「そいつはつまり、ドッペルゲンガーってやつじゃないのかい?」
 部室に置いたコーヒーメーカーをガコガコ稼働させながら、木崎さんはそう言った。
「ドッペルゲンガー?」
「きいたことない?」
「きいたことしかないです」
「自分と瓜二つの存在が世界のどこかにいるかもしれないってやつ」
「オレは幼なじみの話をしてるんですよ」
「だから、その千夏って子のドッペルゲンガー」
 モノであふれた六畳一間。
 木崎さんは散らかった床の上を足で片付けると、コーヒーカップにミルクを垂らしてその場で腰を下ろす。
「真中くんの話がイタイ妄想や、ウソ、夢の中の出来事でない限り、そういうことになる」
「そうですか? ふつうは他人の空似とかがまず浮かびそうなものですけど」
「そういうふつうの意見は既に聞き飽きた頃だろう?」
「どうしてわかるんですか?」
 赤く染めた長い髪を耳にかけて木崎さんはコーヒーを啜る。
 そしてすぐに「アチッ」と口を離して舌を出した。
 オレは木崎さんが零したコーヒーをその辺にあった布で拭き取った。
「だって」
 と、木崎さんは何事もなかったような顔で話を続けた。
「キミとボクはあんまり仲良くない。だからキミがボクのところにまで話をききにくるってことは、散々他の人にまともなことを言われて、だけどどうもしっくりこなくて、頭に新しい風を吹かせたいってときだ」
 木崎さんの言っていることは当たっていた。
 講義の提出課題をすっぽかし、ほどほどに単位を落とした大学二年の夏休み。
 オレは入学してから築いていた数少ない人脈を辿って“あの出来事について”建設的な意見が言えそうな人間にあたってみた。
 他人の空似。あとは見間違いとか、勘違いとか。
 まともな意見は早々に出尽くしてバリエーションがなくなった。
 けれどそのどれもに対して、オレはなぜか納得することができなかった。
 だから入学して間もなく、一度だけオレをサークルに誘ってくれたきりだった木崎さんのところにまで行き着いてしまったという流れだ。
「ウチのサークルに入ってくれる気になったのかい?」
「人間研究会、でしたっけ?」
「いや、それは去年の話。今はオカルト探究会としてやってる」
「メンバーは?」
「募集中。今は偶然にもボクひとり」
 木崎さんは、言ってしまえばオレが知る限りの中でいちばん変な人だ。
 ころころ名前と活動方針が変わるサークルの部長として、借りつけた部室を独占し、ほとんどそこで暮らしている。もはやこの部室は彼女の部屋といってもいい。
 赤い髪は艶やかで。切れ長の目と含みのある口元は知的な雰囲気を醸し出していて。まあ美人の部類に入るのだけど、人を喰ったような物言いと、漂ってくるぐにゃぐにゃの生活感でミステリアスな感じではなくなってしまっている。
 二十七歳。単位を落とし続けて今年で五浪目であることを、まったく気にしていない本人から今しがたきかされたところだ。
「別人の線はないわけだ?」
「それにしてはちょっと、いろいろ一致しすぎてて」
「それで? そのお祭りの後はどうしたの? そんなに気になるなら直接きけばよかったのに」
「まあ」
 オレは緩い相槌で話をもどす。
「それにしても、ドッペルゲンガーってのはたしかに、オレの頭にはなかった」
「その千夏って子は生きてるんだろ?」
「……たぶん」
「じゃあ幽霊の線もない」
「とはいえ、さすがにファンタジーが過ぎるっていうか」
「そう軽んじるものでもないよ、オカルトの類ってのも。ボクだって小さい頃は幽体離脱したり不思議な発光体を見ることは何度かあった」
 一本調子で話されるので、木崎さんの言うことはどうにも冗談なのか真面目な意見なのかわかりづらい。
 幽体離脱に幻視。空中浮遊にアブダクション。
 仮にそういう体験談がすべて事実であったとして。
「だから、ドッペルゲンガーと行き合うこともあるって?」
「そういうこと。今は夏で、もうすぐお盆だ。ともなれば、そういう不思議なことだって起こり得るさ」
