オレとドッペルゲンガーの千夏は家を出て近くの河川敷を歩いていた。
 死んでしまった金魚を埋めて弔うためだ。
 その辺に捨てちゃえばいいのに、と棒アイスをかじりながら千夏が言う。
 そんなわけにはいかないだろ、とオレは手にした洗面器のヘリをスコップで叩いた。
「千夏にしては、おまえは冷たすぎないか?」
「そう?」
「千夏は生き物に対してはもうちょっとやさしかったはずだ」
「それはコウが思い出の中でわたしのことを美化しすぎてるだけじゃない?」
「……」
 ここにいない“彼女”の話を自分のこととして語るドッペルゲンガー。
 その齟齬に、オレは今さら目眩を覚える。
「おまえ、ホントに千夏なんだよな?」
「まだ疑ってるの?」
「いや、ふつうは信じられないだろ。なんだよ、ドッペルゲンガーって」
「便宜上、コウがそう呼んでるだけだけどね」
 十五歳の姿で現れた幼なじみなんて、そんなもの――全部オレのイタイ妄想として処理したほうがまだ現実的だ。
 しかし彼女の姿はオレ以外にもちゃんと見えている。祭りで金魚の屋台をやっていた男しかり、さっきアイスを買いに入ったコンビニの店員しかり。
 彼女の姿はたしかに周囲に認識されていて、彼女の存在に歴とした説得力を与えている。
「ドッペルゲンガーじゃないなら、なんなんだ?」
「さあ?」
「さあって……」
「でも、それに似た特徴がもうひとつあるよ」
「特徴って?」
「わたしとオリジナルは、同じ空間に存在することができない」
 千夏はオレの前に回り込み、自慢げに指を立てて説明を始める。
「オリジナルのまえにわたしが現れることはできないし、わたしはオリジナルと直接的にも間接的にも関わることもできない。たしかドッペルゲンガーもそうだったよね」
 たしかに、それは木崎さんに教えてもらった情報と一致する。
「本物の千夏は、おまえのこと知ってるのか?」
「知らない。知ってたら今語った論理が破綻するでしょ。まあ、どこかでわたしを見たって報告をうけて疑問に思う可能性はゼロじゃないけど」
「つまり、噂として耳にすることはあっても、直接その目で見て確信を得ることはできないと」
「そういうこと」
 そこまで語って千夏は立てた指を畳んだ。
「まあ、問題はないと思うよ」
「どうして? 同じ人間が二人いるってのはかなり問題だろ」
「だから、消せばいいんだよ」
「消すって?」
「心残りを」
 くるりと身を翻し、千夏は河原のほうへと下りていく。
「オリジナルの心残りがなくなったら、わたしもちゃんと消えていく」
「どうしてわかる?」
「わたしがドッペルゲンガーだから」
 千夏は首を裏返して冗談っぽく笑ってみせる。
「……」
 論理破綻というか、彼女の言葉をそのまま信じるにはいまいち根拠に欠けていた。
 けれど、土台現実的ではない存在だ。そんな彼女に根拠を求めること自体がおかしいのかもしれない。
 それに理屈がどうであれ、たしかに彼女は今、オレのまえにいる。
 そのこと自体を今更疑おうとは思わなかった。
 だって、たとえドッペルゲンガーであったとしても、こうして久しぶりに千夏と話せて、オレの心は弾んでしまっている。
 違和感がまったくないわけじゃない。
 けれど、彼女がいない現実と、彼女がいる現在と――どちらがオレにとって有意義かは決まっていた。
「ほら、コウ」
 土手の端を踏みながら千夏がオレを呼ぶ。
「わかってるよ」
 オレは早足で坂道を下りていった。
「はい」
「はい」
 金魚が入った洗面器を千夏に預け、オレはスコップで土を掘り返していく。
 思ったよりずっと力がいって驚いた。小学生の頃はもっと簡単にサクサク掘れていたイメージだったのに。
 洗面器一杯の金魚を埋められるほどの穴を掘るには、しばらくかかりそうだった。
「やっぱりわたしも手伝ったほうがいいんじゃない?」
