の表情だった。
オレはそこでようやく、千夏が先刻のうちになにを失ったのか気づく。
――千夏は、もう、オレとの未来を諦めてしまっていた。
「……なあ、千夏……」
「わかったかもしれない」
千夏は顎に手を当てて頷く。
「つまりわたしがわたしのドッペルゲンガーを生み出したように、コウも知らずのうちにコウのドッペルゲンガーを生み出してオリジナルの千夏のところに送ってたんだよ。互いに互いを心残りにしてたんだから、そういうことになっても不思議じゃない。むしろわたしが出会ったときのコウの病みっぷりを考えたら当然とさえ思えてくる」
「……」
「でも、これはいい会話のきっかけになるね。二人してドッペルゲンガーにいき合うなんてたぶんそうそうないことなんだから、ちゃんと話を続けなよ。疑問符を絶やすことなく」
「なあ、千夏」
オレは早口で話を進めようとする千夏のことを見つめる。
「オレはおまえと――――」
「わたしはコウと、一緒にいたいなんて、ちっとも思ってないよ」
伸ばしかけた腕を払うように、千夏はそう言ってオレのほうをじっと見つめ返す。
平らに伸ばした感情を貼りつけたような、暗く、黒い、裏腹の気持ちを覗かせない目だった。
「コウもそうでしょ?」
「そんなこと……」
「あるよ。だって、ドッペルゲンガーを生み出してるんだから。自覚してないかもしれないけど、それってわたしじゃなくて、ちゃんと本物の千夏に未練を持ってるってことじゃん」
――そんなことない。そう、言ってやりたかったけれど。
“オレの知らないところでオレのドッペルゲンガーが存在している”という事実がある以上、オレが口にする言葉はどれも詭弁にしかなかなかった。
「コウといるとたのしいけど、疲れるし。コウのことはそりゃ好きだけど、それはべつにわたしの気持ちじゃないから」
「たとえ借り物だったとしても、それもおまえの感情じゃないのか」
「ちがうよ」
と、千夏は言う。
「だってわたしの『好き』は恋人としての『好き』じゃなくて、友達としての『好き』だから」
千夏はオレから視線を逸らさない。
口にした言葉にウソはないのだと、言い含めるように。
「今、本物のわたしからメッセージがきて、ようやくわかった。もしわたしがコウのことを恋人として『好き』なら、オリジナルのところにいってほしくないって思うでしょ? でも、わたしはコウにちゃんと本物の千夏と仲直りしてほしいって思ってる。これってつまり、そういうことでしょ?」
「…………」
「結局わたしはドッペルゲンガーなんだよ。その境遇を不幸だとも思わない、分相応に幸せを感じるドッペルゲンガー」
「…………本心か?」
「うん。コウがわたしを選んだら、むしろわたしは不幸になる。だからわたしは、わたしのためにもコウにオリジナルの千夏を選んでほしい」
オレはしばらく黙って千夏の顔を見つめていた。
しかし千夏はそんなオレをじっと見つめ返し、まばたきのひとつもせずに待っていた。千夏の表情に、仕草に、意志に、オレがウソの気配を見出そうとするのをやめるのを。
「…………」
視線を斜めに落とすクセを矯正されたところで、長い時間を共にしたオレには千夏がウソを吐いているかどうかくらいわかるはずだった。
けれど、千夏のどこにも、ウソの色はなかった。
そうして彼女の心を探っていると、次第に先刻まで感じていた千夏の気持ちのほうがウソのように思えてくる。
オレの腕の中に千夏がいたとき――それが短い一時だったとしても、ほんの一瞬、たしかにオレと千夏の気持ちが、重なった気がしたのに。
今ではそれが遠い過去のように思えてくる。
「だから、コウ」
そして、祈りを込めたような笑みで口にされた言葉が、決定打になった。
「はやくわたしをコウから自由にしてよ」
オレが前に進まない限り、千夏はずっとオレの人生に付き合わされ続ける。
残りがどれだけかもわからぬ時間。もしオレが彼女から離れることで、彼女の願いを叶えてやることで、彼女をオレから自由にさせてやることができるなら。それを彼女が望むなら。
オレは、こんなオレに今日まで付き合ってくれた彼女のためにも“この気持ち”にフタをすることを選ぶ。
「…………わかったよ」
オレはそれから本物の千夏と数回のメッセージを交わし、送り盆となる明後日の土曜日に会う約束をした。
その日は二十回目となる、千夏の誕生日だった。
千夏がどこかにでかけたいといえばオレは自転車のスタンドを蹴り上げ、千夏を乗せてどこまでも走った。何度かケーサツにサイレンを鳴らされたときは焦ったけれど、無事に逃げきったオレたちはハイタッチをして笑い合った。
家に帰ると借りてきたDVDを毎日三枚は見せられる。最初はただただくだらないだけだと思っていたサメ映画も、繰り返し二人で見ているとそのくだらなさが周回してたのしめた。
「どう?」
「ああ。うまい」
オレは千夏が作ってくれた料理をかき込みながら頷く。
コンビニ弁当とインスタントラーメンばかりでは味気ないと、いつからか千夏がキッチンに立ってくれるようになっていた。
オレの家にはエプロンもピーラーもなかったけれど、そうして料理を作る千夏はなかなか様になっていた。ただ、ときどきちょっと薄味のときがあって、指摘したら翌日とびきり塩辛いおむすびを握られた。
「あははっ!」
辛すぎて転げまわるオレをみて千夏は笑う。そうして自分だけ安全なものをパクパクやっていたので、こっそりすり替えたら千夏も同じようにのたうちまわって笑えた。
「コウ、ホンット子供なんだから!」
「おまえもだろ、千夏」
いつからか、オレはずいぶん素直に笑えるようになっていた。
千夏と一緒に過ごす日々は驚くほど色彩に満ちていて。そういえば昔はこんなふうに一瞬一瞬をたのしんだりしていたことを思い出す。
「なあ、千夏。今のオレはどうだよ?」
「どうって?」
「おまえと出会った頃よりはちょっとマシな顔になってるんじゃないか?」
千夏はすこしの間をおいて答えた。
「そうだね。じゃあ、そろそろ連絡とってみる?」
「連絡って?」
「本物の千夏に」
今度はオレのほうが沈黙を作ることになった。
――そういえばこいつはドッペルゲンガーだった、なんて。
千夏に言われるまで、オレは彼女の目的でありオレの目的でもあることを忘れていた。