「そういうもんですかね?」
「まだ真中くんは大人じゃないしね」
「それって関係あるんですか?」
「言っただろ。ボクが不思議体験をしていたのは子供の頃だって。たぶん大人になってしまえばもう“そういうこと”にも遭遇しなくなる」
「根拠は?」
「オカルト探究会部長の感」
 それはなんとも年季の入っていない箔だと思った。
「ドッペルゲンガーの特徴はいくつかある」
 木崎さんはふふんと鼻を鳴らして話を続ける。
「まず、外見はもちろん、性格まで本人と一致していること。そしてオリジナルと同じ空間には存在することができないってこと」
「後半についてはきいたことがあるし、とりあえず置いておける。でも、前半の前提がまずおかしいことになってる。千夏はオレと同じく今年で二十歳になるはずだ。なのにオレのまえに現れたあいつは五年前――十五歳の姿だった」
「そこがおもしろいよね」
「オレにとっては真面目な悩みなんですから、もうちょい真剣にきいてくださいよ」
「なにか心当たりはないのかい? その五年前ってところに」
「……」
「ほら、それだ。真剣にきいてみたところで、キミは結局必要なことを話さない」
「……すいません」
「なに、べつにそれが悪いってことじゃない」
 木崎さんはほどよく冷めてぬるくなったコーヒーをチビチビと啜る。
「話したくないことは大概大事なことで。つまりなんらかの心当たりはあるって答えでもある。すくなくともボクは、ペラペラと過去を語りたがる薄っぺらの下敷きみたいな人間よりはそういう態度のほうが好感もてるよ。キミとボクの仲はまだよくないけど、場合によっては、だから、これから仲良くなれるだけの可能性を秘めてると思うんだ」
「そりゃどうも」
「あ、それは仲良くする気がないやつの返事だ。そんなやつにはコーヒーをひっかけてやる」
 有言実行。木崎さんは良心の呵責に一切苛まれることなくオレのジーンズに飲みかけのコーヒーをひっかけてきた。
 先輩じゃなかったら蹴り飛ばしているところだった。この人とは絶対に仲良くなれないだろうとオレは思った。
「それに」
 と、木崎さんはまた何事もなかったような顔で話を続けた。
「悩みってほど悪い話でもないとボクは思うけどね。ドッペルゲンガー」
「どうして?」
「だって、今の真中くん、昨日までよりよっぽどマシな顔をしてるよ」
「顔?」
 オレは転がっていた手鏡を拾い上げてそれを覗く。
 鏡には眉間にシワを寄せたオレがいて。相変わらずひどい表情だと思った。
「皮肉ですか?」
「自覚がないのかい?」
「ええ」
「やれやれ。昨日までのキミは、こんなにおしゃべりだったかな?」
「……」
 言われてみればたしかに。
 この部室にきて木崎さんと話した間だけで、オレが大学でだれかと話した時間のトータルを越えていそうだった。
 千夏と別れてから、オレは他人と関わりをもとうとしなくなった。
 というより、関わりをもつことができなくなってしまっていた。
 オレの人生は、あの日掬えなかった金魚と同じく、過去という名の水槽に置き去りになってしまっている。
 だから、こんなにだれかと喋ったのはずいぶんひさしぶりのことだった。
「キミのそういう変化も、おそらくその千夏って子のおかげなんだろうね」
「どっちの千夏ですか?」
「うーん……どっちも、かな」
「まるで名探偵だ」
 これ以上話していたら大事なことまで見透かされてしまいそうだった。
 オレは言葉だけの礼を言って部室を去ろうとする。
「ファンタジーなんて結局覚めながら見る夢みたいなもので、長い目で人生を見れば一過性の泡沫だ。べつに向き合わなくたってやがてなかったことになると思うよ」
「覚えておきます」
「まあボクとしては、真中くんがいろいろ動いてくれたほうがうれしいけどね」
「取材でもする気ですか?」
「そりゃ、オカルト探究会部長なもので」
「そのときにはまた名前が変わってそうですけどね」