「スコップはひとつしかないだろ」
「コウがひとつしか買わなかったんじゃん」
「ああ、そうだ」
 腰を丸め、大きな息を吐いてオレは言う。
「腕が限界になったら交代を要請するよ」
「はいはい」
 交代などする気がないオレの心を見透かしたように、千夏は肩を竦めて頷くのだった。

          †

 十分な穴を掘り終える頃には空が夕焼け色に染まっていた。
 流れ落ちてくる汗を拭い、オレは足を伸ばして立ち上がる。
 同時に手の中からスコップが滑り落ちた。
 慣れない労働のせいか、酷使された右手はプルプルと痙攣している。明日の筋肉痛は避けられそうにない。
「カッコつけちゃってさ」
 呆れた様子でそういって、千夏が割れた棒アイスとハンドタオルを差し出してきた。
「買ってきてくれたのか?」
「アイスはね。タオルはコウの家から持ってきてた。どうせこうなるだろうと思って」
 棒アイスにかじりつくオレを見ながら千夏はため息を漏らす。
「変わらないよね。ひとりでがんばっちゃうところ」
「べつにそんなことない。ただできるからやっただけだ」
「できなくてもやろうとするから、お財布すっからかんになるまで金魚掬っちゃうんでしょ」
 そう言われてしまっては、返す言葉がなかった。
「じゃあ、埋めよっか」
「ああ」
 千夏は土手の端にしゃがみ、ボウルを開けて洗面器の中にいる金魚を手で掬う。
 そして一匹ずつ丁寧に穴の中へと入れていった。
「……へえ」
「なに?」
「いや、言葉ほど雑に扱わないんだなって」
「べつにひっくり返してボトボト落としてもいいんだけどさ」
「どうしてしないんだ?」
「呪われたくないだけ」
 そういって千夏は視線を斜めに落とした。
「今、ウソが吐かれた」
「え?」
「ウソを吐くとき、おまえは視線を斜めに落とすクセがある」
「なにそれ」
「気づいてなかったのか?」
「そんなの、指摘されることもないし」
 それはオレが千夏について知っているいくつものことの中のひとつにすぎない。
「他には?」
「くしゃみをするとき我慢しようとして口が開いてあくびみたいになる。すきなものはきらいなものと一緒に食べる。わりばしを割るのが下手くそ」
 オレはかじりかけの棒アイスを見て苦笑する。
 千夏が持っている棒から切り離されたアイスは、上のほうが大きく取れて斧みたいな形になっていた。
「そんなの、教えてくれたことなかったじゃん」
「おまえと同じだよ。いや、オリジナルのおまえと、か。言ったら変に気にしちまうかなって。べつに悪癖ってわけでもないしな」
「それでも教えといてほしかった」
「ああ、まったくだな」
 オレの吐いた息が、千夏のため息と重なった。
「ほら、もう一仕事」
 と、千夏がスコップを拾って差し出してくる。
 見れば既に洗面器の中は空になっていた。
「それとも、わたしがやろうか?」
 オレはスコップを受け取り、掘り起こした土を金魚の上に被せていく。
「べつにわたしのまえでカッコつけたってしょうがないのに」
「カッコつけてるわけじゃない。ただ性分なだけだ」
「あっそ」
 ――そしてまた、しばらく。
 やがてできた小さな山に、千夏はアイスの棒を突き立てた。
「墓標」
「なるほど」
 オレは同じように食べ終えたアイスの棒を突き立てる。
 それから千夏の横に並び立ち、金魚の墓の前で手を合わせた。
「……」
「……」
 世界に安らかな沈黙が流れていた。
「……さて、コウ」
 千夏の言葉にオレは目を開ける。
 千夏はすこしだけ真面目な顔を作ってオレのほうを見ていた。
「じゃあ、これからの話をしよっか」
 オレは千夏の顔を見つめ返して頷く。
「家を出るときも言ったとおり、わたしが生まれた理由であり目的は、オリジナルの千夏が抱えてる心残りを解消すること」
「ああ」
