薫の容貌が校内で知れわたり、知らない生徒はいないほど有名になったある日のこと、
祐介は田中から聞いた話に「はぁ!?」と声を荒げた。
 昼休み、いつもクーラーをつけっぱなしにしている第二理科室で、田中とパンを食べていた祐介は、口の中に入っていたパンのカスを田中の顔に飛ばしてしまった。

「きったねー」
「悪い、で、なんだって?」
「だから、お前の元カノが浮田に告白したらしいんだって」
「どの元カノだよ!」
「その台詞、俺も言ってみたいわ。大島だよ、二組の大島」

 大島沙穂。
 祐介の元カノの一人で、祐介が骨折する原因となった女子だ。垂れ目が特徴的な女子で、見た目はおっとりとしている。流行や美的センスに敏感であるため誕生日プレゼントを買う際は苦労した記憶がある。
 その沙穂が薫に告白をした。
 祐介はもやもやと黒い感情が起き上がるのを感じた。

「いつの話だよ」
「昨日だと」

 薫からそんな話は聞いていない。

「やっぱ嫌だよな、元カノが友達に告白するのって」

 そう言われて、はたと気づく。そうか、そういう考え方もあるのか。
 祐介の動きはぴたりと止まる。
 そういう考え方もある。
 では、今、自分は何を考えていたのか。

「祐介? どうした?」
「いや、別に」
「やっぱりまだ大島に情があるのか? それともまだ好きなのか?」

 特にない。
 コンビニ前で助けに入ったのだって、無視できなかったからだ。
 沙穂のことが好きだから、情が残っているから助けたのではない。誰だって目の前で知り合いが困っていたら助けるだろう。特別な理由があって助けたのではない。
 沙穂はもうどうでもいい。誰を好きになろうが誰と付き合おうが、知ったことではない。
 ただ、浮田薫は駄目だ。それだけは駄目だ。

「まあ、複雑だよな」
「複雑?」

 そうだ、薫のこととなるといつも複雑になる。心穏やかではない。
 だが、沙穂と薫の件はどうだろうか。複雑なのだろうか。
 沙穂が薫に告白する現場を思い浮かべる。
 恥じらいながら上目遣いで、薫に告白する沙穂。それを驚きながらも、人から好意を向けられて悪くないと思う薫。
 あぁ、嫌だ。
 複雑ではない。単純だ。
 俺以外を受け入れないでほしい。それだけを思う。
 違うのだと蓋をしてきた感情が一気にあふれ出す。
 思えば、最初からだ。薫の顔をはっきりと見た、アルバイト初日。あのときから惹かれていたのだ。顔が好きなだけだと思っていたが、どうやら違うらしい。
 どくんどくんと、心臓が暴れ始めた。
 あぁ、嫌だ。
 普通だったはずなのに。
本当に嫌なのだろうか。
 普通とは何だろうか。
 自問自答が止まらない。
 こんなはずではなかった。
 一体これは、誰に相談すればいいのだろう。