 オレが残していこうとした皮肉は、木崎さんにはまったく通じていないようだった。
 部室の錆びた扉を閉めながら、もう彼女に会うことはないだろうなとオレは思った。

          †

「ドッペルゲンガー、ね」
 ひとり呟き、その非現実的仮定に苦笑しながら帰路に着く。
 もうひとりの千夏。分身。五年前の姿で現れた幼なじみ。
「……バカげた話だ」
 やはり、多くの人間が口を揃えたように言っていたことのほうが正しいのだろう。
 ――――すべてはオレの幻想。
 きっと、夏の暑さに頭をやられたにちがいない。
 というか、そうでないと困る。
 もしあいつの姿を見てしまった原因が夏のせいじゃないのなら、理由はオレの中にあるということになってしまう。
 あいつのことが忘れられなくて。あの日の後悔が消えなくて。
 そんな理由であいつの面影を見るようになってしまったのなら、おそらくもうソレを消す手立てはない。
 これからずっと、オレはふいに現れるドッペルゲンガーに日常を奪われてしまうことになる。
 そうなったら、オレはもう……。
「…………」
 オレは家の前で立ち止まる。
 去年の春、大学の近くに借りたボロアパート。
 郵便受けは購読した覚えのない聖教新聞の束でフタをされていた。
「……ふう」
 深呼吸をしてからドアノブを捻る。
 目に映ったのは八畳一間。
 ベッドと、テレビと、キッチンと。
 だれもいない、いつもどおりの部屋だった。
「……なんだよ」
 親元を離れての一人暮らし。遊びにくるような友人も恋人もペットもいないこの部屋に、他のだれかがいるはずもないのに。
 当然であるはずのその事実に、オレはなぜか落胆していた。
 そんな気持ちを抱えたまま、一日ぶりにシャワーでも浴びようと脱衣所の戸を開けた。
「…………え?」
 戸の先には、胸のまえでバスタオルを抱えた裸の千夏が立っていた。
 昨日夏祭りで出会った、オレが見てしまった、幻であるはずの、十五歳の千夏が、オレの顔を見てポカンと口を開けている。
 その口が、わなわなと震え始める。
「――――この――――」
 オレは逃げるように戸を閉める。
 戸の向こうから罵詈雑言と一緒にやたらめったらなにかを投げつけてくる音がきこえていた。
 その声も、オレをなじる言葉のチョイスも、すべてがオレの知っている千夏と重なっていた。

          †

 モノをぶつける音がやんで、しばらく。
 ゆっくりと戸が開かれて、オレの服に着替えた千夏が出てくる。
「…………はい」
 脱衣所で鉢合わせしたときとは打って変わって、千夏は妙にしおらしく俯いていた。
 どうやら暴れてしまったことを反省しているらしい。
 問いただすべきことがひとつ減ったと、オレはサイダーのプルタブを捻った。
「はい」
 冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出して千夏に投げ渡す。
 千夏はそれをしっかりとキャッチしてフタを開けた。
「触れるんだな」
「あたりまえでしょ。幽霊じゃないんだから」
「じゃあ、なんなんだよ?」
 千夏は部屋の壁にもたれて三角座りをする。
「話、きく気になったの?」
 オレはベッドに腰を落ち着かせ、あらためて彼女のことを観察する。
 今は下ろされている長い黒髪。細い眉。丸くて大きな目。鼻の横にある小さなほくろ。閉じた口の間から微かに覗く白い八重歯。
 当時の制服でも着れば完全にあの頃と一致する甘木千夏が、オレの服を着て、ズボンを履いて、オレの前で座っている。
「昨日はきかず、話さず、見ようともせず。逃げるように家まで帰ったのに」
「なんでその家におまえがいるんだよ?」
「だって、出ていけって言わなかったじゃん」
 気が動転して。現実がおかしくなったような気がして。昨日の記憶はひどく曖昧だ。
 ただ、夢ならもう一度眠れば覚めるかもしれないと思って。すぐに縁日から退き家に帰って眠ろうとしたオレの背後ではずっと千夏の声がきこえていたのは覚えている。