「とはいえ、そのためにコウになにかを無理強いしても意味がない。その気もないのに縁りだけもどさせても、またべつの不幸が生まれるだけだろうから」
「不幸って?」
「ドッペルゲンガー」
 自分自身を指差して、千夏は苦笑する。
「原因を解消すれば消えてしまうドッペルゲンガーがいること自体はべつに問題じゃないと思うけど、そういうのを生み出しちゃう心の機微は、やっぱり問題だと思う」
「ドッペルゲンガーってそんなにポンポン生まれるものなのか? 大学の先輩が言うには三体までって話だったけど」
「さあ?」
「さあって……」
「ドッペルゲンガーは便宜上そう呼んでるだけだって言ったでしょ。同じ空間にいられないとか、たしかにいくつか一致してる特徴もあるけど、年齢が違ってたりとかって齟齬もある。だから新たにわたしみたいなのが生まれるかはわからない」
「なるほど」
「わかるのは、そうしてドッペルゲンガーが現れなくちゃいけない状態っていうのは、心になにかしらのわだかまりがあるってことで、それはよくないってこと」
「……」
「だからわたしとしては、オリジナルの千夏にはもう二度とドッペルゲンガーなんて生み出さないようになってほしい。わたしが消えるときは、オリジナルのわたしがちゃんと幸せになったときであってほしい」
「おまえは、自分が消えてしまうことに抵抗とかないのか?」
 目の前にいる千夏は、一拍の間を挟んで答えた。
「ないよ。だってわたしって“そういうもの”だから。たぶんその質問って、コウにとっては『大人になることに抵抗とかないの?』ってきくのと同じようなことだと思う」
 木崎さんは言っていた。
 大人になってしまえば、幽体離脱とか、幻視とか、ドッペルゲンガーとか、そういう類のものとも行き合わなくなる、と。
 人生を続けていく限り、大人になることは避けられない。歳を重ねれば人はみんな須らく大人になっていく。
 オレだって、もうすぐなる。
 ドッペルゲンガーにとっての“消失”がそれにあたるというのなら、たしかにオレの質問は的がハズれていた。
「話を続けるね」
「ああ」
「わたしは千夏の心残りを取り除きたい。そして千夏の心残りはコウとの間にある。そこで、確認しておくべきことはひとつ」
 爪先を立てて千夏がオレのことを見上げる。
「コウは、まだわたしのことが好き?」
 尋ねておきながら、千夏には既に答えがわかっているようだった。
 今更隠そうとしてもしかたがないと観念してオレは自白した。
「ああ。好きだよ。今でも毎年地元の夏祭りに出かけて掬えない金魚に挑んじまうくらいには」
 五年越しの告白はずいぶんと味気ないものだった。
「そっかそっか。それはよかった」
 ドッペルゲンガーの千夏がうれしそうに草履をペタペタさせる。
「なら、決まりだね」
 とん、とん、とん、と。
 弾むような足取りで三歩歩いて、彼女は言った。
「コウが今度こそ想いを伝えられるように、わたしが二人の仲を取り持ってあげる」

          †

 夕焼け色だった空にも、帰路に着く頃には星の光が瞬いていた。
 街灯もまばらな夜の道には、千夏の陽気な鼻唄が響いていた。
「なにがそんなにうれしいんだよ?」
「べっつにー」
 前をいく千夏がクルリと身を翻す。
「コウがまだわたしのことを好きでいてくれて安心しただけ。もし他の人を好きになってたりしたら、わたしが行き場を失っちゃうから」
「そりゃよかったな」
 オレは下げたコンビニ袋から缶コーヒーを取り出して千夏に投げ渡す。
「……ブラックコーヒー」
 パッケージを見て苦い顔をする千夏に言う。
「十五歳にはこっちのほうがよかったか?」
 オレは手にした微糖のコーヒーを見せびらかした。
「まさか。わたしが昔からブラック派なのは知ってるでしょ」
 千夏はプルタブを開けて一口にブラックコーヒーを飲み干した。