「……そうだな」
オレはケータイに向かって伸ばした手をそっと下ろす。
「でも、まだいいかな」
「どうして?」
「だってオレ、まだ千夏に似合う男にはなってないんだろ?」
千夏はオレの顔をじっとみつめてから肩をすくめる。
「……そうだね。すくなくともまだ自分から踏み出せるようにはなってないみたい。それじゃ結局あのときの二の舞だから」
「ああ」
「……コウ、なんかうれしそうにしてない?」
「そんなわけないだろ」
口ではそう否定しておきながら、しかし実際オレは“まだ踏み出さずにいる現状”をすくなくとも残念がってはいなかった。
こうして千夏と過ごす何気ない日々はまるであの日選べなかった未来の再現みたいで。まるで幸せな夢を見ているような現状から、脱したくないと、心のどこかでは望んでいた。
思えば、彼女を千夏だと思うようにした日から一度もケータイを開いていなかった。
くるはずがないメッセージを待つより、たしかに存在している目の前の彼女と話していたほうがよっぽど有意義で、胸が高鳴ったから。
「なあ、千夏。おまえ、急にいなくなったりしないよな?」
「なに? 突然」
箸を口に運びながら疑問符を浮かべる千夏に、オレはずっと気にかかっていたことを尋ねる。
「オカルトとかにちょっとだけ詳しい大学の先輩に言われたんだ。ドッペルゲンガーとかそういうのは、大人になったら消えてなくなるって」
「なんか、ドッペルゲンガーに会ったことでもあるような物言いだね」
「ドッペルゲンガーはわからないけど、幽体離脱をしたり不思議な発光体を目撃したことはあるって」
「なにそれ。へんなの」
「ああ。へんな人なんだ」
千夏は小さな鼻からふうと息を漏らす。
そして視線を斜めに落としてから、オレの目をまっすぐに見つめて言った。
「急にはいなくならないよ」
その言葉はたしかな質量を込めて口にされていたけれど、オレにはそれがウソなのか本当なのか判別がつかなかった。
「言ったでしょ。わたしはオリジナルの千夏が抱いた心残り。だからわたしが消えるとしたらそれは本物の千夏がコウと縁りをもどしたとき」
「じゃあ……」
「じゃあ?」
オレは、オレがなにを言おうとしたのか、わからなかった。
「大丈夫だよ」
オレの内心をどこか見透かしたように千夏が言う。
「すくなくとも、コウの前から千夏がいなくなることはない。だからコウは安心してリア充の予行練習しようね」
頭をヨシヨシされてオレはその手を払いのける。
千夏はおかしそうに笑うばかりで。そこに悲哀の念はうかがうことができなかった。
「おまえは……」
「なに?」
「……いや」
千夏が深くはきいてこないので、オレもその先を口にすることができない。
オレはまだ、大事な言葉を言えない意気地なしのままだった。
「ねえねえ、コウ」
と、「ごちそうさま」をして^千夏が床に置いてあったチラシを見せてくる。
そこに書かれていたのは、あの日から毎年続いている夏祭りの案内だった。
「いくでしょ?」
わざとらしく千夏は首を傾げる。
オレは「ああ」と頷いた。
いい加減、大人にならないといけないと思った。
†
八月。迎え盆の日。
日差しが傾き空に茜が塗られても、夏の蒸し暑さは変わらず世界を満たしていた。
「もういいかい?」
オレは脱衣所の戸をノックする。
三回目の確認を経て、ようやく戸は開かれた。
この二週間余り。ずっとクローゼットで眠らせていた藍染めの浴衣に身を包んだ千夏がひらりと袖を翻す。
伸ばしたままにされていた髪は後ろでひとつに結ばれ、締めた帯からは巾着袋が垂れていた。
「もう。そんなに急かさなくたっていいじゃん」
そういって千夏は頬を膨らませ、ふうと息を吐いて照れくさそうに微笑む。
「どう?」
「ああ」
「ああ、じゃわかんないよ」
「キレイだし、かわいいんじゃないか」
「なんで他人事なのさ?」
「オレの感想なんて今更きくまでもないだろ」
「それでも言ってほしいの。せっかく時間かけて着たんだから」
「そのままでいいって言ったのに」
互いの間に沈黙が訪れた。
オレはため息交じりに答えを口にする。
「……キレイすぎて、思わず見惚れちまった。さすがオレが惚れた幼なじみだ」
「よろしい」
千夏は満足げに鼻を膨らませる。
千夏と一緒に過ごした時間のおかげか、これくらいのことであればオレはすんなりと口にできるようになっていた。千夏からすれば全然「すんなり」ではないらしいが、オレからしたらずいぶんな進歩だ。
ただそれはオレの好意が既にバレているからで。隠す意味がないからだ。
トートロジーのようだけど、まだ千夏に伝えていないことを、オレはまだ千夏に伝えられずにいる。
「コウも甚平とか着たらいいのに」
「べつにいいだろ、オレの格好なんて。服ひとつで見栄えの変わる顔でもない」
「たしかに」
「そこは一回くらい否定しとけよ」
「なんで?」
「……べつに」
「カッコよくなくてもいいじゃん。わたしは好きなんだから」
「…………おまえのそういうの、わざとやってるのか?」
「そういうのって?」
「なんでもない」
千夏はオレの気持ちを見透かしたようにニシシと笑った。
「じゃあ、いこっか」
「ああ」
他愛もないやりとりをしながら、オレは千夏が草履に履き替えるのを待つ。
その間になんとなく玄関の姿身を見て、思わず息を呑んだ。
「……オレって、こんな顔だったっけ?」
「なに? べつにそこまで悲嘆するほどじゃないから気にしなくていいって」
「そうじゃなくて」
いつか木崎さんに鏡を向けられたとき、オレは途方に暮れた顔をしていた。それはドッペルゲンガーなんて現実感のない事象に苛まれていたのもあるが、「これからどうしたらいいか」ということについてずっと答えを出せずに生きてきた結果の産物だと思う。
勤務中にタバコを吹かす店員の女に鏡を見せられたときはまだ戸惑いの中にあった。だからその表情も自然と曖昧で後ろ向きなものになっていた。
ところが、今はどうだ。
まだ一本まっすぐ芯が通っているとまでは言えないけれど、なんだかずいぶんと前を向けている気がする。まるで、自分の人生に行き場を見つけたみたいに。
「まあ、たしかにコウの顔つきはよくなってきてるよ」
千夏はオレの頬を手で引っ張る。
「ほら。笑顔もかなり自然な感じになってる」