「わたしのこと無視してそのまま寝たんでしょ」
「今朝、起きたらいなかった」
「ふーん」
「どこにいたんだよ?」
 千夏はため息交じりに顎の先で脱衣所を指した。
 このアパートは脱衣所とトイレが一緒になっていて。オレは彼女がなにを言わんとしているのかをとりあえず理解した。
「無神経っていうか、そういうデリカシーがないところ、変わってないんだね、コウ」
 十五歳の千夏がオレに言う。呆れるように、そしてどこか懐かしそうに。
「…………千夏の、ドッペルゲンガーなのか?」
「ドッペルゲンガー?」
 千夏が不思議そうに首を傾げる。
「だって、ありえないだろ。本当のおまえはオレと同じで、もうすぐ二十歳になるはずだ」
「そうだね」
「おまえは千夏じゃない」
「金魚」
 と、千夏は言う。
「まだ、掬えないんだね」
「……」
「あんなこと、簡単なのに」
 組んだ膝に肘をついてもたれながら千夏は笑った。
「わたし、待ってたんだよ?」
「なにを?」
「コウが金魚を掬ってくれるのを」
 目の前にいる彼女が、いったい“いつの”話をしているのか、オレには判別がつかなかった。
 昨日のことなのか。それとも、五年前のことなのか。
「べつに、待ってなくたってよかったじゃないか。おまえはおまえで掬えるんだから」
「よかったの? わたしがあっさり掬っちゃっても」
「……昨日はあっさり掬っただろ」
「そりゃ、どれだけ待ってもコウには掬えないって、もうわかってたから」
「…………どうして?」
「わたしに告白するつもりだったんでしょ?」
 すべてを見透かしたような笑みがオレに向けられる。
 オレは息を呑んで、言葉を逸した。
「……そういえば、金魚は?」
 立ち上がって部屋を見回すオレに千夏は言う。
「コウはそうやって、いつも大事な話の間にべつのきっかけを挟もうとする。金魚のことなんてホントはどうでもいいくせに」
「どうでもよくはないだろ」
「キッチン」
 オレはキッチンのシンクを覗く。
 そこにはボウルを重ねられた洗面器があった。
 ボウルを取り外すと洗面器に張られた冷たい水がこぼれてきた。
 洗面器の中には十数匹の金魚がいて。仰向けになって浮いたまま動くことがなかった。
「…………死んでる」
「お祭りで売られてる金魚なんてそんなもんだよ。飼うための水槽もフィルターもないんだから」
 オレはボウルでフタをする。
「これ、やってくれたのっておまえなのか?」
「まあ。コウは帰ってすぐに寝ちゃったし」
「じゃあ、あのときにはまだ、生きてたのか?」
 あのとき。オレの椀の上に千夏が自分の椀をひっくり返したとき。金魚の姿が見えなくなって、その生死が曖昧になったとき。そしてそれからの、何時間か。
「さあ?」
 千夏は気のない返事をして話をもどす。
「ドッペルゲンガーっていうのはコウの発想?」
「いや」
「ふーん。でもそれは言い得て妙というか、当たってなかったとしてもハズれてはないって感じだと思うよ」
「じゃあ、やっぱりおまえは本物の千夏じゃない?」
 すこしの間を置いてから彼女は頷く。
「そう。だけどわたしが甘木千夏であることはたしか」
「どういうことだよ?」
「そのままの意味だよ。わたしは十五歳の千夏自身」
「若返ったって?」
「じゃなくて、分離したってのが正しいかな」
 コホンと咳ばらいをして、千夏は話を続ける。
「わたしは千夏だけど、本物の千夏じゃない。オリジナルの中にあった心残りが形になったもの」
「心残りって?」
「五年前の夏」
 ドクンと、心臓が跳ねた。
「あの日、あのときの姿で、わたしは生まれた。分離した。ずっとオリジナルの胸にあった未練を解消するために」
「…………」
「まだ、わたしに言わせるの?」
「言わせるもなにも、オレにはまださっぱり事態が飲み込めてない」
「はあ」
 千夏はあきらめたように首を横に振った。