 そしてオレに背を向けてこっそりと舌を出していた。
「感想は?」
「うん。よく冷えてておいしいよ。もちろん」
 顔が見えなくてもムリをしているのは透けていた。
「……やっぱり、千夏なんだな」
「なに? まだ疑ってたの?」
「そういうわけじゃないけど、ただちょっと、懐かしくなって」
 学校の帰り道。よく千夏は自販機のまえで自転車を停めて缶コーヒーを買っていた。いつも決まってブラックコーヒー。他のやつの話だと、そんなことをやっているのはオレのまえでだけのようだった。
 つまりは背伸びで、強がりだ。
 ブラックはもちろん、本当はコーヒー自体が苦手なことくらい知っている。
 あえて指摘しなかったのは、そうやって大人ぶっている千夏を見ているのがおかしくて、たのしかったから。
「……あの頃からたぶん、好きだったんだろうな」
「コーヒー?」
「ああ、そう。コーヒー」
「ふーん」
 口に残る苦さを飲み干した千夏は再び振り返って言った。
「好きといえば、コウがまだわたしを好きでいることだって、ホントはきかなくてもわかってたんだけどね」
「どうして?」
「その顔」
「顔?」
「後悔のない人生を送れてる人はたぶん、そんな顔にならないよ」
 オレは月光に照らされたカーブミラーを見上げる。
「センパイには、これでもけっこうマシになってるって言われたんだけどな」
「それは昔のコウを知らないからでしょ。わたしが知ってるコウはもっと明るくて、ちゃんと過去より未来に希望を持ててる人の顔をしてたよ」
 相槌を打ちながら、きっと千夏の言っていることが正しいのだろうなと思った。
 少なくともドッペルゲンガーなんてものに行き合うまで――千夏の気持ちを知るまで――オレはオレの未来に絶望しか見出すことができていなかった。
 昔のオレと今のオレは、見ている方向が決定的にちがってしまっている。
「十五歳のオレがどんな顔をしてたのか。オレのドッペルゲンガーもいたら会ってみたいもんだ」
「会えないんだって。学ばないなあ、コウも」
「冗談だっての」
 ところで、とオレは話を変える。
「オレと千夏の仲を取り持ってくれるって言ってたけど」
「うん」
「具体的にはなにをしてくれるんだ?」
「取り持つっていっても、わたしがオリジナルの千夏と関わることはできないからね。コウに動いてもらわないことにはなにも始まらない。だから実際は取り持つってより、背中を押すってほうが近いかな」
「動くって、なにすればいいんだよ?」
「ソレ」
 と、千夏はオレのポケットを指差した。
 そこには鳴らないケータイが入りっぱなしになっていた。
「連絡先、まだ登録してくれてるんでしょ?」
「まあ」
「なら、それで『会おう』からの『好きだ』で終わる話でしょ」
 千夏の言っていることはそのとおりで。既に千夏の気持ちも答えも知っているオレに連絡を躊躇う理由はなかった。
 論理的に考えれば、たしかにそうだ。
 けれど、それでもまだ、本物の千夏に連絡をとることは、オレにとって容易なことではなかった。
 あの頃とちがってしばらく会っていないし、話してもいない。いったいどんな切り出し方で告白までこじつければいいのかわからない。
 オレの人生にとってあいつは欠かせない存在だと、頭でも心でもわかっているのに。
 “その程度のこと”が足かせになってしまうほど、オレはあの頃からなにも変わっていなかった。
 ドッペルゲンガーに想いを伝えるのと、本物の千夏に想いを伝えるのとでは、心のハードルがちがってくる。
「……はあ。わかるよ。まあ、そうだよね」
 オレの葛藤を見透かしたように千夏は言う。