「すくなくとも今のコレは自然じゃない」
「うん。ようやく十五歳のコウにもどれたって感じかな」
「なら、今はおまえと同い年だな」
「そうだね」
「…………なんかさ」
「あの頃にもどったみたい?」
オレは千夏の手をとって家を出た。
遠くから陽気な祭囃子がきこえていた。
†
祭り会場は人でにぎわっていた。
田舎の祭りであるため道が埋め尽くされるということはないものの、車道を貸し切って行われているだけあって、人の往来は多い。
うっかりしているとはぐれてしまいそうだった。
「ふらっといなくなったりするなよ?」
「だいじょうぶだよ」
繋がったままになっていた手を軽く掲げて千夏が微笑む。
たしかに、とオレは肩を竦める。
そしてあの頃のように、オレと千夏は縁日をまわった。
香ばしい匂いに誘われてみれば串にささった鳥がいい色で焼かれていて。腹の虫に促されるままオレたちはそれを買ってほとんど同時にかじりついていた。
「あっつ!」
「わ、わたしにはちょうどいいよ!」
またナゾの背伸びをしながら顔を震わせている千夏の手を引いて、オレは隣にあったかき氷屋に駆け込む。
「たしか、宇治抹茶でよかったよな?」
「うん。コウは?」
「ブルーハワイ」
「好きだよねえ」
オレたちは焼き鳥とかき氷を互いに持ち合い、そういえばと互いに顔を見合わせた。
「あのときも」
「うん。同じの食べてた」
熱いものを食べて、火傷した舌を冷ますために冷たいものを食べて。
「じゃあ、次は……」
「そうだね」
千夏がなにを考えているのかなんてきくまでもなくわかったし、オレがなにを考えているかも千夏には話すまでもなくわかっていた。
だからオレたちは頷いて、なんとなくあの日の再現をしてみることにした。
目についたクジ屋は一等にハワイ旅行を据えていた。
オレはシメシメと思いながらクジを引き、見事ハズして版元不明の宇宙人ストラップを手に入れた。
「よかったね。ハズレて」
「ああ。ハワイ旅行なんて当たっちまったらどうしようかと思った」
「ホントに」
呆れた顔をする屋台の店主に背を向けて、オレたちは次の店を探す。
いつの間にか手を繋いでいることに抵抗なんてなくなっていた。
「あったよ、輪投げ」
「一等は?」
「グアム旅行だって」
「よかった。まるで興味がない」
そんなことを言いながらオレは取った輪を投げて、これまた見事に的を外してみせる。
「相変わらずヘタっぴだなあ」
「ばか。わざと外してるんだよ」
「だったら試しに本気でやってみてよ」
うまくいくわけがないとでも言いたげな千夏の態度にムッとして、オレはとりあえず二つくらい勝ち星をあげておくことにした。
そんな心持ちで挑んで投げた輪はどこにもかかることなく床の上に虚しく転がった。
「あははっ! やっぱりコウ!」
「うるさい。ならおまえはどうなんだよ、千夏」
ふふんと鼻を鳴らした千夏はオレの手にあった残り二つの輪を受け取り、同時に投げてそれぞれ端にある棒にひっかけた。
「…………プロかよ」
「コウが不器用なだけ」
千夏は四等の景品である金魚をかたどった小さなイヤリングを手にし、片方の耳につけて首を傾げる。
「どう?」
「どうって?」
「どう?」
「……ああ、はいはい。似合ってるよ」
「まーたそんな投げやりに」
金魚はすぐに割れてしまいそうなガラス細工でできていて。安物なのが透けていたけれど、千夏がつけると本当に映えて見えた。きっと千夏には素朴なものでもそれを美しく見えさせるだけの魅力が備わっているのだと思う。
なんてことを、まだ素直には言えないけれど。
「なにニヤニヤしてるの? コウ」
「べつに」
「あー、わかった。またわたしに見惚れてたなー」
このまま顔を覗かれているといつまでもからかわれそうだったから、オレは「腹が減った」とテキトーな理由をつけて千夏の前を歩いた。
「もう」
すぐ後ろでは千夏が頬を膨らませながら笑っているのがわかった。
オレだって、千夏にバレないようにこっそりと笑っていた。
ようやく見つけた的屋でしょぼくれた結果を出している頃には口の中が添加物の濃い味ばかりでごった返していたけれど、オレたちの足取りはずっと軽かった。
こうして二人で過ごしていると、本当に。あの頃にもどったみたいで。それ以外のことなんてどうでもいいことのように思えてきて。
――ずっと、こんな時間が続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。
「…………」
わかっている。ときどき忘れてしまうけれど、心の片隅ではちゃんと覚えている。彼女の正体がドッペルゲンガーであることは。所詮彼女は甘木千夏の心残りでしかないことは。
それでも。この瞬間。
オレの心は、ドッペルゲンガーである彼女によって満たされていた。
「コウ?」
立ち止まってしまったオレを見て千夏が首を傾げていた。
「いこっ」
オレは千夏に言われて再び歩き出す。
連れ立ってまわる縁日の喧騒はすべて薄い膜を隔てた向こう側からきこえてくるみたいで。いちばん近くにいる千夏の声だけがハッキリと耳に染み込んでいた。
「千夏」
オレは千夏のことを呼び止める。
千夏は足を止め、数秒の間を置いて振り返った。
「なに?」
オレはずっと言おうとしていた言葉を口にしようとする。
胸の奥から想いをせり上げて、喉を通し、舌の上に乗せたところで、噛み潰す。
「………………」
名前を呼んだ、その先が、どうしても出てこなかった。
対面した彼女の儚さに竦め取られて。訪れた沈黙に耐えられなくて。オレは結局また千夏から目を逸らしてしまった。
そして視線の先に金魚すくいの屋台をみつけた。
そのとき頭に浮かんだのは、千夏を待たせて金魚を掬い続けた日のことではなく、千夏と一緒に金魚を埋めた日のことだった。
「アレも、やる?」
隣で千夏の声がする。
心なしか、その声は低く、重く、淡い暗闇を孕んできこえた。
「…………お祭りの金魚って、なにを思って泳いでるんだろうね? どうせすぐに死んじゃうのに」
あの日千夏は、ボウルの中で死んだ金魚の運命を「しょうがないこと」だと言って終わらせた。
その冷たさだけが、オレの中に残されている唯一の違和感だった。
オレの知っている千夏は、そんなふうに生き物の命を冷たく見たりはしない。