「幼稚園からの幼なじみ。はじめて誘われた夏祭り。いつもよりすこしだけ背伸びしたコウと、いつもよりすこしだけ特別な夜」
「……」
「わかってたよ。あの日、コウがわたしに告白しようとしてくれてたこと」

          †

 五年前の夏。十五歳。
 人生にまだ先があって。過去より未来に期待が持てた頃。
 オレはひとつの重大な決断をして、地元の夏祭りに千夏を誘った。
 あるいはそれ自体が頭を散々悩ませて下した決断であり、その誘いが受け入れられたときにはもう既に胸の内でガッツポーズを決めていた。
 オレと千夏は幼稚園からの幼なじみで、いつから布団に地図を描かなくなったのかさえ知っている関係だった。
 だから、改めて言葉にするのが妙に恥ずかしくて、ずっと言い出せないでいたけれど。
 オレは千夏のことが好きで、千夏もまた同じ気持ちであることは、重ねた時間の中でなんとなく明らかになっていた。
 いつからそうだったのかはわからない。
 だけど、気づいたときにはそうだった。
 だからその関係にハッキリ区切りをつけて「次」へと進もうとしたのが、あの夏だった。
 学校ではずっと下ろしていた髪を後ろで括って、千夏は待ち合わせた神社に現れた。見慣れない藍染めの浴衣に身を包んで。連なった提灯が下ろす橙色の明かりに白い頬を染めながら。
「おまたせ」
 そういってはにかむ彼女のことを、オレは直視できなかった。
 いつも一緒にいた幼なじみが、ちょっと別人にまちがえてしまうくらい大人びて見えてしまったから。それくらい、キレイだったから。
「いこっ」
 オレは千夏に言われて歩き出す。
 連れ立ってまわる縁日の喧騒はすべて薄い膜を隔てた向こう側からきこえてくるみたいで。いちばん近くにいる千夏の声だけがハッキリと耳に染み込んでいた。
 熱いものも食べたし、冷たいものも食べた。一等の景品に全然興味がないクジだって引いたし、輪だって投げたし、銃だって撃った。どれもしょぼくれた結果だったし、口の中は添加物の濃い味ばかりでごった返していたけれど。千夏はたのしそうな足取りでずっとオレのまえを歩いていた。
「千夏」
 オレは千夏のことを呼び止める。
 千夏は足を止め、数秒の間を置いて振り返った。
「なに?」
 オレはずっと言おうとしていた言葉を口にしようとする。
 胸の奥から想いをせり上げて、喉を通し、舌の上に乗せたところで、噛み潰す。
「………………」
 名前を呼んだ、その先が、どうしても出てこなかった。
 対面した彼女の美しさに気圧されて。訪れた沈黙に耐えられなくて。オレは結局また千夏から目を逸らしてしまった。
 そして、視線の先に金魚すくいの屋台をみつけた。
「アレ、やろうぜ」
 オレは店の前まで走って百円玉とポイを交換する。
 千夏はゆっくりと歩いてきてオレの隣で屈んだ。
「ねえ、コウ。さっき、なにか言いかけてなかった?」
「あ、ああ。でも、今は集中しなきゃだから。これ、掬うまで、待ってくれ」
「……うん。わかった」
 赤。白。青色。
 流れていく色彩に目を凝らす。
 そしてポイを水の中へとくぐらせて、赤い金魚を掬いあげた。
「あっ……」
 ――――チャポン。
 破れたポイの向こうに金魚が落ちていく。
 水槽の中へともどる金魚を眺めながら、オレは落胆と安堵を抱えていた。
 ――この金魚を掬うまでに覚悟を決めよう。
 そう思って、オレはさらに財布から百円玉を抜き取る。
「千夏もやってみろよ。けっこう難しいぞ、これ」
「わたしはいいかな。もうあんまりお金ないし」
「なんだよ」
 オレは金魚を掬い続ける。
 掬って、逃げられて、破れたポイの向こうに最適の言葉を探す。
 千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていく。
 そうしているうちにだんだん不安に駆られていく。
 はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうか?