「あああ!」
「うわっ、何だよ急に。そんなに大島が好きなのか?」

 田中は見当違いなことを言うが、祐介には聞こえていない。

「はぁ、仕方ないよな」
「あ、あぁ、仕方ないさ。人の気持ちは変わるものだからな」
「俺、子孫残せねーよ」
「何の話だよ」

 食べ終えたパンの袋を投げ、祐介は両足を抱いて蹲る。
 何度も溜息を吐き、時折「あああ」と声を出す祐介を、田中は珍獣を見るかのような目で眺めていた。


 自覚すると、嫌でも意識をしてしまうもので、祐介は今まで通り薫に接することができなかった。
 美容室では一度も目を合わせることができず、薫に話しかけられても簡単な返事しかできない。
 どう接していいか分からない祐介は、薫を避けていた。祐介は意識して避けることで自己嫌悪に陥る。
 美容雑誌を読んでいる薫を盗み見て、溜息を吐く。
 日曜日であるが、今日の予約は少ない。次の予約は二時間後だ。
 薫は美容師になることを決めたようで、そっち方面の勉強を始めた。専門学校に入るのは簡単らしく、試験勉強をせずにずっと美容について学んでいる。
 どうにかしなくては。そう思うが、薫を前にすると胸が高鳴り、戸惑い、逃げ出したくなるのだ。
 初恋か、と自分で突っ込みを入れたくなる。
 しかし大目に見てほしい。今まで女子としか付き合ってこなかったのだ。それが突然、男を見てときめくようになった。まさか自分が男をそういう目で見る日がこようとは、夢にも思わないだろう。
 それに、付き合ったところでどうするというのだ。誰にも言えない。手をつないで外を歩くなんてできるのか、親に打ち明けられるのか。
 悩み事は尽きない。
 祐介が両手で頭を抱えていると、薫と視線が絡まった。
 慌てる祐介から、薫はふいっと視界から祐介を消した。
 あ、無視された。
 想像以上にショックを受ける。しかし、これは祐介が薫にしたことでもある。
 ときめくからと、薫を避け続けたのだ。薫だって、無視をされたと傷ついたことだろう。
 祐介は両手で拳を握り、大股で薫の元へ近寄った。

「おい」

 薫は雑誌から顔を上げた。
 久しぶりにちゃんと見た薫の顔は、相変わらず綺麗だった。
 こてんと首を傾げる薫に、祐介の胸はきゅんと音を立てる。

「買い出し、行くぞ」
「え?」

 買うものなどない。
 ここにいると、いつ成幸が二階から降りてくるか分からない。
 外へ出て二人になる口実だった。
 薫は頷いて美容雑誌を置く。
 OPENと下手な字で書かれた木の板を揺らしながら、扉は閉まった。
 温暖化が進み、秋に突入しようという頃になってもまだ真夏のような暑さである。春夏秋冬とはいうが、夏冬だけで十分だ。去年は十一月まで暑さは続き、十二月になって急に寒くなった。今年も恐らく、同じようになるだろう。
 紫外線は美肌の敵だ。
 薫に帽子を被せ、祐介は狭い歩道故に触れてしまう薫の手から、体温を感じた。
 祐介は覚悟を決めて、薫に話しかける。

「あのさ、聞いた話だけど沙穂に告白されたって話、本当か?」
「さほ?」
「二組の、大島沙穂」
「二組の大島……」

 沙穂、という名前に心当たりはないが、大島という苗字は思い当たる人物がいる。
 祐介の元カノ。
 薫は大島という祐介の元カノに告白された記憶がある。

「本当に告白されたのか?」

 どうしてそんな質問をするのだろう。もしかして、まだ好きなのだろうか。
 薫から表情がなくなる。

「なんで、そんなこと聞くの?」

 質問に質問で返した。
 告白されたのは本当だよ。と、返せばよかったのだが、先に過った疑問が口から出てしまった。
 祐介は気まずそうに目を泳がせ、「それは、いや、だから」と言葉を探している。
 祐介からの答えを待つ薫と、言葉が見つからない祐介。
 無言の二人を責めるように、熱風が吹いた。

「そういえば、北橋くんが怪我した原因の知り合いって、大島さんのこと?」
「えっ、あぁ、まあ、うん」

 ただの直感だった。
 未だに首から吊られている右腕と、大島沙穂の話題で、ふとそう思ったのだ。
 元カノが忘れられない。よくある話だ。結局、女子には勝てない。
 薫は薄い雲が泳いでいる空を見上げ、目を瞑った。


 変だな、と思ったのは薫が小学四年生の頃だった。
 当時、誰が誰を好き、という恋愛話は男女の間で流行っていた。
 そして男女は敵対心を持ち、男子対女子の図は毎日のようにあった。
 一人でいる男子を見かけると女子数人が囲い込み、「好きな人誰? 教えてくれたら解放してあげる」と、強引に好きな女子を聞き出す。
 男子は女子の私物を取り上げ、「好きな奴誰だよ。言わねーとこれ返してやらねー」と物取り合戦が始まる。
 薫がその中に入ることはなかった。
 昔から顔が整っていた薫は、クラスメイトから一線を引かれていた。
 いじめの標的になるでもなく、悪乗りに加わることを強いられることもない。
 綺麗なものを汚してはいけない、そんな意識がクラスメイトにあった。トイレ掃除になると必ず誰かが代わってくれ、家庭科の授業で包丁を握らせてくれることはなく、運動会の組体操は汚れないポジションで、体育のドッジボールではボールを当てられたことがない。
 そんな扱いをされていた薫だったが、男子の間で恋愛の話になったとき、誰かに言われたのだ。