そしてあのときの千夏も、口では冷たい言葉を吐きながら、実際は死んだ金魚を丁寧に埋葬していた。
そこには慈悲のようなものがたしかにあった。
今にして思えば、あのときの千夏はまるで、無常な死生観を口にすることで翻してそれを自分自身に言い聞かせようとしているようだった。
本当は受け入れたくない金魚の一生を、ムリをして飲み込もうとしているようだった。甘いものを好む子どもが背伸びをしてコーヒーを飲み干そうとするように。いつかは受け入れなければいけないこととして。
「……ドッペルゲンガーも同じってか?」
「え?」
オレは千夏のことを見る。
千夏は目を丸くして驚いていた。
「そんなこと、考えたこともなかったな」
ウソだ、とオレにはわかった。
千夏の視線は斜めに落とされていた。
「おまえが死ぬかどうかはわからない」
「わたしの場合は、死ぬとかそういうのじゃないから。わたしの――千夏の心残りがなくなって消えるだけ。痛みとかもないだろうし、埋葬の必要もない」
「……」
「ごめん。変な気遣わせちゃった? 大丈夫。わたしのことはいいから、お祭りたのしもうよ」
気丈に笑って、千夏はオレの手を引こうとする。
繋がった手を握り返して、オレはその場で立ち止まった。
そして怪訝そうに眉を寄せる千夏に言った。
「アレ、やろうぜ」
金魚すくいの屋台は今、ちょうど客がはけてヒマをしているところだった。
「……ホントにやるの?」
「ああ。あの日もやってたしな」
「でもコウ、掬えないじゃん」
「そんなの、やってみなくちゃわからないだろ」
「やってみなくちゃって……ずっとやってたんでしょ?」
「まあ」
「……べつにいいけど」
「よし、決まり」
オレは店の前までいって百円玉とポイを交換する。
千夏はオレの隣で屈んで水面を泳ぐ金魚に視線を落としていた。
「ねえ、コウ。さっき、なにか言いかけてなかった?」
「ああ。でも、今は集中しなきゃだから。これ、掬うまで、待ってくれ」
「……ふーん」
赤。白。青色。
流れていく色彩に目を凝らして、あの日と同じだと苦笑する。
あの日のオレは結局金魚を掬えずに、千夏に言いたいことを伝えることができなかった。
そしてその後悔を引きずったまま日々を過ごし、堕落したオレのまえに再び十五歳の千夏が現れて。ようやくオレも昔と同じくらいには自然に笑えるようになってきた。
だから今日は本当にあの日の再現で。あの日の自分から前に進むとしたら――大人になるとしたら――そのきっかけは今だと思った。
オレはポイを水の中へとくぐらせて、赤い金魚を掬いあげる。
「あっ……」
――――チャポン。
破れたポイの向こうに金魚が落ちていく。
「ほらね」
千夏がため息とともに立ち上がろうとする。
オレは財布をひっくり返してありったけの百円玉をすべてポイと交換した。
「ムダ遣いだよ」
「ムダかどうかはやってみないとわからないじゃないか」
水面に映るオレの顔が波紋の中に溶けていく。
「……なあ、千夏。もしオレがこの金魚を掬えたら、ひとつ、きいてもいいか?」
「きくって、なにを?」
「それは……まだ言えない」
「どうして?」
「オレがまだ、意気地なしだから」
「……」
千夏はため息を吐いた。
そして立ち上がり、背後から覆いかぶさるようにしてオレの手に手を宛がった。
「コウはずっと鉄ベラみたいに使ってるからいけないの。お好み焼き作ってるんじゃないんだから。ポイはこう、端のほうをちょっとだけ浸けて、掬うの」
オレは水槽を泳ぐ金魚にポイを近づけていく。
密着した千夏の身体に、耳たぶにかかる温かい息に、心臓の動きを速くしながら。
「そう。その調子」
オレは金魚をそっと掬いあげる。
今まではすぐにポイを破って水槽の中へともどっていた金魚が、指の先でピチピチと跳ねていた。
「あっ」
――――チャポン。
あとすこしというところで、一際大きく跳ねた金魚がポイの向こうへと落ちていく。
「ああ、惜しい!」
千夏がオレの肩で項垂れる。
隣では新たにやってきた子供の客が慣れた手つきで金魚を掬って持ち帰っていた。
「わたしがやったげようか?」
「それじゃ意味ないんだ」
「ふーん」
足下に積まれたポイは三つ。つまり残されたチャンスはあと三回。
オレは千夏に教わったとおりにポイを動かしてなんとか金魚を掬おうとする。
二度目も、三度目も、金魚を掬いきることはできなかった。けれどたしかに上達の形跡はあった。ポイで運べる距離は少しずつ長くなり、水を張られた椀までの距離は少しずつ短くなっていた。
「あと一枚だよ」
「わかってる」
破れたポイの向こう側に、あの日の自分の面影が見えた。
「……」
掬って、逃げられて、破れたポイの向こうに最適の言葉を探していたあの日のオレは、千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていた。
そうしているうちにだんだん不安に駆られて。はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうかとか考えてしまって、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてきて、結局なにも言うことができなかった。
そして、同じことを、今のオレも考えている。
あんなに伝えなかった場合の後悔を重ねてきたのに、未だに伝えた場合の後悔について考えてしまっている。
この気持ちを伝えてしまってもよいものかという悩みが、消えない。
あの日オレの人生に落ちてきた巨大なフタが“その先”へ踏み出すことを拒んでいる。
本当は、金魚なんて、簡単に掬えるはずなんだ。その気さえあれば、簡単に。
「がんばって、コウ」
耳元で千夏の声がする。
その言葉がオレの背中を押してくれた。
オレは覚悟を決めてポイを水に浸ける。
そのとき、オレたちの後ろで大きな花火が打ち上げられた。
「わっ!」
夜空で炸裂した爆音と共に、祭りに群がる人々の喝采がきこえてくる。
驚いて振り向いた千夏がオレの肩を揺らす。
「コウ! ほら、花火!」
そういって声を弾ませていた千夏が「あっ」と声を漏らした。
オレが手にした椀の中には一匹の赤い金魚が泳いでいた。
「ずっと、ききたかったことがあるんだ」