 好きだったとして、それを知りながらする告白は打算の色が強すぎやしないだろうか?
 愛や恋がなにかもまだ定義できない十五歳の自分にソレを伝える資格があるのだろうか?
 伝えて、実った想いは、いつか枯れたりしないだろうか?
 考えれば考えるほど、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてくる。
 告白なんてしないほうがいいような気がしてくる。
 でも。
 それでも。
 オレは――――。
「…………あれ?」
 財布の中に突っ込んだ指が空を掻く。
 財布をひっくり返してみてもなにも落ちてきやしない。
 いつのまにか中は空っぽになっていた。
 目の前には大量の破れたポイが積まれていて。椀の中にはただ一匹の金魚も泳いではいなかった。
「コウ」
 隣で千夏の声がする。
「お金、なくなっちゃった?」
「……ああ。そうみたいだ」
「そっか」
 そのとき、オレたちの後ろで大きな花火が打ち上げられた。
 夜空で炸裂した爆音と共に、祭りに群がる人々の喝采がきこえてくる。
 千夏は長い息を吐き、それからうんと背伸びをしながら立ち上がって、言った。
「かえろっか」
「え?」
 驚いて振り返る。
 千夏はひどく残念そうな笑みを浮かべてオレのことを見つめていた。
「もうお金、なくなっちゃったし」
「……でも、花火……」
「見ていきたい?」
 色とりどりの強烈な光が、千夏の表情に色濃い影を落としていた。
「……千夏は、帰りたいのか?」
 そう尋ねると、千夏は困ったように頬をかいた。
「…………そうか」
 オレは千夏と一緒に祭りの場をあとにした。
 うるさく鳴り続ける花火の音にのしかかられて、なにも喋ることができなかった。
「じゃあね、コウ。今日はありがと」
 分かれ道。そういって帰ろうとする千夏をオレは呼び止める。
「千夏」
 立ち止まり、振り返る千夏に、しかしオレは最後までなにも言うことができなかった。
 結局、いつものようにプラプラと手を振ってオレは千夏と別れた。
 明滅する蛍光灯が人気のない路地でジージーと軋んでいた。
「…………」
 その日、オレは人生ではじめての無力感に苛まれた。
 年相応には大人になれていると思っていた自分がこの上なく矮小に思えてならなかった。
 言いたいことも言えず。いろんな理由を作って大事なことを先送りにして。それを言う機会を失ってからようやく、やはりちゃんと伝えるべきだったと後悔する。
 そんな自分を客観視した瞬間、オレは唐突に、自分の未来がすべて見通せてしまった。
 そして導き出せてしまった答えがひとつ。
 ――オレはたぶんこの先も、ずっと、この気持ちをあいつに伝えることはできない。
 そう悟り、思い知って、絶望した。
 人生に巨大なフタが落ちてきた瞬間だった。
「…………」
 その後、千夏は県外の高校へと進学し、初めの頃こそ交わしていたメッセージも徐々にその回数を減らしていって。やがてオレと千夏の縁は断絶した。
 互いの間に決定的ななにかがあったわけではない。むしろ決定的ななにかがなかったからこそ、オレは千夏と関わり続けることができなかった。
 そうしてずっと、あの日の後悔を引きずって。思い出の中の幼なじみと不甲斐ない自分に足を絡めとられたまま五年の月日が流れ、いつの間にかオレは歳だけ大人になってしまおうとしている。

          †

 千夏が冷蔵庫のドアを閉める。
 そして立ち尽くしているオレの背中をポンと叩いた。
「まさか、バレてないって思ってたの?」
 あの日の姿のまま――十五歳の千夏がオレのことを笑う。
