「うう……。もうダメ」
 
 部屋に入ってから、すぐにベッドの上に倒れこむ。
 
「うっ! しまった!」
 
 うつぶせの状態で倒れこんだから、余計にお腹に圧力がかかる。
 危なく、マーライオンするところだった。
 ゆっくりと仰向けの状態になり、ふう、と一息つく。
 
「……ズルいよね」
 
 あの後、お兄ちゃんと一緒に夕食のカレーを食べた。
 お兄ちゃんのカレーはスパイスから調合したからか、物凄く本格的だった。
 インド人もビックリな美味しさだ。
 
 ん? インド人がビックリするのって辛さだっけ?
 まあ、いいや。

 とにかく、お兄ちゃんのカレーは殺人級の旨さ。
 ……美味しさを殺人級っていうのは変か。
 でも、まあ、私は何杯もおかわりしたから、女子としての体型を殺すという意味で合ってる。
 
 お店でも出せるんじゃないかってくらい美味しいカレーを作れるって、どんだけハイスペックなんだ。
 
 しかも! しかもだよ!
 
 私はお兄ちゃんがカレーを作ってくれたから、洗い物はするって言ったんだよ。
 だけどね。

「ははは。(あおい)はもう動けないって顔してるよ。少しソファーでゆっくりしなよ」
 
 そう言って、洗い物をやってくれたんだ。
 
 なんていうかね、もう死にたい。
 色々と。
 
 完璧なお兄ちゃんに萌え死にそうになるのと、私の不甲斐なさに恥ずかしさに死にたくなる。
 
 圭吾(けいご)が家事も完璧なんて、ファンの誰も知らない。
 私だけが知っていることだ。
 
 その事実だけで、幸せ過ぎて鼻血が出そうになる。
 ――いや、もう出てた。
 
 起き上がって、パソコン机の上に置いてあるティッシュを鼻に詰める。
 
 絶対に、お兄ちゃんには見られるわけにはいかない姿だ。
 まあ、自分の部屋ってことで許して欲しい。
 一応、私の部屋には鍵が付いているのだ。
 私が鼻ティッシュをしているのを忘れて部屋を出ない限り、見られることはない。
 
「おっと、そうだ。今日もチェックチェック……と」
 
 私はパソコンを起動して、ブックマークしてあるサイトを開く。
 
 ケモノメンズのファン掲示板。
 公式のものではなく、5chの掲示板に似たような感じだ。
 おそらく、お兄ちゃんや他のケモメンのメンバー、事務所も知らないんじゃないかと思う。
 
 それくらい、ニッチな掲示板だ。
 そして、この掲示板を知っているのは本当にコアなファンだけ。
 
 掲示板を見てみると、今日のライブのことがびっしりと書き込まれていた。
 
『今日のライブ、サイコーだった!』
『ライブの時、圭吾と目が合ったんだよ!』
 
 あ、もしかしたら私の周りにいた子かもしれない。
 やっぱり、あの大人数の中で、目が合ったなんて考えるのは私一人じゃなかったか。
 
『来月のトークイベも超楽しみー!』
『ぎゃー! 忘れてた! チケット、まだ売ってるかな?』
 
「私はゲット済み! っと」
 
 掲示板に書かれた内容をザっと目を通してから、私も書き込む。
 コアなファンしか知らない掲示板だから、ほとんどないが、メンバーの悪口とか個人情報を書き込む人がいる。
 そんな人がいないかチェックするのもファンとしての務めだ。
 
 もし、ファンの誰かに圭吾が私と一緒に暮らしているなんてバレれば、大炎上確実。
 どんなに小さな芽も摘んでおかないとならない。
 それらしい書き込みがあれば、違う話に誘導したり、偽情報を流したりして否定するのだ。
 