手を叩く千夏の顔をじっと見つめて、オレは口を開く。
「千夏は、オレのことがまだ好きなんだよな?」
「うん。そうだよ。それについては前に話したじゃん」
なら、と。オレは“その先”について尋ねた。
「おまえはどうなんだよ?」
「え?」
「千夏のドッペルゲンガーであるおまえは、オレのことをどう思ってるんだ?」
千夏はしばらくの沈黙を挟んでから答えた。
「好きだよ。だって」
「千夏のドッペルゲンガーだから、か?」
オレは手にした椀をひっくり返す。
あらかじめ入れられていた水と一緒に金魚が落ちて、水槽の中へともどっていく。
「じゃあ、ここしばらくオレと過ごしてみて、おまえはどう感じた?」
「……どうしたの? なにが言いたいのか、よくわからない」
「ウソだ。おまえはわかってるはずだ」
視線を斜めに逸らす千夏の頭上では色鮮やかな花火が打ち上がり、夜の気配を打ち消していた。
「オレは、たのしかったよ。実際。おまえとくだらない話をしながらこうして過ごすのは、オレにとって悪くない……いや。きっと、これ以上ない日々だ。だってオレは、おまえのことが好きだから」
周りの子供や屋台の店主がありきたりな告白と勘違いしてはやし立てる。
けれどオレたちの関係は彼らが思っているほど単純じゃない。
“今はまだ”複雑な事情が絡まり合い、想いと言葉の間に余計な壁が発生してしまっている。
「おまえも、そうだったんじゃないのか?」
千夏と一緒に過ごすことで、オレの人生は確実に再生へと向かっていた。
それは他でもない、今目の前にいる千夏のおかげで。たとえドッペルゲンガーであろうとも。オレをこうして外に引っ張り出してくれるのは、まぎれもなく彼女だ。
オレの中にあるこの気持ちは、だから、ドッペルゲンガーの千夏に対してのものだ。
「……そうだね。きっと本物の千夏とも……」
「オレは今“ここにいる千夏”に話してるんだ」
オレは千夏の肩を抱く。
そして彼女に向かってまっすぐ言葉をぶつけた。
「オレはこのままおまえとずっと一緒にいたい」
はじめて彼女に出会った瞬間から、予感はあった。
自分の未来が見えるオレには、未来のオレがなにを考えるかわかっていた。
――このままドッペルゲンガーの千夏と一緒にいれば、いつかオレはドッペルゲンガーに対して愛情を抱いてしまう、と。
わかったうえで、オレは彼女が傍にいることを許した。というより、降って湧いたようなその可能性に、選択肢に、甘えた。どうしようもない現状から掬われることを願って。
「…………わたしはドッペルゲンガーなんだよ?」
「関係ない」
オレには、すくなくともオレには――彼女がドッペルゲンガーであるということは、この気持ちを伝える障壁にはなっても、この気持ちが湧くのを塞ぐフタにはなりえなかった。
彼女と千夏を同一視すると決めたとき、既にオレの中でそのフタは取り払われていた。
「……」
千夏は俯いて言葉を探していた。
互いの間を彷徨う沈黙を花火の音が攫い、着色された夜空が彼女の横顔を照らしていた。
ひとつ結びの後ろ髪が、やがて微かに上を向く。
千夏が、ぐっと歯を食いしばるのがわかった。
「関係、あるよ」
千夏は重ねていた手をやさしく払う。
そして諭すように淡々と言葉を落としていった。
「今のコウは、オリジナルのわたしと向き合うことから逃げてるだけ。オリジナルのわたしと連絡を取って縁りをもどす勇気がないからわたしにそんなことを言っているようにしか見えないよ」
「そんなことは……」
「わたしでいいなら、オリジナルのわたしでもいいはずだよ」
オレたちの間に重たい沈黙が下りた。
なにか、言い返さなければいけない気がした。
だからオレは言葉を探す。
ドッペルゲンガーの――目の前の千夏が――本物の千夏以上に必要な理由を探す。
オレを更生させてくれたこと。ずっとオレのそばにいてくれたこと。一緒にいるとそれだけで気持ちが晴れやかになっていくこと。
そのどれもに対して、本物の千夏を引き合いに出して同じ言葉で返してくる千夏の姿が見えた。
結局、大事なのは千夏がどう思っているかだった。
「……おまえは、オレと同じ気持ちだったりしないのか?」
傲慢かもしれない。
でも。
オレは千夏がオレと同じことを思ってくれているような気がしていた。
あの日の夏祭りで互いの気持ちが重なっていたように。
一緒にしばらくを過ごすうちに、ドッペルゲンガーの千夏も本当はオレといたいと思ってくれているのではないかと考えるようになった。
しょうがないと言って世話を焼きながら。心残りを抱えた千夏のためだと言いながら。その裏で、本当は、自ら望んでオレと関わってくれているのかもしれないと。
あの頃、金魚を口実にして自分の気持ちを伝えることから逃げたオレとは逆に、千夏はもしかしたら自分がドッペルゲンガーであることを口実にすることでオレと関わりを持ち、結果としてその関係に充足を感じてくれているのではないかと。
そんな気がして。そうであればいいなと思ったから、オレは千夏に尋ねた。
「かえろっか」
「え?」
千夏は長い息を吐き、それからうんと背伸びをしながら立ち上がって、言った。
「もうお金、なくなっちゃったし」
千夏はひどく大人びた笑みを浮かべてオレのことを見つめていた。
その笑みには今まであったはずの体温が感じられなかった。
まるで彼女の中にあった熱が急速に冷めてしまったような。
「……でも、花火……」
「見ていきたい?」
色とりどりの強烈な光が、千夏の表情に色濃い影を落としていた。
彼女は今でも変わらず手を伸ばせば繋いでいられるところにいるはずなのに。
オレと千夏の間に、なぜか距離ができてしまったようだった。
「……千夏は、帰りたいのか?」
そう尋ねると、千夏は困ったように頬をかいた。
「…………そうか」
オレは千夏と一緒に祭りの場をあとにした。
うるさく鳴り続ける花火の音にのしかかられて、オレは答えをきくことができなかった。
†
帰り道は無言が続いた。
まるでいつかの帰路みたいだった。
千夏は家に帰ると「汗かいちゃったね」と乾いた声で笑って脱衣所の戸を閉めた。
きこえてくるシャワーの音を耳にしながら、オレはポケットに入れたままになっていたストラップを手のひらで転がす。
「…………」
――オレは、間違えたのだろうか?