「わたしにとって予想外だったのはそこ。コウはあの日からなにも変わってない。ふつうならどんな後悔や未練があっても重ねた時間で大なり小なり人は変わって成長してるはずなのに。コウの心はあの頃に取り残されて、まったく成長してない。ずっとあの頃の――意気地なしのコウのまま。だからわたしにここまで言われても連絡なんてとれない」
 容赦のない正しい言葉が、オレの胸にジクジクと刺さっていく。
「あの頃から人間性はちっとも育まれていないのに身体ばかり大きくなって。ふつうは重ねた時間のぶんだけ成長するところが、その軋轢のせいでむしろ相対的に人間性が退化してる。というか悪化してる。今のコウをオリジナルのわたしと会わせてもガッカリされるだけだよ」
「……じゃあ、どうしたらいいんだよ?」
「まずは悪化したその見てくれ――人間性を、十五歳時点までもどすところからだね」
「……おまえ、ホントに辛辣だな。いくらドッペルゲンガーだからって、もうちょっと言葉を包んでくれよ」
「全部事実でしょ」
「事実だからダメージがデカいんだ」
「そのダメージの代価に長年の想いが実るんだったら安いもんでしょ」
 ドッペルゲンガーの千夏はオレの気持ちを知り尽くしているように語る。
「だいじょうぶ。わたしに任せなさい」
「任せるって、具体的なプランとかあるのか?」
「もちろん」
「きいておきたいな」
「コウがそんなひどい顔になっちゃったのは、わたしと別れてひとりの時間を積み重ねちゃったせいでしょ。だからこれからわたしと一緒の時間をすごせばいいんだよ。たぶんそれだけでコウにとってはカウンセリングになる」
「これからって……じゃあ、五年も?」
「そんなには待てない」
 千夏はアパートの前で立ち止まる。
 そしてオレのことをまっすぐ見つめて言った。
「だからわたしが、五年分の時間を一気に埋めてあげる」
 玄関ドアの前に立つ彼女の顔に月明かりが差していた。
 白い頬が微かな青に照らされて、夜の闇に溌剌とした表情が浮かび上がる。
 凛々しくて、瑞々しくて。そして、とてもキレイな顔だった。
 二十歳を目前に控えた身で、性懲りもなく、オレは十五歳の幼なじみに見惚れてしまっていた。
「どうしたの?」
「ああ、いや……」
「幼なじみっていっても四六時中一緒にいたわけじゃないし、ドッペルゲンガーだからってわたしが千夏であることには変わりないんだから、コウはわたしを本物の千夏だと思って過ごせばいいんだよ」
「……つまり、おまえがオレと四六時中一緒にいるって?」
「うん」
 頷いて、さすがにすこし恥ずかしくなったのか、千夏は組んだ指を洗面器のまえでもじもじさせていた。
 青白く照らされた頬には微かに朱が混ざり込んでいた。
「なるほど。名案かもな」
 普段よりもいくらか早くなっている鼓動を自覚しながらオレは頷いた。
「よかった」
「え?」
「じゃあ、しばらく泊めてもらえるってことで」
 ポン、と洗面器を叩いて千夏は言う。
 どうやら最初からそれを見越しての提案だったらしい。
「それはまあ、いいけど。その辺り、どうなってるんだ?」
「その辺りって?」
「家とか、金とか」
「家はないよ。十五歳じゃ借りられないしね。っていうか、わたしがこの世に生じたのってコウとお祭りで出会うちょい前だし」
「じゃあ、この近くに突然現れたってことになるのか? サイクロンみたいに」
「サイクロンって……」
「たしか本物の千夏は県外にいるんだろ?」
「そうだね。でもわたしが生まれた目的はハッキリと自覚してたから、ふらふらとお祭りの場を彷徨いながらコウのことを探してたら出会えたってわけ」
「金は?」
「自販機の下にはいくらか落ちてるものだよ」
「いくら落ちてたんだよ?」
「百円玉が一枚」
「それは金魚掬ってなくなっただろ。じゃあ今日買ってたアイスのぶんは?」
「あはは」
 オレはドアを開けて一直線にクローゼットへと向かう。
 そして棚の上に置いてあったはずの貯金箱がいつの間にか下ろされていることに気づく。