「いやいや、それはムリだよ。だってコウ、わたしと合流してからずっとソワソワしてたし」
「……」
「いつもの制服とちがう――浴衣に着替えたわたしって、そんなにキレイだった?」
 おどけた様子の千夏がくるりとその場で回ってみせる。
 括られていない長い黒髪がエアコンの風でゆるやかに靡いていた。
「……そういえば、あの浴衣は?」
「畳んでクローゼットに入れてあるよ」
「そうか」
「そうじゃないでしょ」
 と、千夏がオレのことを糾弾するように指差す。
「コウが今わたしにきくべきなのは、浴衣の在り処なんかじゃない」
「ああ」
 そうだ。そんな質問はただの時間稼ぎでしかない。
 核心に触れるまでの。話をまえに進めるための。そのために必要な覚悟を決めるまでの。時間稼ぎ。
「……心残りのドッペルゲンガー」
 急かすように頷く千夏に、オレは尋ねる。オレが解き明かすべき最初のナゾを。
「おまえの話が本当だとして。じゃあ、いったい千夏はなにを心残りに思ってたんだ?」
 千夏の中にあった心残りが自分を生み出したのだと、目の前にいるドッペルゲンガーの千夏は言った。十五歳の姿で。あの日と同じ浴衣を着て。
 ドッペルゲンガーがそうして現れたということは、つまり千夏の心残りがあの日にあるということだ。オレと一緒に夏祭りをまわり、結局なにも起きないままに解散したあの夜に。
「きかないとわからないんだよね? コウは」
 千夏はため息を吐き、やれやれと肩を竦めてオレに言った。
「言ったでしょ。待ってたって」
「なにを?」
「だから、コウが金魚を掬ってくれるのを」
 あの夜、オレは決めていた。
 ここで金魚を掬えたら、ちゃんと千夏に告白しようと。
 はじめから告白するために千夏を呼び出したのになにも言うことができないまま祭りの会場をまわっていたオレにとって、それはある種の願掛けであり、腹を括るためのきっかけだった。
「金魚を掬ってから、言おうとしてたんでしょ?」
「……どうして?」
「わかるよ。人生の一大事だって顔してあんなにお金使ってるんだもん。よっぽどの金魚好きか負けず嫌いじゃない限り、ふつうはなにかあるって思う。コウがどっちでもないことは知ってるし」
「だけど、告白をしようとしてたとは限らないじゃないか。ちょっとカッコつけたかっただけかもしれないし、やることがなくてただ暇をつぶしてただけかもしれない」
「でも、告白だったんでしょ?」
 内側を見透かしたような顔でそう言われて、オレは黙るしかなかった。
「コウがなにを考えてたかくらい、わかるよ。幼なじみなんだから」
 オレより五つも年下の顔をして、ドッペルゲンガーはそう呟く。
「……ちょっと、待ってくれよ。じゃあ、あのときおまえは……千夏は、なにを考えてたんだ?」
「なにって?」
「オレが、おまえに好きだって言おうとしてるのがわかってて、隣にいたんだろ? だったら、その返事だって……」
「そりゃ、うん。もちろん。っていうか、返事なんてお祭りにいくまえから決めてたよ。コウだってそうでしょ?」
「……え?」
「答えを決めてから、わたしを誘ったんでしょ?」
 千夏の言うとおりだった。
 本当は金魚なんて掬わなくてもいつだって伝えることができたはずなんだ。なにを伝えるかは既に決めていたのだから。
「…………なら、返事って?」
 恐る恐る尋ねるオレのことを、千夏はじっと見つめていた。
「……なんだよ?」
「べつに。ただ、ホントに変わってないんだなって」
「オレが?」
「うん。内面に関しては」
 悪い意味でね、と千夏は言葉を付け足す。