ぽつぽつと、そんな考えが浮かんでくる。
オレの気持ちを伝えたら、千夏が動揺するのはわかっていた。千夏が困るのもわかっていた。
それでも、オレは千夏にそれを伝えることを選んだ。あの日のように後悔することがないようにと。
その結果として千夏に拒絶されたのならそれは自分の過ちとして処理できたし、もし千夏が傷ついたのであればオレはオレの浅はかさを正しく呪うことができた。
けれど、今はそうして自分を責めることもうまくできない。
「……あれは、本心だったのか?」
オレの意志に対して千夏が返した言葉はどれも弱々しくて、それを答えと呼ぶには芯の強度に欠けていた。
千夏が並べた理屈はどれも主体性のない、第三者の目を借りてきたようなものばかりだった。
端から自分を中心にして人生を構築していないみたいな。するべきではないと考えているような。
「…………」
堂々巡りの思考を払い、オレはとりあえず手元のストラップをつけておこうかと、置きっぱなしにしていたケータイを拾い上げる。
思えばこうしてケータイを触るのも久しぶりだった。
いつの間にか電源は落ちていた。
オレは充電ケーブルを差し込んでケータイにストラップを括りつける。
そのとき。
「はい」
と、脱衣所の戸を開けて千夏が出てくる。
「次、どうぞ」
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、千夏は普段通りの明るい口調のままに言った。
「さっきまでは、ごめんね」
「ずっと風呂でその切り出し方を考えてたのか?」
「もう。そこは気づかないフリしてよ。相変わらず無神経なんだから」
「だって、いつもより長かったから。そうでなければまたトイレかと」
ごん、とオレの頭をこづき、千夏は冷蔵庫の麦茶を取り出してグイと煽る。
「ぷはあっ!」
のぼせて赤くなった顔をエアコンの風で冷やしながら、ふうと息を吐いて千夏は言った。
「ずっと一緒には、いられないんだよ」
部屋を漂う空気の流れが、ピタリと止まったような気がした。
「ドッペルゲンガーの寿命は、たぶんそんなに長くない」
オレに背中を向けたまま語る千夏は、まるで表情を覗かれまいとしているようだった。
「……大人になったら消えてなくなるってやつか?」
木崎さんは部室でそんなことを言っていた。
ドッペルゲンガーなどといった眉唾物の存在と邂逅できるのは大人になるまでだと。
「うーん、どうだろう?」
「どうだろうってなんだよ?」
「時期についてハッキリとはわからない。ただ普通に考えればそうなるって話」
今千夏が語っているのは自分の寿命の話だ。
にも関わらず、彼女は飄々として他人事のようにそれを語っている。
そのことが、どうにもオレの心をざわつかせていた。
「べつになにか重大な秘密を隠してたとかってわけじゃない」
「大事なことだろ」
「そんなに心配そうな声出さないでよ」
そういって振り向いた千夏は、笑っていた。
「わたしは千夏の心残り。それが解消されたらわたしは消えていなくなる」
「ああ。逆に言えば、それが解消されない限りおまえはずっといることになる」
「そうだけど、そうじゃない」
「なにが?」
「コウは、人がずっと心残りを抱えて生きていけると思う?」
尋ねておきながら、千夏にはその問いの答えがわかっているようだった。
「……生きていけないのか?」
「生きていけないでしょ」
当然のことを教えるように千夏は苦笑する。
「だからこのことに関して逆説は成り立たない。考えられる可能性は、千夏がコウと一緒になって正しく心残りを解消するか、このままコウと縁りをもどすことなくコウと離れたまま、コウのことを忘れて生きていくか。どっちにしても、わたしの命はそこまで」
「……」
「どっちかしかないんだから、どうせなら物事はハッピーエンドのほうがいいでしょ? わたしはコウとずっと一緒にはいられない。だからわたしがいるうちに、コウはしっかり千夏に似合う男になるべきなんだよ」
「その幸せに、おまえはいないじゃないか」
オレと千夏が――本物の千夏が縁りをもどして。互いの好意を打ち明け合って。そうしたら、たしかにオレたちの心残りは解消されて大団円だ。
でも、じゃあ、そのために消えてしまうほうの千夏は幸せなのか?
もしもオレがドッペルゲンガーなら、それを幸せだと呼べるのか?
「大丈夫だよ」
と、千夏は言った。
「そんなに心配なら、こう考えればいいんだよ。わたしは消えていなくなるわけじゃない」
「消えていなくなるわけじゃない?」
「そう。元の千夏とひとつになって、わたしはコウと一緒にいる。そう考えたら、全然なにも不都合なんてないでしょ?」
詭弁だ、と思った。
考え方を変えたところで事実が変わるわけじゃない。
それはオレがこの五年で飽きるほど学ばされ続けたことだった。
「だからわたしのことなんて気にしないで――」
そうして千夏が千夏自身を軽んじることに、オレはもう耐えられなかった。
だから、オレは千夏の言葉を遮るように、千夏のことを後ろから抱きしめた。
一瞬、驚いて身を固くした千夏の身体が前に傾く。
オレはそんな千夏を支えて立ち尽くす。
サイドテーブルに置いていたケータイがガタンと床に落ちた。
しばらく、無言の時間が続いた。
「…………なに?」
「オレはまだ、おまえの口からおまえの気持ちをきいてない」
重ねた身体の距離に適した声のトーンで、オレは千夏に向けて言葉を放つ。
「気持ちって……ずっと言ってるじゃん。コウはここにいるわたしじゃなくて、コウのことを未だに想ってる本物のわたしを見るべきだって」
「それはおまえの気持ちじゃない。自分の立場を客観視して最適解を見出せる神様の戯言だ」
「なにそれ……意味わかんないよ」
「本当に、わからないのか?」
千夏には、オレがなにを言おうとしているのかわかるはずだった。
だってオレたちは一ヶ月どころか、十年以上も一緒にいて、互いを想い合っていた幼なじみなのだから。
あの日本当は互いに互いのことが好きであるとわかっていたように。言葉なんてなくたって、オレの気持ちは千夏に伝わるはずだった。
「…………コウはそんなに、わたしに『寂しい』って言ってほしいの?」
「……」
「わたしは大丈夫だって、気にしないでいいって、言ってるのに」
「それがおまえの本音なら、べつにそれでかまわない。だけどおまえはおまえのことに関して、まだ一度も願望を口にしていない。『しょうがない』とか『そういうものだ』とかばかりで、『こうであってほしい』をきいてない」
「そんなの言葉の揚げ足取りだよ」
「おまえの言葉が全部カラッと揚がるまで、オレはこの手を離さないぞ」
「……なにそれ」
千夏は「ぷっ」と吹き出して笑った。
「ふふっ! コウったら、ホント意味わかんない」
堪えきれなくなった千夏は天井を仰ぎ、笑い声と一緒に長い息を吐き出して口を開く。
「…………ホントに、意味わかんないくらい、コウは優しいんだから」
外では夏の虫が鳴いていた。
正面の曇りガラスには淡い月光が写り込んでいて。人がすべて出払われたような静寂の世界で、やがて千夏はポツリポツリと言葉を落としていく。
「人の心配できるほど安定した人生じゃないくせに」
「それはいいだろ、べつに」
「あのときだってそう」
呆れ笑いを覗かせながら、千夏は天井の向こうにいつかの情景を見る。
「コウが告白しないって選択をしたとき、わたし、ガッカリしたけど、同時に、じつはちょっとだけうれしかったんだよ」
「どうして?」
「だって、コウが考慮してくれたことはたぶん、だいたいそのとおりだったから」
そういって、千夏はあの日の心境について語ってくれた。
オレはあの日、千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていた。
そうしているうちにオレはだんだん不安に駆られていく。
はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうか?