 夏に向けて毎年溜めている「金魚貯金」。その中身が、目に見えて減っていた。
「……やったな」
「あはは」
 乾いた声で笑いながら、懐から取り出した二百円を貯金箱にもどす千夏。
「おまえなあ……」
 なにか言ってやろうとして、オレは奥に押し込んでいたはずのリュックが不自然に引っ張り出されていることに気づく。
「その中はいじってないよ」
 と、オレの肩から顔を覗かせて千夏が言った。
「思ったよりえぐいのが入ってて、ちょっとびっくりしたけど」
 オレは千夏のことを払いのけた。
 千夏は笑いながら風呂場のほうに逃げていく。
「本当の千夏には秘密にしといてあげるから」
 どうせ言えないんだろ、という言葉は閉められた戸にシャットアウトされた。
 風呂場からはシャワーの音と一緒にたのしそうな鼻唄がずっときこえていた。

          †

 一時間くらいして千夏は風呂から出てきた。
「長すぎる」と文句を言うと「女子はこんなもんだよ」と返された。
「わたしが入ったあとのお風呂についてなにか思うことは?」
 からかい顔の千夏にオレは言葉を返す。
「自分のあとに入られる気分は?」
「ドキドキする、とか言ってほしいの?」
「ドッペルゲンガーに言われてもな」
「もう。そこについてはコウもしばらく考えないようにしないとダメじゃん。そんなんじゃいつまでたっても“千夏慣れ”しないよ?」
「……努力してみるよ」
 オレはため息交じりに脱衣所の戸を閉めた。
 たぶん言い合いであいつに勝てることはずっとないのだろうと思った。
 やはりというか、浴槽にはたっぷりの湯が張られていて。ここに越してきてからずっとシャワーで済ませていたオレは、およそ一年ぶりに湯船に浸かった。
 千夏が入ったあとの風呂について、思うことはなかった。というより、なにかを思ってしまったらそれを見透かしたあいつにまたからかわれてしまうような気がしたから、意識的になにも思わないようにした。
 努めて冷静に髪を洗い、努めて冷静に泡を落とし、努めて冷静に身体を拭こうとしたところで、バスタオルが濡れてしまっていることに気づく。
 千夏が使ったせいだと理解した瞬間、タオルから微かに彼女の匂いがしてきて、オレの心はつい高鳴ってしまった。
「……やられた」
 十五歳の姿をした幼なじみと――オレがずっと好きだった思い出の相手と――これから一緒のときを過ごす。
 その、目眩がするような事実に、オレは遅れてきた理性で抵抗する。
 ――あいつは本物の千夏じゃない。千夏の姿をしたドッペルゲンガーだ。
 ドッペルゲンガーは自分のことを本物の千夏だと思えばいいと言っていたし、オレもそれをいちいち否定していく気はないけれど。やはり心のどこかで線引きは必要だと思う。
 あいつはあくまでも千夏の心残りが形をもったものであり、目的を遂げればいなくなってしまう幽霊みたいな存在だ。
 だからオレはちゃんとあいつの向こうに本当の千夏を見ていないといけない。
「……よし」
 しっかりと心を落ち着かせてから服を着てオレは脱衣所の戸を開ける。
 リビングでは千夏が当然のように麦茶を手にしてテレビを見ていた。
「あ、早いね。さすがコウ」
「なに見てるんだ?」
「レインボーシャーク」
 七つある頭が七色に光って空を飛びながら人を食らうサメを見て、千夏はたのしそうに声をあげていた。
 いったいなにがおもしろいのかオレにはさっぱりわからなかったけれど、昔から千夏はこういう冗談で作ったみたいなB級映画を好んで見ていたし、その度にオレにソレを奨めてきていたのを覚えている。
「懐かしいな。たしか五年……いや、六年前の映画だろ?」
「え、びっくり。知ってるんだ、コウ」
「おまえが見ろって散々うるさかったんじゃないか」
「それで見てくれたんだ」
「ちっともハマらなかったけどな」