「卑怯っていうか、意気地なしっていうか、結局大事なことを自分の口から言うことはできないままなんだって」
 その言葉は錆びたナイフのようにオレの胸をジクリと抉った。
「図体ばかり大きくなって。コウの核はあの日のまま。金魚だって掬えないし、相手の気持ちを百パーセント理解してからでないと自分の気持ちを曝け出せない。臆病で、情けない」
 並べられた辛辣な言葉の数々に傷つけられながら、オレは違和感を覚える。
「千夏はそんなふうにズカズカとモノを言ったりはしてこなかった」
「そりゃそうだよ。だって、言ったらコウはヘコむでしょ」
「それをわかってて、なんでおまえは言うんだよ? 同じ千夏なんだろ?」
「それはわたしが本体の心残りだからだよ」
 そういって、千夏は言葉を続ける。
「あのとき、こんなふうにもうちょっと強く言葉をぶつけてたら、コウは一歩踏み出せてたのかなって」
「……」
「そんなことばかり考えてた。コウと離れてからも。連絡をとらなくなってからも」
「…………千夏は、オレのことを……」
「好きだったよ」
 まるで他人の気持ちを話すような気軽さで、彼女はそう言った。
「ずっと好きだったし、だからコウから告白されるのを待ってた」
「じゃあ、なんであのとき帰るのを急いだんだよ?」
 花火が上がって。祭りの場は一層盛り上がって。まだいくらでも一緒にいる口実はあったのに。一緒にいられたはずなのに。先に帰りたそうなそぶりをみせたのは千夏のほうだった。
「あのままいたって、コウは結局なにも言えなかったでしょ? それが、わかっちゃったから」
 千夏の言っていることは正しかった。
 帰り道でも事実そうであったように。あのままどれだけの時間を一緒に過ごしたとしても、オレは千夏に大事な言葉を伝えることができなかっただろう。
 あの日、オレは自分の人生に巨大なフタが落ちてくるのを感じた。それは自分の天井であり、限界であり、未来の歯止めだった。
 そのフタが、もしかしたら千夏にも見えたのかもしれない。
「なんか、それがわかった瞬間、ああ、もういいかなって。コウが告白しない理由を見出したのなら、わたしのほうからは言わなくても」
 告白が実る可能性とか。想いを伝えることの是非とか。将来への漠然とした不安とか。
 そういう雑多なことに思考が絡めとられて、結局オレは千夏になにも言わないことを選んだ。選んでしまった。
 けれど、今ではそれをひどく後悔している。
 かつていつでも言えると思っていた言葉はしかし、あれから一度も伝える機会がなくて。延々と先延ばしにし続けた結果、オレと千夏は遠く離れて、ついには言葉を交わすこともなくなってしまった。
 長い人生において、オレがあいつに想いを伝えることができたチャンスは、あの日一度きりだった。
 それを思い知ったときにはもう、千夏がどこにいるのかさえ知らない関係になっていて。ただ生活をしているだけで後悔ばかりが募っていくようになって。
 ――――心残り。
「…………千夏も、あの日想いを打ち明けなかったことを後悔してる?」
「そういうこと」
 パチンと指を鳴らして千夏は言う。
「で、その心残りを解消させるのが、本体から分離したわたしの役割」
「役割?」
「オリジナルの甘木千夏が今度こそコウと付き合えるようにする。そのためにわたしは生まれたの」
 あの頃と同じ快活な声で、千夏は白い歯を覗かせながら笑った。
 絶望で塞がれていたオレの人生に、一条の光が差した気がした。

 だから、振り返ってみればこれは紛れもなくオレと彼女の話であり、同時におそらく、あの夏にいたドッペルゲンガーの物語でもあるのだろう。