好きだったとして、それを知りながらする告白は打算の色が強すぎやしないだろうか?
愛や恋がなにかもまだ定義できない十五歳の自分にソレを伝える資格があるのだろうか?
伝えて、実った想いは、いつか枯れたりしないだろうか?
考えれば考えるほど、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてきて。告白なんてしないほうがいいような気がしてきて。結局、オレは千夏になにも伝えられなかった。
そして、同じことを、千夏も考えていたらしい。金魚を掬っているオレを眺めながら。
はたしてここでオレと――真中コウと付き合ってもいいのか。そういうことを、十五歳なりに考えながらオレのことを待っていたのだと、千夏はまるで昨日のことを思い出すようにして語った。
「……なんだよ。じゃあ、おまえがオレのこと意気地なしとか言ってたのって」
「うん。ブーメランだね」
笑い声と一緒に雑多な感情をすべて吐き出した様子の千夏は、驚くほどあっけらかんとしていた。
「なら、あのときオレがおまえに告白しなかったのは正解だったのか?」
「正解じゃないでしょ。こうしてドッペルゲンガーなんて生み出しちゃうくらいに千夏は後悔してるんだから」
でも、と千夏は言葉を続ける。
「まあ、告白されてたら、それはそれで、もしかしたら断ってたかもしれないけど」
「はあ⁉ なんだよそれ!」
「女心は夏の海なんだよ」
「おまえはおまえで意味がわからん」
「その場合も結局後悔して、わたしはここにいただろうけどね」
「だったらどっちにしろオレにとっては負け戦だったってことになるじゃないか」
「あくまで仮定の話だよ。確率でいえばたぶんふつうに付き合ってたと思うよ。まあ、そのあと何年続いたかはわからないけど」
「……」
「ほーら。暗くならないの」
千夏がオレの腕の間からスルリと手を伸ばし、あやすようにオレの頭を撫でてくる。
十五歳の幼なじみに子ども扱いされるのはさすがに恥ずかしかったけれど、不思議と千夏の手を払う気にはなれなかった。
「まあ、だから、ガッカリしつつ、ホッとして、思ったんだ。わたし、ムリしてカッコつけちゃうところだけじゃなくて、コウのそういうやさしいところも、かなり好きだったんだなって」
不意打ちめいた告白に、オレの心臓が跳ねる。
「それでもあと一歩踏み出しきれないのがコウのダメなところだったのに。いきなりわたしのこと抱きしめたりして。金魚が一匹掬えたくらいでそんなふうになれるもんなの?」
冗談めいた言葉で流そうとする千夏に、オレはもう一度尋ねる。
「おまえは、オレと一緒にいたくないのか?」
「えー。まだその話するの?」
「大事なことだろ」
「じゃあ、一緒にいたいって言ったら、どうするの?」
腕の中で千夏がクルリと身を翻す。
彼女の目はまっすぐオレのほうを見つめていた。
「わたしが、コウとずっと一緒にいたいって言ったら、コウはどうする?」
千夏の瞳の奥には不安が揺らめいていた。
だからそれは、飄々としているくせに本当は臆病な千夏なりの、精いっぱいの言葉なのだと思った。
「いつ消えてしまうかもしれないわたしが、オリジナルのために生まれたはずのわたしが、それでもわがままに『コウと一緒にいたい』なんて言っちゃったら、コウはどうするの?」
オレは、オレの人生に落ちてきた巨大なフタに、ようやく取っ手が見えた気がした。
それを手に取り、押しのけるとしたら、それは今しかないと思った。
オレは決めていた覚悟を引っ張り出し、まっすぐ千夏の目を見つめながら、深く息を吸って言葉を放つ。
「オレは、おまえと――――」
そのときだった。
今までろくに鳴らなかったはずのケータイが、唐突にだれかからの着信を知らせていた。
オレたちの間に一拍の沈黙が下りた。
その一拍の沈黙こそが、オレたちのこれからを決定づける、運命の岐路ともいうべき猶予だった。
「だれからだろう?」
千夏がケータイに意識を向ける。
オレは口にしようとしていた言葉を引っ込めて落ちていたケータイを拾い上げる。
ケータイには一通のメッセージが届いていた。
オレはそのメッセージの送り主を見て唖然とする。
『どういうこと?』
そんな不可解な短文をオレに送ってきたのは、他でもない、いつかなにかの拍子でまたやりとりが始まったりするのではないかと期待し、オレがずっと想い、待ち続けていた、思い出の中にいる幼なじみだった。
――――甘木千夏。
通知欄にはハッキリとその名が表示されていた。
どうやら落ちた拍子に電源が入ったらしい。
オレは画面から目を離して振り返る。
隣にはたしかに十五歳の千夏が立っていた。
けれど。
先刻までの彼女と、今の彼女は、大事ななにかが、決定的に、違ってしまっているように見えた。
「すごいじゃん! コウ! わたしからメッセージがきたよ! わたしのめんどくさい性格を考えたら、メッセージなんて送れるはずないのに! たぶんこれはよっぽどのことがあったんだよ!」
「あ、ああ」
千夏はオレの腕の中からスルリと抜け出し、興奮した様子で言う。
「これは千載一遇のチャンスだよ。この機を逃す手はないよ」
「なあ、千夏。さっきの話だけど……」
「そんなことより今はこっちでしょ」
千夏はオレのケータイをビシリと指差す。
「ボヤボヤしてるうちにまた返信の機会を逸しちゃうんだから」
千夏の言うことにはたしかに覚えがあった。
オレはしかたなくケータイの画面に注意をもどし、返信画面を開く。