「三年くらいまえから夏の風物詩になってるって冒頭で言ってたよ」
「こんなのが?」
「こんなのが」
「世も末だな」
「知らなかったの?」
「テレビはほとんど見ないんだ」
「じゃあなんで置いてるの?」
「ゲーム用」
「へえ。なにあるの? スマブラは?」
「あったけど、売っちまった」
 もしかしたら大学で一緒に遊ぶ友人くらいはできるかもしれないと実家からひとしきり持ってきたゲームソフトも、先月の終わりに金魚を掬うための金に変わった。
「残ってるのは本体だけ。それも売ろうと考えてたところだ」
「ふーん。つまんないの。他になにか遊べるものとかは?」
「特にはない」
「なんか、人間のガラクタみたいな生活送ってそうだね」
 千夏はテレビの電源を切った。
「もういいのか? まだやってたけど」
「うん。もうサメが活躍するところは終わったみたいだから」
 さて、と。立ち上がってそのままクローゼットのほうに向かおうとする千夏を止める。
「なんの用だ?」
「この家にエンタメはないみたいだし、しょうがないからコウが大事に隠してたリュックの中のものでも使ってあげようかと」
「やめろ」
「ちぇっ」
 つまらなそうに部屋の中を三歩歩いて千夏は振り返る。
「……ホントにやめてほしいの?」
「一切の遠慮がないというか、そういうのを恥ずかしがらないところも、おまえがドッペルゲンガーだからなのか?」
「まあね。さすがに本物のわたしはアレを見たらしばらくコウと距離置いちゃうよ。なんて言ったらいいのかわからないし。男子だからああいうのを持ってるのは普通だと思うけど、コウの場合はちょっとえぐいというか……」
「だったらおまえもそうしてくれよ。オレのために千夏を真似てくれるんだろ?」
「……ふむ。なるほどたしかに、一理ある」
 千夏はコクコクと頷いて、開けかけにしていたクローゼットのドアをそっと閉めた。
「でも、じゃあ、これからどうしよっか? 眠るにはまだ早いでしょ?」
「早くないだろ」
 時計の針は午後の十時を回っていた。
 オレは布団をはぐってベッドの中へと入る。
「おじいちゃん」
 オレの肩をポンと叩いて千夏がやれやれとため息を吐く。
 オレはリモコンで部屋の明かりを落とそうとする。
 しかしじっとこちらを見つめてくる千夏の視線が気になって手を止めた。
「わたし、どこで寝よっか?」
「……」
 この部屋にベッドはひとつしかなくて。まくらも、布団も、一人分しかない。
「……わかったよ」
 オレは布団を床に蹴り飛ばしてベットから出る。
 そして近くにあったトートバックを頭に敷いて寝転がった。
「枕とベッドはやる。布団は我慢しろよ。べつにいらないだろ。夏なんだから」
「一緒に寝たいって、素直に言えるようになればいいのにね」
「本物の千夏はそんなふうに言わない」
「はいはい」
 千夏はベッドに横になり、一度うんと伸びをしてから明かりを落とした。
 しかしどうやらちっとも眠くないらしく、部屋を暗くしてからも彼女はしきりにオレに話しかけてきた。
 自分自身のことだったり。彼女が知っているオレについてのことだったり。
 語られる出来事や思い出は、どれもオレにとって懐かしい昔話だった。
 オレと、千夏にとっての、昔話。
「……」
 こうして顔を見ず、目を閉じて話をきいていると、本当に彼女がドッペルゲンガーであることを忘れてしまいそうになってくる。まるで夢でも見ているような心地で、隣にいるのが、本物の千夏のように思えてくる。
「ねえ、コウ」
 それからも、千夏はなにかを話していたように思う。
 けれど心地よい微睡の中できく彼女の声は宛ら子守唄のようで。昨日からずっと心を尖らせていたのもあって。オレは自分でも気づかないうちに眠りの中へと落ちていた。
 寝耳にきこえる彼女の声は、どこか物憂げに沈んでいた。