「浮田くんはクラスの女子で誰が好き?」

 本人は何気なく聞いたのだが、他の男子は興味津々で薫の返答を静かに待った。

「女子?」
「うん。誰が好き?」
「好き?」

 言われて、初めて女子の中で誰が好きかを考えたが、誰も好きではない。
 そもそも、そういう目で女子を見たことがない。
 女子は女子で、それ以上でも以下でもないのだ。

「うーん、女子は別に好きじゃない」
「えー、じゃあ好きなタイプは?」
「タイプ?」
「俺はね、字が綺麗な女子がいいと思うんだ。浮田くんは?」

 何故、字が綺麗な「女子」なのだろう。
 薫の後ろの席の岩倉隆真も字が綺麗なのに、何故岩倉を含まず女子限定なのだろう。
 薫は理解できなかった。

「よく分からないけど、うーん」

 好きなタイプと言われても、よく分からない。
 この人いいな、と思うのはどういう人なのかという話だろうが、すぐには出てこない。薫は少し悩んで答えた。

「相手のことを思いやる人がいい人だと思う」

 薫の返答を聞き、周囲の男子は「どの女子のことだ?」「佐藤じゃないか?」「村西じゃないな、あいつは女子なのに狂暴だから」と、薫のタイプがどの女子に当てはまるのかを話している。
 だから、どうして女子なのだろう。
 正直、薫の言った「相手のことを思いやる人」は学級委員長の吉田信平が頭に浮かんだので、吉田の人間性として答えたものだ。
 吉田は相手を傷つけないような物言いをする。率直に「やめろ」とは言わず「こうした方がいいよ」と言ったり、泣いているクラスメイトがいたら皆に知られる前に保健室へ連れて行ったり、思いやりのある言動をする。
 それを薫は、いいと思った。
 それなのに、何故すぐに女子と結び付けて考えるのだろう。
 男子が「一組の朝山じゃないか?」「あいつ優しいもんな、思いやりもありそうだ」「クラスの女子って話だろ?」と、薫のタイプ探しに熱くなっている。
 変なの。
 男子とか、女子とか、変なの。
 人を好きになるのに、性別で分けないといけないなんて。変なの。
 ずっとそう思っていた。けれど、変なのは自分だということに、六年生になって気づいた。
 男子は女子を好きになり、女子は男子を好きになる。それは常識であり、誰もが疑っていないことだった。
 国語の教科書に載っている小説も、ドラマも、先生たちも、男女で恋愛をするものだと主張する。
 薫は自分が置いてけぼりのように感じ、恋愛について語るクラスメイトが怖くなった。

「女子の中で誰が好き?」
「どんな女子がタイプ?」
「どの女子と結婚したい?」

「女子は? 女子は? どの女子がいい?」

 吐きそうだった。
 恋愛話は毎回女子について。その度に違和感があり、けれどその違和感はその場で自分しか持っていない。
 周りが恋愛の話をすると、自分がおかしいのだと浮彫になる。それが嫌だった。
 恋愛=男女の方程式を突き付けられる不快さ、そして何より、中学生になると毎日のように寄って来る女子。それは全部、恋愛=男女の方程式を持っている女子たち。その女に自分を当てはめ、男に薫を当てはめようとする。
 小学生の頃はその方程式を突き付けられるだけだったが、中学生になると、そこに薫を入れ込もうとするのだ。なんと不愉快で失礼で、図々しいことだろう。
 薫は女子だけでなく、人と関わることが億劫になり、目立たないよう、見られないよう、気づけば髪の毛でシャットアウトするようになった。