「なにが『どういうこと』なんだ?」
「さあ? とりあえずそれをきいてみるべきじゃない?」
「そうだな」
オレは千夏に『なにが?』と返した。
「相変わらず愛想がないなあ」
「他にないだろ」
「一文には二文以上で返してほしいってわたしは思うよ」
「あんな漠然とした質問に二文も返せるか」
「わからないよ。単に話がしたくなっただけかもしれないし」
「それならそう言うだろ」
「言えないからこんなことになってるんでしょ。お互いに」
「それはそうだけど」
と、そんな話をしているうちに、千夏からの返信を知らせる音が鳴る。
『ドッペルゲンガー』
表示されたそのワードに、オレは再び隣の千夏と顔を見合わせた。
「わからない」
と、千夏はオレが尋ねるより先に首を横に振った。
そして続けてケータイはメッセージを受信する。
『コウの、ドッペルゲンガーがいる』
オレは絶句した。
そしてなにか事情を知らないかと千夏のほうを見る。
そのとき千夏が浮かべていた表情は、ひどく力ない、すべてを悟って諦めたような人間の表情だった。
オレはそこでようやく、千夏が先刻のうちになにを失ったのか気づく。
――千夏は、もう、オレとの未来を諦めてしまっていた。
「……なあ、千夏……」
「わかったかもしれない」
千夏は顎に手を当てて頷く。
「つまりわたしがわたしのドッペルゲンガーを生み出したように、コウも知らずのうちにコウのドッペルゲンガーを生み出してオリジナルの千夏のところに送ってたんだよ。互いに互いを心残りにしてたんだから、そういうことになっても不思議じゃない。むしろわたしが出会ったときのコウの病みっぷりを考えたら当然とさえ思えてくる」
「……」
「でも、これはいい会話のきっかけになるね。二人してドッペルゲンガーにいき合うなんてたぶんそうそうないことなんだから、ちゃんと話を続けなよ。疑問符を絶やすことなく」
「なあ、千夏」
オレは早口で話を進めようとする千夏のことを見つめる。
「オレはおまえと――――」
「わたしはコウと、一緒にいたいなんて、ちっとも思ってないよ」
伸ばしかけた腕を払うように、千夏はそう言ってオレのほうをじっと見つめ返す。
平らに伸ばした感情を貼りつけたような、暗く、黒い、裏腹の気持ちを覗かせない目だった。
「コウもそうでしょ?」
「そんなこと……」
「あるよ。だって、ドッペルゲンガーを生み出してるんだから。自覚してないかもしれないけど、それってわたしじゃなくて、ちゃんと本物の千夏に未練を持ってるってことじゃん」
――そんなことない。そう、言ってやりたかったけれど。
“オレの知らないところでオレのドッペルゲンガーが存在している”という事実がある以上、オレが口にする言葉はどれも詭弁にしかなかなかった。
「コウといるとたのしいけど、疲れるし。コウのことはそりゃ好きだけど、それはべつにわたしの気持ちじゃないから」
「たとえ借り物だったとしても、それもおまえの感情じゃないのか」
「ちがうよ」
と、千夏は言う。
「だってわたしの『好き』は恋人としての『好き』じゃなくて、友達としての『好き』だから」
千夏はオレから視線を逸らさない。
口にした言葉にウソはないのだと、言い含めるように。
「今、本物のわたしからメッセージがきて、ようやくわかった。もしわたしがコウのことを恋人として『好き』なら、オリジナルのところにいってほしくないって思うでしょ? でも、わたしはコウにちゃんと本物の千夏と仲直りしてほしいって思ってる。これってつまり、そういうことでしょ?」
「…………」
「結局わたしはドッペルゲンガーなんだよ。その境遇を不幸だとも思わない、分相応に幸せを感じるドッペルゲンガー」
「…………本心か?」
「うん。コウがわたしを選んだら、むしろわたしは不幸になる。だからわたしは、わたしのためにもコウにオリジナルの千夏を選んでほしい」
オレはしばらく黙って千夏の顔を見つめていた。
しかし千夏はそんなオレをじっと見つめ返し、まばたきのひとつもせずに待っていた。千夏の表情に、仕草に、意志に、オレがウソの気配を見出そうとするのをやめるのを。
「…………」
視線を斜めに落とすクセを矯正されたところで、長い時間を共にしたオレには千夏がウソを吐いているかどうかくらいわかるはずだった。
けれど、千夏のどこにも、ウソの色はなかった。
そうして彼女の心を探っていると、次第に先刻まで感じていた千夏の気持ちのほうがウソのように思えてくる。
オレの腕の中に千夏がいたとき――それが短い一時だったとしても、ほんの一瞬、たしかにオレと千夏の気持ちが、重なった気がしたのに。
今ではそれが遠い過去のように思えてくる。
「だから、コウ」
そして、祈りを込めたような笑みで口にされた言葉が、決定打になった。
「はやくわたしをコウから自由にしてよ」
オレが前に進まない限り、千夏はずっとオレの人生に付き合わされ続ける。
残りがどれだけかもわからぬ時間。もしオレが彼女から離れることで、彼女の願いを叶えてやることで、彼女をオレから自由にさせてやることができるなら。それを彼女が望むなら。
オレは、こんなオレに今日まで付き合ってくれた彼女のためにも“この気持ち”にフタをすることを選ぶ。
「…………わかったよ」
オレはそれから本物の千夏と数回のメッセージを交わし、送り盆となる明後日の土曜日に会う約束をした。
その日は二十回目となる、千夏の誕生日だった。