 なんてことをしていたら、ドアがノックされる。

「葵、ちょっといい?」
 
 お兄ちゃんだ。
 私は慌てて、モニターの電源を消す。

「うん。大丈夫だよ」
 
 するとお兄ちゃんがドアを開けて、部屋に入ってくる。
 
 ……あれ? 私、鍵かけてなかったっけ?
 危なかった。
 もし、そのまま入って来られたら、あの掲示板を見られたかもしれない。

 まあ、お兄ちゃんならいきなり入ってくることなんて1度もないけど。
 
「ねえ、葵。明日、なんか用事ある?」
「ううん。別にないけど」
「じゃあ、買い物でも行かない?」
「え?」
「ほら、俺も色々と忙しくてさ、あんまり葵と過ごせてないでしょ? だから、買い物どうかなって」
「すごく嬉しいけど……お兄ちゃんだって、忙しいんだから休めるときに休んだ方がいいよ」
「休むより、葵と一緒にいる方が、俺にとっては気持ちの気分転換になるんだよ」
 
 やめて!
 また、鼻血出ちゃう!
 
 うう……。
 お兄ちゃんにそんな爽やか笑顔で言われて、断れる女の子はいないよ。
 
「……本当に、いいの?」
「もちろん」
「じゃあ……行く!」
「よし、じゃあ、10時に家出ようか」
「うん」
「それじゃ、お休み」
「お休み」
 
 お兄ちゃんが部屋から出て行き、パタンとドアが閉まる。
 
「っし!」
 
 思わずガッツボーズを取る私。
 まさか、こんな展開になるなんて。
 妹の立場、様様だね。
 
 よーし、今日は明日に備えて早めに寝よう。
 ……寝られるかわからないけど。
 
 私はさっそくパジャマへと着替える。
 そして、私は気づいた。

「あっ!」
 
 鼻ティッシュしたままだったことに。
 
 ――死にたい。
 
 
 
 そして、短くて長い夜が過ぎ、次の日の9時50分。
 
 準備万端で部屋から出ると、ちょうどお兄ちゃんがリビングから出てきた。
 
「葵、準備できた―?」
「うん、ばっちり……」
「うわ、どうしたの? 目の下、すごいクマだよ?」
「ははは……。楽しみ過ぎて、眠れなくって」
「小学生みたいで可愛いね、葵は」
「それって、褒めてるのかな?」
「もちろん。じゃあ、行こうか」

 お兄ちゃんが玄関へと向かおうとする。

「ちょ、ちょっと待って、お兄ちゃん!」
「ん?」
「そのままで行くの?」
 
 そう。そうなのだ。
 帽子も被ってなければ、マスクもしてない。
 まさしくすっぴん状態だ。
 
 こんなの、ファンが見れば一発で圭吾だってバレる。
 
「え? そのつもりだけど」
「ダメだよ! そのままなんて! ファンに……じゃなくて、まだマスクは必要だから!」
「でも、もう自由って言ってなかったっけ?」
「ダメ―! 万が一っていうのもあるでしょ! かかったらどうするの!?」
「……あ、そうか。そうだよね」
 
 私の言葉でハッとして、リビングに戻っていくお兄ちゃん。
 顔のことじゃなくて、感染症にかかったらヤバいってことでマスクを取りにいったのだろう。
 
 うーん。
 お兄ちゃんは少し、アイドルとしての自覚が足りない……。
 なんで、今まで周りにバレなかったんだろ?
 
 もしかして、周りはみんな知ってて、私と一緒で気づいていないフリしてるんだろうか?
 というか、お兄ちゃん、私にアイドルって隠してるよね?
 その辺、もう少し注意してよー。
 
「ごめん、お待たせ」
 
 黒いマスクを装着したお兄ちゃんがリビングが出てくる。
 
 マスクをしてても、やっぱり格好いい。
 マスクだけじゃお兄ちゃんのイケメンは隠しきれない。
 そこで、私はさらにアイテムを出して、お兄ちゃんに渡す。
 
「はい」
「え? なに?」
「今日は紫外線が強そうだから、帽子と、サングラス」
「ありがとう」

 帽子、サングラス、マスク。
 一見すると不審者っぽいけど、お兄ちゃんのイケメンオーラでセーフだ。

「じゃあ、行こうか」
 
 今度こそ、私はお兄ちゃんと一緒に玄関へ向かった。
 
 この後、私の人生を大きく揺るがす事件のきっかけが起こることも知らずに。